東方ヤンデレ短編集   作:触手の朔良

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若干ホラー風味で微グロ成分もあったりなかったり。
タグを追加した方がよいのでしょうか……?


蓬莱の呆

 歳を取ると、月日の流れが早く感じると良く云うではないか。

 私が思うにその理由は、分母が大きくなるからなのだと思う。

 分母――つまり、今まで生きてきた人生、経験だ。

 ならば不老不死たる私の分母は無限大であり、無限大を分母とした私の時間は正しく須臾といったところか。

 勿論、事実はそのような事はない。

 こんな下らない、非生産的な思考に割く時間があるのだから、相対的な価値は別として時間は遍く絶対的に等しく与えられているのだ。

 さて長々と前置きしたが私が何を主張したいのかというとだ。

 どうやら最近の私は、呆けている事が多いらしいのだ。

 何と腹立たしい事だ。そんなものは事実無根であると切って捨てたいところだが、複数の人物に何度も指摘されてしまっては、流石に認める他あるまい。

 問題の解決には時に苦痛を伴う。全くもって認め難い事だが、仮に私が呆けているとしよう。

 そこで前述の理由に至るのだ。

 不老不死たる私が、物思いに耽るほんの一瞬だと思っている時間は、定命の彼女らには実に長い時間にあたるのではないか?

 価値、というものは個々人によって異なる。

 私が短いと思う時間も、別の者には長く感じる事があってもおかしくはない。

 さて。ここまでの推論は、仮定と妄想を含むにしてもさしたる矛盾は生じていない。かといって全てが明るみに出た訳ではない。

 つまり、私は一体、何を思索しているのかという事である。

 何馬鹿な事を言っているんだと思われるかもしれない。自分自身の事も解らないのか、と。

 そう。解らないのだ。私は、長い――自分にとっては短くとも――時間を掛けて何に耽っているのか、まるで心当たりが無いのだ。

 そも指摘されなければ気付かない事なのだから、特筆すべきことでもないのかもしれない。

 或いは思い出せない、忘れているというのならばそも大した内容でも無いのかもしれない。

 忘れる、という行為は特に、生きていく上で重要な行為だ。

 人間の脳の記憶容量は、物理的にも限界がある。その器が実際は、自分で考えているよりも余程大きいとしても、矢張り限界はあるのだ。

 故に忘れる。容量を確保するべく。又はストレスから解放されるべく。

 それは天才たる私も例外ではない。

 しかし――しかし妙に引っ掛かるのだ。

 彼女らが呆けていると指摘する間、私は何を考えているのだろう?

 やれやれ。考えたくないものだが、これでは本当に痴呆と変わらないではないか。

 

 

「師匠……? 師匠ってば!」

「あ――えぇ、何かしらウドンゲ?」

「何かしらじゃないですよ、もー。何度も呼んでるのに!」

 最近師匠は、このようにぼーっとする事が多くなった。

 それを指摘すると決まって我が師は「覚えてないわ」と言うのだ。

 とぼけているのでも誤魔化しているのでも無いのは、師の様子を見れば分かる。

 ……私にはその原因が思い当たった。

 師への用事を済ませ、私の足は真っ直ぐにある場所を目指していた。

「姫様? 少しいいですか?」

 襖越しに声を掛ける。何かが動く気配がした。

「鈴仙? いいわよ」

「失礼します――」

 許可を頂戴してから襖を開ける。

 僅かばかし開いたそこに身体を滑らせ、後ろ手に襖を閉めた。

 その動きを見た輝夜は、口元を隠し上品に笑った。

「どうしたのよ。泥棒みたいだだわ」

 クスクスと笑う姿は、正に姫を冠するに相応しい。

 その優美さに普段の鈴仙であれば釣られて笑みを浮かべたろう。

 故に輝夜が気付かない筈が無かった。鈴仙の纏う逼迫した空気に。

「永琳のことね?」

 輝夜の笑みは絶えない。口調にも微塵の変化も見られない。

 しかし鈴仙は輝夜の波長を覗き見し、主人もまた、真剣に相対する気なのだと理解していた。

「まぁ。まずは座りなさいな」

 鈴仙が口を開こうという瞬間に、出鼻を挫くよう輝夜がそっと座布団を指した。

 まるで勇み足を咎められた様な、そんな気がして鈴仙は顔も赤く、身を縮こまらせながら腰を降ろした。

 恥ずかしさが、鈴仙に俯瞰するまでの冷静さを取り戻させた。おそらく、輝夜の狙い通りなのだろう。

 姫様は私の言いたいことを既に察している。なら慌てて口を開くような真似をせずともいいだろう。

 そう判断した鈴仙は、先ほどとは打って変わって貝の如く口を噤んだ。

 そんな従者を見、輝夜はクスリと笑うと呑気にも茶を点て始めた。

 カシャカシャと茶筅が擦れる音だけが響く。

 輝夜の指先に合わせて茶筅が踊り、どんどんと泡がきめ細かく立ってゆく。

 その動きを見ていると、鈴仙は心が凪いでゆくのを感じた。そして未だ平静さを取り戻せていなかった事を自覚した。

「ねぇ鈴仙?」

「はい」

 輝夜の視線は未だ己が指先に注がれている。

 しばしの無言の間。その沈黙が鈴仙には、輝夜が躊躇している様にも思えた。

「私はね、時間が解決してくれると思うの」

 何が――とは言わない。二人の中では既に話題は固まっているのだから。

 それでも、理解していても尚、鈴仙は反応が遅れた。

 ――それは余りに無責任ではありませんか!?

 それは嘘でも思ってはいけない言葉だった。主人を糾する言葉が、今にも喉を突いて出そうになった、その時である。

 目の前に、輝夜の点てた茶が置かれた。

 またしても鈴仙の腰を折る見事な手管である。

 鈴仙は半端に浮き上がった腰を降ろし、小さく「……いただきます」と呟き茶碗を傾けた。

 抹茶の香りが鼻先をくすぐり、口いっぱいに甘く、されど僅かな苦味が広がった。

「美味、しいです……」

「はい。お粗末さま」

 輝夜はニコニコと、満面の笑みを浮かべている。鈴仙の表情は対照的で、終始ペースを握られているのが悔しいのだろう。何とも言い難い、苦々しい表情であった。

 別に輝夜は意地悪で鈴仙を制している訳ではない。

 むしろその逆。鈴仙を想ってしてくれているのだ。先の事が良い例であろう。

 ……そんな事は鈴仙にだって解っている。解っているのだ。

「だけど――」

 それでも、感情は抑えきれず瞳の端々から溢れ零れた。

「だけど、私は悔しいです……!」

 ほろりほろりと、涙と共に心情を吐露する鈴仙。

 あの強くて格好良くて!厳しいけど優しかった師匠が、……段々と壊れていくのをただ見ているだけなんて!

 悔しさに歯噛みする鈴仙。唇から一条の血が流れた。

「……そもそも、あの人が師匠を置いていったからこんな事になったんじゃないですか! ○○が――」

「鈴仙!」

 ぴしゃりと、輝夜は叫び鈴仙の言葉を切った。

 温厚な姫様が叫んだという事実は、鈴仙の動きを止めるに十分であったようだ。

「鈴仙、駄目よ鈴仙。貴女がどう感じるかは自由だけど、口にしては駄目よ。口にしたら、形にしたら、それは確固としたものになってずっと残ってしまうから」

 輝夜の口調は、穏やかさを取り戻していた。だがその瞳は真っ直ぐに鈴仙を見詰め、いつになく真剣なものだった。

「色恋沙汰なんて、結局最後は本人達のものよ。その二人が選んだ結末に口を挟むのは野暮よ?」

 正論という理論武装は時に暴力的でさえある。

 輝夜の言う事は理解出来るし、正しいのだろうと鈴仙は思う。

 悔しげに下唇を噛んだ鈴仙の口から血が滴れた。

 思い返すのは最期の風景。

 人として老衰した○○と、それを静かに見送る永琳。

 確かに――確かに! 二人の顔は穏やかであった。

 それでも、それでも鈴仙は納得出来なかった。

 事態が好転する事を祈り、静観に身を委ねるには彼女はまだ若過ぎる。

「っ! ……失礼します!」

 輝夜の丁寧介抱の甲斐もあって、鈴仙は輝夜の前で無様を晒す様な恥は掻かずに済んだ。

 乱雑に襖を開閉し部屋を退出すると、騒ぎを聞きつけたのだろう、目の前にはてゐがいた。

「……何よ」

「いんや、別に?」

 不機嫌さをぶつける様に鈴仙はてゐを睨みつける。

 幼い見た目に反して肝っ玉の大きいてゐにはさしたる効果も無かったが。

 とてもじゃないが相手をする気にはなれず、鈴仙は足を踏み鳴らしながら彼女の横をすり抜けていった。

「あ~、鈴仙?」

 去り際、背中に声を掛けられた。

 喉を震わせるのも億劫で、首だけをてゐに向ける。しかし肝心のてゐは、引き止めた癖に何だか答えあぐねているようであった。

「……何よ。早く言いなさいよ」

「ん~、あ~」

 そう、先を促すと彼女は観念した様に口を開いた。

「触らぬ神に祟り無しって言うでしょ? まぁ、それよ。そんだけ。うん」

「何を――?」

 鈴仙が聞き返すより早く、てゐはその小さな姿を消してしまった。

「……何なのよ、もう」

 一人廊下に取り残された鈴仙が呟くも、答える者は誰もいなかった。

 

 

「ん――何だろ?」

 永琳から薬の整理を頼まれていた鈴仙は、ふと違和感を覚えた。

 自分以外に誰もいない部屋、周囲を見回し変わった所が見えず再び作業に戻る。

 瓶のラベルを一つ一つ眺め、順に棚へと戻していると――まただ。

 ふわりと、肌を撫ぜる微かな風を感じる。

 この閉め切った部屋で、何故?

 鈴仙は作業の手を止め、まずその正体を探る事にした。

「これ……?」

 さして時間も掛からずに、違和の正体は発見出来た。

 フローリングの床、その隙間から微風が漏れ出しているのだ。

 床に手を這わせながら目を凝らすと、丁度四角の切れ目を見つける。

「何、これ……? 隠し扉?」

 ご丁寧にも、手を掛け易いように一部分が欠けた床は簡単に外すことが出来た。

 ――地下へと続く階段が広がっていた。

 何処へ繋がっているのだろうか? その先は暗闇がぽっかりと待ち構えており果てが見えない。

 しかし――鈴仙の瞳は特別性だ。僅かな光でも波長を増幅させ暗闇を見通す事が可能である。

 にも関わらず階段の先は変わらずに闇が見えた。それはつまり、光が全く届かない程に深いという事だ。

 ゴクリ。飲み込んだ生唾の音がやけに大きく聞こえた。

 未知なるものへの恐怖は、あるにはある。

 だが、この先に八意永琳が変質した原因がある。そんな確信めいた予感があり、鈴仙は指先に光を灯し地下へと足を踏み入れた。

 一歩、また一歩。どれくらい階段を下ってきたろう?

 一向に風景は変わらず、鈴仙の中にあった恐怖が鈍ってしまう程である。

 そしてようやく足裏は平坦な地面を捉えた。

 しかし在るのは変わらずの闇。

 今度は横へと、道が伸びている様だった。

 ――まだ続くのか……。

 鈴仙はげんなりとした気分になったが、戻るにしても来た道を考えると、矢張り気が滅入るのであった。

 となれば、進むのが上策であろう。

 壁に手を付きつつ、鈴仙は慎重に歩を進める。

 暫くすると変化が現れた。

「何、この臭い……」

 洞穴の景色は相も変わらずだが、鈴仙の鼻にべとり悪臭が纏わり付いた。

 思わず鼻を押さえ、顔を顰めてしまう。

 嗅いだことのあるようなこの臭いに、鈴仙は首を傾げる。この、花の腐った様な、甘い臭いは。

 何か、記憶に引っ掛かるものの、あと一歩という所で答えが出てこない。

 ――進めば分かる。

 歩を進める毎に臭気は一層濃くなり、鈴仙は気分が悪くなってきた。

 そして程なくして道が開け、そこにあったもの目にして、鈴仙は阿呆みたいに口を開けたまま固まってしまう。

「え――?」

 狭い洞穴を進んだ先にあった開けた空間。その中央には一つの機械が鎮座していた。

 ――機械、である。

 この場どころか幻想郷にすら似つかわしくない無機質なフォルムの、機械である。しかし鈴仙は――彼女だけはよく見知っているものだった。

「あれは――」

 その機械を構成する部品は大きく三つ。大きな台座と、その上にビーカーじみた円筒のガラス管。傍らにはそれらを制御する機械が、幾本ものコードで繋がれていた。

 月の科学の、機械だった。

 八意永琳は月の民である。月の技術を知っているのは不思議ではないが――いや、問題はそこではない。

 どうしてこんなものがここにあるか、という事だ。

 鈴仙はガラス面に触れた。滑らかな曲面から、ひたすらに冷たい感触が返ってくる。

「なんだろう……」

 彼女の瞳は、この空間に入ってからただ一つのものに吸い寄せられていた。

 ガラス管の内部は緑色の液体で満たされていた。

 その中心で何か、何だか、よく、知っている、解らない、見慣れた物体が浮かんでいた。

 なんだろう?

 ソレを見た瞬間脂汗は止まらないし歯の根は煩い程に鳴っている。

 だが、こんな、知ってい、無いものの正体を確かめる為、鈴仙はガラス面へと顔を近付けた。

 

 

 

 

 

 ギョロリと――ソイツと、目があった。

 

 

 

 

 

「ひいっ!」

 ソレには手があった。足があった。目も口も耳も、髪もあった。

 だがソレは人の形を為していなかった。

 よく解、る、ないモノ――肉塊は、顔と思しき位置からデタラメな方向に不揃いの手足が生えていてた。

 鈴仙がよく知る人物の――○○の手が。○○の足が。○○の、顔をしたソイツは奇妙な動きで液体の中を泳ぐように、鈴仙に近づいてきた。

「ひぃあぁぁぁぁ――!!」

 瞬間、鈴仙は情けない悲鳴を上げ堪らず仰け反った。

 その不用意な行為から彼女は躓いてしまう。

 身体が大きく傾く。転倒は免れぬと、誰もが思うことだろう。

 覚悟を決めて鈴仙は目を瞑った。

 ……しかし、いつまで経っても衝撃は襲ってこない。

 

 

 

 

 

「もう、危ないじゃないの。しゃんとしなさいな」

 

 

 

 

 

 ――今度こそ、鈴仙は心臓が止まるかと思った。

 鈴仙は転ばずに済んだ。何故なら、永琳が倒れかけの彼女を支えたからだ。

「し、しし師匠……!?」

「何? 幽霊でも見た顔して」

 永琳の口調は普段と何も変わらない。――変わらないのだ。

 その事実が一層鈴仙の恐怖を助長した。

「怪我はない? 立てる?」

 永琳は素早く鈴仙の具合を見ると、問題なしと見たか手を離した。

 しかし支えを失った鈴仙は、その場にへたり込んでしまった。

「ちょっと、汚れるわよ?」

 掛けられる言葉も、まるで日常の会話である。

 それが鈴仙の混乱に拍車を掛けるのだ。

 一体何時から彼女はいたのだ――!?

 混乱する頭で鈴仙は考える。意識が散漫になっていたにせよ、洞穴の中で全く足音を立てないというのは不可能だろう。

 それが意味する事は――。

(最初からここにいたの!?)

 慌てて鈴仙は部屋――と呼んでいいのかは微妙だが――を見回した。

 見れば入り口のすぐ隣、簡素な椅子と机が備え付けられていた。

 その事実を前に鈴仙は背筋が冷たくなった。

 何も知らずに入ってきた私を、師匠は見ていたのだ! そうして今の今までじぃっと、黙って見ていたのだ!

 鈴仙は師の波長を盗み見た。いつもと変わらず、穏やかな波を描いている。

 この異常にあって平常を保っている事こそが異常ではないのだろうか?

 ただ永琳が怒っている訳ではないのが解り、鈴仙は少しだけ冷静さを取り戻せた。

「あ、あの! あの、師匠!? こ、これ! これは――!?」

「ううん? 見て解らないかしら?」

 へたり込む鈴仙を余所に、今度は永琳が機械へと近づいてゆく。

 そうして制御盤に何らかの入力を行うと、液体が排出されてたちまちその(かさ)を減らしていった。

 それに合わせて中の生物(?)が苦しめに蠢き暴れる。

 その光景を目にした鈴仙は、()えたものが込み上がってくるのを感じた。

 そうして内部が完全に空になると、ガラス管は自動的に台座へ収納された。

 鈴仙は見た。外気に晒された肉塊が、ヨロヨロと這う姿を。

 それがまた気持ち悪く――まるで逃げるような動きをしていて――、鈴仙は口元を押さえた。

「はぁ、今回のも失敗ね……」

 永琳は落胆が色濃く滲んだ呟きを吐くと、躊躇なく乱暴にソレを掴む。

 短い手足を動かし、弱々しい抵抗のような動きを見せる肉塊。

 そうして永琳は鈴仙の前を横切り、机の上に乱暴に叩き付けた。

 ――嫌な、予感がした。

「師匠……? な、にをするんです……?」

「え、……あぁ。いやぁねウドンゲ。処分するに決まっているじゃない」

 鈴仙はその言葉の意味を直ぐには理解出来なかった。

「こんな、失敗したものを放置しておく訳にもいかないでしょ?」

 そう言って永琳は、机の上に刺さっていた包丁を手にし振り被る。

 あ――!? っと思う間もなく、肉塊目掛けて振り下ろされる包丁。

 ピィと、肉塊が鳴いた。

 さて。手入れの成されていない包丁は、錆だらけだ。その切れ味も推して知るべしといった所か。刃物というよりも最早鈍器となったソレは、一撃で肉塊を絶命足らしめる威力を持っていなかった。

 ○○になりそこねた肉塊を絶命させるべく包丁が振るわれる。都度、血と肉と、よく解らない液体が満遍なく飛び散った。

 不潔だと、鈴仙は思った。しかし永琳は一切気にする素振りもなく、淡々と処理をしてゆく。

 文字通りの『処理』であった。

 何度も何度も。執拗に必要以上に。包丁を振り下ろす永琳の顔には何の感情も見えない。狂喜も無ければ憎悪も悲嘆もない。

 無表情かと言えばそうでもない。例えばアナタは、常日頃に自分がどんな表情をしているのか考えるだろうか? その表情を何というのだろうか?

 強いていうなら、無関心というのかもしれない。

 口元は自然に結び、目蓋にも不自然な力も掛からない。眉は何らを形作る事もせず、表情筋はされるがままの、そんな表情であった。

 そして鈴仙は見た。見てしまった。……見なければいいものを、視線が外せないのだ。

 振り下ろされされる包丁を、じっと見詰める○○のなり損ないの瞳。――それがまるで、恐怖に歪んでいる様に見えて。

 手足としての機能を、持っていなさそうな蠢く四肢。――まるで何かを求める様に掲げられたそれが、少し、少しでも迫る凶刃から身を守るように見えて。

 そして鈴仙は聞いてしまう。これからの一生を苛む様な、悪夢の一声を。

「――え、……り…………」

 肉の潰れる音、重なる様に呻き声。

 それはきっと聞き間違いに違いない。ストレスが生んだ幻聴に違いない。

 もしくは、たまたま、偶然、奇跡的にもその様に聞こえる音が奏でられたのだろう。そうに決まっている!

 恐ろしい妄想が鈴仙の脳裏を埋め尽くす。それを否定するのは理性か、はたまた本能か。

 ――そうですよね師匠?

 そう乞い願い師の顔を見た鈴仙の淡い期待は無残にも打ち砕かれるのだった。

 師の、八意永琳という才女の、能面の様な無表情を。

 永琳が止まったのは一瞬だ。次の瞬間には、何事も無かった様に処理を再開している。

 振るわれる包丁が、先程よりも乱雑なのは気の所為だろうか……?

「っ! やめて! やめてください師匠! お願いやめて!! やめてよぉ……!!」

 刹那鈴仙は弾かれたように声を張り上げた。

 彼女の必死な訴えも永琳には届く事はない。淡々と、タンタンと、包丁はリズムを刻んでゆく。

 ……気付けば耳障りな音は消えていた。代わりに兎の泣き声が、ワンワンと部屋中に響き渡った。

「もう、ウドンゲったら。何がそんなに悲しいの?」

 掛けられた声の余りの近さに、鈴仙の肩が大きく跳ねる。

 見れば血に染まった師の顔があり、忘れかけていた恐怖心が再びざわつくのを感じた。

 ガタガタと震える弟子を、見詰める永琳の顔は優しい。その瞳に宿る理知的な光は、鈴仙の知る敬愛する師のものと代わりなく、恐怖を感じる一方で安らぎも感じていた。

「ねぇ? そんな事よりも見てよコレ。こうして見ると○○さんにそっくりじゃない?」

 そう言って永琳が何かを差し出してきた。自然と鈴仙の視線は掌へと吸い寄せられる。

 ……耳だ。耳があった。それ以外のものは何もない、ただの耳があった。

 鈴仙は声をあげなかった。現実離れした現況に、最早感情がついていかなかったのだろう。

 呆然とする鈴仙を、永琳は満足気に見下ろしている。

「ね? 知ってたかしら? ○○さんの耳たぶにはね、ホクロがあるのよ。ほら、ここ」

 知らない。知るもんか。そんな事を、私がしっているはず無いじゃないか。

 耳を指差し、永琳は嬉々として説明している。半ば自棄となった鈴仙は矢張り呆然として、「早く終わらないかな……」と、そんな事を思っていた。

 あまり反応の芳しくない鈴仙に、永琳はふむと、今度は自分の顔の前に耳を近付けた。

「本当、そっくり……。あぁ、○○さん……!」

 何するんだろ……。

 鈴仙が感情を失った瞳をぼんやりと向けていると、あろうことか永琳はその耳を口に含んだ。

 既に感情が振り切れていたと思っていた鈴仙だが、これには驚きを隠せなかった。

 そうしてもごもごと、まるで口内で愛撫するかの様に耳を嬲る永琳の表情は、正しく恍惚としていた。

「ん~? 何がいけないのかしらねぇ。何回やってもうまくいかないのよ? ヤになっちゃうわ。でも安心してね○○さん。私が、私が絶対に産み治してあげるからね! あ……、はぁ……。ねぇウドンゲ? 何かいい案はないかしらウドンゲ? ……ちょっとウドンゲ?」

 

 

 気付けば、私は自室の布団で寝かされていた。

 目に入ったよく見慣れた木目の天板は、私に大層な安堵をもたらした。

 あぁ、夢だったのね。そりゃそうよね。

 それにしても、酷い悪夢だったわ――。そんな事を考えつつ上体を起こす。

「おっ? ようやく目が覚めたんだね?」

 そうしててゐの姿が目に入った。

 彼女は丁度濡れたタオルを絞っているようで、上体を起こした私の視界を一瞬タオルが過ぎった。

 そうして私は、悟ってしまった。

「……夢じゃなかったんだ」

「あ~。ん、まぁ、そうだね」

 絶望に塗れた私の呟きを、てゐは曖昧ながら肯定した。

 そうして不明瞭だった記憶がどんどんと思い出される。その度に私の気は重くなるのだった。

「ま、元気そうで良かったよ」

 ……今の私を見てその言葉が出て来るのか。

 睨みを効かせてやるも、早々に退出しようとするてゐは既にこちらを見ていなかった。

 その小さな背中を見て、私は、或る一つの答えが閃いた。

「あんた、知ってたのね」

「……まぁね」

「なんで――!」

 教えてくれなかったの!?

 そう、叫ぼうとして愕然とする。

 嗚呼、きっと、てゐだけではないのだ。姫様も、当然知っていたのだろう。師匠の凶行を。

 私が、私だけが知らなかった。……知らされてなかったのだ。

 理解した瞬間、怒りよりもどうしようもない悲しみが私を襲い、ポロポロと涙が零れてきた。

「あ、そうそう。アンタを運んできたの、師匠だから。あとでちゃんとお礼言っときなよ」

 そりゃぁそうだろうよ。あの状況で、他の誰が私を運んだというのだ。

 ぐしぐしと目元を拭き、私が小さく頷いたのを確認するとてゐはすたこらと去っていった。

「はぁ……」

 気怠い身体を鞭打ち、汗に塗れた寝間着から何時ものブレザーに着替える。

 廊下を往く、私の足取りは顕著に私の心境を現している。そして目一杯時間を掛けて師匠の部屋の前にやってきた。

 一つ二つ、大きく深呼吸をし「いざ」と扉に出を掛けようとすると、手が触れるより一寸早く扉が開いた。

「あら、ウドンゲ?」

 丁度師匠が退出するのと重なってしまったようで。

 虚を衝かれた私は咄嗟に言葉が出なかった。

 私は必死に頭を回転させ、言葉を紡いだ。

「あ、あの! 師匠! 先日は随分とご迷惑をお掛けしまして、あの、えぇと……!」

 (しゃちほこ)張った私を見、師匠はクスリと吹き出した。

「身体はどう? 大丈夫? 急に倒れるからびっくりしちゃったわ、もう」

 心配気な師の言葉に、私は雷に打たれた様な間隔を覚える。

 まさか――。

「……師匠? あの地下で何を――」

「地下?」

 恐る恐ると尋ねると、師はたっぷり十秒程考え込んで不思議そうに答えた。

「ウドンゲったら、何言ってるのよ。地下なんて、あるはずないじゃない」

 何がツボに入ったのだろうか。師はおかしそうに笑っている。その姿に演技の色は一切見られない。

 私は愕然とする事実を前に、更に勇気を振り絞って踏み込む。

「で、でも○○を――」

「ウドンゲ」

 鈴仙は肩を竦めた。

 師の真剣な様子に、恐怖が徐々に彼女の心を蝕んでいった。

 そんな彼女の頭にポンと、優しく手が添えられる。

「○○はもういない、いないのよ……?」

 敬愛する師の手に髪を梳かれながら、鈴仙は全てを悟った。

 この人は――壊れていっているんじゃない。もう、壊れてしまったんだ、と。

「あぁ。それで、何の用だったのかしら?」

 掛けられる声は優しく、記憶の中のものと代わりない。

 その事実が重く、鈴仙に伸し掛かり、彼女はバレないように一滴の涙を零した。

 せめて、時間が。残酷なまでの時間が師を救ってくれる事を祈った。祈るしかなかった。


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