俺は按摩屋を営んでいる。
素人芸に毛が生えた程度の腕前だが、予約は三ヶ月先まで一杯だ。お客様々である。
そんなに繁盛しているのか、と聞かれれば、いまいち素直に首を縦には触れない。
それもこれも、実は客を一日一人しか取っていないからだ。
何故そんな事を? と思われるだろう。これには深い訳があるのだ。
以前、そう――あれはまだ店を始めたばかりの頃だったか。
客入りはぽつりぽつりと寂しいもので、常に閑古鳥が鳴いている有様だった。
それでも食ってこれたのは、外の世界と比べ圧倒的に出費が少ないおかげであった。家賃は掛かるが光熱費は掛からないし、趣味に金を掛けなければ入用になるのは精々食費ぐらいだ。そしてお生憎様、盲人たる自分が楽しめるようなものは幻想郷には無かった。
あぁ、せめてカラオケでもあれば大分違うのだろうが。勿論、そんな施設は勿論ありはしなかった。
兎角もまぁそんな訳で。このように道楽スレスレの商売でも、どうにか食うに困らずに住んでいるのだが。
そして今日もまた、勤勉な俺は客の為にシーツを整えているのだが。
ガラガラコロン。
玄関の引き戸が開き、鈴の音が鳴った。
「ごめんください」
透き通る様な、耳に心地よい声が響く。
「あぁ、聖さんか。待ってたよ」
人の顔を見て話さぬのは失礼にあたるらしい。盲人たる己にとっては耳さえ向いていればさして困らないのだが、それが常識だというならばソレに倣うまでだ。
○○は白蓮へと向き直る。さりとて彼女の様子――上気した頬、潤んだ瞳は正に恋する乙女といった様相である――は感じ取る事は出来ない。
だが、○○は白蓮は好意的に受け止めていた。
何故なら、彼女はこの按摩屋の上客の一人だからだ。
そうそう。何故俺が、日に一人しか客を取らなかいのか。理由がまだ途中だったな。
開店してまだ間もない頃、客は片手で数えられる程だが、彼女らの熱心なリピートで俺は食い扶持には困らなかった。
幻想郷での生活、その先行きに希望を抱いた矢先の出来事だった。
出入り時に鉢合わせした客同士が揉めってしまったのだ。いや、あれは揉めるなんて生易しい表現では到底足りない。
響く爆音。引き裂かれた空気の悲鳴。光を失ったこの瞳で尚解る程の光量が目蓋を焼いたほどだ。
全く、戦争でも起こったのかと思ったが、落ち着いた時分当事者に聞くと「ほんの挨拶代わりだ」と抜かしやがる。
そんな幻想郷の洗礼を受けたあの日から、二度とこのような事態を引き起こすまいと日に一人という措置を取る事にしたのだった。
「あの、上がってもよろしいでしょうか?」
いつの間にやら物思いに耽っていたようで、つい呆けていた様だ。
客を意味なく待たせるなど、商売人失格である。それほど商いに精を出している訳でもない俺にだって、それくらいの心構えはある。
「あぁ、すまんね。どうぞ上がってくれよ」
昨日の幽香とは大違い。律儀に土間で立ち尽くす白蓮に上がるよう勧める。
彼女は嬉しそうに、いそいそと雪駄を脱ぎ、きちんと揃え直してから部屋に上がる。
白蓮が動く度、ふわりと薫りが撒き散らされる。白檀の、香の匂いだった。
○○はこの何とも素朴な匂いが好きで、白蓮を上客と呼ぶ理由の一つでもあった。
「それで、今日も脚のほうかい?」
「はい……。どうもむくみが気になって。あぁ、己の未熟が嘆かわしいです……」
白蓮は仕事柄、どうしても長時間正座をする必要が出て来るのだ。そこに彼女の非は一片も無いのに、彼女は本当に己を恥じている様子だった。○○の視線から逃れる様に身体を丸め、声も散り散りに自らの罪を吐き出すかの様に言葉を口にしていた。
真面目なんだなぁ。そんな感想を抱きつつ、○○は施術を施すべく話を進めた。
「それじゃぁ、いつものようにこちらへ脚を投げ出してくれないか?」
「はい……」
いそいそ。
白蓮は指示通り、シーツの上に身を横たえ、○○が揉み易いように彼へと足を向ける。
「失礼するよ」
「あっ――」
そう一声掛け、白蓮の返答も待たず○○は女の裾をたくし上げた。
艶めかしい、程よく脂の乗った脚が顕になった。
「恥ずかしぃ……」
白蓮は顔を多い呟く。
そんな事を言われても。こっちも仕事だし、何より目が見えない俺相手に一体何を恥ずかしがる必要があるのだ?
「やめるかい?」
「いえ! ……いえ、続けて下さい」
この遣り取りも、何度目だろう。
彼女は来る度に肌を見せることを躊躇うので、その都度○○は確認を取るのだ。
後になってセクハラだ何だと騒がれたくないからだ。外の世界じゃまぁ、そういう事が多い故に。
白蓮の了承を得て、○○はオイルを手に取った。発汗作用を促すものだ。
そいつをよぅく自分の掌に馴染ませてから白蓮の脚に触れる。
「あっ――」
……この瞬間は、いつになっても慣れない。
一番最初に触れるという瞬間、どうしてか女たちは小さく声を上げるのだ。しかもその声の色っぽいこと。
そう。己がが今触れているのは紛れもなく、幻想郷の男どもが羨むような女の肉体に他ならぬのだ。
盲目故に、彼女らの美貌には微塵も靡かぬ○○だが、盲目故にこそ、彼女らの肉感的な質感は男の情欲を掻き立てた。
だからこそだ。彼は自らの欲望を抑えるのに、彼女らの声をスイッチにしていた。
――無心だ。無心になれ。
○○は自分に言い聞かせ、白蓮の肉を揉んだ。一体何処が凝っているのだと疑いたくなる様な、柔い肉を丹念に丁寧に、然れども無心に揉み続けた。
「はぁ……ふぅ……。あの、よろしいですか?」
「ん?」
女の唇から艶やかな声が漏れる。
それを背景音に○○が按摩を続けていると、珍しく白蓮が声を掛けてきた。
彼女は、面倒な要求をしないからこそ○○にとって上客なのだから、本当に珍しいことだ。
――何か失敗しただろうか?
○○がそんな事を考えていると、白蓮は遠慮がちに告げてきた。
「こちらの布団は、○○様が普段使っているものなのでしょうか?」
「は――?」
「あ、いえ! 答えにくいことでしたら答えなくて構いませんので! あの、その、……気になったものですから」
あんまりにも予想外な質問に、ついつい手の動きが止まってしまう。
何故そのような事を? 思わないでもないが、特別に隠す様なことでもないので正直に打ち明ける。
「いや。客に使ってもらうのと自分で使うのは流石に分けてるさ」
「……そうですか」
自分の体質上、声調の変化の機微には常人以上に敏いと思っている。
白蓮の口調はさして変化は見られなかった。だが、それも表面上のこと。僅かに滲み出ていた落胆の色は、俺に隠すには余りに大きかった。
(なんだ? ……同じ布団の方が都合が良かったのか?)
降って湧いた疑問は奇しくも○○の意識を逸らし、男性的欲求を抑えるのに一役買っていた。
暫し無言の――時折白蓮の短い嬌声が響くものの――時間が流れる。
これならば、何事も無く終わりそうだな。○○が内心安堵の息を吐いた直後であった。
「あの、もう少し上を揉んで頂けないでしょうか……?」
○○は白蓮の求めに返事はせず、ただ行動を以て答えとした。
太腿の内を揉んでいる時の事であった。
「……すいません。もう少し上を」
……少し、神経質になり過ぎたろうか?
○○が腿を揉む手を心なしか上に移すも、彼女はもっと、もっと上と要求してくるのだ。
その先に何があるなんて、言わずもがな。故に○○は慎重に、遅々とした動きで手の位置を変えていたのだが。
「――もう少しだけ、上をお願いします」
頭上から来る彼女の要求に、○○は腕を止めた。
既に指先は股関節の付け根にまで達している。それよりも『上』というのは――。
その意味を察せられぬ○○では無かった。
「これ以上は――んぶぅ!?」
些か躊躇してから、「無理だ」と形にしようとした瞬間に、○○の口は塞がれた。
いいや、口ばかりではない。顔面全体がナニかに押し付けられているのだ。
突然の出来事に混乱する○○。辛うじて、頭を抱えられている事を理解した。
と云う事はだ、今自分の顔が押し付けられているものの正体は――。
理解した瞬間、むわっと、○○の鼻を腐った蜜の様な甘い薫りが満たした。あまりの息苦しさに空気を求めて息を吸っても、ただ女の性臭が口内を満たすばかりで僅かな効果しか得られない。故に○○は浅く、何度も呼吸をする羽目になった。
「嗚呼、○○さんっ! そんなに暴れないで下さいっ!」
興奮に塗れた白蓮のが耳に届いた。
(何を言ってるんだこの女は!?)
アンタが拘束しているからだろ! と文句を叫ぶも、ふごふごと意味のないくぐもった音が響くのみ。
その都度白蓮は歓喜に身を震わせ、一層強く男の顔を己に押し付けた。
勿論○○は逃れようと暴れるも、白蓮の腕はその細さからは想像の付かぬ怪力を発しビクともしないのだ。
「○○さん! ○○さん!」
男の名を呼ぶ女の声が一面に大きく響き渡る。
情愛をたっぷりと含んだソレは、されど片一方の善がりに過ぎず、決して○○の心に響く事はなかった。
思慮深い白蓮が、如何にして浅薄とも呼べる行為に出たのか。
言うに及ばずだが、白蓮は○○に懸想していた。
当初はただの「良い人だな」ぐらいの軽い気持ちであったが、人妖を差別しない彼の姿勢に、少しずつ然れども強烈に白蓮は惹かれていった。
この様にして彼女もまた、○○の按摩屋の常連になったのだが。
彼への恋情は萎える様子を見せず日々募る一方で。己が立場を鑑みれば、ふしだらであると思うも彼への想いは、捨てるにはあまりにも大きかった。
白蓮の戒律を守らんとする理性は、決して弱い訳ではない。だがそれを以てしても想いを抑えきれず、夜毎自らを慰める日々が続いた。
今日という日が、何も特別だった訳じゃぁない。ただ、いつ決壊を起こしてもおかしくないダムだったのだ。いずれは弾の出るロシアンルーレットだったのだ。
偶々、今日、彼女の理性を欲望が振り切ってしまっただけだ。仮に今日という日を何事も無く過ごせていたとしても、そう遠くない日に同様の事が起こったろう。
(あぁ、何ということでしょう……!)
白蓮は幸福の絶頂にいた。
今、己が胸の中には愛しの男がいる。それだけの事であったが、白蓮は幸福に満たされていた。
そうして一際大きく女の身体が跳ねる。
「っ~~!!」
一拍置いて、女の全身が弛緩した。
(なんだ? ……まさか!?)
男は抵抗を弱め、自らの内側に集中する。鼻腔をくすぐるのは女の蒸れた汗と、少し混じって女そのものの臭い。それが、先の痙攣を通してから一層濃くなっていた。
「はぁ……! ○○、さん……」
頭上から振る女の声に、○○ははたと正気を取り戻す。
脱力しきった白蓮の身体から抜けるのは容易く、○○はするりとその腕から逃れた。
そして彼もまた、急変する状況に追いつけず呆然と佇むしか無かった。
しかし何時までもこのままでいる訳にもいくまい。意を決し○○は声を掛ける。
「……大丈夫、か?」
とても気の利いた言葉とはいえない。ならば何と言えばいいと言うのだ?
○○の行動は評価されこそ、批難される謂われはない……筈だ。
「あ……。えぇ、申し訳ありません……。少し、その……、興奮してしまいまして」
お前さんは興奮したら男を抱くのか、というツッコミが喉元まで迫り上がっていたが、寸での所で堪える○○。
「……続きはどうするよ」
白蓮のちぐはぐな返答を受け流し、○○は仕事人に徹する。
本心で言えば、続きをする気は、無いのだが。
彼の願いが通じた訳ではないだろう。白蓮は乱れた服装を整え、すくと立ち上がる。
「いいえ、今日の所は、お暇させて頂きますね」
先程乱れていたのが、夢幻であったのではないかと思うぐらいに、白蓮は毅然と告げる。
そうして遠ざかる足音に、○○が胸を撫で下ろしていると、鈴の音と同時、その足音が止まった。
「また、来ますね」
そうとだけ残し、白蓮は今度こそ去っていった。
自宅兼仕事場に、静寂が戻る。○○は少しの間扉を――視えはしないのに――見て、ぽつりと呟いた。
「……片付けるか」
部屋にはまだ、彼女の甘い残り香が漂っている。ともすれば先の光景を思い出しそうになってしまうので、○○は部屋を開け放つ。そして未だ女の匂いが色濃く残るシーツを手に取り、大きく溜め息を吐くのだった。
白蓮の奇行――と○○は思っている――は何だったのだろうか。それを考える事は、今の生活の終わりを意味しそうで彼は努めて意識から振り放った。
とりあえず、○○が解るのは今日一人の上客を失い、厄介な客を得てしまったという事だ。