【改正前】海外移住したら人外に好かれる件について 作:宮野花
びちゃびちゃと汚い水音がする。俯いた私の視界には、床が吐瀉物で汚れていく光景。
床を汚すのと比例して、最悪な気分が少しずつ晴れていく。晴れると言うよりは、嘔吐による疲れで鈍くなっているだけなのだろうか。どちらにせよ先ほどよりは楽だ。
顔を上げると、ぱっと暗くなった。
手で目を塞がれたのだ。恐らく目の前にいた男性に。
「目閉じてもらっていい?俺見たらまた吐くでしょ?」
その言葉に視界を塞がれた意味を理解した。私は大人しく目を閉じる。
暫くして男性の手が離れる感覚。目を閉じているので何も見えないが、明るくなる感覚はあった。
「ちょっと失礼。じっとしててね。」
何かが顔につけられる感覚があった。金属のヒヤリとした温度がこめかみを掠める。
「これでよし……目、開けていいよ。」
「うわっ……!?」
言われた通りに目を開けるとぼやけた視界。突然とのことにバランス感覚を失う。
よろけた身体を男性が支えてくれて、なんとか転ばずには済んだ。
「な、なんですかこれ……。」
「ピントずらしの眼鏡。これで俺を見ても大丈夫でしょ?この階は床に普通に嫌なもの落ちてるからさ。それつけておいた方がいいよ。」
明るい声でそう言われた。嫌なものが平気で落ちている。それは明るい声で言うことなのだろうか。
ピントずらしの眼鏡。確かに度があっていないせいでぼんやりとして見える世界では、床に落ちていた何かも、男性の顔についているそれもはっきりと見えないので吐かずには済むだろう。
けれど大丈夫かと言われたら、大丈夫なわけが無いのだ。
「これじゃあ、前歩けないです……。」
「あっ、そっか。」
強い度に頭がぐらぐらと揺さぶられる。前に進もうとするも身体は言うことをきかない。このままだと壁に何度も頭をぶつけてしまうだろう。
目を開けていると頭も目も痛くなってくるので、目を閉じる。
全く前が見えないが、あんな視界よりはマシだ。
「じゃあ俺が君を誘導してあげるよ。下層に用があるんだよね?」
「いいんですか?」
先導してくれるのは助かる。さすがにこの状態で歩くことは難しい。
しかし男性にも仕事があるはずなのに、私に時間を割いてもらっていいのだろうか。
「でも、貴方のお仕事は……。」
「担当のアブノーマリティだから少し遅れても大丈夫。君はどこに行きたいの?」
「レティシアってアブノーマリティなんですけど。」
「なんだ。それなら直ぐだよ。行こう。」
男性は私の腕を掴んで軽く引く。それに従って前に進んだ。
思ったのだけど、結局目をつぶっているのなら眼鏡をかける必要などないのではないか。
しかしそれを指摘するのも少し面倒なので、黙っていた。
「あの、貴方が顔につけてるそれなんですか?」
ずっと気になっていたのだ。
床に落ちていた何かと瓜二つであったそれ。正直顔につけられる神経がわからない。言葉で形容できない強烈な見た目のそれ。直視するだけでショックを受けたのになおかつ顔につけるなんて……。
「あぁ、これ?これはアブノーマリティからのギフトだよ。」
「ギフト?」
「そう。まぁアブノーマリティからのプレゼントってとこかな。特殊な力が込められていて、つけてるとエージェントの能力を向上してくれるんだよ。」
「プレゼント……。」
それは私がアイから貰った髪留めのようなものだろうか。
アイ〝友達の証〟としてくれた髪留め。ハートの形をしたそれは私には少々可愛すぎるので、髪にはとめずウエストバッグの中に大切にしまっている。
アイは髪留めをお揃いと言っていた。もしかしてギフトというのはそのアブノーマリティの姿や外観にも関係するのだろうか。
となると、男性のつけているギフトの元のアブノーマリティはどんなものなのだろう。その強烈なギフトの元の持ち主は。
「あの、その顔のギフトのアブノーマリティって、どんなのなんですか?」
「これは〝規制済み〟っていうアブノーマリティのギフト。」
「へ?」
男性の口から出たおかしな名前に間抜けな声が出た。
「それ、名前なんですか?〝規制済み〟?」
「そう。本体もすごい見た目してるよ。名前の由来もあまりにすごい姿をしてるから、管理モニターではフィルターかけて見てるんだって。見ることを規制されてるから、〝規制済み〟。」
「へぇ……。でも貴方は平気なんですか?」
規制済みからのギフトを貰っているということは、男性はそのアブノーマリティに作業をしたという事だ。
規制されるほどの見た目をしているのに、彼は大丈夫なのだろうか。
「いや、大丈夫じゃない。だからその眼鏡。」
「あ……。」
なるほど。目を閉じたまま眼鏡のフレームを触る。私には大きくて、少しずらしたら直ぐに外れてしまう。恐らく男性用に作られているのだろう。
「下層の人達って、この眼鏡みんな持ってるんですか?」
「いや、これは俺しか持ってないよ。俺は〝規制済み〟の担当だからね。」
「えっ。」
担当とか可哀想。そう出かけた言葉を飲み込む。
下層に配属されてる時点で男性は私の先輩だろう。そんな彼に可哀想なんて言葉、失礼だ。
「担当だなんて、大変ですね……。」
「うーん、大変ではあるけど、慣れちゃえば別に大したことないよ。ALEPHクラスではあるけど、その中では弱い方だと思うし。」
「ALEPHクラス!」
その単語に私は声を張り上げてしまった。
慌てて口を塞ぐと、男性の笑い声が聞こえてくる。過剰に反応してしまって恥ずかしい。
「す、すいません。大声を出してしまって……。」
「はは、いいよいいよ。ALEPHの担当は珍しかったかな。まぁALEPH自体、数が少ないからね。」
「そうなんですか?」
「今のところは三体かな。〝何も無い〟、〝静かなオーケストラ〟、〝規制済み〟。」
「三体……。」
一番強いと言われているクラスのアブノーマリティが、たった三体しかいないなんて。
やっぱりオーケストラさんって、すごいアブノーマリティなんだ。
何だか誇らしい気持ちになる。自分のことでもないのに、オーケストラさんの強さが認められてることが嬉しくて、自慢したくなってしまう。
「実は私、静かなオーケストラの担当なんですよ。」
だから調子にのって言ってしまったのだ。
少し鼻高々に。したり顔で、ちょっと驚かすくらいの気持ちで。
男性の足が止まったので、私も一緒に止まる。
なんの返答も反応もなくて、私は少し不安になってしまった。
不安の中にもうひとつでてきたのは恥じらいだった。先程よりも冷静なった頭で、自身のした子供っぽい自慢に羞恥心が生まれる。
何を私は言ったのだろう。凄いのはオーケストラさんで、私じゃあないのに。こんな虎の威を借る狐のような。
謝罪の言葉を言おうとした時だった。がっ、と強く肩を掴まれて、驚いた私は目を開けてしまった。
体が揺れた反動で眼鏡が落ちる。からん、と音を立てて。私は反射的に男性を見た。男性の口元は間抜けに開いている。そして、目は言わずもかな。
「君オーケストラの担当!?」
「ゔッ……!」
黒井百合。本日二度目の嘔吐。
その後は大変だった。
再び嘔吐した私に慌てる男性。私も連続して吐いたものだから体力を消耗してかなり疲れてしまった。
床に吐きちらしたそれを申し訳なく思ってると、男性は気にしなくていいと笑った。ゲロなんて血と同じくらいいつもの事だと。
ゲロが飛び散ってるのがいつもの事というのも嫌だが、血が飛び散ってるのも日常なんて最悪である。
男性は道中オーケストラさんのことや私のことについて色々言っていたけれど、それに応えられるような具合ではなかった。
しかし所々で〝シックスさん〟やら〝抱き枕の人〟なんて単語は聞こえてくるものだから精神的に削られた。心が辛い。
最低の気分で収容室には到着した。これから行わなければいけない仕事をそこでようやく思い出した私は更に気分が降下する。
「この収容室だよ。」
「あ……ありがとうございます。」
「そんな緊張しなくても大丈夫だよ。静かなオーケストラの作業よりずっと楽だから。」
男性は慰めて言ってくれているのだろうが、オーケストラさんよりも作業が楽なんてこと絶対にないだろう。
もはやオーケストラさんへの作業は仕事ではない。休憩みたいなものだ。
ただ音楽を聞いて雑談しながら掃除をしていればいいなんて楽な仕事、そうそうないと私は知っている。
しかし否定する気力も残ってなかった。苦笑いをして、お礼の言葉を述べる。
男性は軽く手を振って、更に先の廊下を進んで行った。男性の作業するアブノーマリティは、ここよりも深く下にいるのだろうか。
「……〝規制済み〟、か。」
見ることを規制されたアブノーマリティ。
見るだけで危ないアブノーマリティがいるなんて知らなかった。
この下層にはそんなアブノーマリティが沢山いるのだろうか。ゾッと背に寒さが走る。
男性の進んだ廊下の先を見つめる。上の階と明るさは変わらないはずなのに、何故か暗く重く見える。
いつか私も、この下層に異動になる時がくるのだろうか。
……だめだ。よけいなことを考えてしまう。
こういう考えても仕方ないことが、一日の無駄な時間を作るのだ。
扉横の電子パネルを操作してロックを解除する。
小さく深呼吸をして、気を引き締める。
嫌な仕事はさっさと終わらせよう。そう決意して、扉を開けた。
「レティシア、ね……。」
男性は廊下を歩きながら、小さく呟いた。
零れてしまった言葉は先程あった女性を考えての言葉だ。
レティシア。来たばかりのアブノーマリティ。彼も一度その作業をしたことがある。
それは可愛らしい少女の姿をしたアブノーマリティだった。
人型というのもあって、言葉が通じるアブノーマリティ。態度もここでは珍しく、人懐こい好意的なものであった。
別段危険なアブノーマリティではないと思う。
しかし気になるのはわざわざ中層のあの女性を下層に派遣してまで作業させる理由。
しかも彼女は、ALEPHクラスアブノーマリティ、〝静かなオーケストラ〟の担当エージェント。
そして彼もまたALEPHクラス担当だ。
何故そこまでの警戒をしているのか。警戒するのはいい事だ。しかしALEPHクラス担当を二人も作業に向かわせるのは一体。
……何か、起こったのか。
そう考えついて、男性の眉間にシワがよる。
彼は何も知らない。しかし知らないだけで何か起こってるなんてこの会社では日常だ。
男性はタブレットを取り出して、〝レティシア〟を検索する。
しかしそこに載っている情報はあまりにも役立たずで舌打ちをした。
男性は思った。またそうやって、自分達に真実を隠すのだ。〝よけいなこと〟と都合よく振り分けて、必要なことを教えてもらえない。
男性は考える。先日作業した際にレティシアが言っていた言葉。そして報告書に書いたにも関わらず表示されていない言葉。
『お気に入りの人を見つけたら、手作りの贈り物をあげるの。』
『もう一つすごい秘密があるんだけどね、イタズラをいっぱい考えてるの!』
『贈り物の中身は秘密だよ!』
『私のイタズラでみんな笑顔になってくれたら嬉しいな!』
『え?』
『あぁ!あのお兄さんね!うん!あげたよ!すごい喜んでくれたの!良かったぁ!』
『また、遊びたいなぁ。』
レティシアの言うお兄さんは、彼の同僚の男性だ。
レティシアのまた遊びたいという願いは一生叶わないだろう。なぜなら彼は、先日死んだ。
男性は一度足を止めて、振り返る。長い一本道の廊下。当たり前だが先程の女性の姿はもう見えない
彼女にその会話を伝えるべきだったと男性は後悔する。
彼女がオーケストラの担当であり、噂のシックスさんということに驚いて、伝えることをすっかり忘れていた。
今からでも戻って伝えるべきだろうか。
踵を返そうとした時、男性のタブレットが鳴った。
確認すると早く作業に向かえと催促の通知だ。〝早くしないと規制済みが脱走してしまう〟。と。
その文と女性と別れた廊下先を何度も見て、やがて諦めたようにため息をつくと、男性は先に進むことを決めた。〝規制済み〟の脱走はなんとしても避けたかったのである。
「ごめん……。」
届くはずもない謝罪が、廊下に小さく響いた。
そこで彼は女性の名前を聞いていないことを思い出す。
そして彼女に自身が名乗っていないことも。
どうか生きていて欲しいと男性は願った。
そうでないと、彼の中で彼女は永遠に〝シックスさん〟のままだ。
2018年最後の更新です。
皆様今年はありがとうございました。皆様のおかげで楽しく小説を書くことが出来ました。
皆様はどんな一年でしたか?私は相変わらず煩悩にまみれたたのしい一年でした。人外×少女ぷまい。
というかレティちゃんでてないんだけど。
最後の更新がこれかよ!!!って思いながら投稿しました。実は何回も書き直してます。会話文くっそ書きにくい。
来年は一発目からレティちゃん出せそうです。
来年もまたよろしくお願いします。良いお年を!