まだ白音が物心もつかない程に幼かった頃に黒歌は妹を連れて父の実家から家出した。
元々折り合いが悪く、母が死んだことを機により心は遠くなっていった父の下を。
今にして思えばなんて軽率な行動だったのか。
何のコネもなくただ日本中を闇雲に放浪した。
妖術・仙術を使い食べ物やお金を盗んだことは何度もあった。
そんな生活を何年も続けて黒歌も白音もボロボロだった。
元より生きて来れたこと自体奇跡と言っていい程に過酷な旅だと今は思う。
常に飢えや寒さに怯え、明日には唯一の家族が眼を開かないのではないかと怯えた日々。
寒さに身を寄せ合い、僅かな食料を分け合って過ごした子供時代。
「身も心もやつれていた私たちに手を差し伸べた物好きがいたのよ」
話していると黒歌が立ち上がり、棚の引き出しからある物を取り出した。
「一樹。これに見覚えない?」
見せてきたのは猫用の白と黒の首輪だった。
「なにコレ?」
首輪自体どこにでもあるありふれたものだ。多少ボロボロになっているが。
それに苦笑しながら黒歌はそれじゃあ、と次のヒントを出す。
「ピアノとフルート。この名前の猫に覚えは?」
ピアノで自分を指さし、フルートで白音を指さす黒歌。
それに周りはなんで楽器?と首を傾げているが一樹本人は滝のような汗を流していた。
ぶるぶると震えた指で姉妹を指差す。
「え?いや、だけど……えぇ!?」
「どうしたんだい、一樹くん?」
「昔……両親が生きてた頃に怪我してた2匹の猫を拾って飼ってたことがあったんだ。その時付けた猫の名前が……」
「何故名前が楽器なんだ?」
「俺が名付けたわけじゃねぇよ!」
頭を抱えながらゼノヴィアの質問を返す。
一樹は混乱しながらなんとか疑問を問いかけた。
「で、でも姿が……」
「私たちは猫魈。猫の妖怪よ?まぁ一応半分は人間の血が入ってるけど。猫の姿になるなんて走るくらい簡単なことなのよ」
あぁそう言えば、と一樹は2人が猫の妖怪であることを思い出したがそういうものなのかという考えは消えないのだが。
そこから白音も小さく話始めた。
「いっくんと、そのご両親に拾われてからは、穏やかに暮らせたんです。とても良くしてくれました」
「本当にね~。特に一樹のお母さんには―――――」
『いや~かわいいわ~!』
『あなたたち2匹揃って私と駆け落ちしちゃう?むしろ結婚しましょうか~』
うふふふふと陶酔し切った眼で
「ちょっと待てよっ!?」
姉妹の回想に一樹が大声でストップする。
「なんだ今の!?知らねぇぞ俺そんな姿!!猫飼うの最後まで反対してたの母さんだったんだぞ!!なんでそうなる!捏造だろそれ絶対!!」
信じない一樹に黒歌は肩を竦めた。
「なんか一樹の教育のために反対してたらしいけど、実際はかなり猫好きらしいわよ。私たちに名前つけたのも貴方のお母さんだったじゃない」
「食事も飼い猫に与えるにはすごく豪華だった」
白音の言葉に記憶を掘り返すとそういえばペットフードじゃなく母が作っていたし、猫の飼い方を知らなかった一樹が適当に牛乳を飲ませようとするとめちゃくちゃ怒られた。
「その時のお2人の名前は一樹さんのお母さまが付けてくれたんですね!」
「最初は一樹が付けたけど却下されたのよ。まぁ、スーパーの袋を見てコーラとソーダなんて名前つけられるよりはマシだったと今では思うわ」
あまりの適当さに非難の目が一樹に向くが本人は顔を覆って体を曲げている。
そんな一樹にアーシアが話しかける。
「一樹さんのお母さまはとても猫がお好きだったんですね!」
「わるいアーシア。ちょっと知りたくない真実が出て来て混乱してるから少し放って置いてくれ……」
頭を抱えて知りたくなかった真実を咀嚼している一樹。
そんな弟に肩を竦めて笑う黒歌は話を続けた。
「温かい食事。危険のない寝床。優しい飼い主。正体を曝すことは出来なかったけど、私たちにとってあの家は間違いなく安住の地だった」
懐かしむように語る黒歌。
しかしその表情をすぐに歪む。
「あの家に拾われて1年くらいだったかしら?私を眷属悪魔にしたいっていうやつが現れたの」
黒歌は日ノ宮家の屋根でその身体を丸くして日向ぼっこをしていた。
夏の暑さが厳しい時期ではあったが、室内に居ると日ノ宮母の可愛がりが疲れるのでこうして屋根の上に逃げている。
黒歌とて此処でただだらけているわけではない。
ここ1年、力を付ける為の修業を積み、色々と調べ周って情報を集めていた。
確かに今は楽だ。食事も寝床の心配もない。しかし今の環境に甘んじるつもりはなかった。
(猫の姿じゃなくて、ちゃんと元の姿で生活できるようにならないとね)
後々にここを出て、人間社会に混じって暮らせる環境を整えるつもりだ。その際には黙ってここを出ることになるが恩はキッチリ返すつもりだ。その時は人の姿を取っているかもしれないが。
(それに、白音も、いつまでも窮屈な思いをさせておくのもね)
近い将来、本来の姿で生活させてやりたいと思う。今まで自分に付き合わせてひもじい思いをさせた。
だからこそこれからは楽させてあげたい。
そんなことを考えていると黒歌の傍に1羽の鴉が停まる。
発せられる気からそれが誰かの使い魔であることはすぐに看破した。
「猫魈の黒歌さまですね?」
「……」
鴉の問いに黒歌は答えずに丸まっていた体を起こす。
「我が主が貴女たちを眷属に迎え入れたいと仰られています」
悪魔の駒。数を減らした悪魔が救済措置として開発した他種族を悪魔へと転生させるアイテム。
輪廻の輪から外れる代わりに永遠に近い寿命を与えられると聞いている。
だが、転生した悪魔に対する扱いの差は激しく、良心的な悪魔ならばいいが、そうでなければ文字通り奴隷か道具のように扱われる者も少なくないと聞く。
その結果主の下を離れ、はぐれ悪魔として処分されることも。
もちろん、全てのはぐれ悪魔がそういう訳ではないだろうが。
「興味が無いわね」
「何故です?我が主の下へくれば、人間如きに飼われる屈辱に甘んじる必要はなくなるのですよ」
「別に。私は今の生活に不満はないし、会ったこともないアンタの主も信じられない。放って置いてほしいわね」
黒歌の言葉に使い魔を通して話している相手はどう思ったのか僅かな沈黙の後に言葉を発した。
「分かりました。我が主にはお伝えしておきましょう」
そう言うと鴉は翼を広げて屋根の上から去って行く。
どこか嫌な予感がしながら黒歌も屋根から下りた。
「あ~。夏休みの宿題、やっと終わったー」
机に向かっていた一樹が大きく伸びをした後に首を回す。
夏休み終了まであと10日。明日からどうするか考える。
「もう少しでクリアできそうなゲームを片付けるか。それとも誰かと遊ぶか……」
これからの予定を考えることを楽しんでいると足に何かが当たる感触が伝わる。
「お!フルートか。ピアノはどうした?あいつすぐどっか居なくなるな。ごはん時には現れるけどな」
足に擦り寄っている白猫を抱き上げる。
頭を撫でると気持ち良さそうに白猫は目を細めた。
白猫にとって今の暮らしは楽園に居るようだった。
毎日決まった時間にご飯が出て、家族ともども姉妹を可愛がってくれる。
飢えや寒さに苦しむ心配はなく、突然誰かに攻撃されることもない。
唯1つ不満なのは本来を姿を取ることが出来ないことだが、思えば白猫が本来の姿に戻れたのはこれまでに何度あったか。
もし本当の姿を曝した時、目の前の少年はどんな反応をするのか。
知りたい、という衝動と知られて拒絶されるのが怖いという葛藤が生まれる。
ただ今は、この温もりに溺れていたいと思った。
それが後悔に変わるのはもうすぐ後だった。
「そうですか……彼女は拒否を。困りましたねぇ」
読んでいた本を閉じて男は困ったように大仰な仕草で手を挙げる。
「私の研究には妖怪と仙術・妖術のデータも欲しかったのですが。さてどうしたものか」
天井を見つめる主に報告をしていた男はターゲットの現状を話す。
「彼女らは今、人間の一般家庭の家に飼われている模様です」
「なるほど。安住の地を手に入れましたか。出来ることなら放浪していた時に彼女たちと接触してこちらに引き込みたかったのですがね。日本中を無規則に移動するので補足が遅れたのが仇となりましたか」
「申し訳ございません」
「いえいえ。貴方は現在私の初めてにして唯一の眷属です。人を割けなかった私の落ち度ですよ。しかしやはりこのまま貴重な
どこか楽しそうに、しかし表情を怪し気に歪ませながら男はこれからのことを想像する。
それを諫めるように眷属の男は質問した。
「よろしいのですか?人間界で派手に動けば現魔王に目を付けられる可能性もありますが」
「たかだか一悪魔の動向なぞ上は大して気を払いませんよ。それとなにを勘違いしているのやら。私はただ、交渉に行くだけですよ?」
悪意が、動き出そうとしていた。
黒歌は人気のない元工場の建物の中で人型の姿に戻って妖術の訓練をしていた。
亡き母から教わった術を自己で研鑽し、研究する。ここ1年安住の地を手に入れたことで半ば独学ではあるがそれなりに形にはなってきたのだ。
元工場の油と埃の臭いには顔を顰めるが、術の練習には人気のない場所で人除け結界を張って訓練する必要がある。
万が一人が入って来ても猫の姿を取り、身を隠せばいい。
新しく考えた術式を構築しながらあーでもないこーでもないとぶつぶつ口を動かしていると結界内に誰かが侵入してきた。
それが人間の気配でないことはすぐに分かった。
「お久しぶりです。お時間よろしいですか?」
「アンタは……」
その声と気の質から先日話した鴉の主人であることを察する。
警戒しながら摺り足で後退する。
「話はこの間済んだと思ってたけど?」
「えぇ。ですが我が主はどうしても貴女方を迎え入れたいとの要望でして」
「だから私は――――」
そこで黒歌は異変に気付いた。
それは結界が消された感覚だった。
だがそれはこの場所ではなく、自分たちを拾ってくれたあの家に貼ってあった結界だった。
(違う!これは消されたんじゃんくて書き換えられた!?)
黒歌が張った結界というのは邪まな存在が近寄りがたくするモノと、結界に異常が発生した場合、即座に黒歌に知らせる機能だ。
驚いている黒歌に男は話始める。
「主は貴女を迎え入れるために必要な交渉材料を取りに行くと仰られました。動かないでください。主も時期こちらに来られるでしょう」
「どきなさい……!?」
黒歌は殺意を込めて目の前の男を睨みつけるしかし向こうは涼し気にそれを流した。
「これが、我が役目故に」
「どけぇええええええええっ!!」
黒歌が想ったのは最愛の妹の無事。
しかし彼女は失念していた。
狙われていたのは、妹だけではなかったということに。
一樹は訳も分からずに押し入れの中で白猫を抱きかかえて声を押し殺していた。
それは突然だった。
母が作る今日の夕食を楽しみにゲームのコントローラーを操作していると、インターホンが鳴り、仕事から帰ってきたばかりの父が玄関を開けて対応しに行った。
すると、ドンッ!という音が人が倒れる音と母の悲鳴が聞こえた。
驚いて手にしていたコントローラーを投げ捨てて玄関まで走る。
するとそこには血を流して倒れている父と知らない男に押し倒されている母の姿。
母の逃げなさい!という叫びに強張っていた体が反応して二階の押し入れに白猫を拾って押し入れに隠れた。
何故?どうして?
そう思う一方でアレに見つかってはいけないという本能が必死に物音を立たせずに過ごさせる。
母、どうなったのか?
自分は逃げて良かったのか?
助けに行かないと!
不意にそう思って僅かに残された勇気を振り絞り、押し入れから出ようとするとその戸は壊されて開かれた。
「見付けましたよ」
母を押し倒していた男が醜悪な笑みを浮かべてこちらを見下ろしていた。
「私も、こんなことはしたくなかったんですよ?ですが、貴女のお姉さんが私の下へ来たくないというモノでして。説得にご協力願えますか?」
男は一樹を見下ろしながら彼には理解できない話をする。
そもそもお姉さんというのが誰なのかすら分からない。
悪意の眼差しを隠そうともせずにその時初めて男は一樹を見た。
「人間の子供ですか。私の研究の材料として確保しておくのも悪くない。それに扱いやすい人質は多いほうが良い。あぁ、それと――――」
僅かに体を下げるとどさりと人の形をした何かを落とした。
それはひとりの老婆だった。
不思議なのは、何故その老婆の顔に見覚えがあり、今日母が着ていた服を着ているのか。
男は注射器を1つ懐から取り出した。
「これ、先日完成した新薬でして。生物を一気に老化させる薬なのですが、人間相手なら10秒を待たずに老衰させることを可能とします。いやー。君のお母さまには感謝しているのですよ。こうして出来た薬の効果を確認させてもらったのですから」
男が何を言っているのか一樹はほとんど理解していない。ただ目の前の動かない老婆が自分の母だという事は理解した。
手で触れると実年齢よりも年若く見えた母から枯れ枝のような感触が伝わる。
「お話はこれくらいでいいでしょう。なに、私はこう見えても優しいですからね。君たち2人を死なないように丁重に扱ってあげますよ」
母に触れていた手を掴まれた。
その時一樹が感じていたのは母が死んだと理解した悲しみだったのか。目の前の男に対する怒りだったのか。それともこれから自分がどうなるのかという恐怖だったのか。
あらゆる感情が一気に湧き上がり、グチャグチャと掻き混ざっていく。
「あ、――――あぁあああああああああああっ!?」
混ざり合った感情は心の内側で爆発する。
耳を覆うような絶叫の後に一樹は静かにそれを口にした。
「
少し先の未来で何度も言うことになるそのワードを生まれて初めて口にした。
一樹の手から生まれた炎は目の前の脅威を排除しようとするように男へと襲い掛かった。
「なっ!?」
一樹から手を放すと男は自分の顔に直撃した炎を払う。
炎を払った顔半分には火傷が残され、自分に起こったことを分析し始めた。
「今のは、ただの炎ではありませんね。聖なる炎。神器かそれとも生まれついての異能か。ハハッ!?まさかこのような珍種が居たとは!ますます殺すわけにはいかないじゃないですか!!」
宿った感情は怒りではなく歓喜。
自分に抗った少年が実験材料としてとても貴重な存在だと解り、研究者としてなぜ顔の火傷程度で怒ることがあろうか。
一樹の放った炎が次第に家を焼いて火の手を広げさせていく。
この聖なる炎の中で長時間いるのはさすがに体に悪いとすぐさま2人を連れて出ようとした。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
一樹は大きく肩を上下させるとスイッチが切れたように意識を失う。
爆発した感情で慣れていない能力を行使したことへの反動だった。
意識を失った一樹と抱えられている白猫を回収しようとすると天井がぶち抜かれた。
黒い影が一樹と男の間に落ちる。
それは人の形をしており、その美貌を大きく怒りで歪ませて男を睨みつけた。
「ギニア・ノウマン……!」
「……もう戻ってきましたか。駒が私の所に戻っていないところを見ると殺したわけではないようですね」
人の姿を取った黒歌は一瞬だけ倒れた一樹と妹を見るがすぐに湧き上がる感情のままに行動を開始した。
妖術で生み出した雷を右手に集めて強い憎悪を舌に乗せる。
「殺してやる……!」
ここは安住の地だった。
日ノ宮夫妻が死ななければいけない理由は何もなかった。
一樹が何かを失う理由もなかった。
最愛の妹がこんな目に遭う必要も。
その全ての原因は目の前で嗤っている男なのだ。生かしておく理由も1つとしてなかった。
男――――ノウマンに近づくと手に集めた雷を目の前の男に繰り出す。
それが肩に穿つと表情を歪めた。
「やれやれ。さすがにここでは分が悪い。このような聖なる力が広がっている場ではね。私も命が惜しいのでここは撤退させて貰うとしましょうか。あぁ、本当に残念です」
すると男は小瓶を取り出し地面に中の液体を垂らす。するとそれが魔方陣を描いていった。
それは、転移の魔法陣だった。
「ではまた。いずれ貴方たちを」
「待ちなさい!!」
妖術で追撃をかけようとするがその前にノウマンはその場を退く。
舌打ちすると黒歌は自分を呼ぶ声が耳に届いた。
「ねえ、さま……」
「白音!?無事!」
「わたし、わたし……!?」
人の姿を取った
白音が一樹に縋るような体勢で後悔から泣いていた。
何もできず、何もせずに震えていた自分を。
そんな白音を黒歌は頭を撫でて、倒れている少年を見下ろす。
「ごめん……ごめんね……」
黒歌も泣きながら眠る一樹に謝る。
今回の原因は自分にあるからこそ。
どうすれば償うことが出来るのか分からないまま、届かない謝罪を続けるしかなかった。
二階の一室を中心に日ノ宮宅は大きく燃え上がり、消防が駆けつけた際には火の手が一階まで及んでいた。
この事件は一般的には当時の駒王町の管理者の介入により火の不始末による家の全焼として処理され、夫妻も火事による焼死として記録された。
唯一の生存者である日ノ宮一樹は親戚に引き取られることとなる。
これが、7年前に日ノ宮家を襲った悲劇の真相だった。