私は誰でしょう? 作:岩心
4話
ハリー・ポッターがホグワーツへ行ってからおよそ半年後、ギルデロイ・ロックハートの自伝『私はマジックだ』の発売。
数多の冒険を記した体験談と同じく自伝もまた魔法界で大ヒットして、社会的地位を上げた私は……魔法使いの監獄アズカバンへと来ていた。
「ギルデロイさん。ここからは私が……」
「いいや、必要ないよ。私ひとりで十分だ」
魔法省から派遣されたここの見回りの魔法使いを振り払って、断崖絶壁の孤島の上に建つ要塞の如き監獄に降り立つ。そのまま後続を待たずに内部に踏み込むと、出迎えたのはマントを着た黒い影。顔をすっぽりと頭巾で覆い、マントから突き出している手は水中で腐敗した死骸と見間違えるほど灰白色に冷たく光っている。
アズカバンの看守と恐れられる闇の魔法生物・
最も暗く、最も穢れた場所に蔓延り、凋落と絶望の中に栄え、平和や希望、幸福を回りの空気から吸い取る邪悪な魂の抜け殻。
近づくだけで楽しい気分も幸福な思い出も、一欠けらも残さずに吸い取ろうとする、マグルでさえ、吸魂鬼の姿を見ることが出来なくてもその存在は感じ取るほどだ。
だが、私がここに持ちこんで来た感情の大部分は、この最も忌まわしい生物が怯むほどの、激情だ。
「やっと……やっと、ここまで来た!」
作家活動を足掛かりとして、マーリン勲章を取り、数多くの社会貢献で発言力を高めてきた私は、ついにこのアズカバンに……ヤツとの面会が許された。
祈るように拍手して出した私の
その中に居る、壁に
「シリウス・ブラック!!」
その名は今やこのアズカバンの要塞監獄の囚人の中で最も凶悪と言われている、『例のあの人』の右腕だった男を指すもの。
そして、友を売り、友を殺し、十数人のマグルを一度の魔法で虐殺した……私がかつて尊敬していた先輩のひとり、だった。
あの二人が自分たちの子供の名付け親にするくらい、最も信頼された男がスパイだったなんて、どうしてもそれが信じられず、私は彼と面会するために、魔法省に多額の寄付金をやった。
妖精の守護霊が、牢獄に張り付いている吸魂鬼を払い退けさせると、そのまま照明代わりに天井近くを飛び、唖然と読んでいた新聞を落としたブラックは瞠目して私を見た。
「その声は……まさか、ギルデロイか!?」
「ああ、そうだ! クロスワードに興じるとは余裕だな。なんだ、アズカバンでひとり遊びがそんなに面白いか?」
「懐かしいだろう。ここではこれくらいしか楽しめるものがなくてね。ああ、そうだ。新聞にも載っていたが、本を出したんだって? 私にも読ませてくれないか」
「欲しいなら新刊と合わせて送り付けてやる。ふん、随分と正気を保っているようじゃないか。良かったよ、話ができるようで」
アズカバンの囚人は、吸魂鬼に幸福の記憶を吸われ、正気を失っている。その中でも特に凶悪犯の魔法使いは、吸魂鬼が昼も夜も独房のすぐ外に張り付いている。
けれど、シリウス・ブラックは、見た目は落ちぶれてはいるものの、もう十年以上も最も厳しい監視を受けているというのに、新聞を読めるだけの気力があった。
「リーマス先輩から、全てを聞いたよ。お前が、ジェームズ先輩とリリー先輩から『忠誠の術』をかけられた『秘密の守人』だった、ってね。でも、お前は二人を裏切り、死なせた……!」
震える腕は今にも拳銃をブラックに突きつけようとするのを必死に抑えている。震える声は私のこの上ない失意と怒りが篭められている。それを見たブラックは、ゆっくりと首を振った。落ち窪んだ目が急に潤んだように光った。
「確かに……私が殺したも同然だ」
ブラックは静かな声で言った。
「でも、信じてくれ。わたしは決してジェームズやリリーを裏切ったことはない。裏切るくらいなら、私が死ぬ方がマシだ」
「何を貴様! 言っておくが私はここで貴様を
「お願いだ聞いてくれ!」
痩せた胸を激しく震わせて訴えるブラックの目、そこにかつてと変わらぬ光を見て……目を瞑る。眉間にしわが寄り、クッと顔を逸らし、吐き捨てるように言う。
「何だ、聞かせたいことがあるなら言ってみると良い。私の財産の半分を払ってここまで漕ぎつけたんだ。これで裏切り者の首ひとつではとても釣り合わないからね。ただ、狂人の戯言を聴かせないでくれたまえよ」
「感謝する、ギルデロイ」牢前に椅子を出して腰かけた私に、大声を出してぜえはあと息を切らしながらもブラックは掠れた声で言った。「私は、最後の最後になって、ジェームズとリリーに、ピーターを守人にするように勧めたんだ」
「何? そんなことは先輩から聞いていないぞ」
「ああ、リーマスは知らない。私の独断だ。ヴォルデモートはきっと私を狙うだろう。だから、目晦ましだ。私は、これこそ完璧な計画だと思った。……ピーターに裏切られるまでは!」
その名を口にしたブラックから、強い憎悪の念が漏れ出す。
「二人に、守人をピーターに変えるように勧めた……ああ、私が殺したも同然だ。確かに、二人が死んだ夜、私はピーターの所に行く手筈になっていた。ピーターが無事かどうか、確かめに行くことにしていた。ところが、ピーターの隠れ家に行ってみると、もぬけの殻だ。しかも争った跡がない。どうもおかしい。私は不吉な予感がして、すぐジェームズとリリーの所へ向かった。そして、家が壊され、二人が死んでいるのを見た時――私は悟った。ピーターが何をしたのかを。私が何をしてしまったのかを」
終盤、涙声になったブラックの話を、私は姿勢を微動させることなく聴く。
「それで?」
「私は、あいつを……ピーターを追い詰めた」
「そして、指一本しか残さないくらいに消し飛ばしたのか」
「それは違う。私があいつを追い詰めたとき、あいつは道行く人全員に聞こえるように叫んだ。私がジェームズとリリーを裏切ったんだと。それから、私が奴に呪いをかけるより先に、奴は隠し持っていた杖で道路を吹き飛ばし、自分の周囲にいた人間を皆殺しにした――そして、素早く指一本だけを切り落とすと、ネズミが沢山いる下水道に逃げ込んだ……私に罪を被せてね」
「ネズミ、だって……」
「知っているだろう。私達が未登録の……であることを」
……なるほど、辻褄は、合う。だが、
「アズカバンで十年も正気を保つだけでなく、このような作り話を創作するなんてね。驚かされたよ」
ブラックは格子の隙間から骨と皮ばかりになった手を伸ばして、牢前から席を立とうとする私へ声を枯らして訴える。
「信じてくれ。私が正気を失っていない理由はただひとつ。自分が無実だと知っているからだ。これは幸福な気持ちではなかったから、吸魂鬼はその思いを吸い取ることができなかった……しかし、その思いが私の正気を保たせた、自分が何者かであるか意識し続けられた」
「でも、証拠がない」
そう、その話がたとえ真実なのだとしても、無実だと証明できないのだ。
「そして、二人から任された後見人の義務を果たさず、ひとり復讐に走った輩に、これ以上の義理立てをする必要はない。ああ、そうさ。ハリーのことだけではない、自分勝手なお前は、レギュラス先輩……弟さんのことだって何にも知らないんだ」
「それは……」
力なく落ちそうになるブラックの腕であったが、それでもげっそりとした顔を鉄格子に擦りつけ膝を屈したまま、再度諦めずに伸ばす。
この信頼できる我らの後輩が訪れたこの機会を、決して無駄にしてはならないと。
「それでも、頼む……! このアズカバンでいろいろ耳にした。私は囚人たちが寝言で叫ぶのをずっと聞いていたんだ。どうやらみんな、裏切り者がまた寝返って自分たちを裏切ったと思っているようだった。ヴォルデモートはピーターの情報でポッターの家に行って……そこでヴォルデモートが破滅したんだからな。だから、奴はハリーを狙う! ハリーを捕えていれば、ヴォルデモート卿を裏切ったなど誰が言おうか? 再び闇の陣営が力を得る時に備え、きっとハリーを襲えるようすぐ近くに息を潜めているはずだ!」
「もう時間だ。まったく一秒が一ガリオンにも勝る高い買い物をしてしまった」
マントを翻し、背中を向ける。希望が潰えたと勘違いしたブラックの拳が独房の床を叩いた音を耳にした私が、愚痴るように捨てセリフを残す。
「……そのおかげで、話を聞くべき相手がもうひとり増えたしね。これでまたもう半分の財産まで費やしては、無一文になってしまうぞ。まあ、……犬の土下座は値千金の価値があるとプロングズは言っていましたっけ」
「スプリガン……!」
「勘違いはしてくれるな。貴様の話を信じたわけではない。私はあの魔法戦争には参加することさえできなかった。だから、不甲斐ない先輩の尻拭いくらいやってみせないと格好がつかない。私はこの黒子に誓って、割に合わなくても格好悪い真似だけはできないんでね。……それにここから出さないと殴ることもできやしない。その汚い首を洗って覚悟しておいてくれたまえよ、パッドフット」
〇 〇 〇
ホグワーツ魔法魔術学校で一年生を終えた。
ロン・ウィーズリーとハーマイオニー・グレンジャーという親友ができて、魔法の授業で目が覚めるような経験をして(魔法薬学の教授には目の仇にされていたけど)、クィディッチでは新入生で寮対抗選手になったり、また『賢者の石』を巡ってクィレル……に取り憑いた史上最強の闇の魔法使いヴォルデモートとの戦いを経たハリー・ポッターは、このプリベット通りで、とても歯がゆい思いをしていた。
ホグワーツが、魔法界が恋しい。
呪文の教科書も、魔法の杖も、ローブも、鍋も、最高級の箒ニンバス2000も、夏休みで家に帰った途端、バーノン伯父さんが階段下の物置に押し込んで鍵をかけてしまったのだ。
だから、夏休み中一度もクィディッチの練習もできないし、宿題もできない。ヘドウィグも鳥籠に閉じ込め、南京錠までかけたので、魔法界の親友に手紙を運んでもらうこともできない。
ハリー自身を閉じ込めたりはできないみたいだけど、とにかくこの雁字搦めの生活にとても窮屈な思いをしていた。
「ハリー。あまりここへ頻繁に来られると困ると話をしなかったかな?」
なので、フィッグ家……に隠れ潜む居候のギルデロイ・ロックハートの部屋にこの夏休み入り浸っていた。
「ギルデロイ、お願いだよ。僕、あそこには居場所がないんだ。今日だって商談があるだとかでそれまで家に居るなとおじさんに追い出されたんだ」
正確には、ハリーが自ら家を出て行くことを進言したのだが、伯父さんたちも強く同意してくれた。
厄介な癇癪玉は身内に抱えるよりも外へ放り出したい。そして、ハリーも唯一魔法界と繋がりのあるこの場所にいたい。
なにせ、この部屋にあるギルデロイ・ロックハートの自筆の原本は、マグルの映画よりも断然臨場感がある。この感動を知ってしまったハリーは、従弟のダドリーがマグルの映画館のニュースに騒いだのを見て思わず失笑した。魔法界の本は全部文字通り“読者が引き込まれる”ものだと思っていたハリーは、ホグワーツの図書館で本を借りた時とてもがっかりした(何て贅沢な! とハーマイオニーに説教された)。
おかげで窮屈はしているけど、退屈はしていなかった。宝物探しのように書庫で発掘しては、本を読む。現在、ハリーは、四作目の『トロールとのとろい旅』を読み進めていて、ちょうど、『闇の帝王』に囚われる前の、クィリナス・クィレルとの話を体感していた。ギルデロイにも、クィレルが……『例のあの人』の手先で、『賢者の石』を狙っていた、そして、最後は亡くなったことを教えると、『あの時代もそうでしたが、ヴォルデモートに関わった者の多くは奴の強大な力に傅いてしまう。ハリー君のご両親のように抗ったものもいますがそれは本当に一握り。それだけ恐るべき存在でした』と語ってくれた。この『トロールとのとろい旅』で、トロールについての蘊蓄をどもりながらも楽しそうに語るクィレルを見て、ハリーもそうだと強く実感した。
「仕方がありませんね。今日は特別だよ」
そう言って、この最近変わったネズミがマイブームなスーパースターは、ファンレターの返信作業に戻っていた。新作の自伝を出したばかりとあってか、机の上には軽く千枚近く封筒が山と積まれていた。ハリーもこれには何か手伝おうと思ったのだが、こういうのはひとりひとりきちんとしないと無礼であるというギルデロイの主張でお断りされた。
「……、」
……全ロックハートファンに妬まれるかもしれないが、やっぱりハリーは満たされない思いがした。ギルデロイがああして手紙の山に格闘していると強く思う。
ロン、ハーマイオニー、ハグリッドからずっと連絡がない。今日は僕の誕生日だというのに手紙が一通も届かない。
「そういえば、ハリー。今日は君の誕生日であったね」
「え……?」
「何を驚いているんだい。こうして作家稼業を休業する前の身辺整理で忙しいけれども私は君の誕生日を忘れたりはしないよ。ハッピーバースデー、ハリー」
「う、ううん。そんな……ただ僕、ちょっと(手紙が全然来ないから)……え? ギルデロイ、本を書くのを
最初は祝ってもらえて舞い上がったけど、さりげなく漏らされた爆弾発言にそんな気分も吹っ飛んだ。
「ある人に頼み事をされましてね。それに専念しようとしばらく筆を置くことにしたんです。自伝も出してちょうどいいし。ファンレターにもしばらくお休みにしますと書いているよ」
ええっ!? そんな……まだ全巻読み終わっていないけど、ギルデロイ・ロックハートの本は楽しみにしてたのに。このプリベット通りで唯一の娯楽と言ってもいい。
「あ……。もしかして、僕がここに入り浸ったせいで、ペチュニア伯母さんにギルデロイが魔法使いだってバレちゃったの?」
「違う違う。しばらくプリベット通りを離れることになりますけどね」
「そんなっ!?」
現在、ギルデロイが唯一の魔法界の繋がりであるハリーにこれは死活問題に等しきものだ。能天気になど構えてられない。
「一体誰に、どんなことを頼まれたのさギルデロイ! いきなり本を書くのを
「ファンの方々には申し訳ないけど、私個人としてもこの仕事には乗り気でね。まあ、安心したまえ、どんな仕事なのかはまだ内緒だが、ハリー君の悪いようにはならないということは約束しよう」
納得していないけど強引に話を打ち切られた。ギルデロイは机の引き出しからきちんと包装されたプレゼントを取り出すと僕にそれを差し出す。
「一年生でクィディッチの選手になるとは素晴らしい飛び手のようじゃないですか。本で見ただろうけど私もシーカーでしてね。その時はこれが愛用の手入れ道具だったのです」
包み紙を破ると、ハリーの心臓は飛び上がった。黒い滑らかな革のケースに銀文字で“箒磨きセット”と刻印されている。
『フリートウッズ社製高級仕上げ箒柄磨き』の大瓶一本、銀製のピカピカした『箒の尾鋏』一丁、長距離飛行のため箒にクリップで留められるようになった、小さな真鍮のコンパスが一個、それと、『自分でできる箒の手入れガイドブック』が入っていた。
これは最高だ。競技用箒ニンバス2000は、ハリーの宝物のひとつなのだ。
「ありがとう、ギルデロイ!」
「喜んでくれて何よりです。応援はできないけれど、ハリー君の試合を楽しみにしていますよ」
何か今の発言に微妙に引っかかるものを覚えたけれども、早くニンバス2000を手入れしたいで頭がいっぱいである。
「しかしですね、ハリー君。君を気にかけてるのは私だけではありません」
その言葉に反応するよりも、ギルデロイの動きの方が早かった。
手品師の如く、注意を他所に向けたその一瞬で事を済ませる、抜く手も見せぬ早業。ハリーが捉えたのは、パッチンと指を鳴らした音。それから、ドサッと部屋の扉付近の床に倒れる音。
詠唱も杖もなく、全身金縛りの呪いをかけられたそれを見て、ハリーは危うく叫び声を上げかけた。
「ふむ。これは、『屋敷しもべ妖精』ですか」
ギルデロイの自室に不法侵入しようとしたのは、蝙蝠のような長い耳をして、テニスボールぐらいの緑の瞳がぎょろりと飛び出した小さな生き物。
その生き物はハリーにも見つかると、もじもじと身悶えするも、金縛りの呪いで動けない。ハリーはそこでその生き物が、手と足が出るように裂け目がある古い枕カバーのようなものを着ているのに気づき、ギルデロイの呟きを耳で拾った。
「ギルデロイ、『屋敷しもべ妖精』、って?」
「お察しの通り、魔法界の生物です。かなりの魔力がありますが
ギルデロイはそう言ってもう一度指を鳴らし、『屋敷しもべ妖精』の金縛りを解いた。
するとしもべ妖精は、カーペットに細長い鼻の先がくっつくぐらい低くお辞儀をする。部屋の主で大人の魔法使いであるギルデロイではなく僕に。その甲高い声で挨拶をした。
「ハリー・ポッター! ドビーめはずっとあなた様にお目に掛かりたかった……とっても光栄です……」
「あ、ありがとう。それで、君は『屋敷しもべ妖精』で、良いんだよね?」
「ええ。ドビーめにございます。ドビーと呼び捨ててください。『屋敷しもべ妖精』のドビーです」
「えっと、それで、ギルデロイ……ではなく、僕に用があって来たの?」
「はい、そうでございますとも。ドビーめは申し上げたいことがあって参りました……複雑でございまして……ドビーめは一体何から話してよいやら……」
「あ、立ちっ放しは辛いだろうし、椅子を用意するね」
もう勝手知ったる何とやらで部屋に備え付けの椅子を一席ハリーが持ってこようとしたら、しもべ妖精はワッと泣き出してしまう。
「い――椅子を用意するなんて! これまで一度も……一度だって……」
妖精はオンオン泣いて、ギルデロイもあちゃーと額に手を当てる。何か対応がまずかったのだろうか?
「ごめんね。気に障ることを言うつもりはなかったんだけど」
「このドビーめの気に障るですって! ドビーめはこれまでたったの一度も、魔法使いから椅子を用意するなんて言われたことがございません――まるで対等みたいに――」
もうよくわからない。大きなギョロ目を尊敬で潤ませ、こちらをひしと見ている。
「ハリー・ポッターは謙虚で威張らない方です。あの『名前を呼んではいけないあの人』に勝ったというのに」
どうしたらいいの!?
助けを求めて、ギルデロイを見る。
「しもべ妖精、ハリーが用意した椅子に座れ」
そう命令口調でギルデロイが言うと、ドビーはしゃくりあげながらも素直に椅子に腰を下ろした。
「ハリー、『屋敷しもべ妖精』は、大きな館や城といった豪邸に住むような、裕福で由緒正しき魔法使いに仕える生き物なんだ。従者のように扱われているのに慣れている。いや、これはもう生物としての性質と言い切ってしまってもいい。だから丁寧に扱われるのを見ると逆にびっくりしてしまうんだ……にしても、ここまでビクつくしもべ妖精は初めて見るけどね」
「ふうん。君は礼儀正しい魔法使いに、あまり会わなかったんだね」
元気づけるつもりでそう言うとドビーは一度頷いて、それからハッとするといきなり窓ガラスに頭を打ち付けようとする。
「ドビーは悪い子! ドビーは悪い子!」
「ストップだ、ドビー」
その前にまたギルデロイが指を鳴らして、ドビーが頭をぶつける寸前で今度は首から下が固まる。ハリーも今度は金縛りを掛けられたドビーを抱き留める。
「ねぇ、いったいどうしたの? 窓に頭をぶつけたら大変だよ」
「ドビーめは自分でお仕置きをしなければならないのです。自分の家族の悪口を言いかけたのでございます」
「君の家族って?」
「ドビーめがお仕えしているご主人様、魔法使いの家族でございます……ドビーは屋敷しもべです――ひとつの屋敷、ひとつの家族に一生お仕えする運命なのです……」
「その家族は君がここに来てること知ってるの?」
「滅相もない……ドビーめがこうしてお目に掛かりに参りましたことで、厳しーく自分をお仕置きしないといけないのです。ドビーめはオーブンの蓋で両耳をバッチンしないといけないのです。ご主人様にバレたら、もう……」
「でも」「ストップだ、ハリー」
しもべ妖精の境遇に同情しかけたところで、ギルデロイが割って入る。
「ハリー、しもべ妖精はひとつの屋敷に縛られる生き物だ。そして、その主人の命には絶対服従するようにできている。着ている枕カバーは、隷属隷従の証だ。主人から衣服を与えられ解放されるまでは、彼らに死ぬまで自由はない。
だからこそ、『屋敷しもべ妖精』が
ギルデロイは指を向けて、金縛りを掛けられているドビーの身体を浮遊呪文で動かし、椅子に落として座らせる。
「ドビー、一体君はここに、ハリー・ポッターにどんな用があって来たのか、話しなさい」
ギルデロイの命令に、ドビーは視線を彷徨わせてから、口を開いた。
「ドビーめは聞きました。ハリー・ポッターが『闇の帝王』と二度目の対決を、ほんの数週間前になさったと……。ハリー・ポッターがまたしてもその手を逃れたと。
ハリー・ポッターは勇猛果敢! もう何度も危機を切り抜けていらっしゃった! でも、ドビーめはハリー・ポッターをお護りするために参りました。警告しに参りました。あとでオーブンの蓋で耳をバッチンとしなくてはなりませんが、それでも……。
ハリー・ポッターはホグワーツに戻ってはなりません」
ギルデロイがしもべ妖精は決死の覚悟でここに来たと言うから話を聞いたが、流石にこの文句は看過のできるものではなかった。
「な、なんで? 僕、だって、戻らなきゃ――九月一日に新学期が始まるんだ。それがなきゃ僕、耐えられないよ。だって僕の居場所は、ホグワーツなんだ」
「いえ、いえ、いえ。ハリー・ポッターは安全な場所に居ないといけません。あなた様は偉大な人、優しい人。失うわけには参りません。ハリー・ポッターがホグワーツに戻れば、死ぬほど危険でございます」
「どうして?」
「罠です、ハリー・ポッター。今学期、ホグワーツ魔法魔術学校で世にも恐ろしい事が起こるよう仕掛けられた罠でございます。ドビーめはそのことを何ヶ月も前から知っておりました。ハリー・ポッターは危険に身を晒してはなりません。ハリー・ポッターはあまりにも大切なお方です!」
「世にも恐ろしい事って? 誰がそんな罠を?」
そう聞き返すと主人の秘密を暴露しかけたドビーは舌を噛もうとしたので、すかさずハリーは飛びついて止めさせた。
「では、こちらからの質問に、首を縦に振るか横に振るかで答えなさい」
ギルデロイがしもべ妖精に配慮した質問形式を取って、再度問いかける。
「それは、『闇の帝王』が関わっているのか?」
ゆっくりと、しもべ妖精は首を横に振る。ノーだ。
「いいえ――『名前を呼んではいけないあの人』ではございません」
目を大きく開けている様子からして、こちらに何かヒントを与えようとしているようだったが、まるで見当がつかない。
「『あの人』に兄弟がいたかなぁ?」
「いいや、ハリー。『闇の帝王』に家族はいないはずだ」
「でもそれじゃ、ホグワーツで世にも恐ろしいことを引き起こせるのは、他に誰がいるの。だって、ほら、ダンブルドアがいるからそんなことはできないはずでしょ?」
「ダンブルドア先生は、ホグワーツ始まって以来の最高の校長先生であると言われているね。『闇の帝王』でさえ一目を置いたお人だ。……それでも、闇の魔術というのは、その今世紀最高の魔法使いでさえも容易ならないものだ」
さて、とギルデロイはテーブルに肘を突き、組んだ手指の上に顎を置くポーズを取って言った。
「おそらくこれ以上、ドビーから情報を拾うのは無理があるだろう。今度こそ舌を噛みかねない。でも、君には他にも隠しているものがあるだろう?」
ハリーが捕まえているドビーの身体がビクンと震える。
「妖精のイタズラには、一家言を持っているつもりだ。君がハリーにしている悪戯にも予想はついている」
「ギルデロイ、何を? ドビーが僕に何かしてるの?」
「実はね。私のファンのひとりである、モリー・ウィーズリーさん、ハリーと親友である息子ロン・ウィーズリーから、私とハリーがご近所さんだと知った彼女からのファンレターで、ハリーにいくら手紙を送っても返事がなく何かあったのかと訊ねられてね。それから、ハーマイオニー・グレンジャーさんからのファンレターにも同じ様に、ハリーの近況をとても心配していると書かれてあったよ。ファンレターとは別にハグリッドからも手紙は届いている」
え……と眉を顰める。
つまり、一通も手紙がないから友達だと思われていないかもしれないと思っていた彼らは、本当は何通も手紙を送っていたという事で……。
「ハリーへの手紙は全てシャットしたみたいだけど、私の方へは手が回らないみたいだったね。この通り千通以上もあるんだから無理はない……盗ったものをハリーへ返してくれないか。妖精を相手に
懐に納められている拳銃を見せ、ギルデロイは言う。
それにハリーも、身震いするドビーに訊ねた。
「君が、僕宛の手紙をストップさせてたの?」
「ドビーめはここに持っております」
しもべ妖精は着ている枕カバーの膨らんでいる所に目配せし、そこを捲ると分厚い手紙の束があった。それには見覚えのあるハーマイオニーのきちんとした字、のたくったようなロンの字、ホグワーツの森番ハグリッドからと思われる走り書きも見える。
ドビーはハリーの方を見ながら心配そうに目をパチパチさせた。
「ハリー・ポッターは怒ってはダメでございますよ……ドビーめは考えました……ハリー・ポッターが友達に忘れられてしまったと思って……ハリー・ポッターはもう学校には戻りたくないと思うかもしれないと……」
ドビーが恐る恐る申し訳なさそうなか細い声で何か言っているも耳に入らず、僕宛の手紙をひったくると、キッとドビーを睨む。そこで、ギルデロイが声で諭すように制す。
「ハリー。この妖精は、君が怒って当然のことをした。けどね、『屋敷しもべ妖精』は、『例のあの人』が権力の頂点にあった時、害虫のように扱われていた。でも、『生き残った男の子』が、『闇の帝王』を打ち破ってから、しもべ妖精の環境は全体的に良くなった。彼の感動のしようからもわかるだろう? ハリーはドビーにとっては暗黒時代を終わらせた新しい夜明けの光にも等しい。それを失わせまいとドビーは必死なんだ」
「ああ! はい、その方の言う通りでございます。ハリー・ポッターは私達にとって輝く希望の道しるべなのです。ですから、ドビーめはハリー・ポッターをここに留まらせなければいけないのです。歴史が繰り返されようとしているのですから――」
そう言いかけて、恐怖で表情を凍り付かせたドビーは、もがいて、ギルデロイの金縛りの呪いを強引に破った。
「ドビーはなんとしてでも、ハリー・ポッターを学校に行かせるわけには参りません」
そして、こちらが何かを言うよりも早く、バチッと大きな音がして、ドビーの姿は消えた。
瞬間転移したしもべ妖精を見逃したギルデロイが嘆息して、謝罪する。
「すまないね、ハリー。私はどうにも妖精には甘いんだ」
椅子から立ち上がるギルデロイ。
「ギルデロイ、僕、ホグワーツに行きたい……! だから!」
「ちゃんとわかってるさ、ハリー。……どうやら筆を置いて正解だった。私はこの全身全霊を賭けて、君が涙を流すような事態にはさせないよ」
ギルデロイは僕の頭をくしゃりと撫でると、一枚の宛名と住所が書かれたファンレターを指に挟んで言った。
「そうだね。プリベット通りで
・
・
・
……その時、僕はまだ知らなかった。
筆を置き、杖を取ったギルデロイ・ロックハートの
”向こう側”を見てきたこのロックハートは妖精のように杖無しで魔法が使えます。ハガレンの真理を見て、手合わせ錬金術ができるような感じです。
誤字修正しました。報告してくれた人、ありがとうございます!