『ねえ、士郎? 士郎はどうして——“正義の味方”になりたいの?』
……遠い日の記憶だ。
いつだったか、母にそう尋ねられたのを思い出した。
『士郎はどうして、“正義の味方”になりたいの?』
その時。今よりもずっと小さくて、幼かった少年は……答えを出せなかった。
『ねえ、どうして?』
——だけど、今なら。今なら……きっと。
*****
「……夢、か」
どうして今更……そんな思いが不意に込み上げてきた。
それは、衛宮士郎にとっての始まりだ。頑なに“正義の味方”を志すようになった彼の原点。いつの間にか忘れてしまっていた、オリジン。
自分は果たしてあの時の問いに……どんな答えを出したのだったか?
「おや、起きたのかい?」
「リカバリーガール……ならここは、保健室か……」
「なんだ、覚えてないのかい。あんた、USJでぶっ倒れたんだよ」
「USJ……そうだ! オールマイトは?! 他のみんなは!?」
士郎は、掴みかかるような勢いでリカバリーガールを問い詰める。しかし彼女は、慌てふためく士郎を他所に、やれやれと肩を竦めた。
「無事さ、みんな。相澤先生も重症ではあるけど、命は繋いだよ。生徒の怪我人もあんたと緑谷だけさね、どっちも自爆なのは世も末だと思うけどね」
「……そう、ですか。——良かった……」
「主犯の二人には逃げられたけど、あの脳無ってのは捕まったみたいだよ」
「逃げられたん、ですか?」
「ワープの“個性”なんて、逃げに回られたらこれほど厄介なものは無いからねぇ」
相澤が無事ならまた話は違ったのかもしれないが……あの場でこれ以上の成果を出すのは難しかっただろう。
死傷者はゼロ。再起不能なほどの大怪我を負ったものも居ないという面を見れば、むしろ賞賛に値するものではないだろうか。
「まあ、事の顛末はそんなところさ。だからあんたが心配するのは、自分の身体のことだけでいいよ。ずいぶんな無茶をしたみたいだね?」
「うっ……!」
リカバリーガールの非難に満ちた眼差しを受け、途端に居心地が悪くなった士郎。
「内臓の幾つかが酷いダメージを受けていた。あんたの“個性”、精神性だかなんだか言ってたね。……脳っていうのは凄い力を持っていてね。時には思い込みで、“無い傷も創り出してしまう”」
それこそが、士郎の“個性”の限界。精神性とはいえ、脳という器官を介する以上、身体能力としての制限が存在する。
彼の実力、または精神力の上限を超えた投影を発動させたなら、脳は正しい信号を送れずに……彼自身の身体を破壊する破壊的な警報を発してしまう。
過剰な投影は、命の如何に関わるほど危険な行為なのだ。
「こんなこと続けてると、早死にするよ。私の“個性”は傷を元通りに復元するわけじゃない。あんた自身の自然治癒力を活性化させるだけなんだからね。幸運なことに、身体がやたらと丈夫なおかげで大事には至ってないがね。……親に感謝しときな!」
「……はい、感謝してます……」
無茶は何度もやらかしていたというのに、不思議と大きな怪我を負った事はなかった。両親はブチ切れているが、しっかり産んでもらった士郎としては感謝の言葉もない。
それでも息をするように危険に飛び込んでしまう自分がいるため、顔向けもし辛いのだが……幸いにも、親子仲は悪くなかった。
「感謝の気持ちがあるなら、ちょっとは自分の身体を気遣うんだね」
「……以後、気をつけます……」
「ほう? そりゃ殊勝なことだ、口だけは」
ちっとも信用していないことが分かる口調だったが、士郎は強く反抗することもしなかった。
何せ、やらないなんて約束は出来ないからだ。
「……治療、ありがとうございました」
「もう、来ないようにするんだよ?」
「……はい」
士郎は扉の前で一礼し、保健室を後にした。
「……ま、言うだけ無駄なのかもしれないけどねぇ」
リカバリーガールのそんな独白は、士郎には届かなかった。
*****
「衛宮、お前ちょっと残れ」
「相澤先生?」
USJ襲撃事件の翌々日。相澤はミイラのような包帯姿のまま早々の復帰を果たした。とても完治したとは言い難い有様であったが。
それでも相澤は、重要な連絡事項である雄英体育祭の開催を宣言した。雄英高校の体育祭は、生徒たちにとってだけではなく、日本国内においても大きなイベントだ。担任としても自ら通達したかったのかもしれない。
……その日の放課後のことだ、相澤は士郎を呼び止めた。
何か、ちょっとした用事を頼む程度の内容ではなさそうな……重苦しい雰囲気を放ちながら。
さっそく体育祭に向けての準備を始めようとしていた士郎であったが、突然のことに驚きながらも相澤の指示に従った。
「それで、先生。急にどうしたんですか?」
「衛宮。——今後、例の過剰投影は禁止だ。もし体育祭で使ったなら、即失格にする」
「……はぁ!?」
誰も居ない教室。既に他の生徒はみんな帰ってしまったのだろう。
そこで相澤が口にした言葉は……士郎にとって、まさに青天の霹靂であった。
「で、でも……雄英体育祭で活躍すれば、プロにスカウトされるチャンスが……!」
「お前ならその辺りは問題ないだろ。俺の見立てだが、戦闘能力じゃ今んとこ轟、爆豪、お前はだいたい横並びで上位だ。状況次第だが、常闇もな」
聞く気は無いとばかりに切り捨てる相澤だが、士郎は尚も食い下がる。
「緑谷も“個性”を使えば骨折してしまうじゃないですか! 俺だってそれと似たような——」
プロにスカウトされるということは、それだけ早く……確実にヒーローになれるということだ。多少の無理は承知の上。
そんなものは、士郎でなくとも同じだろう。
雄英の教師である相澤とて当然知っている。——が、それを踏まえた上で、相澤は士郎の言葉を遮った。
「緑谷はまだいい。……いや、良かないんだが。あいつの場合、ぶっ壊れるのは筋肉やら骨やらだ。お前とはまた事情が違う」
四肢が壊れたところで……極論、死にはしない。だが、士郎は。
「お前の場合、どこが壊れるか分かったもんじゃない。次に壊れるのが心臓じゃない保証がどこにある? 頸動脈がぶち切れない保証がどこにある?」
「それはっ!」
「雄英体育祭はテレビ放映もされる。大観衆の目もある。ガキの突然死なんて、見せられるわけないだろうが」
「……っ」
一般市民は——無論、この雄英の生徒達もだが——人死にには慣れていない。慣れていて良いはずがない。
そんなものが全国放送で流れでもしたなら、名門たる雄英であっても、ただでは済まないだろう。世論が、必ず雄英を貶める。
士郎だけではない。他の雄英生全てを犠牲にする最悪の事態だ。……その時既に命が無いであろう彼に、その責任を負うことは出来ない。
「言っとくが、悪評どうこうの話だけじゃない」
「え……?」
「——どこの世界に、みすみす生徒を死なせる教師がいる。これは、俺たち教育者の責任でもあるんだよ」
「先生……」
「普通こんなこと言うもんじゃないんだがな……。お前には、自分がどうなるとかより他人の話をした方が効くだろう?」
その通りだ。一切反論の余地がないほどに。
士郎には自分に対しての危険に疎い傾向があった。彼は、死にたいと思っている訳ではないが、死んでも構わないと思っている。
生き残れる道があるなら、その努力もするのだろう。しかし、理由があればすぐにでも命をベットしてしまう。
「お前が無理するべきなのはここじゃないだろう。——何も成さないまま、何の意味もなく死にたい訳じゃないだろう?」
「……」
「王道をいけ。回り道を恐れるな。……その方が、お前はずっと強くなれる」
相澤の言葉は……士郎の思想を肯定しつつも、彼が生き続けられるように考えられたものだ。
士郎の行き過ぎた奉公精神は、そう易々と矯正できるものではない。だからその、“他人のためという彼の行動理念”を利用して、彼を縛ることにした。
問題を先送りにしているだけなのは、相澤も理解している。
ただ……それでも、先送りにした時間で士郎の生きる道を模索することは可能だ。自分が彼を見張れる三年間、その三年は……きっと無駄にはならない。
「お前がいま無意味に死ねば、お前が未来に救うはずだった誰かが死ぬことになる」
卑怯な論理だ……と、相澤は心の中で自嘲した。しかし、やめるわけにはいかない。
いまは、合理的に士郎を抑えなければならない。
「お前が死ねば、お前の両親はどう思う。悲しまないとでも思っているのか?」
「……そんなわけない。親父も、母さんも……」
「それを理解しているなら、これからの身の振り方も分かるだろう」
こんなところで、衛宮士郎は倒れるべきではない。否、“倒れて欲しくない”。
「いま命をかけるべきは俺たちだ。次代を担うお前じゃない。……話は終わりだ、さっさと帰って休め」
遣る瀬無い思いを抱えながら、士郎は教室を後にする。
そんな彼の様子を、相澤はただ……黙って見つめていた。
「——相澤くん。あれで、良かったのかい?」
「またですか、オールマイトさん。相変わらず、盗み見が得意なようですね」
教室に入ってきたのは……痩せぎすの不健康な男。トゥルーフォームの、オールマイトだ。
「ははは、この姿も便利なものでね。誰も私とは気づかない」
吐血しながらも、オールマイトは明るく笑う。
「……それで、彼のことだが——」
「良いわけがないでしょう。それでも、今はこんな真似でしかあいつを止められない」
合理性だけで全てが解決できるなら、相澤は人間などという非合理な生き物はとうの昔に辞めている。
それでも相澤が人間のままでいるのは、感情というものを捨てられないからだ。それは無論、罪悪感も。
「あいつのような人間は、必ず早死にする。合理性じゃない。“俺が”そうさせたくない……ただそれだけの感情で、こんなことをやっているんですよ」
「……そうでなくては、彼が死んでしまうからか」
合理的に判断すれば、その通りだ。彼の言う通り、衛宮士郎を死なせないためには、こうする他にない。
「生徒をヒーローにするだけじゃなく、その後に死なせないように育てるのが雄英だろう?」
「ええ、そうです。しかし、生徒だから……というだけじゃない」
「……それは、どういう……?」
「貴方と同じだよ、オールマイト。貴方が緑谷出久に肩入れするのと同じだ」
いつか見た、剣の少年。……あの日の情景は、いまも鮮烈な記憶として脳裏に焼き付いている。
唾棄すべき行為だった。愚かしい考えだった。彼が命を張る必要は、どこにも無かった。
それでも——。
「俺は、衛宮士郎を買っている。……ただ、それだけのことですよ」
——それでも、彼の行いは正しいものだった。