魔法少女ゆかり☆マギカ(休載中)   作:hidon

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     その先が“魔境”と知りながら B

 

 

 

 

 

 

 子供達の前で純白の少女は語りだす――――

 

 

 

 

『――――ノアの方舟の話をしましょう。

 

 神様がいました。

 神様は自分をかたどって人をたくさん創りました。

 ところが神様は、人が悪い事ばかり考えて、悪さをいっぱいするようになったので、心を痛めてしまいます。

 

 

 「わたしは人を創造したが、これを地上から拭い去ろう」

 

 

 やがて、神様は、人を創ったことすらも後悔するようになってしまうのでした。

 ですが、『ノア』という人だけは違った(・・・)のです。

 神様はノアにこう告げました。

 

 

 「全てのいのちを洗い流す時が私の前に来ている。悪が大地に満ちている。

  洪水を齎し、全てのいのちを天の下から滅ぼしてみせよう。

  だが、ノア、あなたは方舟を造りなさい」

 

 

 ノアは言われた通りに方舟を造りました。

 ……遥かむかしの話なので、鉄でも機械でもありません。木で組み立てたものに、タールを塗っただけの舟でした。

 なんとか造り終えると、次に神様はこう告げました。

 

 

 「あなたは、あなたの家族と、それぞれの鳥、それぞれの家畜、それぞれの地を這う動物の雄と雌のつがいを選び、方舟の中に入りなさい。それらが生き延びられる様にありったけの食料を積みなさい」

 

 

 ――――やがて、神様は遂に洪水を起こしました。

 ノアと、家族と、選ばれた動物達は方舟の中に入りました。

 洪水は四十日間も続いて地上に漲り、高い山さえも全て覆いました。

 地上に有る人や動物のいのちは、全て息絶えてしまいました。

 

 

 果たして、ノアは、ノアが積んだ方舟の中の生命は、無事だったのでしょうか?

 

 

 

 ……気になるよね?

 

 

 

 150日経つと、神様は地上に風を吹かし始めました。

 水はどんどん干上がっていき――――やがて、地上は完全に乾きました。

 神様はまた告げてきました。

 

 

 「さあ、ノア。あなたもあなたの家族も、鳥も家畜も地を這う動物も一緒に方舟から出なさい」

 

 

 なんと、ノアは無事だったのです。一緒に乗せた家族も、動物達も、みんな生きていました。

 山々を越える様な洪水の中で、ただの木造りのタールを塗っただけの舟は、長い月日を乗り越えたのでした。

 

 ノアは神様に問いかけます。

 

 

 「何故、主は自分だけに『方舟を造れ』と仰ったのでしょうか?」

 

 

 ノアが尋ねると神様は、答えます。

 

 

 「あなただけは私に従う人(・・・・・)だと、私は認めているからだ」

 

 

 「主を信じている人はたくさんいた筈です。なのにどうして、私だけが認められたのでしょうか?」

 

 

 ノアが再び尋ねると、神様はまた答えます。

 

 

 

 「あなたは無垢(・・)だからだ」

 

 

 

 だから、神様はノアを祝福(・・)したのでした』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ふう……」

 

 子供達への話を終えた日向 茜は、休憩室にある木造りの椅子にその小さな身体を預けていた。

 ココアを啜りながら、一息付いている。ほのかなカカオの香りと甘い味が、張り詰めた神経を優しく撫でていく。

 

 茜が現在、居る場所は、児童養護施設だ。

 彼女の自宅の裏にある教会と隣接している。

 休憩室は、先程まで白一色の空間であったが、今は窓から差し込む夕陽によって暖かな橙に染め上げられている。外の景色を眺めていると、庭で遊んでいる子供達が、女性職員達の呼びかけで施設内に戻っていった。

 これから、夕飯の時間なのかな――――あかねはそう思い、ふふっと小さな笑みを溢した。

 やがて、子供達が庭からいなくなったのを確認すると、室内へと目を向けた。

 湯気立つココアの入ったティーカップが置かれている、木彫りのテーブルが眼下にある。

 他には、隅っこの方に彼女の背丈と同じぐらいの高さの本棚が置かれていた。外国語で書かれた教本や聖書が隙間無く並べられている。

 

 

 ……『お金がうまく貯まる方法』、『ズル賢い処世術』、『自分を立派に見せる裏ワザ』という本も有った――――が、これは見なかったことにしよう。

 此処の施設長兼、教会の神父はこういうのに騙されやすいのだ。

 

 

「お~う、茜ぇ~!!」

 

 思っていれば、なんとやらだ。

 茜の背後にある白い壁の中央に有るドアが、バタンッと勢い良く開かれると、そこから岩山の様にゴツゴツとした体格の――――まるで大物プロレスラーか、オリンピック出場経験の有るラグビー選手の如き巨人が現れた。

 

「神父様っ!」

 

 その姿を見た途端、嬉しそうに顔をパアッと輝かせる茜。同時に、椅子から立ち上がって礼儀正しくお辞儀をする。

 

「受験生なんに、毎度毎度ご苦労さんやなあ!!」

 

 神父と呼ばれた巨人は、ゴツい見た目に似合わぬ軽快な関西弁を響かせて、ムサ苦しい笑顔を向けながらズンズンと歩み寄ってくる。

 茜の目前で立ち止まると、全身が影で黒尽くめにされた。

 ――――それもその筈で、茜の身長は145cmしか無いのに対して、彼の身長は2m近くも有る。

 角刈りにした髪は黄金に輝き、透き通る様な青い瞳、肌は漂白されたかの様に真っ白で、上述した体格と相俟って、容姿全体は明らかに日本人離れしていた。

 ……というより、最早外国人であった。

 だが、茜は一切物怖じすること無く、花が開いた様な笑顔で彼を見上げている。

 

 彼の名は、セバスチャン=バルザックという。

 怪物の如き体躯と、関西弁、安物のTシャツとGパン姿、そして――先程の胡散臭い本に感化されやすい事から、凄く分かりにくいが……彼こそ、茜の自宅の裏に建つ教会の神父であり、同時に、この児童保護施設の経営者であった。

 茜とは――というより故人である茜の祖母とだが――旧知の中で有り、彼女にしてみれば叔父の様な存在である。

 

「大丈夫ですよ。私は好きでやってますから」

 

 屈託ない笑顔で応える茜。

 彼女は、祖母と縁深い此処に時間さえあれば訪れて、子供達への朗読会や乳児の世話、施設内の清掃などのボランティアを行っている。

 

「なんてええ子や! 聖子さんが聞いたら嬉しさの余り昇天するで!」

 

 ――――あ、もう昇天しとったか、とセバスチャンは付け加えると、子供の様に笑った。

 急に褒められた茜の顔に恥ずかしさと嬉しさが混じって、ちょっとだけ、頬が朱く染まった。

 

「あ、そうや。これ、お礼に作っといたさかい。家族みんなで食うたってや」

 

 照れ笑いを浮かべて縮こまっている茜に、手提げ袋を差し出すセバスチャン。

 

「……っ!」

 

 途端、ソースの甘く香ばしい匂いが鼻腔に突き刺さった。茜はもしや、と思い袋を受け取って中身を確認。

 

「これは……」

 

「おっちゃん特製のたこ焼きや!」

 

 セバスチャンはニカッと歯を輝かせて熱苦しい笑みを向けてくる。

 だが、袋から離した茜の顔は、一変して、冷え切っていた。

 

「ありがとうございます」

 

 何の起伏もない淡々とした声色で、社交辞令だけを述べる茜。

 

「……何や、嬉しく無さそうやな。もしかしておっちゃんのたこ焼き、嫌いなったんか?」

 

 急に態度が裏返ったのを不審に思ったセバスチャンが、目を細めて疑わしそうに問いかける。

 

「いえ、神父様のたこ焼きは美味しいですし、貰えるのはとっても嬉しいんですけど……」

 

 茜はそこで言葉を切るも、ジト目で、手提げ袋の中身と、セバスチャンの顔を交互に見遣る。

 彼女が人の顔に目配せをする時は決まっている。何かを訴えたい合図だ――――そう思ったセバスチャンは、何を言われるのか不安でちょっぴりドキドキしながらも、続く言葉を待つことにした。

 

 

「……いっつも(・・・・)、粉モノですよね……」

 

 

 静かに言われた、その言葉の意味を、セバスチャンは直ぐに理解した。

 

「アッ!!」

 

 セバスチャンは大きく目を見開くと、「しまった!!」と口から出そうなぐらいに、愕然とした表情となる。

 『いっつも』――――特に強調されたその部分が、ザックリと胸に突き刺さった。

 

「あっちゃ~……。飽きてもうたんか……」

 

 至極残念そうに、そう呻いて頭を掻くと、苦笑いを浮かべた。

 

「堪忍な。おっちゃん、神父になる前は、大阪で“テキヤ”やってん。10年間たこ焼きやらお好み焼きやら作ってたもんやから、すっかり癖が手に染み付いてしもうたわっ」

 

「その話、聞く度に思いますけど、神父様の経歴ってもの凄いですよね……」

 

 日本へ移住してから20年も経つ(らしい)彼だが、神父を志す前は、色んな職業を点々としていたらしい。その中でも、テキヤが一番長く続いたそうな。

 ちなみに“テキヤ”とは所謂“的屋”の事であり、露店行商のことを差す。お祭りでよく見る出店のことと言われれば分かり易い。

 ただ、茜が調べたところ、的屋は暴力団の起源と謂われており、平成以降も暴力団の経済活動の一つとして警察に定義されているらしいが……詳しく調べるのは、恐いから止めた。

 何より目の前の陽気で温厚なセバスチャンが、そんな人達と繋がりが有ったなんて、信じたく無かった。

 

「あの、神父様……」

 

 だが、そんなことよりも聞きたいことがあるのだ。

 

「……何や?」

 

 急に真剣な目を向けてくる茜。

 何やら只ならぬ様子の視線を受けて、セバスチャンの心が僅かにざわめく。

 彼は、茜とテーブルを挟んで相向かいに座ると、目線を合わせてじっと見つめ返す。

 

「あの、もし、の話ですけど……」 

 

「急に歯切れ悪うなったな。らしくないで、いつもみたいにハッキリ言うてみい」

 

 そう言われて、決心が付いた。

 一息付くと、大きく口を開いて、言われた通りハッキリと言葉を発した。

 

「もし……」

 

 

 ――――『悪魔』が襲ってきたら、どうしますか。

 

 

 茜が放ったその一言で、和やかな空気が、一瞬で死んだ。

 静寂が空間を包み込む。

 セバスチャンは目を点にして、口をあんぐり開けている。

 

「……なんやイキナリ突拍子も無い話すんなぁ。おっちゃん、今ポカ~ンとしてもうたわ」

 

 呆然としたままのセバスチャンが静寂を破った。

 

「ごめんなさい。でも、マジなんです」

 

 茜は謝りつつも、眼差しを向けてくる。その力強さに気圧されるセバスチャン。

 

「マジかいな……!」

 

「神父様も知ってますよね。ニュースの事……」

 

「少女が毎週同じ曜日の夜中に失踪するっちゅうアレか」

 

「私、犯人が居ると思ってるんです」

 

「ファウスト伝説のメフィストフェレスみたいな奴が女の子誑かしとると言いたいんか?」

 

 その問いに、茜は「はい」と小さく答えて、コクリと顔を頷かせた。

 

 ――――メフィストフェレスとは世界的に有名な『悪魔』の一種だ。

 16世紀ドイツのファウスト伝説やそれに材を取った文学作品に登場する悪魔で、錬金術師であり降霊術師でもあったゲオルク・ファウストが、己の魂と引き換えにメフィストフィェレスを召喚し、自己の尽きせぬ欲望を満たそうとしたとされる事に由来する。

 メフィストフェレスは、ファウストとの契約に忠実な一方で、巧みな弁舌でファウストを誘惑し、堕落か破滅に導いたと謂われている。

 

「もし……此処にそいつが襲ってきたら、神父様はどうします?」

 

「おっちゃんが?」

 

 セバスチャンは、しばらく「う~~~む」と腕を組んで唸りだす。

 

 

「逃げるわ」

 

 

 だが、一分間熟考した末に出た答えは、異様に素っ気ないモノであった。

 

「え?」

 

 今度は茜の目が点になった。

 

「だっておっちゃん、神父やもん。悪魔祓い(エクソシスト)ちゃうし」

 

「ええっ!? でも、奥様とお子さんは? 孤児院のみんなは!?」

 

 ヘラヘラと笑いながら、一切の責任感が欠落した事を言うセバスチャンに、茜は慌てて問い詰める。

 だが、セバスチャンは手をひらひらと振って答えた。

 

「そら家族は守るわ。施設の子達もなんとか逃がせなとその時は思うかもしれんけど……全員は無理やで」

 

「でも」

 

「でももヘチマもあるかいな。おっちゃんは神父の前に一人の人やで。たった一人で守れるもんなんて家族だけが関の山や。子供達は……職員に託すかもなあ」

 

「ええ~……?」

 

 茜は青褪めた顔になると、ガックリと肩を落とした。

 自分が最も尊敬している大人が、ましてや親のいない子供達を保護している立場の彼が、まさかこんな無責任な事を言うなんて――――そう思うと、結構ショックだった。

 心が、彼の言葉を素直に受け入れることができない。

 

(もし、優子リーダーだったら――――)

 

「茜は? その……メフィストみたいな悪魔が襲ってきたら、どないすんねん」

 

「っ!」

 

 優子の事を考えようとした矢先、セバスチャンから唐突に質問を投げられて、ハッと我に帰る茜。

 

「私は……」

 

 茜はそこで言葉に詰まった。顔を俯かせて考え込む。

 ――――自分の答えは最初から決まっている。ただ……セバスチャンは受け入れてくれるのだろうか。

 彼が自分の事を大事にしてくれているのは知っている。故に、自分の考えはもしかしたら否定されるかもしれない。

 だが、それは自分が気にしなければいいだけのことだ。

 もっと辛いのは、彼に悩みを与えるかもしれない、と言うことだ。

 

(でも……それでも……!!)

 

 譲りたくないものがある――――茜は膝の上に置く両手をギュッと握りしめる。見下ろした視界には、自分の両肩に下げられているネックレスの飾りが映っていた。 

 それを見ていると――――決心が決まった。

 

 

「戦います」

 

 

 顔を上げて、力強く答える茜。

 

「ほう」

 

 精悍な顔つきと、大きな瞳から発せられる鋭い眼差しは、さながら戦士の形相であった。

 迷い無い発言をする茜に、セバスチャンは感嘆の表情と声を送る。

 ――――だが、すぐに影が差し込んだ。

 

「これはおっちゃんの推測やけどな……多分、人が立ち向かってええもんちゃうと思うわ」

 

 大人しく、エクソシストだか警察だかに任せといた方がええで、とセバスチャンは付け加える。

 先程の豪放な笑顔が一変して、悩ましい顔になった。それを見た茜が、思わずうっと息を飲む。

 言うべきでは無かった――――そう思うと、一瞬の内に、後悔の念が激流となって脳に押し寄せてくる。 

 

「っ! それでも、何の関係の無い人達が犠牲になるのを、見過ごせる訳がありません」

 

 だが、茜はその気持ちを強引に頭の奥へと跳ね除けて、更に続けた。

 

「どっからそないな自信湧いてくんねんな……?」

 

 セバスチャンは、大きく溜息を吐いてそう呟く。それは年頃の少女が抱いていい決意では無いのだ。

 だが、茜の口は止まらず、更なる意志を吐き出し続ける。

 

「だって神父様、悪魔は人とは価値判断が全部逆で、自分たちの姿を隠すことを好んで、波長が合えば、地上に出てきて、その人間に取り憑いて……堕落させるんですよ。狂わせたり迷わせたりして、人を殺させるんです。多くの人を不幸にするんです」

 

 ――――だから、祓わなきゃいけない。

 

 茜がそう付け加えると、僅かに目線を落とした。

 肩に掛けられたネックレスの飾り――――十字架を、ぎゅうと握りしめた。

 

「ホンマ立派な子になったなぁ茜は……。亡くなった聖子さんが今の話聞いたら、ビックリ仰天したと思うわ」

 

 茜が握りしめたそれが、彼女の祖母の形見であることを、セバスチャンは知っていた。

 ――――茜が決意を抱く時、それを強く握りしめる癖がある。こうなると誰にも止められない。彼女の家族も、友人も、自分も。

 その様子を見たセバスチャンは、諦念と感心が混じった、複雑そうな顔を見せた後――――でもな、と小さく呟く。

 

「死ぬかもしれへんで」

 

「死にませんよ」

 

 茜が笑顔を向ける。

 

「みんながいますから」

 

 その言葉を受けたセバスチャンの顔に、困惑が強まった。

 

「みんながみんな、茜みたいな子ちゃうと思うで……」

 

「?」

 

 セバスチャンは頭に手を当てて、溜息混じりに弱々しくそう吐いた。

 深い意味が有る言葉だと思った。だが、自分にはどういうことなのかさっぱりだ――――そう思った茜は首を傾げて、セバスチャンを見つめる。

 

「茜、人ってのはな。みんな悪魔の面を持っとるんや」

 

 人間は、狂気と暴力性を内に秘めている。それらを誰もが自覚して、隠しているからこそ、社会はバランスを保っているのだ、とセバスチャンは続ける。

 

「……何が言いたいんですか?」

 

 その言葉が、彼女の頑強な意志の砦に僅かながらの衝撃を与えた様だ。

 一瞬、ぞっとするような、奇妙な感覚を背筋に覚えながらも、セバスチャンを強く見つめたまま問いかける茜。

 

「……そのメフィストフェレスが襲ういう前提で話すけども……茜の仲間がその部分を刺激されるかもしれへんぞ」

 

「……!」

 

 続けられた言葉に、茜が顔がぎょっとなる。目を大きく開かせて、顔を強張らせた。

 それは、全く予想だにしていなかった。

 

 十字架を握りしめる手の力が――――抜けていく。

 

「悪魔に魂を売ったり、家族を連れて逃げ出したり、恐ろしくなって自殺する可能性だって有るで……。それで、独りぼっちになったら、茜は戦えるんか?」

 

「…………」

 

 茜は何も答えを返すことができなかった。

 セバスチャンから逃げるように目線を逸す。十字架から離れた手が、ブラブラと力無く宙を漂い始めた。

 彼の言葉は、彼女の意志の砦をいとも簡単にバラバラに崩してしまった。

 

「……スマンなあ、茜」

 

 項垂れる茜の姿がセバスチャンに突き刺さる。

 今の言葉が茜を傷つけてしまったと思うと、申し訳の無い気持ちでいっぱいになった。咄嗟に謝るセバスチャン。

 だが、それでも――――彼女には確実に生きる道を見出して貰いたいのだ。

 

「でもな、今の内に、自分の力の量を把握しといた方がええ。できることからコツコツやるんや」

 

 

 ――――どないに、立派で純粋な人間でも、全部は救えへん。

 

 

 その言葉が茜の耳に入り込んだ途端、暗く沈んだ顔の中にある瞳が、僅かに震えだした。

 

 

「守りたい人は、今の内に絞っとくんや」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ある小説に、こう書かれていた――――

 “魔境”とは修行僧が体験する偽り(・・)の悟りのことだ、と。

 

 

 『かつて伊吹山に三修禅師という聖があった。ひたすら念仏を唱えて極楽往生を願っていた。

  ある日、空から【極楽浄土に導きつかわす】という声が聞こえてきた。

  ありがたやと喜んで念仏を唱えて待っていると、西の空から光り輝く観音菩薩が現れ、禅師の手を取って、空に誘った。

  かくして彼は極楽へと旅立ったのであるが、

 

  その七日後、大杉のてっぺんに縛り付けられて念仏を唱えているのが見つかった。

 

  弟子達が助け下ろそうとしても、「どうして私の往生の邪魔するのか」と喚く。

  連れ帰って手当をしたが正気に戻らず、三日後には息を引き取ってしまったという』

 

 

 観音菩薩の正体は“天狗”だった。禅師は天狗に誑かされていた。

 

 

(もしかしたら――――此処に導かれた私達も、同じなのかもしれない……)

 

 三坂沙都子はふと、そんな思いに至った。

 みんなが先生と呼び慕う“あの少女”に誘われた直後は、そんな疑いを持つ事は一切、なかった。 

 ――――だが、今は違う。

 この部屋に足を踏み入れた瞬間、先の“魔境”の話が頭に噴き上がってきた。

 心の奥底が、冷たい風に吹かれて、騒々と波立っている。

 腹の中で胃液が煮え滾って、内側からジクジクと熱してくる。

 それは後悔の念が、早くここを去った方が良い、と告げているのか……それとも興奮で気持ちが昂ぶっているのか……自分には分からない。ただ、生まれて初めて抱く感覚だとは思った。

 

 視界に映るその部屋は、至ってシンプルだった。

 自分が以前、家族と泊まったビジネスホテルの一室に近かった。

 真っ白に包まれた空間で、床にはダークブラウンの絨毯が敷かれている。右側を見ると、横長の机が壁にくっついていた。上には鏡と傘付きの白いスタンドライトがある。その前にある椅子には、部屋の持ち主のものであろう、藍色のジャケットが背もたれに引っ掛けられていた。

 

「~♪~♪」

 

 鼻歌が左耳に聞こえてきた。左側に目を向ける。

 シングルベッドの上に、一人の女性が仰向けに寝ている。顔を覆う様にして本を読んでいた。

 

 

 彼女の存在を視界に入れた瞬間――――普通の部屋が一瞬で、異常で異質な魔窟へと変貌した様な錯覚を覚えた。

 沙都子は自分の認識能力が狂ったのでは、と思えるぐらいの強い違和に襲われた。

 それは、嘔気の様な気持ち悪さとなって、喉元を刺激してくる。自然と口を手で塞いだ。気を抜くと嗚咽を吐き出してしまいそうだ。彼女に聞かれるのは、とても拙い。

 

 違和感の正体を沙都子は理解していた。

 何故、彼女みたいな存在(・・・・・・・・)がこの世界に居るのだろうか。ましてや、平和な日本に。

 この世に“天狗”というものは存在しない。伝説上の妖怪だ。だが、沙都子にとって、彼女は今昔物語の中の“天狗”そのものにしか見えなかった。

 彼女から放つ雰囲気が、近くではっきりと感じられる魔力が――――この室内全体を覆う禍々しい妖気となって、沙都子の全身を握り締めてくる。

 

 そこで、鼻歌が止んだ。次いで女性は顔から本を離して、沙都子の方へと、ゆっくり顔を向けた。

 刹那、沙都子の心臓が猫科の猛獣に狙われた小兎の様に、ドキリと飛び跳ねた。何か彼女の気に障る態度を取っていたかもしれないと思い、慌てて姿勢を正す。 

 

「突っ立って無いで、そこに座れば」

 

 だが、女性はそんな沙都子の慌て振りなど一切意に介さず、うっすらと微笑を浮かべると、机の前に有る椅子に座るように促した。

 

「……失礼します」

 

 機嫌を損ねた訳では無いらしい。

 沙都子は内心ホッと息を付きながらも、恭しくお辞儀をすると、椅子に引っ掛けてあるジャケットを外してから、座り込んだ。

 

「イナに言われて来たんでしょ。何か聞きたいことがあったら、何でも教えてあげるけど?」

 

 女性はニコニコと人当たりの良い笑みを浮かべている。だが、沙都子の身体は凍りついていた。

 何故ならこの空間を覆う妖気は、相変わらず自分を捉えて放してくれないのだから――――

 

「……じゃあ、いいですか」

 

 とにかく、何か質問しなければ、この場から離れられそうにない。

 沙都子は焼け付く様な痛みを下腹部に覚えながらも、手を上げてみる。

 

「どうぞ」

 

「貴方は、イナ先生(・・)から『オバサン』とよく呼ばれてますけど……本当は何て名前なんですか?」

 

 恐る恐る問いかけると、女性は口の端がクイ、と伸びた。

 

「ああ……君たちにはまだ教えてなかったっけかぁ。そっちの方が印象に残っちゃった訳ね。ごめんごめん」

 

 ニタニタ笑いながらも謝る女性。意図が全く読めない不可解極まりないその笑みは沙都子の身体に更なる氷結を齎す。

 

「私は、『レイ』っていうのよ」

 

「……一体、何者なんですか?」

 

「それはもう、イナから聞いてるでしょ? その通り(・・・・)の人間よ」

 

 レイと名乗った女性は爽やかな声色でそう伝えた。

 

 

「…………ッ!!」

 

 

 

 その通り――――

 

     その通り――――

 

         その通り――――

 

             その通り――――

 

                 その通り――――

 

 

 

 レイの言葉の一部が頭の中で反響する。

 

 

 

 その通り(・・・・)――――

 

『私は、人を殺す快楽のためだけに人を殺そうとするような極悪非道の魂の持主がいたことを、それをこの目で見るまではとても信じることができなかった』

 

 

 その通り(・・・・)――――

 

『敵意もなく、特にもならないのに、他人の手足を切り刻んだり切断したり、精神を研ぎ澄ませて異様な拷問や新しい殺し方を考え出そうとしたりする人間、しかもそれが苦悶のなかで死にかけている人間の見るも哀れな身振りや動作、悲痛な呻き声といった、おかしな光景を愉しもうという、ただそれだけのために考え出そうとする人間がいたということが、私には容易に信じられなかった』

 

 

 

その通り(・・・・)――――

 

 

 

『なぜなら、これこそは残酷さが達しうる極致だからである』

 

 

 

 

 

 

「…………っ!!」

 

 今にも涙が溢れんばかりの震える瞳で、レイの顔を見つめる沙都子。

 その顔は――――とても愉快で、満足そうだった。

 

 

 

 

 

 開かれた両眼が底のない藍色の光を瞬かせていた。

 

 

 

 

 

 

 




 もうやめて、作者のライフ(まとめる力)は0よ!!




 ようやっと書けた茜の日常。
 何かと年頃の少女達を大人と絡ませたい小生ですが、本編を見てもメイン5人の少女の人格の形成には大人が大きく関わっている気がします。

 まどかは言わずもがな、両親の影響を諸に受けてますし、母親が目標ですし、
 ほむらは、両親の事を一切口に出さず、一人暮らしをしていたことからそれらに救いを求めてはいませんでした。寧ろ、異様なまでの『愛』への執着性と歪な解釈から見て両親からネグレクト的な仕打ちを受けていた可能性が有ると見てます。(小説版は違うみたいですが)
 さやかは、親の描写はありませんでしたが、壊れるきっかけを作ったのはホスト二人組でしたし、
 マミさんは、両親の死が、その後の人生に深く関わってますし、
 杏子も、焦がれていた父親から否定された事によって大きく歪んでしまいました。

 以下、訂正

 投稿時に「本編では大人は重要な存在なのに、外伝では大人たちは魔法少女に導く舞台装置としてしか機能してない」とこの場で、偉そうな事をのたまってしまいましたが、椿さん、立花さん、たるマギの軍人達とペレネルさんとか、いっぱいいましたね……。頼れる大人……。
 申し訳ありません。自分の確認不足でした……。

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