☆
あの時、首筋に刃を突き付けられた様に……今も、あの女性は自分の命を握っているのだと確信した時、美結は逃げ出した。
彼女が向かうのは、とにかく安全な場所だった。あの女性の魔手が通れない様な……箱庭の中へと行きたかった。
だが、現実的に考えて、そんな場所などあるのだろうか……?
美結はぐちゃぐちゃになりそうな思考を必死で整理しつつも、息を切らして走っている。
やがて、交番を見つけると、急いでその中へと飛び込んだ。そこに居た警察官が何事かと、大きく目を見開いている。
「ど、どうしました?」
「助けてください! 命を狙われているんです!」
「!!」
警察官は美結の訴えに、ハッとなり顔を厳しいものに変えると、交番の外に出て、周囲を見回す。
――――が、不審者らしき人物はどこにも存在しない。居るとすれば、目先にある公園で遊んでいる子供や親の姿だけだ。
警察官は頭を掻くと、交番へと戻る。
「外には不審者は居なかったよ」
隅っこで身を隠す様にして震える美結に、優しく声を掛けた。
「ッ!! そんな……よく探してください!」
「まあまあ、落ち着いて。怖い思いをしたんだな」
警察官はそこまで話すと、しゃがみこんで目線を美結に合わせた。顔つきを真剣な表情に変える。
「何があったのか、話してくれないか」
美結に手を差し伸べる警察官。
「……!」
暗雲で覆われていた美結の心に、一筋の光が差し込んだ。
美結は、警察官の手を取る。大きく、ゴツゴツしていて、頼もしさが感じる手だ。
「くぇっ」
そんな声が警官の口から漏れるのと同時に、首筋に一本の赤い線が引かれる。
刹那―――― 警察官の首が飛んだ。
「あ……」
美結は、その光景に一瞬だけ、呆気に取られる。直後――――
「嫌あああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
腹の底から恐怖を絞り出すようにして、絶叫。
次いで猛烈に沸き上がった胃酸を、堪えきれずにベチャベチャと吐き出す。
「うぐっ……うぉえっ……!!」
胃の中の物を一しきり出し切ると、首の無い警察官から目を反らす。直後、バタン、と音がした。見たくは無いが、倒れたのだろう。
「選択肢を、間違えちゃったんじゃない?」
「……!?」
惨酷な場所には不釣り合いな、明るく爽やかな声が聞こえてきた。あからさまに異様なそれは美結の心を再び暗雲の中へと閉じ込めた。全身が震え、逃げる気力を失わせて、嘔気を刺激するには十分だった。
「助かりたいと思ったんならさあ、魔法少女を頼んないと。だって、人間なんて」
そう最後に低い声で付け加えると、声の主は、美結は後ろ髪を鷲掴みにして、強引に持ち上げた。美結がおそるおそる目を見開くと、視界いっぱいに『あの女性』の顔が映り込んだ。
「わかる? こいつを殺したのはあなた」
――――何を言ってるんだコイツは。
聞いた瞬間、美結が顔を顰める。暗雲に覆われた自分の心に火が灯る。
それは、間違いなく義憤であった。自分を助けてくれようとした人を殺された事に対する、女性への明確な怒りの感情だった。
「違う! 殺したのは……お前だ!」
「へえ」
キッと女性を睨みつけて、声を絞り出す美結。
女性は美結の反論が以外に思ったのか、興味津々な表情で、感嘆の声を挙げた。
「私を脅して……警察官を殺して……こんなの、『犯罪』じゃないっ!!
お前なんか、すぐに指名手配される……。日本中の皆を、敵に回す……!!」
精一杯の脅しのつもりだった。しかし、
「ふうん……フフ。それは面白そうねえ」
女性には、笑って返される。
苦笑い……では無かった。寧ろ言葉通りに楽しみ、といえる感情が滲みでていた。
「でも残念でした。私が捕まる事は、100%有りえません」
今度は、お道化た様な口調で、自信満々に言い放つ。
「なっ……」
美結は絶句。
「なん……で……?」
心の中では、暗雲から、豪雨が降り注ぎ、灯された火が早くも消されようとしていた。
美結は再び顔を恐怖に歪ませながらも、懸命に、問いかけた。
「だって」
女性は、美結に三度目となる満面の笑みを見せると、あっけらかんと言う。
「捕まえにきた奴、全員殺せるから」
――――美結の火は、鎮まった。
☆
それからどうやって家に帰れたのか、全く覚えていない。
逃げたのか、あるいは、相手が見逃してくれたのか……思い出そうとしても、霧が掛かっているようで、全く浮かんでこなかった。
間もなくして、美結は、一切の外出を辞めた。
それから、二週間が経過――――
一切の光を遮った自室に籠る美結にとって、唯一外の情報を得る手段は、スマートフォンとラジオだけになった。
『交番の警察官が殺害された』という報道は連日されたが、犯人は一向に足取りを掴めていない。それどころか、「警察に個人的恨みを持つ人物」として、全く知らない男性が容疑者として挙げられている始末だ。
人間には、無限の可能性が有る――――アニメか漫画で、誰かがそう言ってたが、それは間違いだと美結は悟った。
だって、一人の魔法少女に対して、人間がいくら総力を挙げたところで何も太刀打ちできないのだ。
女性は、今もなお、美結の命を握っている。
――――突然地面から鬼の手が伸びて、自分の両足を掴むと、地獄に引き摺り込んでしまった。
やがて、無数の針が地面から生えた場所へ辿り着くと、鬼は自分をそこへ放り込んだ。
鋭い痛みに全身を襲われのたうち回る自分。
家族……友人……仲間の魔法少女……自分が思いつく限りの人物に必死に助けを乞うが、ここは地獄であり、地上に声が届く筈もない。唯一届くとしたら、自分を放り投げた鬼しかいないが、彼は、安全な所で座り込んで、ニヤニヤと自分を眺めているだけだった。
「……!!」
そんな妄想を美結がしていると、突然スマートフォンが鳴ってハッと我に帰る。
思えば、あれから、
もしや、と思い、身体を強張らせると、画面に目を向ける。
「……」
送り主は、自分と同じチームの魔法少女からだった。
安堵した。全身の力が抜けていく。
『大丈夫? 最近来ないけど、何かあった?』
メッセージを確認する。自分を心配してくれる文章だ。未だ暗雲の中に有る美結の心に僅かながら暖かさが宿る。
『うん。引き籠ってるけど、大丈夫』
美結は返信する。
『魔女ちゃんと狩ってる? ソウルジェム濁ってない?』
すぐにメッセージが返ってくる。
そういえば……と思い、美結は勉強机の中にしまったソウルジェムを取り出すと、色合いを確認する。
やはり、というべきか。しばらく魔法少女活動を休んでいたので、グリーフシードを得る手段が無かった。ソウルジェムは黒く濁っている。
『結構濁ってる』
『マジ? 濁りきったらヤバイって噂があるから、できれば今日来れる?』
メッセージの送り主は、メンバーの中でも心配性だった。本当は行きたくないが、断ったとしても、家に押しかけてくるだろう。
そこまでさせるのは申し訳無いし、両親にもこれ以上迷惑を掛けるのはマズイと思った。
『わかった。行く』
『良かった♪ 場所は指定するけど、近い? よければ迎えに行こうか?』
相手は、メッセージと共に画像を送ってきた。指定場所の地図と住所が映っていた。幸い自宅から徒歩5分くらいの場所に在る。
『大丈夫、一人でいけるから』
『待ってるね』
相手のメッセージを確認すると、美結はスマホを手から放した。
もしかしたら……自分が行ったら、彼女達も巻き込んでしまうかもしれない。
途端にそう思い、不安になる。だが、ソウルジェムが濁り切れば、自分の身に
それに、自分が今頼れる相手は、
予定の時間は十九時からだが、美結は出かける支度を真っ先に済ませてしまった。
☆
やがて、予定の時間が訪れ、美結はこっそり窓から外出すると、指定の場所である駅前へと向かった。
既に4人の少女達が待機しており、談笑を交わしている。
「……お待たせ」
美結が小さく声を掛ける。
「あ! 美結?」
一番に振り返ったのは、朝LINEを送ってきた心配性――――金髪の少女だった。
「大丈夫……じゃ、なさそうだね……」
金髪は、美結の変わり様に、思わず呆然となった。口をあんぐりと開いてしまう。
彼女の知る美結は、快活な少女だった。小顔で可愛らしい顔をしており、あいさつもハキハキしてたし、お洒落にも気を遣っていて、髪を綺麗に整えてたし、流行のファッションにいつも身を包んでいた。
だが、今の美結は一言で表すなら、みずぼらしかった。顔には生気が感じられず、目の下には真っ黒な隈が出来ていた。食事を取ってないのか、頬は痩せこけて、体つきも一回り小さく見えた。髪の毛もずっと洗ってないのか……ボサボサで近づくと異臭が鼻につく。
身に纏っている服は流行のものだったが、ヨレヨレで皺が目立っていた。
「うわ~、美結、別人になっちゃったじゃん。なんつうか、貧乏神?」
チームメンバーの一人、短髪の少女が、悪びれもなくそう口にする。彼女は思ったことが口から出るタイプだ。
「……」
美結は、何も返さない。そう思われても仕方ないのだから、返す言葉が無かった。
「ガリガリになっちゃって大丈夫~? あたしも、この前バイトきつくて食べれなかった時期あったけど~」
ポニーテールの少女がそのままペチャクチャと話し出す。彼女もまたメンバーの一人だ。高校生で最年長だがすぐに話題を自分中心に持っていこうとする。
「こら二人とも、口には気を付けなよ。みゆっぺが困ってんじゃん」
別に困ってないが……そう思い、声の主を見る。パンクロッカーの様な奇抜なファッションに身を包んだ、どこか男らしさが感じられる風貌の少女は低い声で短髪とポニテに言い放つ。メンバーの一員である彼女は、見た目に反して性格は優しいものの、他人に変な渾名を付けたり、自分の発言に陶酔する悪癖がある。
「…………ごめんね、皆。心配かけて」
美結は全員を見回すと、ぽつりとそう謝罪する。癖の強すぎるメンバーだが、こうして集まってきてくれたということは、本気で自分の身を心配してくれていたのだろう。そう思うと、申し訳ない気持ちになる。
「別に大丈夫だって~」
「みんな、美結の事心配してたんだよ~。特に私なんてさ~」
短髪は何でもないかの様に、ポニテはまた、自分中心に話し続ける。
「でも、みゆっぺが来てくれて良かった」
パンクロッカーは美結の肩にポン、と手を置いて、優しい目を向けてくる。
みんな変わってない。個性が強い上に、自分勝手な連中。でも、優しさはちゃんと持っている。
それが美結には、嬉しかった。
長く地獄の針の山で痛みに悶えていた自分の前に、ようやく一本の糸が垂らされた――――
筈だった――――。
「そうだ。美結に紹介したい人がいるんだ!」
唐突な、金髪の言葉。
「は?」
美結の思考が、液体窒素でも垂らされたかの様に、ピシリと冷えて固まる。
――――自分の前に一本の糸が垂れている。咄嗟につかまると、地上に向かって昇っていく。誰かが自分を地獄から引っ張り上げていた。
「紹介するね。私たちの新しいメンバーで、大学生の さん!」
「どうも~」
金髪の紹介と同時に、物陰から一人の女性が、のんびりとした挨拶をしながら、姿を見せる。
名前はハッキリ聞こえなかった。多分、無意識に遮断していた。
――――自分は一本の糸につかまっている。しかし、鬼はそれを
「~~~~~~~」
―――――鬼が飛び掛かり、刀で糸を切ってしまった。
体が落ちていく。大声で叫ぶが、もう誰にも声は届かなかった。
ふと下を見ると、針の山はもう無い。
どこまでも続く、深い奈落が自分を待っていた。
新章初っ端から陰鬱な展開ですが、美結の地獄はまだ続きます……。
ちなみに、現状投稿できるストック分を全て使い切りましたので、次話はそこそこ間を置くことになりそうです……申し訳ありません……。