〇〇県・某市・駅前繁華街の路地裏にて―――――
「ごめんなさいっ……ごめんなさいっ……!!」
少女――――吉江美結は、必死に謝っていた。何度も地面に頭を擦り付けながら両目にいっぱいの涙を溜めて、命を乞いていた。
美結の視線の先に居るのは、一人の女性だ。紺色の長い三角帽子を被り、ウェーブの掛かった青みが混じる長い黒髪、全身を深い藍色の
「…………」
女性はニッコリと優しい微笑みを張り付けたまま、頭を擦り付ける美結を眺めていた。
無論、それだけなら、この女性を美結が恐れる理由は何も存在しないだろう。
問題は、女性が右手に携えている物にあった。長く、鋭利に研ぎ澄まされたそれが街灯を反射して、鈍い銀色の輝きを放っている。思わず目を奪われてしまった美結の身体が、反射的にぶるりと震えた。
刀だ。一振りしようものなら美結の身体などたちまち真っ二つに断裁できるだろう。彼女の命は今や、目の前の女性に完全に掌握されていた。
吉江美結(よしえ みゆ)は魔法少女だ。経験は半年。年齢は15歳、中学生。
願い事が何なのかは伏せるが、彼女は、『幻覚』の使い手であった。この能力は使い魔・魔女相手には効果が無いが、対人戦では無敵を誇る。
相手の心から『トラウマ』を呼び出し、それを具現化させて直視させる。当然、記憶の奥底にしまっていた、思い出したくもない物を引っ張り出された相手は、錯乱するので、その隙を付いて、自身の獲物である槍で攻撃する――――という戦法を採っていた。
お陰で彼女は、余所の魔法少女に絡まれた際も、負けずに済んで――それどころか、逆にグリーフシードを奪って――いた。日常生活でも、調子扱いた腹立たしい奴がいた場合は、この能力で酷い目に遭わせていた。
そんな事を続けていると、やがてどこからか自分の噂を聞きつけた魔法少女達が現れ、仲間になってほしいとせがむ様になった。
現在、彼女は5人の魔法少女チームで一番の新人でありながら、大黒柱として活動している。順風満帆の日々を送っていた。
しかし――――今回ばかりは、相手が悪かった。
ある日、魔女の反応を感知し、現場に訪れると、一人の魔法少女が結界の入り口の前に佇んでいた。それが上述した女性である。
女性も魔女を感知してやってきたらしく、『協力して魔女を倒してくれるのならグリーフシードを分ける』と言ってきた。
美結も丁度、ソウルジェムが真っ黒という程でも無いが、濁っており、グリーフシードの手持ちも無かったので、女性の提案に承諾した。
女性の凄まじき強さに驚愕しながらも、協力して魔女を倒すことに成功したのだった。
だが、美結の地獄はここから始まった。
女性は、グリーフシードを手に取ると『これは私のものだ』と言い張ったのだ。
言ってた事と違う――――当然のことながら、美結はカッと激情し、女性に食って掛かった。幻覚魔法を発動し、トラウマを引き抜いてやろうと思った。
しかし、どういう訳か、女性の心からトラウマが発現されることは無かった。
刹那、女性の右手が光速の如く動いた。左腰に刺してあった獲物の柄に手を掛ける。
咄嗟に美結は槍を構えようとするが、それよりも早く女性は抜刀!
――――美結の首筋で、刃が寸止めされていた。
絶望的な実力の差だった。美結は魔法少女になって初めての完全敗北を痛感すると、慟哭した。
悔しさと恐怖の感情が一遍に噴き出すかの様に、声を張り上げて泣き出すとその場に膝を付いた。女性は刃を下ろしたが、その場から立ち去ろうとはしなかった。二コリと微笑みを浮かべたまま、彼女を只じいっと見つめている。
それが、
☆
「ごめんなさい……っ! ごめんなさい……っ!」
――――話は冒頭に戻る。
女性からの攻撃の意思は無きに等しいが、意図の分からない笑顔は美結の身体をその場に釘付けにするには十分だったし、刀も下ろしたとは言え、いつでも振れる状態にある。女性が依然として美結の命を握っている状況なのには変わりがない。
美結が取れる最善策は、最早命乞いしか無かった。必死に声を震わせながらも謝罪して、頭を何度も地面に擦り付ける。
やがて――――
「いいよ」
女性は突然、そう言うと刀の刀身を鞘に戻した。
「見逃してあげる」
「……っ!!」
地獄から地上へ出れた様な感覚だった。美結はバッとかぶりを上げると、涙でぐしゃぐしゃになった顔がパァッと明るくなる。
そして、ゆっくりと立ち上がると、女性に背を向けて――――一目散に、逃げた。
「…………!」
途中で恐るおそる後ろを振り向く。
女性の姿はどんどん小さくなっている。追ってくる様子は無い。ただ気になったのが、相変わらずニッコリと笑顔を浮かべていたことだ。
「!!」
美結はバッと前を向いた。駄目だ、あの顔を見てるとおかしくなりそうだ。
彼女はそれからは、なるべく女性の事は思い出さないようにして、家に帰っていった。
☆
自室に入ると、そこには来客が居た。
「キュゥべえ?」
「やあ美結。その様子だと何かあったようだね」
白い獣。SNS上でウワサの白狐と騒がれている存在――キュゥべえは、美結の勉強机の上に佇んでいた。暗い室内に居るせいか、二つの双眼が不気味に紅く輝いている。
彼は美結の姿を確認すると、そう声を掛けた。
「……よく分かったじゃない?」
「君と知り合ってからもう半年だ。顔を伺えば大体わかる」
それだけ言えば『長い付き合いによってお互いに信頼関係が芽生えた』と思えるだろう。だが、
「魔法少女のメンタルケアも僕たちの『義務』に含まれているからね」
そこで余計な一言を付け加えるのがこいつだ。ますます気分が悪くなる。
こいつとの付き合いは長いが、知り合った当初から関係は全く進展していない。契約を掛けたものと、契約したもの。ビジネスパートナー……いや、パートナーと呼ぶには程遠い。信頼など何もない、冷えた関係。
「……ねえ、キュゥべえ」
「なんだい?」
不快感が頭を刺激する。だが、今、自分が相談できるなのはコイツしかいないのだ。
美結は頭痛を覚えながらも、仕方なく、打ち明けることにした。
「今日、魔法少女に襲われたの……」
「なんだ、そんなことか」
キュゥべえは素っ気なく言い放つ。美結は眉間に皺を寄せた。
「……そんなことって何よ」
「この国では、魔法少女に成った子が犯罪を行う確率は67%だ。その内45%が他者への暴力。故に、君を襲う魔法少女がいたとしても、それは別に有り触れたことであって、不思議なことではない」
呆気に取られた。
「それで、私が死にそうになっても……しょうがないっていうの?」
さっき言った魔法少女のメンタルケアとは何だったのか――――美結は怒りと軽蔑の瞳でキュゥべえを睨み据える。
「そうだ。……と言いたいところだけど、顔色が芳しくないな。余程酷い目に遭ったと見える。どんな魔法少女に襲われたのか、話してみるといい」
このまま冷然に済ませば、即座に床に叩きつけて踏みつぶしてやろうと思ったが、傾聴する態度を示してきた。
一応、メンタルケアをするつもりらしい。かなり義務的なのが腹が立つが。
美結は、今日出会った魔法少女の事を、事細かに話す。服装、髪型、態度、見た目から判断できる凡その年齢、武器――――それらを伝えると、キュゥべえは「ふむ……」と顔を俯かせた。
「ちょっと待ってくれ……」
キュゥべえはそういうと、しばらく沈黙。
「……………………!」
やがて、何か驚く様にバッと顔を挙げた。相変わらず無表情のままだが。
「どうしたの……?」
美結が問いかける。
「今、『データベース』にアクセスしてみたが、君の言う魔法少女の情報は何処にも無かった」
「はあ……」
データベースってなんだ? 古来より存在する魔法の使者もIT化が進んでいるのか、と美結は不思議に思ったが、それは脇に置いておく。
「おかしくない? あなた、全ての魔法少女を管轄してるんでしょう?」
「それはその筈だけど……実際無いものは無いのだから、『無い』と伝えるしかないだろう?」
「…………もういい。お前に話した私が馬鹿だった」
出てけ――――と美結は一言、低い声で告げると、キュゥべえは、『やれやれ』と言いたそうな呆れ顔でかぶりを振った。
そして、何も言わずに開けっ放しの部屋のドアから出ていく。
「……やれやれなのは、こっちよ……!」
どうせ聞き流されるのは百も承知だ。それでも、聞こえる様に、美結ははっきりと言ってやった。
☆
――――それから一カ月が経過した。
女性と対峙してから一週間は、学校を無断欠席して、家に引きこもっていた美結だったが、両親や仲間の魔法少女達の懸命な支えのお陰で、今ではすっかり元気を取り戻していた。
美結は、現在学校に居る。
時刻は昼休み。友人達とテーブルを囲んで、世間話を交わしながら弁当を口に運び終えると、真っ先にトイレへと駆け込んだ。
そして、用を足すと、ふぅ~、と大きく溜息を付いた。
「5時限目は数学かぁ……」
今の彼女は例の女性よりも、次の授業の事で頭がいっぱいだった。
魔法少女は、魔女退治の傍ら普段の日常生活もこなさなければならない。当たり前と言えば当たり前だが、中学生の美結にはあまりにもハードスケジュールに思えた。魔女退治もここ最近は連日続いており、しかも決まって夜に出現するため、勉強もままならない。
自分はもう受験生であり、なるべく勉強に精を出したいのだが……。
とは言え、美結は元々要領は良く、学内の成績はそれなりに上位であったが、唯一数学だけが伸び悩んでいた。志望する予定の高校は理系なので、受験テストでは、間違いなくその点数を重視されるだろう。
「はぁ~……」
トイレの個室内に居るのを良いことに大きく声を出して溜息を付く美結。
憂鬱だ。他の科目は案外平気だったが、数学だけがどうにもならない。
それもその筈だ。理数系は、暗記すれば簡単に点が取れるものではない。基礎や公式を覚えて、何度も解いて、慣れていくしかないのだ。
「仕方ないか……」
あんまり思いつめると、学校からバックれたい気持ちが強くなる。
しかし、逃げたところでどうにもならない。美結は決心して、便座から立ち上がると、ドアハンドルに手を掛けた。
瞬間――――
「ひゃっ!?」
咄嗟に手を離した。ジンと、
「……っ!?」
何事かと思って、ドアハンドルを注視する。
刹那、ぞっとする。そこには薄っすらと、霜の様な白い氷の束が生えていた。
「!? さむ……っ!」
呆気に取られていると、今度は全身が足元から凍えていく様な感覚に襲われる。ぶるぶると震える身体を両手で抑える。
おかしい。トイレに入るときは窓は空いて無かったし、何より、個室内に寒波が侵入するなんて有りえない。
そう思っていると、
――――突然、上から何かが降ってきた。
スタン、と、美結の
見た瞬間、美結は息を飲んだ――――。
心の中から、一番思い出したく無いものを、急に引っ張り出された様な感覚だった。
「ああっ……あああっ……」
美結の瞳孔がカッと開き、涙が溢れ出していく。口が自然と開き、震えた声を出すのと同時に、喉がカラカラに干上がっていった。両膝の力がふっと抜けて、便座に座り込む。
『絶望』。自分の今の状態を表すなら、それしかないだろう。
目の前には、あの女性が、あの時と寸分違わぬ姿で佇んでいた。
当然のことながら、右手にはスラリと長い銀色に輝く獲物――――刀が握られている。
「!!」
美結は我に返ると、咄嗟にソウルジェムを懐から取り出した。魔法少女に変身して、上に飛んで逃げようと考えた。
しかし、それは叶わない。
「ッ!!」
ズブリと、鋭利な物が胸に埋まっていた。激痛が一瞬、走る。徐々に生温かい感触に変わっていく。
「っ…………げはっ!!」
同時に、口中が鉄臭さで満たされ、溜まらず、吐いた。夥しい量の鮮血が溢れ出てくる。
一瞬だった。女性は光の如き素早さで、心臓を一突きしたのだ。刀身は胸から肩甲骨の中心まで貫通した。
十秒も立たない間に、美結の全身の血液が、トイレの個室内を真紅に染め上げた。
「あっ……くっ……」
鮮血の海へと横たわる美結。
薄れゆく意識の中で、彼女が最後に見たのは――――あの時と寸分違わぬ
☆
「…………!」
美結がボンヤリと目を開けると白い天井が見えた。同時に背中に柔らかい感触を覚える。
「……」
どうやらベッドで寝ているらしい。首だけ動かして室内を見回すと、見慣れた場所であることがわかった。
保健室で目を覚ました美結は、どうして自分が此処にいるのか、考えてみる。
何せ、自分は胸を刃物で刺されて、血塗れになって倒れたのだ。
――――胸……そう言えば。
美結は、自分の胸を撫でてみる。制服ごと貫かれた筈の場所には、傷が無かった。それどころか制服も破れていない。
(なんで……?)
ボンヤリとした思考を動かしてみる。あの時、自分が感じた激痛は、確かに本物だった。
ふと、彼女は気になった。
自分がここにいる――――ということは、誰かが自分を保健室まで運んできてくれた、ということだ。
一体誰が……いや、それ以上に奇妙な点がある。
自分は血塗れだった筈だ。何故、救急車を呼ぶのでなく、保健室に連れていくべきだと判断したのか。
「良かった。気が付いたのね」
女性の声がしたので、むくりと起き上がる。白衣を纏い、眼鏡を掛けた恰幅の良い初老の、美結がよく見慣れた女性がそこには居た。
「あの……」
美結が女性――保険医に声を掛けようとする。
「トイレで倒れてたんですって。親御さんにも連絡は入れておいたわ。でも良かったわね。ただの
「――――は?」
保険医の言葉に、思わず口が開いてしまう。
なにもかもがおかしい。貧血? 確かに全身の血をいっぱい流したので、当たって無くはないが。血塗れになって倒れていたというのに、貧血で済ますのはどういうことなのか――――?
「確か私……血塗れになって倒れてませんでした?」
その言葉に、保険医は一瞬目を丸くするが、すぐに柔らかく微笑んだ。
「……怖い夢を見たのね。でも安心して。運んできてくれた子が言ってたけど、血なんて無かったわ」
運んできてくれた子――――その言葉に、美結は大きく反応した。ボンヤリとした頭が冴えていく。
「その子……誰だったか、分かります?」
「さあ、どこのクラスの子かは分からなかったわね。何せ初めて見る子だったもの」
「!!」
それを聞いた美結は早かった。
こうしてはいられないとばかりに、ベッドの薄掛けをガバッとめくると、飛び降りて、全速力で保健室を飛び出した。後ろで保険医が美結に何かを訴えるが、そんなことはどうでもいい。
ただ、自分の身に起きた事が本当なのか確かめたかった。
美結は必死な形相で現場に向かった。女子トイレに駆け込むと、先ほど自分が入っていた個室のドアを壊すかのような勢いでバンッと開ける。
――――貧血から立ち直ったばかりだが、血の気が引いた。
トイレの個室内には、一切の血痕も無かった。
「……!?」
美結の頭は更に混乱していった。
あの時、自分が体験した事は、保険医の言う通り、『夢』だったというのか――――
「……ぐぅっ」
得体の知れない気持ち悪さが全身を襲った。胃の中から酸っぱい物がこみ上げてきて、口を手で押さえる。
もう何を信じていいのか分からない。まるで幻覚でも見せられているの様な気分だった。
幻覚――――
(そういえば……)
今まで自分は、幻覚を用いて相手をいいように懲らしめてきた。トラウマの記憶を見せつけて、心を乱してきた。
自分は今まで、他人にこんな思いを味わわせていた、というのか。
そう思うと、途端に罪悪感が心を抉る様に襲ってきて、両目から涙がボロボロと溢れ始めた。
「ごめんなさい……っごめんなさい……っ」
膝を床に付いて、ただしきりに謝る美結。
直後――――
「!!」
制服の胸ポケットに入っていたスマホから、音楽が鳴った。おそるおそる取り出すと、画面を確認すると、LINEからメールが入っていた。
「え……」
美結は再び愕然とする。画面にはメールの送り主が表示されているが……全く知らない人からだった。
アイコンは、何故か般若であり、HNは『青鬼』。
「誰……これ……」
青鬼――――それを聞いて、先ほどこの現場で襲い掛かった、女性を思い出す。
(まさか……)
彼女からか、と思った。思えば、自分を保健室まで運んだのも、彼女だったのかもしれない。
途端、凍てつく様な冷気が全身を覆ってきた。ビクリと震える。咄嗟に窓を見るが、閉まっていた。
風など吹いていないのに、冷気はまるで全身に纏わりついている様でいつまで経っても美結を放してはくれない。
やがて、全身がガタガタと痙攣を始める。まるで、警告するかの様に。
確認するな。見るな。見てはならない。見てはいけない。
だが、美結の身体は警告に反して、動いた。送られてきたメールの文章を、確認してしまった。
『 見逃すとは言ったけど
生かすとは言ってない 』
美結は咄嗟に窓を開けて、外に飛び出した。
ストックが無いのに投稿させて頂きました。
さて、第6話目にして、序章、その2です。
いきなり番外編的エピソードですが、本編につながっていく予定です。