今回は長いよ! いつもの二倍!
「マリアさん」
追いつめられた私にかけられた、聞き覚えのありすぎる声。何故、どうしてという疑問だけが脳内を埋め尽くす中、私はこちらを見下ろしている男性の顔を見上げる。
疲れたような表情をした、ジト目の男性。目の隈のせいか、普段より数割増しで目つきが悪くなっている彼は、どう見ても私が愛している藤尭朔也だ。どうしてこのタイミングで、と首を傾げるが、あの時会場内で私を追いかけようとしていた彼の様子を思い出して合点がいった。
だからと言って、納得ができる訳ではないけれど。
彼が来てくれて嬉しいと思う反面、先程の騒動を見ていたのに何故来たのかという怒りも込み上げてくる。完全に八つ当たりだと分かってはいるが、それでも口から言葉が溢れ出す。
「……今更、何の用よ」
「マリアさんに、伝えないといけないことがあります」
「いや、聞きたくない」
「お願いです。俺の話を……気持ちを、聞いて下さい」
「嫌! だって、そんなの最初から分かり切っているじゃない! これ以上、私に現実を突きつけないで……!」
駆け寄ってくる藤尭さんを跳ね除けながら、必死に叫ぶ。身勝手な言い分だ、と我ながら幻滅するが、既に精神が崖っぷちの私からしてみれば当然の主張だった。
どれだけ醜い関係でも、どれだけ歪な関係でも、これが私にとって唯一の繋がりだったから。
彼が切歌のことを好きなのは知っている。それは、数か月前のあの居酒屋で既に分かっていることだ。その前提条件は絶対に覆らない。だって、私と彼の関係は、あくまでその土台ありきで成り立っているものでしかないのだから。どれだけ身体を重ねても、どこまで関係を深めても、そこにあるのは所詮は「恋人ごっこ」。本物ではない、偽物でしかない以上、終着点は地獄だけ。それ以外の行先は、存在しない。
あくまで駄々をこね続ける私を外に出したままなのはさすがに世間体が悪いと思ったのか、彼は自宅の扉を開けると手振りで私を中に招いた。その場から逃げ出してしまおうとは思ったものの、このまま当てもなく逃げていっても結果は変わらない。せめて誰にも迷惑がかからないところで最後の抵抗をした方がいい気がした。変なところで冷静な選択ができているあたり、自分自身が混乱していることを自覚する。
扉が閉まると、彼は満を持して口を開き……私が最も恐れていた言葉を発した。
「マリアさん。……この関係は、ここで終わりにしましょう」
「……いや」
「お願いですマリアさん。これ以上、貴女を傷つける訳にはいかないんです」
「傷つけるって何。今の関係を辞めることで、私が傷つかない確証はあるの?」
「それは……」
「私はあくまで切歌の代わり。でもね、それでも私は貴方を愛している。それは絶対に変わらない。だけど、貴方との繋がりはもうこの肉体関係しか残っていないの」
「…………」
「私の気持ちが分かるの? どこまでも弱くて、浅ましくて、情けない私の気持ちが。貴方の優しさに甘えて縋るしかない私の気持ちが、貴方に分かるの!?」
とんでもない主張をしている自覚はある。それでも、私の言葉は止まらない。今まで溜まっていた鬱憤を晴らすかのように、想いが、心が流れ出してくる。
今彼は、いったいどういう気持ちでいるのだろう。私の怒声を浴びて、何を考えているのだろう。
元はと言えば、三人の関係を壊したのは私だ。私が余計な横恋慕で彼に手を出して、切歌を傷つけた。その後も藤尭さんの罪悪感を利用し、彼の優しさに漬け込んで束縛した。その間に二人がどれだけ思い悩んでいたか、想像もできない。
でも、二人はその苦難を乗り切ったはずだ。乗り切ったからあぁしてよりを戻して、理想的な関係になれている。私が入り込む余地なんてまったくない、本来収まるべきだった関係に。
だけど、私は? 私はあれから、どう変わった?
変わっていない。何も変化していない。周囲を巻き込むだけ巻き込んで、ずぶずぶと沼に引きずり込んで。挙句の果てには大切な人達の幸せさえも壊そうとしてしまっている。自分の家族とさえ思っている切歌を傷つけ、好意を向けている藤尭さんを傷つけ、終いには自分自身ですら傷つけて。
私は何も、何一つ前に進めてなんかいないんだ。
ツゥ、と生暖かいものが頬を伝う感触。それは一筋流れを作ると、そのままとめどなく溢れ出す。藤尭さんに見られていることなんか構わず、顔を歪めて嗚咽を漏らす。
「私は……私は貴方が好きなのに。でも、でもこの恋はどうやっても報われないって分かってるから。だから……だから、身体だけでも繋がっていたかった。歪んだ関係だって分かっていたけど、これだけが貴方との繋がりだったから!」
「……違う」
「間違っているなんてことは分かってる! でも、どれだけ間違えていても、もう後戻りなんてできなくて! どれだけ周りを傷つけても、私はこうしないと自分の願いすら叶えられない弱虫だから! だからお願い藤尭さん。せめて、せめてこの関係だけでも――」
「違う、違いますよマリアさん! そうじゃない、そうじゃないんです!」
「何が……何が違うって言うのよ! 何も、何も間違ってなんか――」
「間違っていますよ、何もかも。貴女と俺の関係が身体だけなんて、そんなのは違う。そんな悲しい答えを勝手に出すのは、俺が許しません!」
「勝手な事言わないで! 切歌と関係を戻したんでしょう!? だからこの間も二人で街に出かけていたんじゃない! そんな一時の気休めなんて、私はいらない!」
「っ……。分かりました。そんなに言うのなら……俺にも、考えがあります」
「何を……んぐっ!?」
声を荒げる私を抑えつける様に詰め寄ると、扉を背中に無理矢理動きを抑え、そのまま唇を重ねてくる藤尭さん。今までの関係で彼から迫ってくることなんて無かったから驚きに身を竦めるが、時と場合をまったく考えていない行為に脳内が一瞬ショートしかける。何を考えているのこの人はっ!?
「っは。こ、こんなときに、こんなこと……」
「今だからですよ。貴女が分かってくれるまで、俺はやめません」
「っ。け、結局は私の身体が目当てなんじゃない。こういう時だって、そうやって弄んで。やめて、離れて! そんなことをしてもらう資格なんて――ぅ、は」
「…………」
「ぇ、はぁ……やめ、へ……はなれ、ぇぉ……」
必死に彼を拒絶するが、それでも彼はキスを止めようとしない。両手指を淫らに絡ませて、まるで恋人同士がするような濃厚な接吻。肉体的に華奢な彼を跳ね除けるなんて簡単な事なのに、どうしてか身体が動いてくれない。こんなキス一つで、心が負けてしまいそうになる。
何故、今になってこんなのことをするのか。どうせ私を受け入れてくれないのなら、ここで変に気を持たせるのは残酷以外の何物でもないではないか。
度重なる唾液の交換で徐々に頭がぼぉっとしていく。酸素を求めて息を荒げるが、口内を歯の裏まで舌で舐られ呼吸どころではない。カク、と腰が抜けたように体勢が崩れると、彼は先程まで私を貪っていた唇を耳元に近づけた。
何を言われるのだろう。何をされるのだろう。
言い知れない恐怖と絶望が私を支配し始める。当然だ。身体を貪られ、舐られるしかできない私に対して向ける言葉なんて、想像が知れている。
何故か私の右手を優しく両手で包み込むと、ギュッと目を瞑る私を他所に、彼は妖しく息を吐きながら表情の見えない顔で――
「――好きです、マリアさん」
――そう、言った。
「…………は、ぇ?」
思わず気の抜けた声が漏れる。何を言われているのか、自分の身に何が起こっているのか。その何一つ理解できず、脳が完全に状況の把握を拒んでいた。
好き? 何が? 私を? 藤尭さんが?
なんというか、言葉を失うとはこの事を言うんだろうな、と冷静に分析している自分がいることに驚きだ。冷水をぶっかけられて頭が一瞬で冷えたというか、突拍子もない展開に今までの怒りや悲しみが一気に吹き飛んでしまった感覚。
呆けたようにその場にへたり込む私の目を見つめると、彼はいつものような優しい調子で言葉を続けた。
「――覚悟を決めるのに、時間がかかってしまいました」
「かく、ご……?」
「はい。あの日、あの夜。マリアさんからの告白を受けて、俺は自分の気持ちが分からなくなってしまったんです。俺が好きなのは切歌ちゃんなのか、それともマリアさんなのか。どっちつかずの感情のまま、ただマリアさんの強さに甘えてずるずると関係を引きずってしまった。切歌ちゃんと仲直りした後も、貴女を拒絶する選択が取れなかった。……いつからかは分かりません。でも、貴女と一緒にいる時、俺は本当に幸せでした。気が付くと貴女のことを目で追うようになっていて、いつも貴女の事ばかり考える様になっていました」
「何を、言って……。だ、だって、貴女には切歌が……」
「はい。確かに、切歌ちゃんと仲直りしたのは事実です。でもね、これ、まだマリアさんには言ってなかったんですけど――」
彼はそこで言葉を切ると、どこか懐かしい記憶を呼び起こすような、他人事を話すような表情を浮かべ、苦笑交じりに続きを述べる。
「俺、切歌ちゃんにフラれちゃいました」
「……え?」
予想外の出来事パート2にもはやマトモな言葉すら出ない。彼は本当に何を言っているのだろう、切歌にフラれた? なんで? どうして?
混乱する私を知ってか知らずか、彼は一度冷蔵庫から麦茶を持ってきて私に手渡すと、それを呑んでいる間に言葉を続ける。
「『今の藤尭さんは、誰がどう見てもマリアに気持ちが向いているデス。そんな状態の貴方とは付き合えないし、付き合いたくない。さっさとマリアを幸せにしてやってほしいデスよ』って。秋の終わり頃に、切歌ちゃんからそう言われちゃって。そこで初めて自覚しました。『俺は、マリアさんのことが好きなんだ』って」
「そんな……で、でも、この間だって二人で出かけて……」
「それなんですけど……マリアさん、自分の右手、いい加減気が付きませんか?」
「右手……?」
彼に言われて、ようやく自身の右手に視線を向ける。そういえばキスをしている時も、やけに彼は私の右手に執着していた。てっきり前戯の一つとして指を絡ませていたのだと思っていたのだが……。
「あ……」
目で追って、ようやく気が付いた。何と言っていいか分からず、相も変わらない抜けた息だけが口から漏れ出す。
右手、その薬指。そこには、蛍光灯の光を浴びて綺麗に輝く白銀の指輪がはめられていた。頂上には宝石があしらわれ、決して安いものではないことを窺わせる。そして、右薬指にはめられた指輪というのが、女性にとってどのような意味を表すかを思い出し、一瞬で顔が火照る。
「マリアさんへのプレゼントを考えていて、でも女性経験のない俺なんかじゃ不安だったから……切歌ちゃんには、プレゼントを選ぶ手伝いをしてもらったんです。『さすがにデリカシーがない』とかで、その後色々付き合わされちゃいましたけど」
「じゃ、じゃあ、貴方と切歌は……」
「恋人でもなんでもありません。俺が好きなのは、ずっとマリアさんです」
「――――は」
というと、アレか。
今まで切歌が私に対話を求めてきていたのは、残酷な現実を突きつけるとかそういう意味合いではまったくなくて、私を追い詰める意味合いでも全然なくて……。
ただ純粋に、いつまでもウジウジしている私と藤尭さんとの誤解を解くために一歩踏み出してくれていたというだけなのか。
「ずっと悩んでいました。俺自身の立ち位置や、二人への気持ち。マリアさんへの好意を自覚してからも、世界的歌姫の貴女に告白するなんて到底
「藤尭さん……」
「でも、クリスちゃんに怒られて、未来ちゃんに励まされて……そして、切歌ちゃんに喝を入れられて。ようやく決心がついたんです。最後のひと押しをしてくれたのは、切歌ちゃんの言葉でした」
「…………」
「『あたしが見たいのは、浮かない様子の藤尭さんや落ち込んでいるマリアではなく――大好きな人達の、笑顔なんデスよ』って。それを聞いて、悩んでいる自分が情けなくなってしまって。今日、貴女に気持ちを伝えるつもりで祝賀会に参加したんです。ただ、少しばかし遠回りになっちゃいましたけど」
頼りなさげに頬を掻く藤尭さん。私は指輪から目が離せないまま、何を言っていいか分からずポカンと間が抜けたように口を開けていた。
じゃあ何か。今まで私が一人で悩んでいたのはただの勘違いで、周りの話をまったく聞こうとしなかった結果ずぶずぶと沼にはまっていただけだったと。
客観的に状況を整理すると、なんだか無性に恥ずかしくなってきた。場違いすぎる彼からの告白も相成って、徐々に羞恥心が湧き出してくる。
「なによそれ……私、馬鹿みたいじゃない……」
「ま、マリアさんは何も悪くありません。悪いのは、貴女の強さに甘えて……いや、本当は強くないのに、か弱い自分を隠そうとして強がる貴女につけこんで解決をずるずると先延ばしにした俺に原因があります。今まで貴女を苦しめてきたのは他でもない俺自身です。本当に、すみません」
「そ、そんな……さ、最初に関係を拗らせたのは私なんだし……」
「お詫び、という言い方も変ですけど、改めて言わせてほしいことがあります。……聞いて、くれますか?」
「……は、はい」
藤尭さんは私の右手を取ると、まるで騎士がするように跪いて私の顔を見上げる。彼の顔を見て気が付いたことがある。彼は、私以上に疲れ切った表情をしていた。元々痩せ型だったが、今まで以上にやつれているように見える。目の下の隈も本人としては隠しているつもりらしいが、うっすらと浮き出ているのが見て取れた。切歌が言っていたように、彼も彼で戦っていたのだろう。
心臓が今までにないくらい早鐘を打ちまくっている。今にも走り出してしまいたいほどに全身から熱気が放たれる中、私はなんとか平常心を保ちつつ彼の言葉を待つ。
彼も照れているらしく、何度か息をつくように肩を上下させると、一つ唾を呑み込んで、ようやく満を持して口を開いた。
「好きです、マリアさん。ずっと迷惑をかけてきた俺なんかには愛想尽かしているかもしれませんが、貴女のことを愛しています。恋人『ごっこ』なんかじゃなく……俺と、本物の恋人になってくれませんか?」
ぎゅ、と私の手を握る彼の力が強くなる。見れば、僅かに震えているのが分かった。この数か月間、彼はどんな思いで過ごしてきたのだろう。どれだけの逆風の中で、今日まで戦ってきたのだろう。私とは別の意味で、彼も悩み苦しんできたに違いない。
そして、今。断られても仕方がないという状況でこうして告白をしている。彼の心境は穏やかではないはずだ。彼からしてみれば、自分のせいで長い間苦しんできた相手への告白なのだから、その緊張感は私には計り知れない。元々気が強い方でもないし、相当な決意と覚悟を以て行っているのだろう。
彼の想いを受け取るか否か。私だって今まで何度も考えてきた。このままずるずると歪な関係を続けるくらいならさっさと見切りをつけた方がいいと言い聞かせてきたし、その方が幸せになるはずだと悩んできた。お互いに言葉足らずな為、これから苦労しないという可能性はまったくない。
でも、だけど――
私は震える彼の手を包み込むように両手で握り込むと、目を見開いて驚く彼の目を見つめ、むすっと拗ねたように唇を尖らせる。怯えた顔で返答を待つ藤尭さんはまるで小動物みたいで。いい気味だ、とか思いつつも、私は彼を睨み付けると、
「キス、して」
「……はい?」
「だから、キスしてって言っているのよ。
「あ、いえ、そういう訳では……って、え? い、いいんですか?」
「自分から告白してきておいてその言い草はどうなのよ……」
「だ、だって……今まで俺はマリアさんに迷惑をかけてきて、凄く苦しませてきたのに……」
「確かにそうね。じゃあ付き合うのやめる?」
「そ、それは嫌です!」
「だったらそれが答えよ。野暮なこと言わせないの」
どこまでも初心な反応を見せる彼に肩を竦める。あれだけ身体を重ねてきたというのに、どこまでも女性耐性のない人だ。頼りないし、お騒がせだし、つくづく最低だと未だに思う。
まぁでも、それでも、
その全部をひっくるめて彼を好きになったのだから、私も同じくらい最低らしい。
私に促されてようやく覚悟を決めたらしい藤尭さんは、先程とは違う意味合いで手先を震わせながら私の両肩に手を置くと、目を瞑ってゆっくりと顔を近づかせて来る。だが、もう手慣れたものだろうに、状況が状況だからか中々唇を重ねてこない。今更童貞みたいな反応している彼に、僅かながら苛立ちのようなものを覚えてしまう。
「……ねぇ」
「す、すみません! あ、改まってみると緊張してしまって……」
「はぁぁ。ほんっと駄目男ね貴方。これからが思いやられるわ」
「うぅ……」
「――次からは、これくらい潔くやりなさいよ……ねっ!」
「んっ!?」
いつまで経っても子供みたいな言い訳を重ねる藤尭さん――いや、朔也の顔を左右から両手で挟むと、彼を押し倒すように唇を重ねる。さっきされるがままに蹂躙された仕返しをせんばかりに貪ると、ようやく彼との関係が進んだという現実味が帯びてきた。言い知れない感情が……形容できない程の喜びに身体中が打ち震える。
「好き……大好き、朔也っ」
「マリアさん……俺も、貴女が……」
「愛してる、ずっと、ずっと愛しているからっ……!」
「愛しています、マリアさん。俺もずっと、貴女を」
互いに愛を叫び合い、そのまま行為に没頭していく。指を一本一本絡ませ、全身が溶け合うような感覚。今までのセックスとは違う、愛に溢れた優しいタッチ。自らの心の隙間を埋めるのではなく、ただ純粋に愛する人と身体を重ね合うことがこんなに幸せだったなんて。この時が永久に続けばいい、と神様に願ってしまうくらいには。
ロクに休憩もせず、ただ欲望の赴くまま、愛の続くままに身体を重ね続ける。体力なんて二の次と言わんばかりに、今まで失ってきた時間を取り戻すかのように、私達は。
結局それは、次の日に心配した二課の面々が家を訪ねてくるまで続くのだった。
次回、マリアアフター。
感想お待ちしております。