女王陛下と貴族様、そして姫騎士。
水と比較した場合、筋肉の比重は約1.1、骨は約2.0、脂肪は約0.9、人体全体としてはおよそ0.9から1コンマ00+αという程度。そして女性の象徴の一つであり、超・爆・巨・美・微・無などの接頭辞で表現される部位、艦娘的に言えば胸部装甲に占める脂肪の割合は七〇~九〇%で、
生化学的にも統計学的にも有意な差が認められる事象だが、ここ宿毛湾泊地のスパリゾートにおけるサンプリングは―――。
湯に浸かり額に汗を浮かべたイタリアは、うっとりとした表情で眼下に広がる光景を眺め、ネルソンは両腕を背凭れにしている岩場に預けながらうんうんと頷いている。身体の動きは波紋に変換され湯に伝わり、水面に浮かぶ四つの白い半球を微かに揺らす。
「素敵………ティレニアの海に沈む夕日が最高だと思っていたけれど…この地にもこんな美しい景色があるのね」
「ふむ、いや…これは余も脱帽だな。国は違えど美しいものは美しい、そう認める度量は持ち合わせておるぞ」
宿毛湾泊地に新たに設けられたVIP用のスパリゾートで、欧州連合艦隊の艦娘達は全員が初体験となる日本の露天風呂を堪能している。地形を巧みに取り入れて、棚田をイメージして造形された岩風呂からの眺望は、遮るものがなく宿毛湾から太平洋が広がる。そして今彼女達が入浴している時間は夕暮れ時、真っ赤に燃える夕日が海にゆっくりと沈み、辺り一面をオレンジ色に染めてゆく様に全員が目と心を奪われている。
「ビスマルク、タオルをユブネに浸けるのはマナー違反だ」
「何するのよっ! 返しなさいっ!! …あ、でも…気持ちいいわね…」
体を隠しながらお湯に浸かろうとしていたビスマルクは、アークロイヤルにタオルを取り上げられ、諦めた様子でそろそろとお湯に浸かる。そしてすぐさま日本の温泉の魅力を身体で理解した。姫騎士空母はむしろもうちょい隠せよと言いたくなるほど堂々と振舞っている。
「これは…心地いいものだな。ふっ…女王陛下の薫陶を受けるうちに、私も日本通になってな。何やら
アークロイヤルがドヤ顔で危ない異文化交流を勧めているが、皆思い思いに貸切の露天風呂を堪能している。そして歓迎会の開催時間を知らせる館内放送をきっかけに、皆ばらばらと岩風呂を後にしてドレッシングルームへと向かい始める。
◇
桜井中将からの挨拶と、それに応えるネルソンの答礼から始まった歓迎パーティは盛況のうちに時間が過ぎてゆく。鳳翔の手による豪華な日本料理が饗され、宿毛湾勢から歓声が上がる。日本料理の実力、試させてもらうわ…と最初は疑わしそうにしていたコマンダン・テストだが、一口味わうやいなや、すぐさま鳳翔を捕まえて質問責めを始めた。ジャーヴィスやZ1、Z3は時雨や夕立たち教導艦隊のくちくかん達と打ち解け、きゃっきゃと盛り上がっている。そんな中、やはり等身が高く体つきも成熟している欧州の戦艦娘達は明らかにパーティの華として目を引く。
「あの…ビスマルクさん…」
「えっと…貴女は…」
「宿毛湾教導艦隊所属、秋月型防空駆逐艦三番艦の涼月…です」
「そう…ヒナーミの
目の前にあるのは、絹のように細い銀髪が目立つ、駆逐艦にしてはすらっと背が高く大人びた艦娘の姿。社交辞令的に話しかけてきた訳ではなさそうね、とビスマルクは見つめ返す。ヒナーミのフネ、そう呼びかけた時に、ぴくりと涼月の肩が動いたのを見逃さなかった。
-呼び止めたなら、そっちから切り出してくれないと話が進まないのよね。
思い詰めたような空色の瞳を見ているだけで用件はだいたい見当がついた。それでもじぃっと見つめていると、意を決したように、涼月が大きく深呼吸をしてから話を始める。
「日南大尉………いえ、か、
頬を上気させながら、わざわざ下の名前で言い直して必死に訴えてくる涼月のあまりの可愛らしさに、ビスマルクは思わず微笑んでしまう。
-でもね、所有権をアピールしないと不安な程度の関係だって言ってるようなものだけど?
流石にそこまで言うのは可哀想だと思い直し、ビスマルクはずばり核心に触れ始める。そもそも回りくどい話は好きではない。
「そうね…ヒナーミは弟みたいなものよ。
涼月の返事を待たずにくるりと振り返り、背中越しにひらひらと手を振ってビスマルクは立ち去ってゆく。そしてその先には―――。
「久しぶりね」
「久しぶりですね」
挨拶を交わしながら、日南大尉は手にしていたワイングラスをビスマルクに差し出す。気が利くようになったじゃない、と揶揄われ苦笑いを浮かべた大尉だが、気になっていたことを真っすぐに問いかける。
「ビスマルク…プリンツのこと「ヒナーミ、ここは暑いわね。場所を変えましょうか」」
問いかけを遮ったビスマルクは、パーティの喧騒から離れたテラスまで無言で歩き、日南大尉も黙ってついてゆく
◇
手を伸ばせば星がつかめそうな満天の夜空の下、ビスマルクは独り言のように呟き、大尉の疑問に答え始める。
「………プリンツは深海棲艦の罠に嵌った艦娘を助けるのに、自分が沈む寸前まで一歩も引かずに戦った。妹分に助けられる姉なんて…そんな間抜けは放っておけばよかったのよ」
秀麗な顔を歪め、軍帽を目深に被り直すビスマルク。プリンツが命懸けで守ろうとした艦娘が誰なのか、その口調で察して余りある。日南大尉もかける言葉がなく、ただ黙って話の続きを待つ。
「私も甘く考えていた。どんな酷い損傷でも入渠で完全に直るって。でも…」
ぎりっと唇を噛み締めたビスマルクは、握りしめた右拳で思いっきり自分の左手を叩く。人間よりはるかに強靭で再生能力の高い艦娘の身体だが、例外はある。生体機能の中核を成す頭部か心臓を完全に破壊されると
修復は何とか間に合ったが、目覚めたプリンツの記憶は断片化としか表現できない状態になっていた。検査しても脳機能は正常で、何が原因か判明しない。ビスマルクを含むドイツ勢の献身的なケアで、少しずつプリンツ自身の中で過去と現在が繋がり始めてきたが、完全回復までは道半ばのようだ。
「………次の寄港地はヨコスカ。この国の艦娘技術開発の中心、
ビスマルクが深々と頭を下げた拍子に、豊かな金髪が背中から肩を滑り体の前に流れる。
◇
「これを私に…? ありがとう、すごく奇麗だね」
休憩用に設けられたカウンターテーブルで一人ぼんやりとしていたプリンツは、近づく人影に気付いて顔を向けると、ドリンクを持った日南大尉の姿があった。隣に座るのかな、と思ったプリンツだが、大尉はグラスを差し出すと柔らかく微笑んで立っている。
「大和さんにお願いして作ってもらったんだ。プリンツ、君はこれがお気に入りだったよね? 朝焼けに祝福される海みたい、って言ってたよ」
「そっか…そうなんだ…。でも、ごめんね、私、思い出せないんだ」
プリンツがふるふると頭を振り、無理に作った笑顔を返すと、日南大尉も目を伏せて肩をすくませる。
大尉が持参したのはグラデーションカクテル。ブルーキュラソー、ヨーグルトドリンク、パインジュース、ラズベリージュースの順で注ぎ、最後に炭酸水をマドラーを伝わせてグラスの縁に沿って慎重に加えると、比重が重い糖度の高い材料が沈み四層のグラデーションができる。味はパインとラズベリーの効いた甘酸っぱい風味で、かつてプリンツが好んで飲んでいた。
「気にしないでいいよ。何かを思い出すきっかけくらいにはなれば、と思っただけだから。自分は行くよ」
僅かに悲しそうな色を載せた視線を日南大尉から送られるが、プリンツは曖昧に微笑むしかできない。大尉はパーティの人ごみの中へと戻ってゆき、プリンツは再びカウンターに頬杖を突く。そしてぼんやりとグラスを眺める。底から青、白、黄色、一番上はうっすらと赤紫。飲むときは挿してあるストローでステアするから、色合いの美しさは味わうまでの僅かな時間しか楽しめない。
「ほんとに奇麗なドリンク…ヤーパンの男性がこんなにロマンチックだなんてね。
かつて自分が言ったという言葉の反芻に、二重写しで脳裡にフラッシュバックした言葉。唐突に自分の中で重なった二つの言葉にプリンツは戸惑い、明らかに動揺を見せる。その様子に気付いたビスマルクが、場の空気を壊さないようさり気無く動き、プリンツに隣り合ってハイチェアに腰掛ける。
プリンツの脳裏に、ザッピングするように映像が一瞬だけ浮かぶ。
-キール軍港を抜錨して訓練を続ける自分。誰の指揮? 無線越しの声、さっきまで喋っていた人の声に似てる…。
さらに違う映像が一瞬だけ浮かぶ。
-こじんまりとした手作りのお別れパーティの風景。黒髪の東洋人の士官を囲んで、皆で泣いて笑って。
もう一度、別な映像が一瞬だけ浮かぶ。
-手にした四層のグラデーションの奇麗なカクテル。さっき思い出した若い東洋人の士官が、訥々と語っている。謂れのない責任を負わされ、それでも黙って受けいれた、そんな彼の告げる別れの言葉。
『知っての通り、自分は日本に帰国を命じられた。君たちの戦いをこれ以上見届ける事は出来ない。けれど…これからも暁の水平線に勝利を刻んでほしい。それが自分の願いだ』
「ヒナーミ…………。そっかぁ、私…貴方に願いを託されてたんだね。どうしてこんな大切な事、思い出せなかったんだろう…」
「ちょ、ちょっとプリンツ、あなた今…?」
「あ…ビスマルク姉さま………。はい、全部じゃないけど、でも、ヒナーミのおかげで、大事なことをちょっとだけ思い出せたかな」
にへらっとプリンツが微笑みながら零した言葉に、ビスマルクは人目をはばからずにわんわん泣き始める。
「わわっ! ビ、ビスマルク姉さま、落ち着いてくださいっ」
「う、うるさいっ! なによ、私がどれだけ心配したと思ってるのっ!! ………もっと早く帰ってきないよ、バカプリン!」
プリンツは本当に心からの笑顔で、姉と慕う戦艦娘の、涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔をハンカチで拭っている。