では。
「そんな訳ないじゃない」
沈黙する桜、無用に笑顔で魚を頬張るイリヤスフィール、何かを言おうとしては俯いてしまうアヴェンジャーという三人娘が顔を合わせた、士郎にとっては針の筵のような夕飯が終わり、桜が帰った後のことだ。
桜は聖杯戦争のことを何も知らないんじゃないか、という士郎にぴしゃりとイリヤスフィールが言ってのけた。
「私もイリヤに賛成です。シロウ、彼女が何も知らないというのは考えにくい。それにそもそも、間桐慎二は代理マスターでした。なら、ライダーの正規の主は誰ですか?」
続けてアヴェンジャーに言われて、あ、と士郎は呟いた。
そうだった。
慎二は真のマスターではなかったのだ。なら、本来は誰なのだろう。間桐の家には桜と慎二以外、マスターになり得そうな人間はいない、どころか彼ら以外の住人のことも士郎はろくに知らないのだ。
桜の笑顔と慎二の引き攣った顔が、ぐるぐると士郎の頭の中を回った。
見兼ねたようにアヴェンジャーが口を開く。
「桜も、あなたを騙したくて騙した訳ではないかもしれませんよ。そうせざるを得ない理由があったから、とも考えられます。あなたも桜に正確なことは言わなかった。でもそれは、桜を思ってのことでしょう?」
アヴェンジャーの感情の見えない声が、士郎の耳に沁みた。
「分からないわよ。マトウだってわたしたちと同じ御三家だもの」
「イリヤ。そうかもしれませんが、そうでないかもしれません。……それに、シロウの信じる人を、できるなら私は信じたいです」
「もう!アヴェンジャーのお人好し!知らないんだから!」
ぷん、と頬を膨らませたイリヤと困ったような顔をしているアヴェンジャーを士郎はよく見比べた。
「何か……何でそんなにイリヤとアヴェンジャーは打ち解けてるんだ?」
少なくとも、前はそんなことはなかったと思うのだが。
「だって、アヴェンジャーはいつでも倒せるようなサーヴァントだもの。だけど優しいの。だからわたし気に入っちゃったわ。バーサーカーは一番強いけどね、おしゃべりができないの。でもこの子ならできるもの」
と、イリヤはアヴェンジャーの腕を取り、引っ張って言う。しがみつかれているアヴェンジャーの頭はゆらゆら揺れた。
「……で、結局イリヤは何をしに来たんだ?マスターは夜になれば戦うんだろ?」
「え?だって、
「……」
「……」
アヴェンジャーと士郎は顔を見合わせた。
無邪気な言葉に、どういう感想を抱けば良いのかすら分からない主従を見てイリヤはくすりと笑いをこぼした。
「それはウソ、冗談よ。わたし、アヴェンジャーに会いに来たの。復讐者のサーヴァントはわたしたちとも無縁じゃないから。でも、そのサーヴァントは違ったみたい。だからわたしの用も済んじゃったわ」
「……?なあ、イリヤ、それどういう意味だ?」
「シロウには教えてあげない。アヴェンジャーに聞けばいいわ。―――――じゃあね、シロウ。ご飯、ご馳走さま」
イリヤは立ち上がると、障子を開けた。
そのまま外へ出たイリヤの後を追った士郎は、軒先で佇む彼女の後ろに灰色の巨人を見た。
「―――――ッ」
巨人の赤い目が士郎を見る。
悪寒が、明確な死の気配が士郎を捉えた。
「シロウ、下がって!」
瞬間、白い衣装と杖を持ったアヴェンジャーが、士郎を突き飛ばし入れ替わるように前へ出た。華奢な体躯と巌のような巨躯が正面から向き合う。しかし、アヴェンジャーの体躯は余りにか細すぎた。
イリヤは黒髪の少女とその背後の少年を見て笑った。
鼠を見る猫のように、怖い笑みだった。身を翻したイリヤは、ふわりと羽が生えているかのように巨人の肩に飛び乗る。
「じゃあね、お兄ちゃん」
巨人はイリヤを丁寧に抱えると、地を蹴った。禍々しい大烏のように、バーサーカーとマスターはそのまま夜の闇へと消えて行った。
「あれが……バーサーカー、ヘラクレスなのか」
アヴェンジャーが頷いた。
「アヴェンジャー。あれと……戦ったらダメだ」
杖を下ろして、アヴェンジャーは士郎を振り返った。
その黒い瞳を見て分かった。あれはアヴェンジャーにはどうもこうもしようがない。詰まる所、この少女も士郎と同じように怯えていたのだ。
違うのは怯えを一瞬で押し退けて誰かを庇ったこと。その一点だけだ。
その心は確かに紛れもなく少女の強さではあるのだろうが、関係ない。彼女では戦いにすらならない。鉛色の死の体現者のような巨人を見て、士郎ははっきり悟った。
自分自身が挑むなら、やってみなくちゃ分からないと踏ん張れるかもしれない。でも、なけなしの観察眼で以て、士郎はアレとアヴェンジャーと相対させてはならないと悟った。
イリヤの余裕も、いつでも殺せるんだから相手にならないと言った言葉の意味も、よく分かる。
「お父様から聞いてはいたんですけれどね、あれほどの方とは思いませんでしたよ」
長い沈黙の後でアヴェンジャーは杖を消し、服装を元へ戻した。
「戻りましょう。あなたに私の真名を言います。引き伸ばしていても良いことは無いようですから」
そう言ってアヴェンジャーは士郎を促して、部屋へ戻る。
まだ微かに温かみの残っている三つの湯呑みが残った卓袱台に座ると、アヴェンジャーは一度目を瞑ってから口を開いた。
「私はカッサンドラと言います。トロイアという所で生まれ育った予言者です」
「トロイア……。もしかしてトロイの木馬の、あのトロイか?」
「
カッサンドラと言う名前に、士郎は即座に反応できなかったし、どうもピンとこなかった。それでも知識を引っ張り出して、確かトロイア戦争の物語に出てきたお姫様じゃなかったか、というと士郎が聞くと、そうですよ、とアヴェンジャーは笑った。
「予言者と言っても、私は出来損ないですから」
だから知らなくて当たり前だと、アヴェンジャーは口の端を歪めて苦いものを飲み込んだように笑った。
そんな顔を見たくなくて、士郎は思いついた事を口にする。
「アヴェンジャーって、じゃあ王女なのか?」
「そうですね。トロイアのプリアモス王とヘカベ王妃が私のお父様とお母様です」
懐かしむようにアヴェンジャーは目を伏せた。
「ちょっと待ってくれ。トロイアって確か……」
「ええ。トロイアは十年続いた戦で亡びました。私はそこで捕まったのですが……私の願いは、そのとき共に捕まっている人々を助けたい。それだけです」
「……」
言葉を濁して、アヴェンジャーは言った。
それでも言いたい事は伝わった。
彼女には助けたい人々がいて、そのために奇跡が欲しい。
なるほど、と士郎は理解した。
理屈は明快で分かりやすい。
アヴェンジャーにとって聖杯戦争は誰かの命のかかった戦いで、だからヘラクレスのような敵と会っても弱音の一つも吐かない。
そして、誰かを助けるための戦いにならば命をかけられる点で彼女と士郎は似ている。
アヴェンジャーは国の人々。
士郎はこの冬木の人々。
少年と少女が彼らへ向ける感情の質は似ている。
―――――でも、それならどうして、
その願いを肯定したいと、心で思えないのだろう。
「どうかしましたか?」
黙り込んだ士郎の目の前には一人の少女がいて、どこか心配そうにこちらを覗き込んでくる。
「あ、悪い。ちょっとぼうっとしてた」
小さな棘のような違和感を、士郎はやり過ごした。
憂い顔に怒り顔、張り詰めた顔。
笑うと可愛らしいのに、明るい声で笑うこともあるのに、そんな顔ばかりする少女にこれ以上心配顔をさせたくはなかったからだ。
「でもアヴェンジャー、イリヤと何話してたんだ?随分懐かれてなかったか?」
「あれはイリヤが人懐っこいのだと。聞かれたことにしても、アヴェンジャーの霊基が珍しいから気になるとか、シロウは何の料理が上手いのかとか、脈絡はありませんでした。キリツグという人のことは、私には分からなかったので答えられませんでしたが」
脈絡が無いと言いつつ、多分アヴェンジャーはこの調子で一つ一つ丁寧に答えたのだろう。だからイリヤも懐いた。
「でもイリヤはこうも言っていました。聖杯を手に入れることはお爺様からの使命だけれど、キリツグとシロウは自分の標的だと」
「……それってまだ、俺を殺したいってコトか?」
「いいえ。それならイリヤは最初からヘラクレスを屋敷に放り込めば良かった。そうしないのは、迷っているからでしょう」
ヘラクレスを屋敷に放り込むなどと恐ろしいことを素面で言わないでほしいと思いつつ、士郎はアヴェンジャーの方を見て口を開いた。
「じゃあ俺はイリヤともっと話さないといけない。話して、
何度も何度も、衛宮切嗣は外国へ行っていた。命が尽きるほんの少し前まで、身を削るようにして旅を続けていた。
その度憔悴していたけれど、あれはきっとイリヤに会おうとしてそれができなかったからなのだと今なら分かる。
どうしてそうなったかは分からないし理解したくもなかった。
でもきっと、アインツベルンという千年の魔術の大家に阻まれたのだろう。
卓の下で拳を握る士郎にアヴェンジャーは目を細めて言った。
「シロウ、まさかと思いますがヘラクレスを連れたイリヤの前に出て話そうとは考えないで下さいよ。危険過ぎます」
「おい、いくら何でもやらないぞそんなこと」
「けれど、他にイリヤと話す手が無いとならばあなたは実行しないと言い切れますか?」
鞭のようにぴしりと切り返されて、士郎は言葉が一瞬つかえた。それが答えになった。
「……それでもやらないさ。俺が死んだら
士郎の答えを聞いてアヴェンジャーは喘ぐような息を漏らした。
瞳の色が星屑のように瞬いて、漆黒の奥に赤と青が閃く。
その動揺に、士郎の方が今度は首を傾けた。
アヴェンジャーは唇を噛んでから言葉を押し出した。
「見張りに、行ってきます。シロウは明日もあるのですから休んで下さい」
止める間もなく、アヴェンジャーは窓を開けて姿を消してしまった。
桜にイリヤ、アヴェンジャーが一気にいなくなった居間は、ただただ冷え冷えと広かった。
そうしてその晩、士郎は夢を見た。
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「へぇ。あの子、カッサンドラだったんだ」
翌日の昼。
学校の屋上まで凛によって呼び出された士郎は、手短に昨日のことを言った。
イリヤのこと、それとアヴェンジャーの真名のことだ。
「で、私にサーヴァントの真名を伝えるっていうのは、当のサーヴァント本人からの意見だと」
どうしてそんなことを気にするのか、という士郎の疑問がそのまま顔に出ていたのだろう。凛は指でこめかみをとんとんと突いた。
「ねえ衛宮くん、あなたアヴェンジャーに予言みたいなもの、聞かされたことある?そのとき、あなたは躊躇いなく信じられたの?疑いたくなるとか、アヴェンジャーを信じられなくなるとか」
「ないぞ?アイツは変わってるけどいいやつさ。今日は家で魔術の仕込みをするって言ってたけど」
凛はきょとんとする士郎の顔を見た。
「あのね、衛宮くん。カッサンドラの伝説、あなたはどのくらい知っているの?」
「トロイアの王女だろ。予言者で巫女で、あと魔術もしてたってさ」
「……肝心なところは?って、その顔じゃ聞くまでもないか。知らないのね」
もどかしげに凛は黒髪を手でかいた。
「トロイアの王女カッサンドラはね、予言の力をギリシャの太陽神アポロンから授かったの。トロイアの滅亡だってずっと予言してた、とても高い能力を持つ予言者よ」
でも彼女は無力だった。誰一人、カッサンドラの予言を信じなかったから。
「信じなかった?何でだ?アイツ、嘘をつくような性格じゃないぞ」
「アポロンに呪いをかけられたからよ。アポロンが力を与えたのは、カッサンドラに惚れたから。要は、自分を愛する見返りにそれまで
一度与えた祝福を取り上げることができなかったアポロンは、その代わりに彼女の予言を、言葉を、誰も信じないようにした。
だから、何を予言しても彼女は嘘つきと言われた。トロイアがアカイアの大群に攻められて陥落する、十年もの間。
民からも父からも信じてもらえずに、トロイアの落城は予言どおりに訪れ、彼女自身は敵のアガメムノン王の捕虜になった。
彼の領土に戦利品として送られたカッサンドラは、アガメムノン王を恨んでいたクリュタイムネストラ妃によって、王と共に殺されたという。
「……」
「カッサンドラの物語はそういう話なの。もちろん、伝説も歴史も歪められるものだから異なる部分はあるはずだけれどね」
それでも、肝心なのはカッサンドラが誰にも信じてもらえない予言者だったこと。
それならどうして、衛宮士郎はアヴェンジャーになったカッサンドラを信じているのか。
「俺が、アイツのマスターだから?」
「それが一番あり得るわ。サーヴァントとマスターにはラインができる。サーヴァントの過去を夢で見ることだってあるわ」
それなら、士郎の最近見ていた慣れない夢も説明がつく。
知らないはずの街の風景、見たことのない古めかしい格好の人々。
あれがトロイアだったのだ。一切が灰燼に帰す前、まだ平和だった頃の。
黙り込む士郎と逆に、凛は理由は良いの、と続けた。
「サーヴァントの召喚システムにはわからない部分だってあるから。大事なコトはカッサンドラの正確な予言をあなた以外が信じられないってコト。……そりゃあ、あの子があなたに絆されるはずね」
正確に何年かは分からないが、長い間嘘つきと扱われていた人間が、信じると言われたらどう思うだろうか。
「しかも衛宮くんみたいな特級のお人好しだもの」
なるほどなるほど、と凛は頷いた。
「カッサンドラの正確無比な予言があるのは心強いけど、あなた以外信じられないのね。……アーチャーの真名を視てもらおうかと思ったんだけど、できるかしら。伝承だと過去も見通せたようだしね」
「……ちょっと待て遠坂、もしかしてお前アーチャーの真名を知らないのか?」
ぴし、と凛が固まった。
その顔にああこいつ、口がうっかり滑ったのかと士郎は思う。
それにこの調子ではアーチャーがカッサンドラの正体を知っていたことを、凛は把握していない。
あの赤いアーチャーが、俄に士郎には得体がしれない者のように思えてきた。
「ああ、もう!その通りよ、私のアーチャーは召喚のときの事故で真名を忘れちゃったのよ!戦闘はできるから問題はないけどね!」
「お、おう」
うがあと叫んで、凛は腕組みをし、士郎が怯んでいる間にすぐに元に戻った。
「アヴェンジャーの真名が分かったのは良いわ。これで作戦も立てられるから」
にやり、と凛が笑う。
何故だろう。綺麗な女の子の笑顔のはずなのに、その笑みを見ると背筋が寒くなった。
「作戦?」
「昨日取り逃がしたライダーを何とかする作戦よ」
凛は令呪の刻まれた手を握りしめて、宣言したのだった。
ヘラクレスにお宅訪問される&会話してお互いの異常さを見つけような話。
正直この鯖が隠すべきは真名ではなくて、クラスの方な気がします。