では。
唄が、冬の空に流れて行く。
澄んだ声が高く低く、旋律をつけて唄われる。調べはゆったりと流れる大河のせせらぎに似て、紡がれる言葉は葉のざわめきに似ている。
しかし、真実は違う。それは唄ではなく、魔力の込められた呪文だ。
節を付けて唱えられる言葉の連なりは、最後に高らかに謳い上げられて終わる。
それで編み上げられた術は終わり、術者である少女姿のサーヴァントは杖を下ろした。
彼女が向き合っていた刻印は気配すら無くなっていた。
「……本当に全部の刻印を跡形無く消したわね」
最後まで見ていた黒髪の魔術師、遠坂凛は組んでいた腕を解いて理科室の床に近寄った。
刻印の一つがあったそこはまっさらになり、何の気配もなくなっている。
今の時間は放課後、不審な事件が続いているからか生徒も教師も早々と帰り、校内はひたすらに静かだった。
屋上の刻印を消したあと、彼らは流れのまま構内に散ったすべての刻印を壊して回ることになった。
士郎と凛が探し、アヴェンジャーが壊すという形の彼らの作業は数時間にもなったがついに刻印はすべて学校から除去された。
アヴェンジャーは杖を消して、心臓の辺りを押さえ、詰めていた息を吐いた。
「アヴェンジャー、大丈夫なのか?」
「問題、ありません」
側に寄る士郎に掌を向けて、アヴェンジャーは胸から手を離し姿勢を正した。
顔色は良いのに何故だろうか、今の彼女は士郎が見たこともないほど強張っていた。
「約束通りだし、今日わたしたちはあなたたちに手を出さないわ。じゃ、またね。衛宮くん。さっきの話は忘れないでね」
「あ、ああ。またな、遠坂」
霊体化したアーチャーを伴って、赤い服の魔術師の少女は出て行った。
それを見てから、アヴェンジャーは大きく伸びをする。長い黒髪が清流のように流れて、白い項が露わになった。
「シロウ?どうかしましたか?」
そのままアヴェンジャーは士郎を振り返って、ほんの少し首を横に傾けた。
「い、いや、何でもないぞ!」
ぶっきらぼうになる士郎にちょっと驚いたようにアヴェンジャーは目を大きく見開いた。
「それなら良いのですけど……。そう言えばシロウ、アーチャーのマスターの言っていたさっきの話とは何ですか?」
やっぱり耳聡いよな、と士郎は頬をかいた。
立ったまま話してもあれだから、アヴェンジャーを促して二人は理科室のテーブルの一つに腰掛けた。
並んで座り、士郎はすぐ口を開いた。
「話ってのは、まあ共闘しないかって遠坂から言われたんだよ」
「共闘?」
「ああ。俺がバーサーカーはヘラクレスだって言ったら遠坂のヤツ、顔色が変わってさ」
「まあ、それはそうですね。というか、アーチャーのマスターは信じてくれたんですか?」
「俺が嘘をつく意味が無いって遠坂は判断したみたいだ。で、それならバーサーカーを倒すまで共闘しないか、ってなった訳さ」
ガラス窓の外に広がる、群青色に沈んだ空を見ながら士郎は言い、隣の少女は細い顎に指を添えて考えていた。
「それで、シロウは何と答えたのですか?」
「アヴェンジャーに聞いてからって答えたんだが……マズかったか?」
「……兵の意見を将であるあなたが率先して考慮している陣営、とアーチャーたちに受け取られたかもしれませんね」
「つまり、遠坂たちに舐められたってコトか?」
こくり、とアヴェンジャーが頷いた。
とはいえ他所の陣営に格下と言われるのはこの二人には最初ではなく、自分たちはそんなものか、とお互い苦笑で済ませた。
笑っていられる場合ではないのだが、他にどうしようもない。
「共闘に私は賛成です。それとマスター、言い難いのですが……」
「ん?何だ?」
「あの赤いアーチャーにですね、私の真名が知られたようです」
「真名が?」
「はい、真名です」
士郎は頷いてその言葉の意味が頭に染み込むのを待った。
真名とはつまりアヴェンジャーの正体で、他のサーヴァントには隠さなければならないものという話だったはずだ。本来なら、いの一番にマスターに知らせるものだが、精神防御のできない士郎ではばれかねないため隠す、という話だった。
それが、何故だが、敵サーヴァントに知られたという。
申し訳ないとアヴェンジャーは頭を下げてから、言葉を続けた。
「理由が分からないのが一番怖いのです。私はアーチャーには戦うところも、宝具も見せていません。見せたのは顔と魔術だけです」
それだけなのに、何故アーチャーは彼女の正体を正確に予想できたのだ。
アヴェンジャーは自分で自分の二の腕を抱く様に、膝を抱えて背を丸めた。
「アヴェンジャーが、アヴェンジャーになる前の知り合いとかか?」
「いえ、私は彼のような弓兵を知りません。過去視も試みましたが……」
まともに見えたのは、紅蓮の炎と
疲れる割に使えない眼、とアヴェンジャーは片目の縁に指を当てる。どうしてだがそのまま彼女が瞳を抉り出しそうにも見えて、士郎は慌てた。
「アヴェンジャーの真名がバレたのって、そんなにマズイか?」
「すぐに直接の害があるわけでは無いかと。私の場合は、何か特別な武器や方法で命を落とす訳でもありません。ヘラクレスならばヒュドラの毒、アキレウスなら踵、と言う風な弱点はありませんから」
「……」
今度は士郎が顔をしかめた。
このとき、さも当然にアヴェンジャーは自分の死を語ったのだ。おかしなくらい恐怖や不安の感じ取れない、突き放したその言い方に妙に士郎は腹が立った。
「どうか、しました?」
アヴェンジャーはきょとんと黙り込んだ士郎の顔を覗き込む。澄んだ黒い眼には何の渦も浮かんでいなかった。
彼女は士郎を気遣っている。士郎の怒りを感じている。しかし、それがどこから来たのか分からないと黒い瞳が言っていた。
「何でもないさ。じゃ、アヴェンジャー。皆帰ったみたいだし、俺たちも帰ろうか」
視線を逸して、ほらとアヴェンジャーを促して立ち上がる。
理科室の入り口に向かって歩きながら、士郎はまた口を開いた。
「でも、アヴェンジャーの真名がアーチャーにバレたってんなら、俺も知っといた方が良いか?」
「そう……ですね。あなたが知らなくて、アーチャーに知られているの、私は何だかイヤです」
アヴェンジャーの唇が動きかけた、正にその刹那。
「マスター!」
視界ががくんと揺れ、続いて全身に衝撃が走る。
アヴェンジャーに突き飛ばされた、と分かった瞬間、士郎の目の前で火花が散っていた。
次いでぎちぎちと音が響く。地面に尻餅を付いた体勢のまま、士郎は見た。
白銀の杖と、釘に似た形の短剣がせめぎ合っている。
黒い人影が廊下側のガラス窓を突き破って襲い掛かり、アヴェンジャーがそれを受け止めたのだとようやく理解した。
「――――ッ!」
アヴェンジャーが折れるほど歯を食いしばって、杖を回転させ釘の形の剣を払う。
杖の石突が黒衣を纏った何者かの頭ににぶち当たり、不自然なほどの重い音を響かせて襲撃者を弾き飛ばした。
アヴェンジャーに弾き飛ばされた何者かは、空中で身を捻って床の上に着地する。
アヴェンジャーのものより長い、紫の髪が広がる。釘の剣を構え、黒と紫を纏った女が一人、そこにいた。
女が顔を上げる。紫のバイザー越しに、冷たい視線が士郎を貫いた。
「こいつ……!」
ランサーやアーチャー、アヴェンジャーから感じるモノと同じ気配。
間違いなくコイツは、容易く人を殺せる。
花を手折るよりあっさりと、躊躇いなく。
その予感に士郎の肌にぞわりと寒気が走った。
「マスター!」
冷水を頭から浴びせかけられたようだった。
怯んだ意識が叩き起こされ、凍り付いていた足が動くようになる。
だがそれが何になるのだろう。
紫の影が走る。鉄色の牙を持った怪物が衛宮士郎へと迫り来る。それは人間が反応できる速さではなかった。
士郎だけなら、間違いなく死んだだろう。いつかの夜と同じように呆気なく、逃げることもできないで。
それも当然だ。この少年では、アレに勝てることはできないのだから。
だがこれも至極当然に、そんなことは起きなかった。
先端に刃の付いた杖が、火花を散らして剣を受け止める。
サーヴァントとしての姿に戻ったアヴェンジャーが士郎の前に立っていた。
黒衣の女の剣をアヴェンジャーは弾く。女は後ろに跳ね飛び、向きを変えると今度は滑るように下から襲い掛かった。
瞳の色を赤と蒼へ変えたアヴェンジャーはそれを迎え撃った。表情らしい表情の抜け落ちた顔でアヴェンジャーは黒衣のサーヴァントの攻撃を捌き、合間で反撃する。
釘の剣には鎖が付き、アヴェンジャーを絡め取ろうと蜘蛛糸のように迫ってきた。
アヴェンジャーは鎖をすべて躱しきったが、その先で待ち受けていたのは黒衣の女の回し蹴りである。
吸い込まれるように腹へと放たれた蹴りをアヴェンジャーはまともに食らい、小柄な体が理科室の窓をぶち破って、校庭へと吹き飛ばされた。叫び声も上げずに、アヴェンジャーは士郎の視界から消える。
女は士郎へは目もくれずに、自らもアヴェンジャーの後を追って飛び降りる。
我に返った士郎が見たのは、校庭へと場所を移して戦いを続けるサーヴァントたちだった。
夜目遠目では、サーヴァントたちの姿は小さな影でしかない。それでもアヴェンジャーの白い衣は、何とか捉えることができた。
白い影は何度も弾き飛ばされて地面を転がって、しかしその都度立ち上がって黒い影へと杖を振るう。
それでも、あのままだとアヴェンジャーはアレには勝てない、と感じる。
勝てないということはつまり、アヴェンジャーが死ぬということだ。
「―――――馬鹿ッ!」
それが誰に対しての言葉なのか、士郎にも分からない。ともかく、ここで案山子になっていてはどうしようもない、と士郎は動き出した。
踵を返して階段へ向う寸前、校庭で光が弾けるのを背中で感じながら、士郎は階段を駆け降りる。
何度も鞠のように転がり落ちそうになってそれでも何とか踏み止まり、一階にまで辿り着く。
正面玄関のガラス戸の向こうで、二つの人影が変わらずに激突していた。杖と短剣のぶつかる乾いた音がうるさいほど聞こえる。
ふと士郎が右手に目を落とせば、赤い令呪がある。令呪は仄かに発光し、薄暗闇にぼんやり浮かび上がった。
「衛宮じゃないか。そんなに慌てて、どうしたって言うんだい?」
士郎が右手を握り締めた途端、聞こえた声があった。
声と共に、廊下の暗がりから本を片手に人影が現れる。
「……慎二?」
そこにいたのは
衛宮士郎の友人、間桐慎二はぽかんと呆気に取られた士郎を嘲笑うように口元を歪める。
「間抜け面して、どうしたってんだい衛宮?」
落ち着け、と士郎は知らず上がっていた息を整えた。
慎二は彼の友人だ。
女子に人気があって性格に難はあるが、それでも大事な友人で桜の兄だ。
魔術にも聖杯戦争なんて殺し合いにも彼は関係ない。そのはずだ。
「衛宮のサーヴァントなんだろ、アレ。僕のライダーの結界を台無しにしてくれたんだからどんな奴かと思ったが、まさかあんなのだったとはね!」
その考えが一言で粉砕される。
慎二は怒りと嘲りの混ざった表情のまま、本を士郎へ向けた。
「お前が、ライダーのマスターだったのか?」
「そうだよ。見た所、お前のはキャスターか?引き籠るだけが能の雑魚じゃないか。それなのに、よくも僕の結界を遠坂たちと一緒に壊しまくってくれたねぇ!」
この結界は人を殺すものだと言ってのけた凛とアヴェンジャーの顔が過り、どうして、だとか何故、だとか様々な言葉が士郎の中を駆け巡った。
慎二はまだ何か言っている。自慢か、アヴェンジャーへの罵りか、ともかく彼の言葉を士郎はろくに聞いていなかった。
戦いを止めると自分はアヴェンジャーに言った。それならどうするのかと、自分に問い掛ける。
努めて冷静に、士郎は慎二を睨み据えた。
「慎二、何だってこんなコトしたんだ」
「はあ?つまんないコト聞くね。死なないために決まってるだろ。僕のライダーはあの通り、お前の雑魚サーヴァントすら倒せないようなヤツなんだよ。なら、大量の魔力を与えるしかないだろ?」
校庭ではまだ、夕闇の中でアヴェンジャーとライダーが渡り合っていた。
縦横無尽に斬り掛かるライダーと、彼女の攻撃が来る場所へ杖を正確に振るって迎撃するアヴェンジャー。
押されてこそいるものの、アヴェンジャーの動きに淀みはなく、目立つ怪我も負っていない。まだ大丈夫だと士郎は思う。
けれど同時に、嫌な予感が拭えなかった。
「……まあ、いいさ。なぁ衛宮、僕は一つ提案しに来たんだよ。お前からアイツを引き剥がしたのも、マスター同士対等に交渉するためさ」
「交渉だって?こんな物騒なもの作っておいてか?」
言いながら、士郎は廊下に目を走らせる。
慎二の手には魔力を感じる本がある。
漠然と、あれこそが彼の自信の源だという気がした。
「そこは仕方ないさ。僕だってこんな巻き込まれた戦いで死にたくない。サーヴァントをできるだけ強くしようとするのは立派な作戦じゃないか」
そこで提案さ、と慎二は両手を広げた。
「僕とお前で、手を組まないか?魔術師だっていうお前のサーヴァントなら、もっと穏やかに人間から魔力を奪えるだろ?僕らにそれを捧げるんなら、代わりに戦ってやる」
にやりと慎二は笑う。
その笑みを見て、士郎は頭がカッと熱くなった。それでも激高しないよう、一つ息を吐いてから答える。
「お断りだね、そんなコト」
「……何だって?」
「断るって言ったんだ。俺はアイツにそんなコトはさせられない。大体、無関係の人たちを巻き込むようなお前と組めるもんか」
それにさ、と士郎は一旦言葉を切ってから続けた。
「お前のライダー、全然アイツを倒せてないじゃないか。魔術師に正面から奇襲して勝てない騎兵ってなんなんだよ」
安い挑発だ。
こんなものにあっさり乗るとは思わない。少しでも怒って、冷静さを欠けば良い。
それだけだったのに、案外効きすぎたらしい。
慎二の顔が茹で蛸のように赤くなる。
「お前まで僕を馬鹿にするのかよ!?いいさ、そんなに言うなら、あのサーヴァントが僕のライダーに倒されるところを黙って見てれば良い!」
慎二が本を高々と掲げた。
士郎から一瞬意識が逸れた瞬間、彼は床を蹴っていた。
一跳びで間合いを詰めて近寄り、慎二の肘を殴り付ける。それだけで本は簡単に落ちた。
「ヒッ―――――!」
手から本が離れた途端、慎二の顔が歪む。
本を拾おうと手を伸ばす彼を押しのけて、士郎は本を咄嗟に蹴り飛ばした。
呆気ない軽い音を立てて、本は床の上を滑って行く。
それを、別の誰かが拾い上げた。
「ふぅん。こんな本に令呪を移してたってワケ。さすが御三家の間桐。小細工する知恵はあったみたいね」
「と、遠坂……!?」
本を手にした黒髪の魔術師、遠坂凛は士郎に笑みを向ける。華やかなはずの笑みなのに、どこか背筋に氷を突っ込まれたような気分になった。
「アーチャー、こっちは良いわ。
それが何の合図だったのか、終ぞ士郎は凛に尋ねることができなかった。
風切り音がしたと思った次には轟音が轟き、校庭に光の矢が着弾したからだった。
千里眼の未来視と言っても万能ではない話。