では。
遠坂凛という魔術師がいる。
極東の魔導の名門、遠坂家の当主で、本人もそれに恥じない実力を持つ才媛である。
その遠坂凛も、当然冬木の御三家として聖杯戦争には参加を決めた。
召喚時にミスをしたために、目標だった最優のセイバーは得られなかったが三騎士の一角、アーチャーの召喚には成功した。
赤い外套を纏うアーチャーは皮肉屋で事あるごと凛をからかうが、根本では凛を尊重してはいたし凛もそれを分かっているので関係は良好だった。
こうして凛の聖杯戦争は始まった訳だが、彼女はまだ他のサーヴァントやマスターの情報はさほど得られていなかった。
分かっているのは、アヴェンジャーという謎のクラスのサーヴァントとへっぽこ魔術師衛宮士郎のコンビのみ。
凛が最も知りたいのは、学校全体に生徒の命を溶解して吸収するというふざけた結界を張ってくれた主従である。
あの召喚事故としか思えないような復讐者組には、時間的に不可能。
しかし衛宮家以外で校内にいるマスターになり得そうな魔術師はいない。じゃあ誰が仕掛けたのか、と凛は思案していた。
ただでさえ新都ではサーヴァントの仕業と思しきガス漏れ事故や、殺人事件まで起こっているのだ。遠坂家の領域で起こることは、一つ一つ片付けなければならないと凛は気負っていた。
霊体化したアーチャーを伴って凛は登校する。校門を潜ると、またあの忌々しい結界の気配は感じた。
いつかの様に呪刻を弱めていくしか無いだろう。根本的に結界の解除はできないが、発動の邪魔くらいにはなる。
そう思っていると、アーチャーからの念話が入った。
『マスター、そう言えばあのアヴェンジャーというサーヴァントとマスターはどうするのかね?』
『何よ、アーチャー。あなたはあいつらが気になるの?昨日も言ったじゃない。衛宮くんが身の程を弁えるのなら、今のところは特に倒すこともないわ』
イレギュラークラスという不気味さはあるが、アヴェンジャー自体はそう強力なサーヴァントではない、とランサーとアーチャーの戦いを見てきた凛は感じていた。
おまけに、マスターは割れたガラスを直すこともできないほどの素人で、そもそも聖杯戦争自体を知らなかった。
『では、あのマスターが状況をロクに認識できずに呑気に登校すればどうするのかね?』
『そんなの決まってる。潰すわよ。そこまで躊躇うことはないもの』
『ほう。では、あの学校の屋上に、マスター共々佇んでいるサーヴァントは誰だろうな』
「は?」
思わず念話を放り捨て、凛は視力を強化して屋上を睨んだ。
屋上のフェンスから校庭を見下ろしているのは、あの赤毛の少年の惚けた面である。その横でこちらに背を向けてしゃがみこんでいる黒髪はアヴェンジャーだろう。
そう言えばあのアヴェンジャーは、変な召喚とマスターのへっぽこさのツケで、霊体化できないらしいとか何とか言っていたっけ、と凛は一部冷静な頭で考えた。
「……のこのこサーヴァントを学校にまで連れてきて、衛宮くんはわたしに喧嘩を売っているのかしら」
『落ち着け。素が出ているぞ』
『分かってるわよ!』
幸い、まだ早い時間なので辺りに人がいないのをいいことに、凛は怒髪天の勢いのまま校舎内に乗り込んだ。
目指すは校舎の天辺、屋上である。軽い人払い程度の結界を張っている辺り、完全にアヴェンジャーたちのやっていることは確信犯だった。
凛がどかんと扉を開け放つと同時に、アーチャーが傍らに実体化する。
屋上のコンクリートの上にしゃがみこんでいたアヴェンジャーとそのマスターは、揃って振り返った。
「おはよう、とおさ……か?」
凛の形相を見た士郎の挨拶は知りすぼみになり、現代風の茶色のコートを着ているアヴェンジャーは無言で杖を実体化させた。
「と、遠坂、何だってそんなに怒ってるんだ?」
「何だって、ですって?……衛宮くん、あなたもう忘れたの?次に会ったら敵同士。殺し合うって言ったわよね」
「……しかしアーチャーのマスター、聖杯戦争は日が暮れ落ちてからやるものでしょう?しかも、ここは学び舎の真ん中ですよ」
癖のない長い黒髪を右耳の下でひと束ねにしているアヴェンジャーは、何処か捉えどころの無い、感情の薄そうな表情で答えた。淡々とアヴェンジャーに返答され、凛は言葉に詰まる。
確かにアヴェンジャーの言うことにも一理はあった。
「ええ、あなたの言う通りね、アヴェンジャー。でもね、逆に聞きたいのだけれど、アンタこそ学校にまでやって来るってコトはここを死地にしたいの?言っておくけれど、わたしの領域で勝手な真似は認めないわよ」
このサーヴァントが仮に生徒を盾にして戦おうと言うなら、凛はそれを絶対に許さない。何があろうと滅してやるつもりだった。
怒りで瞳を燃やす煌めかせる凛に対して、アヴェンジャーは首を振った。
「そんなコトはしません。信じて貰えないでしょうが、私も民草の命を預かる者の末端でしたので」
「……民草ですって?ってコトはアンタはどっかの王族ってワケ?」
「似たような者です。今となっては関係ありませんが」
あくまでアヴェンジャーはのらりくらりとした態度を崩さない。
腕組みをする凛を躱すように、アヴェンジャーは杖で屋上の一角を指し示した。
「それに、此処を死地にしたがっているのは、私ではなくこの呪いを刻んだ者たちではありませんか?」
かつん、と杖の石突きがコンクリートを叩くと、灰色の壁に禍々しい魔法陣が大きく浮かび上がった。
忘れもしない。凛が消そうとしてランサーに邪魔をされたモノだ。
それを見た瞬間、士郎の顔が歪んだ。彼にもこれが良くないものであることは気配からかすぐ分かったらしい。
アヴェンジャーは白い指で魔法陣をゆっくり撫でて呪文らしき何かを呟いている。どうやら解析しているらしい。
「これが何か君は分かるのかね?」
半眼のアーチャーの鋼色の瞳がアヴェンジャーの黒い瞳とぶつかって、黒い瞳が細められた。
「まあ、形の意味と……効果、消し方と、これが発動させたらこの学び舎がどうなるかくらいならば」
「それは良い。君たちが自分で仕掛けたのでないならな」
「お前、俺たちがこれをしたって言いたいのが?」
アーチャーに食って掛かる士郎の服の袖をアヴェンジャーは引いた。仕方ないと言うように首を振る。
「アーチャー、挑発はそこまでよ。で、衛宮くんは何だってこんな所にいるわけ?アヴェンジャーをまだ自害させてないってコトは、聖杯戦争に参加するつもりなんでしょ」
「……俺はアヴェンジャーを自害させる気なんて無い。でも聖杯戦争に巻き込まれる人間がいるのは許せない。だがらできる範囲でそういう人を助けたいんだ」
呆れた、と凛は頭痛を堪えるように額に手を当てた。この衛宮士郎は筋金入りの馬鹿野郎だ。
真っ直ぐで、人間として正しいことしか見えていない。
横のサーヴァントは主の宣言を聞かされても、相変わらず刻印を指で辿っていた。冷めているのか、或いはそんなことはとっくに聞かされて飲み込んでいるのか、アヴェンジャーの表情からはどちらも読み取れなかった。
凛にはその茫洋とした顔が何とも気に食わず、アヴェンジャーを見る。すると、彼女は急に首を回して凛の方を見た。
「アーチャーのマスター、この刻印は察するにあなたにとっても忌々しいモノでしょう?」
「ええ、といってもそれ、わたしの力じゃ完全には消せない。刻印を弱めても学校を覆ってる結界が解除される訳でもないわ。忌々しいコトにね」
「これを張ったのがサーヴァントなら、そうなるのも道理です。そしてサーヴァントの張ったものならサーヴァントによって消すことができます」
冷たい灰色のコンクリートの上に膝を付いていたアヴェンジャーは立ち上がって膝を払うと、凛を見据えた。
「勿体ぶるわね。あなたならそれを消せるから、ここを見逃せとでも言いたいの?」
「そういう所です。正直、勝てない戦いはしたくないので。あなたのアーチャーはとても強そうだから」
士郎の前に立って杖を横に構えながら、アヴェンジャーは言った。
韜晦するような口調の割に、アヴェンジャーは案外マスターを尊重し、守っているらしい。
単に衛宮士郎が自分の生命線だからという理由だけかもしれないが、少なくともこの主従は魔力を命ごと貪るこの忌々しい結界を疎んじている点では、意見を同じにしている。
触媒なしで召喚したサーヴァントは召喚主に似るという。要は似た者同士だから相性が良いのだろうか、と凛はふと考えた。
『マスター、それでどうするのかね?』
冷静な従者の声に凛は意識を引き戻した。
そうだった。敵の主従関係を慮るなど、正に心の贅肉だと、凛は自分に言い聞かせる。
『本当にできるのなら、やらせてみても良いんじゃない?』
『もしやとは思うが……宝石を使わないで済むなどと考えてはいまいな?』
『何よ。こいつの魔術も見れるんだから一石二鳥でしょうが。それにこいつ、これを
確かに、ちょっと考えなかった訳ではない。
遠坂家は宝石を媒体に魔術を扱うのだから、当然金が掛かるのだ。
そんなことは無論表に出さず、凛はアヴェンジャーにやってみれば、と言った。
「了解しました。ではリン、少なくとも今日一日は戦わないという約束も結んだという解釈で良いですね?」
「いいわよ。そんなに言うなら見せてもらおうじゃない。あなたの魔術を」
はい、とアヴェンジャーは頷いて刻印の前へ進み出る。蔓草模様の装飾が施された杖を片手で持ち、呪詛の塊へ向けた。
その杖に籠められた神秘は段違いに高かった。アーチャーの使う双剣やランサーのゲイ・ボルグよりも時代の古さで言えば恐らくは上だろう。
本人の服装が現代のコートにロングスカートなので杖と合っていないが、杖の構え自体は何百何千回も繰り返した動作の様に堂に入っていた。
あの杖がアヴェンジャーの宝具と仮定して、果たして真名開放によるその効果や威力は如何程で、このサーヴァントの真名は何なのだろうか、と凛は疑問に思う。
王族か貴族の出であり、予言を行う女の英霊となれば、該当者はどれほどいるだろうか。
「……ちなみに、アーチャーのマスター。完膚無きまでにこれを壊すなら、呪文を詠唱するだけで二時間やそこらは掛かるのですが?」
「って、あなたねぇ!そっちを早く言いなさい!」
よく考えたら、ここには衛宮士郎までいる。
普段授業を抜けない学生二人が、二人共同時にいないとなれば下手な勘繰りが起きるだろう。
そんなことで怪しまれては敵わない。校内にはこれを張ったマスターがまだ隠れているのだから。
「……アーチャー、こいつがちゃんと消せるのか見張っておいて。見張るだけで攻撃は無し。それから衛宮くん、お昼に屋上に集合しなさい」
「え?」
「え、じゃないの。あなた、まさかアヴェンジャーがこれを消す間延々待ってるつもりだったの?」
きょとんとした衛宮士郎の顔を見れば、正解は分かり切っていた。露骨にアーチャーが呆れた溜息を吐き、アヴェンジャーが居心地悪そうに頬をかく。
サーヴァントの掴み所のなさと抜け目なさに反して、主の方はとことん未熟者らしい。
「良いから行くわよ。ホームルームと授業を何事も無いようにこなして、昼休みここに来るコト。良いわね?」
「あ、ああ」
カバンを掴んで士郎は立ち上がった。
アヴェンジャーの方をちらりと見ると、小さく頷かれた。
命の危機を感じ取る彼女の未来視は発動していないようだ。なら大丈夫なのだろう、と士郎は頷き返して歩き出した。
けれど最後に振り返って、士郎はふとアヴェンジャーではなく赤いアーチャーを見やった。
アヴェンジャーより頭一つ以上に背の高い弓兵の視線は、彼女を射抜くように鋭かった。
アーチャーがアヴェンジャーをそう睨むのも、敵なのだから当たり前のはずだが、どこか彼の視線に込められた感情は、ただの敵を見るものだけではないという気がした。
「……?」
自分が何を違うと感じたのか、士郎には分からない。
ともあれその躊躇いは一瞬で、士郎は階段の下に立って睨んでくる凛の後を追うのだった。
互いの主が去った後、残された従者たちの間に漂う空気は冷たかった。
心の読めない表情をしたアヴェンジャーと、その横顔を鋭い目で見るアーチャー。
アヴェンジャーはアーチャーの視線を背に感じながら、刻印に向かった。
辺りに防音と人払いと、その他の結界は施した。後はこれを壊すだけだ。
この神秘は紛れも無い宝具だが、アヴェンジャーの魔術の腕があるならば壊せないこともなかった。時間はかかるし、魔力も体力もひどく使うがやると決めていた。
アヴェンジャーも、自分の残存魔力とスキルの魔力回復率は考慮している。この結界を破壊すればますます後が無くなるだろう。
かと言って放っておくと、マスターだけではなく彼の家族の命が危なくなる。
つまりマスターの姉のような明るい教師と、妹のようだという後輩だ。
彼女たちに何かあれば、アヴェンジャーを信じると言ってくれたあのマスターは泣くだろう。悲しむだろう。
それは見たくなかった。
理由はそれだけでもないか、とアヴェンジャーは少しだけ苦笑した。
元々、自分はきょうだいの絆に弱いのだ。その自覚がある。
魔力消費を最低限に、効果は最大になるよう呪文と術を頭の中で組み立てる。
さあ唱えよう、とアヴェンジャーが口を開いたそのときだ。
「―――――『
ぼそりと呟かれた声に、思わずアヴェンジャーは反応した。
凪いだ湖面のような表情は崩れ去り、アヴェンジャーは鞭のように振り返ってその言葉を発した男を睨み据えた。
「ふむ。存外激しく反応するものだな」
言葉を発したアーチャーは、唇の端を歪めて復讐者を見下ろしていた。
アヴェンジャーは答えない。そもそも、さっきの言葉に反応すらすべきではなかったのだと臍を噛む。
「……そう睨むコトはない。君とてそれなりに名が残った英霊だろう。ならば、正体を看破されることも予測して然るべきだろう?呪われた予言者にして、亡国の王女」
アヴェンジャーは今度こそ表情を欠片も動かさずにアーチャーを睨んだ。
このアーチャーはアヴェンジャーの正体を正確に推測している。下手に反応すれば、完全に認めてしまうことになる。手遅れでもしらを切るべきだった。
「
代わりにアヴェンジャーは、険しく低い声で問いかけた。
「なに、私はただのしがない弓兵さ。安心したまえ。君が憎む
「……」
アヴェンジャーは無言のまま、アーチャーを見、弓兵は皮肉げな顔で手を振った。
唇を噛み、アヴェンジャーは踵を返して刻印へ向き直る。
あらゆる感情を圧し殺したような張り詰めた背中を、アーチャーは無言で見るだけだった。
前話では誤字というか、こちらでの構成ミスがありました。
指摘して頂きありがとうございます。今後そのようなことがないように書いていきます。