では。
正義の味方、と士郎は彼女に告げた。
彼女は何も答えなかった。
乾いた砂地に雨が染み込むように士郎の言葉を噛み締めている、そんな気がした。
「正、義の味方……?」
「ああ。俺は……親父に救われたから親父の後を継ぐ。そう、ずっと昔に約束したんだ」
月の射し込む夜に、義父と最後に語り合った。
子供の頃、正義の味方になりたかったと言った衛宮切嗣。自分をあの火災から救ってくれた彼に、士郎は約束した。
それなら俺が正義の味方になる、と。俺はまだ子どもだから爺さんの夢を形にできる、だから安心して欲しい、と。
それを聞いた義父が安らかに息を引き取ったのは、その日のことだ。
何にも変えられない、月下の夜に結ばれた衛宮士郎の輝く思い出だ。
言うなれば、アヴェンジャーの故郷への想いと同じだと思う。自分を支える芯、前を向いて生きるための誓いだった。
罪のない人が苦しむのなら手を差し伸べる。誰かの為に何かの為に、働いて彼らの命を救う。
それが正義の味方だ。
だからこそ、街の人が命の危険にあるのなら救わなければいけないと、極自然に士郎は思い、ほんの数日前にアヴェンジャーに語った。
それは今も揺らいでいない。その筈だと士郎は思っていた。
けれど、アヴェンジャーはまるで途方に暮れ、道に迷った子どものような顔をしていた。
「それが、あなたの戦う理由?」
「ああ」
「あなたは正義の味方に、なりたいと願うの?」
「願うだけじゃない。俺はならなきゃいけないんだ」
十年前、正義の味方に生命を救われたから。
救われたのなら、次は救わなければならない。
誰かになれと言われたのでもない。届かない星に手を伸ばし続けるようなものだ。
でも、諦めるということだけはできないから、だから士郎は躊躇いなくアヴェンジャーに告げた。
けれど、少女は一層戸惑っていた。
「……シロウ、それは辛い道です」
「分かってる」
それでもそうなりたいのだ、と言う少年に少女は首を振った。彼を否定しているのではなく、戸惑いが素直に表れていた。
「正義に味方すると言うのは……結局、誰の味方もしないし、できない……そういうことですよ。遍く人たちすべてに優しい正義など、何処にもないから」
人がこの世の正義を求める場所は、悪がある所、この世の地獄の中だ。
でも、とアヴェンジャーは言った。
彼女の故郷に地獄を創ったのは、極悪人でも何でもなかった。自分を正義だと信じる人々だったと。
「彼らは、決して悪人ではなかった。彼らは誰かの良き息子で、夫で、友で、誰かにとっての……英雄だった。けれど、彼らは私たちを犯し、奪い、殺し、燃やした。躊躇いなく、そうした。でも……それは私たちも同じ。守る為に始めた戦いの中で、彼らの愛する人々を殺し、奪って来たから」
人間は自分の信じるもの、愛するものの為にしか戦えない。
同時に絶対の悪も、絶対の正義も、等しく人の世には存在しないのだ。
正義はこの世にない。
寒々とした世界の導になるのは、自分の愛しいもの、守りたいものだけだ。それがあるからこそ人はお互いに奪い合い、守り合い、支え合い、殺し合い、生きてきた。
あらゆる全てを救うことは、出来ないのだ。
それでもすべてを救いたいと願うのならば、誰も泣かずに済むような正義の体現者になるというならば、その人はきっと人間ではいられない。
神ならぬ人間は絶対的な何かには決してなれないのだから。
「シロウ、あなたの正義は一体誰の顔をしているの?」
全てを見通せる瞳を持つ少女はそう言った。
士郎は、何かを言いたかった。
すぐ目の前で、士郎だけを見ている少女に答えなければならなかった。
か細い肩を月光が白く浮かび上がらせていて、世界を映す彼女の瞳は士郎をそこに映して問うていた。
自分を助けてくれたときの、切嗣の微笑みと涙。月の下で安心したと囁くように言って、静かに息を引き取った養父が思い出された。
彼だって言っていた。
すべてを救うことはできないのだと。
その彼が救いたくて救えなかったもの。彼の娘はここにいるのだ。
けれどこのまま進めば、イリヤスフィールは戻れなくなる。
イリヤスフィールを引き止めれば、アヴェンジャーは救いたいものを救えなくなる。
アヴェンジャーに何か言わなければならなかった。
それでも、答えられなかった。
答えられない士郎を、アヴェンジャーはただ見つめていた。
大きな黒の瞳は底知れなく深かった。決して絶望してはいないけれど、その瞳は日の光も差し込まない暗い深海のようだった。
沢山のものを視過ぎて、多くの光を見失って、だから手の中に残ったほんの小さなものに縋ることしかできない者の眼だった。
彼女は彼が何を言っても受け容れると、ふとそんな気がした。
あるいはここでアヴェンジャーを切り捨てても、彼女は恨み言の一つも言わないのかもしれない。
願いを叶えるまで、聖杯を得られるまで、何度も何度も時と空間を巡り巡って戦って、諦めないに違いない。
―――――その果てに願いを叶えられても、それでこいつは幸せになれるのだろうか。
―――――それじゃあ、幾ら大勢が救われても、誰が助かっても、何の意味もないじゃないか。
士郎はそのとき、そう思ってしまった自分に狼狽えた。正義の味方であるのなら、思ってはいけない事を思ってしまったような気がした。
そして彼の戸惑いを、アヴェンジャーはその瞬間に感じ取っていた。
密やかな衣擦れの音を立てて、アヴェンジャーは立ち上がった。
「……私が今夜言ったことは、忘れて下さい。私にはあなたに何かを言う資格はありません」
障子に手をかけ、アヴェンジャーは一度だけ振り返った。
「今日はもう、眠って下さい。明日は早くから、英雄王のことをリンやアーチャーと話し合わなければいけませんから」
それきり、振り返らずに彼女は出て行った。
障子に映る影は音も立てずに跳び上がって見えなくなる。
感じる気配は近かった。が、アヴェンジャーは士郎の前から姿を消したのだ。
忘れて下さいと言ったアヴェンジャーの声は、昨日までと何も変わっていなかった。
私には分からない、と呟いていた、ただの迷える少女のような声とは違ってしまっていた。
明日になればアヴェンジャーは本当に何事も無かったかのように振る舞うのだろう。これまでと同じように。
それでも、士郎は自分が大切な何かを掴み損なったと思った。失敗した、という予感がした。
何かを言わなければならなかったのだ。伝えなければならなかったのだ。
それが例え間違いであっても、歪であっても。
自分自身の言葉で。
全身から力が抜けて、彼は布団の上に仰向けになった。両手で顔を覆うと、目の前に暗闇が押し寄せた。
アヴェンジャーを信じると、彼女の言葉に応えるのだと、彼女の兄にまで啖呵を切ったのにこれなのだろうか。
どうしようもないことを、どうにかしようとするのは半端な自分にはできないのだろうか。
そう思うと、今更に疲労感が全身を蝕んで来るようだった。
瞼が開けていられないほどに重くなり、手を退けて明るくなったはずの視界が明滅し始める。
衛宮士郎は、今度は眠りに―――――夢さえ見ないほどの深い眠りの中へと落ちていった。
#####
その場から離れてしまった。そうするべきではなかったと言うのに。
詰まる所は、マスターの元から逃げ出してしまったのだと、アヴェンジャーは屋根の上にいて物思いに耽っていた。
瓦の敷かれた屋根に腰掛け、ぼんやりと街を眺める。深夜の冬空の下、人の営みの光はあまり見えなかった。
ふと自分の手を見つめた。
寒さは感じない。何日もまともに眠っていないというのに眠気も感じない。空腹もだ。何故なら己はサーヴァントになったから。
体の器は異なって、でも心の形は何も変わらない。
信じてくれる人と何を語り合い、何を話せば良いのか分からなくなっていたのだ。
自分を語り、相手を聞き知り、理解し合う。
昔、まだ何も知らない子どもでいられた頃はできたはずのことなのに、一体どうやっていたのだろう。
簡単だったはずなのに、アヴェンジャーはそのやり方を忘れてしまっていた。
―――――信じると、久しぶりに言ってくれた人なのにな。
可哀想な王女様、気の狂った神官、気の毒な我が娘、嘘吐きの巫女。
そんな風に扱われ続けて、一体自分は己の心を守るために何を手放してしまったのだろうか。
それとも、愛する人々の終わりの様ばかり見せつけられて、何処かで狂ってしまったのだろうか。
「私には、結局、何にもできないのかな……
そも、最初の願いは何だったろう。
アヴェンジャーにとって、聖杯戦争に参加する前の出来事は、ほんの数日前の出来事でしかない。
そのときに予知したのは、自分が殺される未来だった。
自分を戦利品にした王の妻に、ただの嫉妬と怨みによって殺される。己に与えられていたのはそういう結末だった。
それを視ても、不思議と狼狽えなかった。
死ななければならない理由は理解できなかったけれど、この先生きていかなければならない理由も見つからなかったからだ。
ただ自分と共に囚われた故郷の人々が、自分と諸共に殺されるのは認められなかった。
彼らを逃がすためには、予言を信じてもらうしかなくて、でもその為には呪いが邪魔だった。
だから語りかけて来た世界に応じたのだ。
対価に死後を差し出すから、生きたままサーヴァントとなり聖杯を得る機会を与えてほしい、と。
ろくな契約でないのは分かっていた。
どうしようもなくなった人間に持ち掛けられる契約が、まともであるはずがない。
それでも構わなかった。
大切な人々は黄泉の川を渡り、かけがえのない故郷は灰燼に帰していて、もう失うものは何にも残ってはいなかったからだ。
―――――目の前でまだ生きているほんの僅かな故郷の人々以外は。
歴史に名を残すような英雄でない普通の人々だった。それでも彼らは故郷の民草だった。
王の娘だという義務は関係なく、彼らはアヴェンジャーの愛する民だった。
彼らを救いたい。それだけだったはずなのに。
―――――どうして数日しか過ごしていない少年が、こんなに思い出されるのか。
アヴェンジャーが、ぼんやりと星空を見上げたときだ。
彼女から離れた屋根の上に、赤い外套の弓兵が現れた。
「何用ですか?」
「さて、特には。主と上手くやっていた君が沈んだ面で何をしているのかと、笑いに来ただけだ」
皮肉気な言い方にも、アヴェンジャーは不思議と腹が立たなかった。
褐色肌の弓兵を見上げて、アヴェンジャーは何でもないかのように言った。
「やっぱりあなたは……シロウですね」
「……何を言い出すかと思えば」
心底呆れたと鼻を鳴らすアーチャーに、アヴェンジャーは首を振った。
「格落ちとは言え私にも千里眼はあります。―――――確信したのは、シロウの投影を間近で見たときですが」
「……」
信じたくないという本心も手伝って、結論を出すのに時がかかった。
それでも特異な魔術回路と風貌は、見間違えようがなかった。最後のひと押しになったのは、先程眠っていたときに垣間見た夢だ。
士郎の治療に魔力を使い、消耗を抑えるために僅かの間だけ眠りについた。
そのときに、赤い炎に焼かれる街と彷徨う幼い少年を見たのだ。
その夢はマスターとサーヴァントの繋がりから流れて来た、士郎の過去だった。
それとそっくり同じ光景をアヴェンジャーは見ていたのだ。以前、屋上でアーチャーに正体を見破られたときに使った過去視で。
―――――信じたくは無かったのだが。
アーチャーは肩を竦めた。
「降参だな。千里眼を使われては認めざるを得ない。そうだ、確かに俺の真名はエミヤだ」
「……リンは、あなたが誰かは?」
「伝えてはいない。が、薄々は気付かれているだろう。知らぬは小僧ばかりという訳だ。……まぁ、君も眼の割に時間をかけ過ぎていると思うがね」
確かに、英雄王ならば初見で見破るだろうな、とアヴェンジャーも唇の端に苦い笑みを浮かべた。
それにしても、やはりアーチャーは自分が誰かを凛に伝えていなかったのだと思うと、
それにまだもう一つ、アーチャーに関しては分かったことがあった。
「あなたは守護者……。
「そういうコトだ。君はいずれ抑止の守護者になる。守護者として使役され、世界のために千里眼の力を振るうだろう。だが、その際同業者に不信感を抱かれてはままならない。従って、私たちのような守護者は例外となる。そうなるように調整が施される」
そうか、とアヴェンジャーは乾いた瞳で頷いた。
「呪いは守護者にだけは効かないという世界の修正……というより改変ですか」
衛宮士郎がアヴェンジャーを信じた訳も、それならば理解できた。
彼には、いずれ抑止の守護者になる
この世界において彼が守護者になるか否かは、英霊エミヤになるかは確定してはいない、と思いたかった。けれど、彼の辿る未来の一つに守護者へと落ちる道があるのだ。
ようやく明かされた奇跡の種だった。
けれど、アヴェンジャーは知りたくなかった。
彼女の知る英雄は皆、手を血で汚していない者などいない。尤も、自分の時代と場所を鑑みればそれは当たり前だ。
だが、この国のこの時代は違う。過ごせば過ごすほどその思いは募っていた。だから、そこに生まれた者が英霊へと至った道はどんなものかと思うと、何も言えなかった。
英霊エミヤの色の変わってしまった瞳を見れば、尚更だった。
「守護者のあなたは……何処かの時代の何処かの世界で守護者になった私とも会っている。だから私の真名も分かった……という理解で良いのでしょうか」
「千里眼の巫女が、それを私に聞くのかね?自分で知れば良かろう」
腕組みをして立つアーチャーを、アヴェンジャーはゆらりと立ち上がり、正面から見た。
瞳の奥に光がちらつき、瞬いて消えた。
「止めておきます。大したことでも無いでしょうから」
アヴェンジャーはアーチャーから顔を背けて、冬木の街を見下ろした。解かれている黒髪が風になびいて、白い横顔を隠す。
二騎のサーヴァントの間に沈黙が下りた、そのときだ。
ずん、と地面が揺れた。
「……ッ!?」
アヴェンジャーとアーチャーは共に地響きの来た方角を見た。
揺れが来たのは街外れの霊脈、円蔵山からだった。そこには柳洞寺があり、現在はキャスターの工房が構えられているはずだった。
「今のは……」
アーチャーの鷹の目が、刃のように鋭くなる。
目を凝らせば、柳洞寺のある場所からうっすらと煙が上がっていた。
またも事態が変化したのだと、悟らざるを得なかった。
アヴェンジャーは理想の正義をキレイだと思うことすらできなくなっている系人間。
善人ではありますが、強ちまともな精神という訳でもありません。