星の距離さえ動かせたなら   作:歌うたい

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Re:Play 2『Canopus』

過去の自分への脱却という目標を、言葉にこそ掲げては居なかったが、その変革の決意は決して嘘ではない。

正義だとか、悪だとか、そんな曖昧に拘って眼を曇らせた自分と決別し、言い訳を重ね続けて人を避けていた自分から、少しでも強くなるのだと。

ヒーローにならない、ヒーローになる必要なんてない。

憧れた情景など無為にも等しいのだと、一方通行はあのロシアで気付く事が出来たのだから。

 

まだきっと、理解するには持て余してしまうであろう、人の想い、人の好意、自分の想い、自分の好意。

不恰好でも不様でも守りたい者達を守る為には、他人を頼らなくてはいけないのかも知れないと、漸く人としてのスタートラインに立つ事は出来た。

だからこそ、今、一方通行は受け入れなくては行けないのかもしれない。

光に生きる人からの、シンプルな好意や気遣いを。

そう、思ってはいるのだが。

 

やはり不器用で恥ずかしがり屋で臆病な白猫は、撫で付ける手の暖かさに一々驚いてしまうようで。

受け入れる様になるには、まだまだぬるま湯で馴らして行くしかないのだろう。

 

 

「どう、早起きして歩くだけでも気分が良くなったりしない?」

 

 

「しねェよ、お気楽女」

 

 

「誰がお気楽かっ!全く、さっきからそうやって貴様は憎まれ口ばっか叩いて、もうちょっと歳下らしくしなさいってば」

 

 

「一つしか変わンねェだろォが。つゥか、杖ちゃンと持ってろ。くそ高ェンだぞ、それ」

 

 

「心配しなくても大丈夫、ちゃんと持ってるわよ。というか、貴様こそちゃんと着いてきなさい、まだコースの3分の1も歩いてないんだから。それともやっぱり手を引っ張った方がいい?」

 

 

「だからいらねェよ、クソッタレ!」

 

 

昨日に続いて雨雲一つ見当たらない空に八つ当たり染みた怨めしい視線を向けて、白い上下のジャージに身を包んだままテクテクと姿勢良く歩いている吹寄のピンと張られた背中を眺めて、溜め息。

1月も半ばに差し掛かって肌寒い朝は、何故だか昨日と比べて急激に気温が下がったらしく、その事実と寒さが得意ではない一方通行の体質が噛み合って、より一層彼のやる気を阻害してしまう。

 

昨日の早起きが後を引いたのか、アラーム一つ掛けてすら何故だか目が醒めてしまって、二度寝しようと再び毛布を被ったものの、御約束みたく眠気は一向にやって来ない。

挙げ句、もしこの儘フケてしまえば、あの良く分からない御人好しも思い通りに行かない世の中というものを理解するだろう、それが彼女の為でもあるだろう、と……考えてしまえば、俗に云うツンデレに分類されている彼がどうするか等、実に分かり易くて。

 

思い切り不機嫌な顔をしながらこんなにも朝早く起きてきた一方通行に驚いて手に持っていた新聞を落とした黄泉川愛穂にジャージ寄越せと告げて、拾い直した新聞紙を真っ二つにする程に更に彼女を驚かせてしまったのは余談である。

愛穂が予備として持っていた若草色のジャージは下は兎も角、上はブカブカでサイズが合わない事に舌打ちしながら、もうこれで良いやと投げ遣り気味に大股で玄関へと向かい、杖を手に出掛けた一方通行を見送った愛穂は終止、何が起こっているのかさっぱり分からず終いであるのだが、そんな事はどうでも良いと。

若干自棄糞気味な心境でブツブツと文句を垂れながら公園に辿り着いた一方通行を待ち受けていたのは、何だかんだで彼は来るなと予測を立てて、それがしっかり的中した事に昨日と変わらず御満悦な笑顔を浮かべる吹寄だったのは言うまでも無い。

 

 

「でも、昨日言ってた事は本当だったみたいね。ちゃんと杖無くても思ったよりは歩けてるし」

 

 

「もし殆ど歩けなかったらどォしてたンだ、オマエ」

 

 

「だから名前で呼びなさい。歩けなかったら、それこそリハビリみたいに手を繋いで少しずつ公園の中をグルグルと……」

 

 

「……じゃあちゃンと歩けてンだから、手を繋ぐ必要は無ェだろ」

 

 

「もし転んだりしたら危ないでしょうが、この分からず屋。それとも何、貴様恥ずかしいの?」

 

 

「頭沸いてンのか……そンな訳ねェだろ。ベタベタすンのがうぜェだけだ」

 

 

恥ずかしいか恥ずかしく無いかと云えば、当然少ないとは云え周りの視線も集まる上、女というよりは寧ろ誰かと手を繋ぐのはどこか抵抗感というか、ムズ痒い、そんな奇妙な感覚を覚えてしまう。

他人と触れ合う機会は少しずつではあるが増えて来ているのだろう、彼の言う光の住人と比べれば、とても小さくささやかなモノではあるが。

吹寄にとっては特別意識する事の無いモノだとしても、闇に片足どころか全身を突っ込んでいた一方通行からすれば、他人の手に触れる、他人の好意を受け取るという行為は認識の差が生まれても仕方ない。

 

上手い切り返しも思い付かぬまま、人気の少ない舗装された道路を風を切って歩きながら、持て余す割り切れなさに何とも言えない心地を吐き出す様に、一方通行はひっそりと溜め息をついた。

 

 

「そういえば、一方通行は大覇星祭には参加していたの?」

 

 

「あァ、人がゴミみてェに集まる祭りか。見物しかしてねェよ」

 

 

「あ……もしかして、怪我の所為で? そうだとしたらごめんなさい、軽はずみだったわね……」

 

 

「一々謝ってンじゃねェよ、どの道参加なンざしねェつもりだったンだ。見物だってあのクソガキが駄々捏ねたりしなけりゃ……」

 

 

笑ったり威張ったり落ち込んだりと忙しいヤツだと紅い瞳を細めながら、人という人で溢れて兎に角鬱陶しかったと云う感想しか抱けなかった大覇星祭の記憶を忌々し気に吐き捨てる。

彼の連れ合いである打ち止めという少女が見に行きたい見に行きたいと騒ぎ立てるので仕方なくチラッとだけ見物したが、一方通行の気性からして人の集まる催し事というのは肌が合わないらしい。

 

 

「クソガキ……?」

 

 

眉間に皺を寄せて不機嫌な面立ちを浮かべる一方通行の呟きに吹寄は不思議そうに首を傾げる。

ポニーテールに纏めている彼女の漆羽色の長い髪が、猫の鍵尻尾みたいひょこりと風を切るのを眺めながら、口を付いて出た余計な愚痴に、しくじったとより一層不機嫌な皺が濃くなった。

一般人相手にすんなりと打ち止めの事情を説明する訳にも行かないのは当たり前なので、取り敢えず適当にはぐらかざるを得ない。

 

 

「面倒見てるクソガキが居ンだよ、保護者の連れでな」

 

 

「へぇ……ってことは、今はその保護者さんとそのお子さんとの三人暮らし?」

 

 

「……まァ、後二人程うぜェのが居るが、そンな所だ」

 

 

「5人暮らし……なかなか賑やかそうね。どんな人達なの?」

 

 

比較的運動能力が高いのか、息を乱す事もなく一定のペースで歩く吹寄は、一方通行の変わった環境に興味を示したように小気味良く喉を鳴らす。

保護者という少し遠回りな口振りからして、両親や兄弟というニュアンスを感じない不自然さが引っ掛かるが、余り単刀直入に聞くのも憚られた。

一方通行の纏う険のある雰囲気は、正直に云えば普通とは言い難い。

だからこそ余り深く尋ねるのも拙いという直感から、当たり障りのなさそうな言い回しをする辺り、吹寄は存外にも思慮深い面もあるらしい。

けれど、彼女が予想するよりも遥かに、一方通行を取り巻く環境は複雑であった。

 

 

「あー……喧しいクソガキと、目付きの悪ィ性悪女と、元研究者のクソニートと、口うるせェ教師兼警備員」

 

 

「……こ、濃いわね………………ん?」

 

 

「……?」

 

 

淡々と指折りに数えられる面々の特徴が偏り過ぎて、吹寄の脳裏に浮かぶ彼を含めた五人暮らしの図式が混沌としてしまう。

他人を素直に評するには如何せん口汚い一方通行の偏見も混ざっているとはいえ、性悪と元研究者のニートというのはどうなのだろう。

其々の年齢も分からないが、取り敢えず彼が濃い面子に囲まれて暮らしているのだなと理解して、ふと、思い至る。

 

 

(……ん?あれ?)

 

 

教師兼、警備員。

どこか身に覚えのある様な肩書きというか、身近にそんな人物が居た気がする様な、引っ掛かり。

気の所為かと流すには、カリカリと違和感が爪を立てるのがムズ痒くて、どうにも落ち着かない。

というか、脚を止めて黙り込んだまま難しそうに考え込む吹寄を、いきなり何だと奇妙なモノを見る様な風情の一方通行の、格好。

細い彼の体躯では、アンダーは兎も角トップは少しサイズが大きい若草色のジャージは、そういえば何処か見覚えがあるなと、勘繰って。

ふと、彼女の良く知るとある人物が、候補に上がる。

 

 

 

「ね、ねぇ……その教師っていうのが一方通行の保護者さん? どんな人なの?」

 

 

「……あァ? だから口うるせェヤツだっつってンだろ」

 

 

「そこだけじゃなくて……例えば、分かり易い口癖とかあったりしない?良く、じゃんじゃん言ってたりとか」

 

 

「は?何で知って…………あ」

 

 

一方通行の膨大に広がる記憶群で、急速に取捨選択されている有益な情報から齎された結論に、思わず呆気に取られて、彼にしては珍しくポカンと間の抜けた姿を見せた。

黄泉川愛穂が言っていた通勤先の学校名、吹寄が先日何気なく零した学校名、彼女のある意味特徴的な普段の格好、現在の一方通行の着用しているジャージ。

彼の予想通り、何の因果か黄泉川愛穂と吹寄制理は、所謂教え子と教師という関係で。

 

体育教師であり尚且つ年頃の男子には大変に目に毒なスタイルと、ジャージ姿な為に余りきなびやかでは無いが間違いなく美人と云える部類であり、面倒見も良い愛穂を慕う生徒は多い。

その生徒達の内の一人である吹寄も当然愛穂の存在を知っていたし、委員長としてたまに声を掛けられる間柄であるので、愛穂が警備員である事も知っていたし、たまに警備員としての緊急召集で呼び出される愛穂の姿を目にした事もあった。

 

思わぬ所で意外な人物との繋がりという、ちょっとしたサプライズに少し興奮する吹寄と、何故もっと早く察せなかったと己の迂闊を噛み締める一方通行は見事に対照的である。

 

 

「やっぱり黄泉川先生か! 凄い偶然ね、世間は狭いとは言ったけどまさかこんな所で繋がりがあったなんて……」

 

 

「あァ面倒くせェ、俺とした事がとンだ失態だ……」

 

 

「何を落ち込んでるのよ貴様、別にそんなに気にする必要ないじゃないの。寧ろ黄泉川先生ならリハビリとか手伝ってくれたりするでしょ?」

 

 

「そっちじゃねェ……おい、黄泉川にこの事喋ンなよ、いいな」

 

 

「え、なんでよ? もしかして先生に知られると恥ずかしいとか? 駄目よ、リハビリには身近な保護者とかのケアが必要なんだから、そのくらい我慢しなさいって」

 

 

「違ェよ、寧ろ黄泉川はどォでも良いが、アイツが性悪に話しちまったらクソ面倒なンだよ!!」

 

 

吹寄をツテに愛穂に伝われば、常々一方通行の性格や生活改善に尽力するべく頭を捻っている過保護な彼女のこと、さぞ喜んで有頂天になるだろう。

それも鬱陶しい事には変わらないのだが、それよりも打ち止め、そして何よりも番外個体に知られるのだけは避けたい。

芳川や打ち止めは素直に喜ぶなり反応を示すが、一方通行が性悪と云うだけあって番外個体は彼に対してかなり辛辣であり、常日頃一方通行を茶化しては悦に浸るほどである。

彼女の生い立ちが影響しているとはいえ、仮にも一般人と朝からウォーキングしてる健康的な一方通行など、番外個体が知れば良くて大爆笑、悪くて散々揶揄った挙げ句、場合によっては更に一方通行を揶揄うべく吹寄に接触でもしようと企んでも不思議ではない。

一方通行を馬鹿に出来る材料一つでもあれば嘲笑を浮かべて飛び付きそうな程に性悪、それが彼の中での番外個体の認識であるのだ。

 

 

「んーでも、リハビリするならある程度は周りに事情を知って貰ってた方が良いわよ、やっぱり。それに御世話になっている人に隠すのは戴けない、ちゃんと報せるのが礼儀でしょ」

 

 

「……グッ、正論付きやがって……分かった、好きにしろよもォ……」

 

 

「そうさせて貰うわ」

 

 

まだ出逢って精々二日だが、吹寄が余り融通の効きそうな人物でない事は見に染みて理解出来てはいたし、光の住人にである一般人相手に能力をちらつかせて脅す等、今の彼の矜持には反するだろう。

愛穂も一方通行にとっては過保護で鬱陶しい部分が目立つ所はあるが、聞き分けが無い訳でもないので、彼が極力秘する様に頼めばそう簡単には口を割らないだろうという信頼は、ある。

 

取り敢えず、最低限の水際で食い止めさえすれば、番外個体に知られるという、名前の通りワーストな結果にはならない筈だと、実に規模の小さい根回しを真剣に考ずる辺り、やはり一方通行の精神は些か未熟と言えた。

けれど、無闇矢鱈に恫喝したり迂闊な暴力に訴えなくなったりと、いつぞやの実験以降、少しずつではあるが着実に成長はしているのだと、彼はまだ自分で気付けていない。

 

 

「まぁ、詳しい経緯は聞かないから安心しなさいよ。さて、それじゃそろそろペース上げてみましょうか。キツいって思ったらちゃんと言いなさいよ、一方通行」

 

 

「……口うるせェのは教師も生徒も変わンねェのか」

 

 

「口煩いって言うな。全く、黄泉川先生も大変ね、こんな反抗期の面倒見るなんて」

 

 

「ハッ、知るかよ。どいつもこいつも下らねェ世話焼きやがって……」

 

 

舗装されたごみごみとした道を抜けて、開けた河川敷へと繋がる石畳の短くも段差の高い階段に脚を掛けながら、不快でも煩わしさもない奇妙で擽ったい仄かな感覚は新鮮で、僅かな苦笑混じりの溜め息を落とす。

放っておかない事への不理解、放っておかないでいてくれる事への、見捨てないでくれる事への、偽れないほんの少しの感謝。

憎まれ口しか叩けない自分に、何故そうも構おうとするのは、未だに分からないけれど。

 

 

――ま、先生の気持ち、分からなくも無いわね。まだ少しだけ、だけど。

 

 

鼓膜を撫で付ける、まだ春の暖かさを拒む頑固で冷たい冬の風と、水面の波紋を広げる様な、凛と澄んだ鈴の音。

 

酷く綺麗にそして優しく耳に届いたソプラノに、目を向ければ、オリオン座の南で光るシリウスの輝きを咲かせた美しい女の笑顔が、一方通行を見下ろしていて。

穢れのない鈴蘭の花弁にも似た、自分のモノとは余りにも違う掌が、差し出されていて。

 

 

「…………フン」

 

 

そこまで甘えるつもりはないと、脚に強く力を入れて、小綺麗で眩しい世界に生きる彼女が差し出した掌を、掴む事もせず、スルリと脇に置き去りにする。

余りにも汚してしまった自分の掌とは違って、彼女の綺麗な掌に触れることが憚られた。

 

彩り色付いた水彩画を、白いペンキの一筆で汚してしまう事への禁忌を恐れて、手を伸ばす事も恐がった白猫の臆病さに、彼女が気付く事は出来なかったけれど。

 

 

――そういう、意地っ張りなとこよ。

 

 

呆れたように肩を竦めて、仕方ないなと背中越しに微笑む彼女に何も言えない乏しさが、甘い屑となって、溜め息すら風に浚われる。

 

反射して光る河川の波の水面は、自然を侮辱するこの科学の街でさえ、陽光を浴びてキラキラと煌めいていて。

科学の産物の澱みをかき集めた存在の様な自分には、その煌めきが酷く皮肉気に見えて。

 

 

無性に、悔しかった。

 

 

 

 

 

――――

―――――――――

 

 

 

「ははぁ……そういう事だったじゃんね。昨日といい今日といい、アイツが珍しく早起きしたもんだから驚いたが、そんな経緯があったとは思わなかったじゃん」

 

 

「えぇ、私もまさか一方通行の保護者が黄泉川先生だとは思わなくて……」

 

 

人生とはこれだから面白い。

運命なんてモノはきっと、瞳に映せれば銀河に浮かぶ無数の星屑ほどに溢れていて、極彩色の迷宮染みた複雑さで絡み合った壮大な蜘蛛の巣みたいなのだろう。

何が起こるか分からない、一つの原因に結果が集束して、それは手繋ぎした人の和の様に、関わった両手が多ければ多い程に連なっていく数多の星屑のリングの様に。

 

どれだけ多くの人に関われるのか、どれだけ多くの人と繋がれるのか、その一片を実感出来る掛け替えのない瞬間が、黄泉川愛穂は好きなのだ。

その過程に関わって、或いは誰かに道を示して、或いは誰かに道を示される、それを学んでいくからこそ、人生なのだと。

教育者もまた、教わり、導かれるべき者。

総てを修めて何一つ学ぶ必要のない人間なんてきっと、誰一人として居ないのだから。

 

教師であり、生徒。

彼女にとって、教えて教えられてを繰り返している代表といえた同居人の少年に少し影響されているのか、苦めのホットコーヒーに舌鼓を打ちながら、愛穂は母性的な笑みを浮かべた。

 

 

「アイツも丸くなったじゃんねぇ」

 

 

放課後の職員室、それぞれ所用を抱えているのか人影は少なくて、斜陽の茜を背に影を透かせたドレープの靡く形は、拗ねて顔を背けたとある少年の意地っ張りを映したようで。

けれど、それでも最初に出逢った時よりも、随分優しくなれているんだな、と。

切っ掛けは兎も角、一方通行と関わりを持った教え子の話を聞く限り、少しは自分自身と向き合えるように、彼なりに努力してくれているらしい。

その努力を足掻きと捉えて、なかなか素直にその隙を見せてくれない臆病さは、少し寂しいなと思ってしまうけれど。

 

 

(リハビリ、か。水臭いヤツじゃんね、全く)

 

 

甘えた姿を見せずにいつも見えない所で藻掻こうとする彼の癖を先に治したい所ではあるけれど、安心しろと抱き締めても直ぐに腕の中から抜け出してしまう白猫みたいな繊細さも、彼という記号の一部なのかも知れない。

身近な人間にこそ隙を見せない神経質さ、それを水臭いなと呆れてしまうよりは、リハビリするという気概を良い傾向だと捉える方が建設的だろう。

 

カップから沸き立つ、届かない天を目指して昇る細い白雲の先で、職員室に長居するのは成績優秀な彼女といえど居心地が悪いのか、少し落ち着きなく身動ぎする教え子へと、愛穂らしい夏に咲く向日葵ような快活な笑顔を向けた。

 

 

「丸くなった……ですか。黄泉川先生は、彼とは長い付き合いで?」

 

 

「んー? うぅん、短いとも言えないし、長いとも言えないじゃんねぇ。でも、最初に会った頃はやたら尖ってたり、荒れてたりと問題も多かった。今では結構大人しくなってくれたけどな」

 

 

急に姿を消して、学園都市の闇だったり、暗部なんてモノにまで関わって身を危険にして、どこか自壊的な暗さを紅い瞳に宿して、気付けば身も身体もボロボロにして。

漸く安息の時間を取り戻してきたんだなと思えるぐらいには、我武者羅に足掻いていた若い白猫は今、大人しく丸まってくれている。

目の前の少女の無償の優しさに驚き竦んで戸惑ってはいるけれど、手を払い退ける事はしなかっただけ、彼には確実に変化が訪れている事は間違いない。

 

それが、彼女には想像も付かないほどの大きな『何か』を乗り越えた故に、気力を削り切ってしまった一方通行が自ら進んで牙を畳んだ訳ではなく、もう牙を剥ける力も残ってない程に疲れてしまっているという背景が、愛穂にとって、物悲しかったけれど。

 

 

「…………」

 

 

ほの少しちらつかせた一方通行の過去に、興味深そうに考えて込んでいる吹寄の姿に、眩しい光を見る様に細まる深い葵の瞳。

賢くて面倒見の良い、吹寄制理という生徒は所謂出来た優等生とも言えるけれど、暗い闇も蔓延るこの学園都市では、彼女は非力な少女に過ぎない。

 

一方通行の過去と彼が自身を苛む程の罪科を黄泉川愛穂は詳しくは知らないが、きっと途方もなく残酷で、あの若さで命というモノを息が詰まるくらい必死に理解しようとさせるほどに重い事なんだろう、と。

その苛むモノごと抱き締めてあげて欲しい等と、多くまでは願わない。

せめて少しでもあの臆病な白猫が心を傾けるくらいの、ささやかな友人になって欲しいと願うのは、望み過ぎではない筈だと思うから。

 

不器用で無愛想で可愛くないところも多いけれど、見え隠れする彼の気難しい優しさに、気付いてあげて欲しい。

 

 

「あら、吹寄ちゃんと黄泉川先生。どうしたのですかー?放課後まで残って……」

 

 

「月詠先生……」

 

 

不意に彼女達に声を掛ける幼い声に視線を向ければ、雪を溶かす暖かな桜色の瞳と髪を持つ幼い顔立ちの少女然とした人物が、小さな体躯にプリントの束を抱えて意外そうに目を丸めていた。

そのまま愛穂の隣のデスクにプリントを置いて、座席の高い椅子にポンと飛び乗って会話に混ざる姿勢を作った彼女――月詠小萌、姿形は兎も角、列記とした教師であり、吹寄制理の担任でもある。

 

 

 

「おっ、小萌先生。いや、ちょっと吹寄に相談というか質問があるって言われて、こうして時間作ったじゃんよ。ホントは空き教室でするべきかとも思ったんだが……」

 

 

「なるほど……教室なら、丁度今、先生のクラスが空いてますよー」

 

一瞬、優等生である吹寄がよもや問題でも起こしたのかと不安になるも、特にそういう重い空気でもない事にそっと小萌は息をつく。

常にきびきびとした態度と確りとした気質の吹寄が相談事とは珍しい、と。

力に成れるかは兎も角、相談事なら担任である自分にして欲しかったなとちょっとセンチになりながらも、余計な口は挟まない。

なるべく人に聞かれたくないのならと、気を回す辺り、流石は愛穂と並んで生徒想いと評判の名高い教師である。

 

 

「……らしいけど、どうするじゃん?吹寄がそっちの方が良いなら私は移動して構わんけど」

 

 

「あ、いえ。時間作って貰ってる上に、そこまでは。それに、相談というよりちょっとした確認みたいなモノですし」

 

 

「ふむふむ、確認ですか。良ければ先生にも教えて欲しいです」

 

 

生徒と時間を共有するというのは、愛穂にとっても小萌にとっても嬉しい事には変わらない。

こういった小さなコミュニケーションでも大事にしたいのだろう、窺う桜色の瞳がキラキラと輝いて、吹寄と愛穂はそんな大仰な事ではないけれど、と苦笑した。

 

 

「簡単に言えば、私が偶然知り合った相手が、黄泉川先生の同居人だったって事なんですよ」

 

 

「そういう事じゃん……あ、そういえば小萌先生は一度だけ話した事あったじゃんね? あの真っ白なヤツ」

 

 

「あぁ、あの真っ白な仔猫ちゃんですか、懐かしいですねぇ……暫く前にやっと帰って来たって喜んでましたね、あの子と、あのちっちゃな女の子は元気なのですか?」

 

 

「ん、勿論元気じゃんよ。チビ助の方はじゃじゃ馬っぷりに拍車が掛かってるけど」

 

 

「月詠先生とも知り合いだったのか、一方通行のヤツ……意外と顔広かったのね」

 

 

愛穂が一方通行と打ち止めを引き取る際に居合わせたので、小萌もしっかりと二人の事を覚えていたらしい。

というよりは、初対面ながら説明不能な生物、挙げ句には何かの実験体の如く扱われたのだから、外見のインパクトも相俟ってすんなりと思い出す事が出来たというべきか。

度々愚痴に出てくる少年の近況を愛穂の口から最近聞いていなかったが、どうやら元気なのは間違いないようで、良かった良かったと小萌は胸を撫で下ろした。

 

よもや小萌とも知り合いだとは思っても見なかったようで、つくづく世間は狭いものだと吹寄は実感する。

女の子とじゃじゃ馬という単語から一方通行の言うクソガキというのが誰の事が見当付いて、成る程、彼の口振りからしてお転婆なのかと思っていたが、どうやらその認識で間違いないらしい。

まだ知り合って間もないというのに、あの臍曲がりの意地っ張りの色んな一面がぽんぽんと分かって行くのが小気味良いなと、吹寄は薄く微笑んだ。

 

 

「一方通行ちゃん、ですね。あの何だか色々と大変そうだった子も、元気で居てくれるなら先生も嬉しいです」

 

 

「ははっ、小萌先生にそこまで心配して貰えて、アイツも果報者じゃんよ。吹寄も、あんな気難しいヤツだけど……どうか、仲良くしてやって欲しい」

 

 

「そ、そんな改まって言われなくても大丈夫です、黄泉川の先生。任せて下さい、私があの不健康者をちゃんと立派にして見せますとも!」

 

 

真摯に澄んだ瑠璃の眼差しで以て見詰める愛穂に何故だか居たたまれなくなって、つい不健康者などと口にしてしまったが、彼女は心より嬉しそうに笑みを深めるだけで。

きっと尊敬出来る母親とは、こういう物なのかもしれない。

それすらも口にすれば独身である愛穂は複雑な心境になってしまうのだろうけど、真摯に誰かを支えようとする彼女の慈愛に満ちた姿は揺蕩う母なる海に似て、とても優しく美しいと思えた。

 

 

「ははっ、期待してるじゃん。あと、アイツの事でまた何か気になったら、遠慮なく聞いてくれて構わないからな」

 

 

「はい、分かりました!」

 

 

 

こんな人に支えて貰っている一方通行は、確かに果報者なのだろう。

彼女の柔らかい期待に答えるという大義に後押しされた熱もあって、やや肩に力が入りながらも強く頷く吹寄。

一度引き受けた事を投げ出すくらいならば、初めから彼を手伝おうとは思わないという土台の上に、尊敬できる大人からの背中を押されたのだ、やる気を出さない彼女ではない。

 

 

取り敢えずはウォーキングの継続と、昨日こっそり詠み漁ったリハビリ面のネット知識をさらに練るべく、帰り際に図書館に寄って医療本を借りてみるのも考慮して、と。

能力者並の処理速度で、今後の一方通行のリハビリメニューを組み立てる彼女の脳裏で、ほんの少しだけ引っ掛かった違和感があった。

 

 

あの何だか色々と大変そうだった子、という何気ない様子で呟かれた小萌の言葉。

 

河川敷の石階段で差し出した自分の手を、一瞬だけ怯えたように見えた一方通行の瞳。

遠くで響く幽かな耳鳴りの様に、その光景は吹寄の意識の隅に焼き付いていた。

 

 

 

 

 

 

『Canopos』________『水先案内人』






Canopus:カノープス

りゅうこつ座α星 (α Car)

スペクトル型:FOⅡ

距離: 310光年

輝き: -0.72等星 全天第ニ位

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