星の距離さえ動かせたなら   作:歌うたい

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九節『雨上がりのバラッド』

 

今にも泣き出しそうな迷子の猫を対面に据えて、困り果てるのは警察という役職と、犬という種族とが関係している訳ではない、そんな至極当たり前の事。

覚え易いメロディーの童話をぼんやりと思い描きながら、心境としては犬のお巡りさんと大差ないのだろうと身に置かれた状況と照らし合わせて吟味する辺り、一方通行自身も今一つ心の平静が保てていない様で。

 

別に、実際に目の前に居るのは猫でもないし、迷子でもない。

寧ろ迷子になる歳とは思えないくらいには成長した女性であるし、身体付きも野暮な話ではあるが女性的と云えた。

けれども、極度の興奮状態にいるのか、軽いパニックに陥っているのか、熟した林檎さながらに顔を赤く染めて目を白黒とさせている辺り、泣き出しそうな迷子よりも手に余る。

 

 

「きっ、きっききき貴重な時間を割かせてしまって、わたわたた私としても、たっ、大変恐縮なんですが! あ、あの日の御礼参りと言いますか戴いた借りを返させて戴きたいと言いますか!」

 

 

「御礼参りってなンだ、オイ。 突き飛ばすだけじゃァ、足りませンでしたって事か」

 

『ヘーイ、まゆっち。 汚名挽回並みに間違えた日本語になっちゃってるぜ、ゆとり怖いとか思われる前に撤回しとくが吉だYO』

 

 

「へぅあ!? す、すみませんすみません! 違うんです私としてはただ純粋に御礼と貸して戴いてた物を御返ししたいという事だけで! 決して一方通行さんに害をというか恩を仇で返す様な真似はさせません!」

 

 

「うン、まず落ち着け。ンで御礼参りとかどォでも良くなるぐれェに指摘したくなるのが、今サラッと出てきた訳なンだが」

 

 

最近、どうにも別段急という訳でもない展開にさえ付いていけなくなる事態が多い事に、悩ましい頭痛を堪える様に一方通行は顔をしかめる。

呼び止められた階段の踊場、一心不乱にペコペコと頭を下げる少女――黛 由紀江の対処には、混乱を極めている。

たまには静かに屋上で昼食を取ろうと、気紛れに任せる午後の一時は、スタートの時点で躓いた訳である。

やたらと切羽詰まった声に呼び止められ、その相手がいつぞや一方通行と衝突事故紛いの惨事を引き起こした少女である事を認めた時点で、穏やかには行かないと予測していた訳だが。

 

正直な話、平静ではないのは彼とて同じであるので多少の言い間違えには寛容を持って対処出来るが、突拍子もない一芸をさらりと披露されても、流すに流せない。

一方通行の言い分に心当たりが見当たらないのか、キョトンと可愛らしく首を傾げた由紀江に、一方通行は疲れた様に眉間を指で解した。

 

 

「いや、いきなり腹話術が得意ってアピールされても反応に困ンだろォが。何なンですかァ、その馬のストラップは」

 

 

『おうおう、オイラを御指名とは目の付け所がシャープだねぇ。 目付きの悪さはシャープどころかストイック過ぎるけどもさァ?』

 

 

「こ、こら松風、失礼ですよ! す、すすすいません、ご紹介が遅れました。 私は黛 由紀江、此方が松風と申します」

 

 

「……お、おォ」

 

 

呆気に取られるというか、最早開いた口が塞がらない。

俗に言う一人漫才なのだろうか、それならば彼女の開き直った様な言動は寧ろツッコミ待ちという奴なのだろうか。

 

リアクションに困る事態が最近は顕著に多い事に辟易とした気分になりながらも、話を打ち切る様に足を屋上へと進める。

気の抜けた返事から僅かの沈黙を置いて急に動き出した一方通行は、彼の気に障ってしまったかとあたふたと狼狽する由紀江を、話があるなら付いてこいと手で招いた。

昼食を取りながらでも、話は出来る。

少なくとも当初の想定通りの静かな昼食という訳には行かなくなっただろうが、誰かしらの横槍など最早馴れたと言っても過言ではない程に絡まれ易い気質の彼にとっては、溜め息一つで済むだけの話と割り切って。

 

 

「つゥかオマエ、あン時もだが、何だって真剣をいつも持ち歩いてやがンだ。物騒な事この上無ェぞ」

 

 

「こ、これはですね、その……一応、認証は持ち歩いてますし、生来も殆ど剣を手放さなかったので、今更というのも……」

 

 

『まぁまぁ小さい事を気にしたって仕方ないじゃんヤングボーイ! 彼氏は居るのとか、スリーサイズはとかもっと青臭い疑問を持って建設的に生きようぜ!』

 

 

「……頭痛ェ」

 

 

屋上へと続く階段を昇る靴音に、苦々しい嘆息が混ざる。

剣については指摘するなという事なのか、余りにも身を削った論点のすり替えに最早深く考える事すら間違いな気さえする。

 

冷静に考えなくとも、学舎で発するには非常に問題な発言をされれば義姉に教師を持つ男の立場としては、松風の要望を叶えるには幾ら何でもハードルが高い。

昨今の教育現場で様々な問題が取扱れている中、これもまた教師の頭を悩ます弊害の一つなのか、と無駄に難しく考える事で軽い現実逃避を行う一方通行だった。

 

 

「そ、それであの、一方通行さん。こ、これはどちらへ向かわれているんでしょうか?」

 

 

「ン、屋上」

 

 

「おお、おっ、おっく、屋上ですか!? それは、あの、これから私は所謂その、屋上に呼び出しという学園の制裁的イベントに直面するというでは……」

 

 

『もしくはラブコメ限定の素敵ドッキリイベントか! まゆっちにも遂に春の風がFooooo!!』

 

 

「違ェよ、話聞く次いでに弁当食うンだよ。 そもそも最初からその予定だったしなァ。 ンで腐れストラップはそろそろ黙れ、オマエの発言を処理すンのは色々と キャパオーバーだ」

 

 

いっそ眉間の筋肉が吊るのではないかと危惧を抱くほどに険しい表情になりつつも、足は止めない。

どうにも松風というキャラクターのテンションにペースを乱されがちになるが、構えば構うほどにより混沌とした空気になる事を本能的に察知出来たので、なるべく触れない様にと心に決めるのであった。

 

 

――

―――

 

 

「そォいやオマエ、昼は弁当なのか?」

 

 

「えっ、あ、はい。その、普段もあまり売店や食堂は使わないんで……い、いえ、決して口に合わないとか私なんかが評価するなんてとんでもないのですけど、昔から武術だけではなく料理も嗜んでましたので自然と自分で用意することも多くてっ!」

 

 

「………あァ、別に文句があるとかじゃねェよ。オマエが売店とかで飯を食う予定だったンなら悪い事したと思っただけで」

 

 

「あ、はい、すすす、すいません私なんかに気を遣って貰って! ご、ご心配を御掛けしてしまって……」

 

 

「…………ハァ」

 

 

どうしたものかと、鞄から取り出した弁当箱の蓋を開けながら、困惑した表情のまま首を捻る。

焦ったり、どもったり、自信なさ気に呟いたり。

挙げ句の果てには異常なまでの恐縮ぶりで、特に悪くもないのに謝ってしまう目下の下級生は、随分と図に乗らない形で手を焼く相手だ。

 

弁当箱の隅に置いていた浸したほうれん草を一口摘んで咀嚼しつつ、ぼんやりと辺りを見渡せば、あちらこちらから集まる好奇の視線の数々。

多少なりともこの学園の有名人である自覚は流石に合ってか、自分達に視線が集まる事を不思議とまでは思えないが、だとしても気分が良くなる訳でもない。

澄み渡る青空がどこか憎々し気に映る辺り、連日の疲労もあってか、一方通行にもどこか余裕が感じられなかった。

 

 

そんな彼の様子を落ち着きなくチラチラと窺いつつも、漸く意を決した様に勢い付けて顔を上げる由紀江ではあったが、熱の籠り具合が些か行き過ぎて睨み付けていると云っても過言ではない。

ストラップと腹話術などと強烈過ぎる個性を出されて今更さして驚く事もないと高を括っていた一方通行でも、睨まれる理由に検討も付かなくて。

咀嚼する口元も止まり、真ん丸開かれた瞳がぎょっと固まった。

 

 

「そ、そそそその! せ、先日は本当にありがとうございましっ、ました! た、大変永らくお預かりしていましたモノを、ご、ご返却させていただきたくぅっ!」

 

 

「………………大袈裟過ぎンだろ」

 

 

睨まれたと思ったら、恭しく平伏されながら見覚えのあるハンカチを差し出されて、成る程、漸く全てが繋がった。

余りに行き過ぎた由紀江の恐縮振りに気押されたのか、気の抜けた様な吐息と共に実直な言葉があっさりと口元から滑り落ちる。

 

どういった感情が去来しているのか、マナーモードの携帯電話さながらに震えている彼女の手の中には、確かに由紀江に衝突された際に貸した自前のハンカチが在る、のだが。

ひょいと拐って手に持ってみれば、さながらクリーニングに出した後の服さながらに汚れもなく、ついでに皺の一つもない。

几帳面だとか、借りた物を綺麗にして返す性だとか、貸した側としては文句などないけれど、どうにも必要以上に気負わせてしまったのだろうかと。

 

 

「なァ、黛」

 

 

「ひゃい!? や、やっぱりお気に召さなかったですか!? すいません、すいません、今思えばアイロン掛けとか甘かったかなと」

 

 

「違ェよ。出来に関しては文句ねェし、褒めてやりてェところだ。 だが、言っときたいのは別のとこなンだよ」

 

 

彼自身としては特別重みを持たせるつもりは無かったのだが、零れ落ちた言葉には微かな呆れが浮き立って顕れる。

他人の顔色に殊更敏感な由紀江がそれを捉えるのは当然で、卑屈に揺れがちだった瞳はあからさまな怯えを孕むが、一方通行の細い唇を閉ざす事には繋がらない。

 

 

「確かに後ろから愉快にタックル決めちまった側からすりゃァ、多少なりとも申し訳なく思うのは間違ってねェし、誠意を持って詫びンのは寧ろ正しい事だろォよ」

 

 

空気の抜けた風船みたく自然と萎れていく目下の少女に釣られる様に、安穏と好奇心を弾ませて一方通行達を眺めていた外野も敏感に空気の移り変わりを察していく。

 

若さ故の青臭い衝動に駆られて挙って聞き耳を立てる野次馬達を、鋭い深紅の眼光で散らしながら、一方通行は区切った言葉をもう一度咀嚼するかの様に、息を吐いた。

目下の少女にどうにも宜しくない構え方をされて如何せん言葉を紡ぎ難いのだが、大凡には、必要以上に対人関係に不器用な彼女の内面を測れた一方通行としては、喉を鳴らす様な小さな苦笑を浮かべるしかなかった。

 

 

「だが、俺として見ればあの一件はとっくに水に流してンだよ。謝罪は受け取るが、もう少し肩の力抜け。そンな大袈裟にされるとこっちもつい構えちまう」

 

 

「う……ぁ、はい、も、申し訳ないです……」

 

 

決して間違ってはいない、間違いではないのだが、何事も度を過ぎればという事もある。

学年的にも年齢的にも上の相手に恐縮するのは別段、不思議な事ではないし、由紀江の必要以上に恐縮する態度も言ってしまえば個性の一つとして片付けられるだろう。

 

しかし、その個性がきっと黛 由紀江という人間にとってネックになっている部分の一つで、彼女が抱える暗く重い悩み事の原因なのだと勘付くのは、一方通行には簡単な事で。

毛色もベクトルも違えば孕んだ重みもまた違っていると言えるが、彼もまた、由紀江と同様の悩みを抱えていた過去があった。

 

 

 

 

――そして、根底にそれを抱えていたからこそ、彼は取り返しの付かない過ちを犯す事になったのだから。

 

 

 

 

 

 

「……人と話すのは、緊張するか?」

 

 

「……は、ぃ……」

 

 

柔らかく、なるべく脅かさずに赤子をタオルケットで包み込むイメージと重なる穏やかなテノールの響きに、俯かせていた端整な顔立ちが恐る恐る瞳を覗かせる。

 

まるで物音に警戒する小動物を彷彿とさせる仕草に、それでは自分が獲物を狩る肉食獣という立ち位置ではないかと、また一つ苦笑が浮かぶ白い貌。

獲って食う訳じゃないからと、慰め気味に視線を合わせながら、彼の細い口が緩やかな弧を描いた。

 

 

「馴れろ、っつゥのも難しいと思うが、あンまり気負い過ぎンのは失敗の元だ。それでガッチガチになってりゃ世話ねェだろ」

 

 

「は、はぃ、仰る通りで……」

 

 

「要するに、もう少しポジティブに物事を考えろってとこだな。オマエ、ハンカチ渡すまでずっと、相手に気にいらねェって思われたらどうするかって考えてたンじゃねェのか?」

 

 

「な、なんでそれを……あ、その、一方通行さんがそんな風に思う人だとは、決して!決して、思ってた訳ではなくてですね……」

 

 

的を射るというか、先程までの内心をドンピシャで当てられた事に動揺を隠せない赤面の少女は、アワアワと落ち着きなく捲し立てるが、無論、それで誤魔化せる相手ではない。

 

そこはどっちでも良いのだが、と言いたげに紅い瞳を細める一方通行だったが、そういえば、先程からあのついつい頭を抱えてしまいそうになる腹話術はピタリと鳴りを潜めている事に気付いて、小さな頷きを一つ。

少なくとも一方通行にとって馴れない事をしてまで諭している内容は、腹話術など特異な真似が出来なくなる程度には届いているのが分かれば、徒労に終わらなくて良い訳で。

 

どうして不慣れな立ち位置に立ってまで世話を焼くのかなどと小さな自問が今更ながら彼自身に沸くが、こればかりは仕方がないと半ば呆れ気味に自答を弾き出す。

 

――捻くれ者の自分にすら思わず染まるほど、世話焼きたがりのお節介が、彼の繋がりに確かに残っているのだから、仕方ない。

 

 

「まァそこは置いといて、だ。寧ろアイロン掛けの出来が良過ぎて誉め千切られた上に飯でも奢って貰えるかも、ぐらい思っとけ。そンぐらいの図太さが、今のオマエには丁度良い」

 

 

「む、むむ無理ですよ!あ、アイロン掛けだってそんなに上手くいったと思わなくて、やっぱり渡す前にもう一度入念に仕上げをした方が良かったかなって思うぐらいですし……」

 

 

「今すぐにとは言わねェよ、俺も。

だが、少しずつで良いから、思考を変えて行ってみろ。上手くいかねェ『現実』を変えたいなら、まずはオマエ自身が変わらないと駄目なンだよ」

 

 

 

 

――彼がそうだった様に。

 

――彼女がそうしてくれた様に。

 

 

 

 

 

 

 

 

猫が欠伸をする気紛れにも似た、さも軽い調子で紡がれた言葉は、如何にも重苦しく放たれた訳ではなかった。

 

けれど、どうしてか、黛 由紀江にとってこれ以上とない程に必要な言葉なのかもしれないと、漠然としながらも確信に似た感覚が、彼女の胸に去来する。

 

彼女が心の底から欲しがっていた言葉とは、きっと違う。

彼女が心の底から欲しがっている関係とも、かなり遠い。

けれど、受け入れて貰う事を望むより、受け入れられ易い自分に変わって行かなければいけない、という想いは間違いなく、今の由紀江に足りない物だったから。

 

 

 

 

――

―――

 

 

 

 

交わす言葉が無ければ、食事というものは得てして早々と終わる物で。

軽さを取り戻した弁当箱を包んで学生鞄へと仕舞い込んだ一方通行は、あれ以降仕切りに何かしらの考えを巡らせている為か、とんと言を発さなくなった由紀江の様子を伺う。

 

気落ちしたというよりは、迷いながらも何とか次の一歩を踏み出そうと足踏みしている、といった方が今の彼女には相応しい。

その証拠に、悶々としながらもしっかりと食事の箸を進めているのだから、先ずは普及点。

 

 

「……」

 

 

まだ生まれたての春は、柔らかく滲む太陽に白旗上げて過ぎ去ろうとする冬に泣き付いたのか、吐息が白む程とは往かないまでも、屋上を通り過ぎる風は充分に肌寒い。

暑さよりは寒さを苦手とする一方通行としては中々に堪えたのか、次の授業までまだ些か時間が余っているにも関わらず、早めに教室へと戻ろうと決意する。

 

ゆったりとした動作で立ち上がりながら、凝り固まった身体を解す為に思い切り伸びをする姿は、まるで昼下がりの猫さながら。

どこか気怠げなまま細長い指に鞄の取手を引っ掛けて持ち上げれば、釣られる様に少女の視線もまた持ち上がった。

 

見上げれば其処に映るであろう蒼の色彩をそのまま宿した少女の瞳には、きっと色んな物が入れ替わり、移り変わる。

朝焼けがあれば、雲に覆われ、土砂降りもあれば、虹さえ架かる、空そのままに。

 

 

「ぁ、の……一方通行さん」

 

 

「……」

 

 

控え目に、それでいてほんの少し、些細ながらも確かに違う声の色に、どこか愉し気に深い深い紅蓮の朝焼けが細くなる。

言葉先から言葉尻まで恐縮を孕んでいた由紀江の声が、名前を呼ぶ際にはしっかりと音を連ねていたのは、聞き間違えなどではない。

 

虹が架かるには、きっとまだまだ足りない物に溢れているだろうけれど。

 

 

「わ、私が、変わったら、変われたら……その、一方通行さん。私の友達に――」

 

 

 

「……クカカ」

 

 

 

――やれば出来るじゃねェか。

 

案外、虹を拝むのもそう遠くはなさそうだと、足先を屋上の出口へと向けながら、一つ笑い声をあげて。

 

 

 

 

「俺は気が長ェ方じゃないンでな――あンまり待たせンなよ?」

 

 

 

 

「……ぁ、は、はい!」

 

 

 

 

 

去り際の背中に向けられた確かな声に、沸き立つ青臭い自己満足はそっと胸に収めておく。

重い鉄製の扉を潜った先、締まり際に押し出された風が綺麗に纏められたポニーテールを緩やかに掻き上げた。

 

どうにも、らしくない真似をしてしまったなと省みた所で、誇るまでも無ければ、恥ずべき事も、『今更』だろう、と。

変わらない現実などない、変えれない現実などない。

 

 

 

 

――変わる事を恐れて足踏みしていれば、きっとどこかのお節介が世話を焼くのだ。思い出の、中から。

 

 

 

 

 

――余りに遠い星の彼方から。

 

 

 

 

「……」

 

 

 

一段一段階段を降りる度に、革靴の底が快活な音を響かせる。

休憩が終わるまでまだ時間は余っているというのに、不思議と静かな屋上の踊り場に、迷いのない足音だけが踊っていた。

 

 

 

教室へと戻ると決めた一方通行だったが、寂寞を恐れるどうにも変わり種な後輩に、もう一肌脱ぐのも悪くないと、思考を廻す。

言わば二つの意味で先輩であるのだから、言葉だけでなく後一つ、背中を押してやれば纏まりも良いだろう、と。

 

下る、下る、段を一つ一つ降りながら巡らせる思考と同調するかの様に、白雪の尻尾髪が機嫌良さ気に彼方此方へ弧を描いた。

 

 

記憶の底から掘り出した、いつぞやの、実に下らない理由でマルギッテに追い掛け回された、茜色の午後の事。

そういえば、あの後に意外な人物から意外な人物の話を聞いていたな、と。

 

 

 

「――さて、とォ」

 

 

 

――あの筋肉バカ、教室に居りゃ良いンだがな。

 

 

当初より教室へと戻ろうとしていた訳だが、ほんの少し寄り道が出来た。

といっても距離など殆ど変わらない、ただ戻る教室が一つズレただけなのだから。

 

変わらぬ歩調で歩みを進めながら、ふと頭上を仰ぐ。

弁当を食した事による満腹感からか、ぼんやりと眠気を帯だした紅い瞳に映るのは、武骨な階段裏のコンクリート。

 

自分から勝手に始める下拵えな訳だが、好転に向かえば問題ない。

失敗したとしても、是非もなし。

あくまでも気紛れに焼いた世話、それに黛 由紀江の他にも、また違うベクトルで面倒な意気地無しが存在するのだ、かまけるのは程ほどで良い。

 

それに、一方通行の脳裏に浮かぶ意気地無しとやらと違って、由紀江は人を山猿だのと見下したりする事は到底縁遠い優しき器量の持ち主なので、後は賽の目に委ねるだけで良いだろう。

 

 

 

――自分だけの現実、ねェ……

 

 

 

滑り落ちた言葉には、何色の感情が乗せられていたのか。

誰に向けられたのかも分からない、ほんの些細な言葉の欠片。

けれど、一段下る毎に鳴り響く足音は、まるで気を効かせたかの様にスルリと言葉に重ならず、白い青年の独白は余韻を残して溶けていった。

 

 

 

『雨上がりのバラッド』―end.






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