ある雨降りの夜、765プロのプロデューサー秋月律子が残業をしていると、外からずぶぬれになった星井美希が駆け込んできた。何事かと心配した律子が、美希に事情を尋ねるが、美希は本当の訳を話さない。律子は何とか事情を聴きだそうと努力するが・・・。

アイドルマスターの秋月律子と星井美希が織りなす、ほのかに甘い「みきりつ」ストーリー

この作品は、私ミスターNがpixivにアップロードしたものをマルチ投稿した作品です。
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『雨上がりの夜』

『雨上がりの夜』

 

 蒸し蒸しと暑い、ある6月の昼下がりのことである。

 『765プロダクション』という、とある弱小芸能事務所のプロデューサー兼事務員として働いている私、秋月律子は、狭い事務所の仕切られたオフィススペースで仕事をしながら、仕切りの前の控室のようなところでダベっている何人かのアイドルたちの話声に耳を傾けていた。

 仕切りのせいで顔こそは見えないが、声のおかげで誰が話しているのかわかる。

 ふと、天海春香がこんな話を切り出した。

「ねえ、亜美、真美、ドラマの撮影とかで泣くシーンってあると思うけど、そういう時ってどんなこと思い浮かべながら演技してる?」

 どうやら演技についての話をしているようだ。双海亜美が答える。

「ん~、亜美は、そういうのやったことないからわからないなー。」

「真美も。逆にはるるんは、どんなこと考えてるの。」

 一呼吸おいて、春香が答える。

「私はね、もしもお父さんやお母さんが死んじゃったらって考えてるの。お父さん・お母さんが死んじゃったら、きっと、とてつもなく悲しいと思うから。でも、何度もそうやって泣く練習をするんだけど、演技の先生からは、『それじゃ全然ダメ』って言われちゃって・・・。なんだか嘘泣きっぽいんだって。」

「ふーん。泣くのって難しいんだね。」

 この声は亜美だろうか。

「まあ、はるるんは、笑顔が取り柄だからね。涙は似合わねえぜ、旦那。」

 このおどけた声は双海真美のほうだろう。

 春香が星井美希に話しかけた。

「そういえば、美希は泣く演技すごく上手だよね。この間の稽古の時も、先生からすごく評判だったじゃない!」

「うん?うん。」

 美希が気のない返事をする。どうやら、携帯ゲーム機をやっているらしい。

「ねえ、ミキキミは泣くときどんなことを考えてるのか教えてよん。」

 亜美が美希に尋ねている。

「そうそう、真美達をお助けくだせえー。」

 真美もそれに呼応していた。

「んーとねー、秘密なの。」

「ええー」×3.

 一斉にみんながブーイングする。

「何それずるいよー。教えてよー。」

「いいじゃん、減るもんじゃないしー。」

「そうだよ、美希、教えてよ。」

 3人が美希に迫るものだから、辺りが騒々しくなってきてしまった。一応、私の前では音無さんが仕事をしているのだ。あんまりはかどっていないけど。さすがに私は3人をしかりつけることにした。

「こらー、あんたたち、仕事の邪魔になるから静かにしなさーい。」

「はーい」×3

 その時、美希は意味深長にくすくすと笑っていたようだった。

 

 

 それから3日後のことである。夕方からパラパラと降り出した雨は、日が落ちると本降りになり始めた。

午後8時近くになり、オフィスに残っているのは私一人。すでにプロデューサーも音無さんも、他のアイドル達もみんな家路についてしまっていた。一方で私は、ここのところ毎日残業続きだった。

私がプロデュースしている、水瀬伊織・三浦あずさ・双海亜美の3人グループ、『竜宮小町』は、最近になってようやく世間に認知され始めていた。まだ華やかなスターを出したことのない、我が765プロにとって、『竜宮小町』はまさしく期待の星だった。

 そんな『竜宮小町』にもようやくメジャーデビューのチャンスが舞い降りてきたのである。私はこの絶好のチャンスをものにするべく、連日連夜3人のための企画を練っていたのだ。『竜宮小町』の浮沈は、765プロの将来を左右する一大事だし、私のプロデューサーとしてのキャリアにとっても、極めて大事な局面だった。だから私は、毎日徹夜に近い労働にも耐えることができたのであった。

 私がプロフィール資料の作成に没頭していたとき、ざーざーという雨の音に交じって、内階段のタイルを駆け上がる音が聞こえてきた。その音に私は、パソコンのキーボードを叩くのを止めて、その足音に耳をそばだてた。

 やがてその足音が事務所の扉の前までやってくると、その足音の主は思いっきり扉をあけ放った。

 驚いて仕切りの外をのぞくと、そこにはなんと!雨でずぶ濡れになった美希が立っていたのだ。

「美希!いったい、どうしたのよ!?」

「ちょっと散歩してたら・・・雨に降られちゃって・・・事務所に雨宿りにきたの。」

 美希は、全身をびしょびしょに濡らしながら、私には目を合わせず事務所の床の一点を見つめていた。

「ちょっと待ってて!タオルと着替えを持ってくるから!」

 私は急いで立ち上がると、給湯室のほうに向かい、何枚かハンドタオルをかき集め、更衣室から適当な服と下着を抜き取り、ドライヤーを携えると、美希のもとに駆け寄った。

「美希、タオルと着替えを持ってきたわよ・・・。」

 美希は扉の前で茫然と立ち尽くしているようだった。私が声をかけたことに気づいていないのだろうか。

なんだかいつもと様子が違う。美希に似つかわしくない閉口。私は訝しく思いながら、恐る恐る美希に声をかける。

「美希?」

「・・ん・・?あ・・・ありがとう・・・なの。」

 どうやら、ようやく私の存在に気付いたようだ。

「美希、これで体拭いて、それでこれに着替えるのよ。濡れた服はこれで乾かしてね。着替えとドライヤーはここに置いておくから。」

 そういって私はドライヤーと着替えを、控室のような空間にある長椅子の上にちょんと乗せた。

「うん・・・ありがとうなの。」

 美希は渡されたタオルですごすごと体をふき始めた。それを見届けると、私は自分の座席に戻り、作業を再開した。

 プロフィール資料とにらめっこをしながら、キーボードを叩いている。しかし、全然作業に集中できなかった。美希の突然の来訪、それに彼女は傘もささずずぶ濡れになっていた。嫌な胸騒ぎでタッチが止まる。

 気になって、仕切り越しに美希の様子を覗いてみる。美希はまだすごすごと体をふいているようだった。反応を探るべく声をかけてみる。

「タオルはまだあるから、足りなくなったら声をかけるのよー。」

「・・・・うん。」

 霞んで消えてしまうくらいにか細い声だった。ダメだ。会話が途切れてしまう。

 私は徹夜明けの頭を回転させ、美希に何があったかを推理しようと試みた。

 恐らく、美希が散歩していて、途中で雨に降られたというのは嘘だろう。美希の自宅からこの事務所まで、駅で何駅も離れている。それにそもそも、今日美希はオフの日だったはずだ。わざわざこんなところまで散歩をしに来るはずがない。

 それに、「雨に降られちゃって」というのも多分嘘だろう。雨が降り始めたのは、何時間も前だ。「急に雨に降らたから雨宿り」なんて、ありえないのだ。だとすれば、美希はどうしてわざわざ雨に打たれながらもここを訪れたのだろうか。

 美希はまだ中学2年生の14歳。午後8時を過ぎてこんなところにいたら、親御さんも心配するのではないか・・・。とりあえず、親御さんに連絡しないと・・・。

ははーん、読めてきた。きっとご両親と喧嘩でもしたのだろう。だから家を飛び出したということなのだろう。傘も持たずに。

 だとすれば、美希がこんなにも意気消沈している理由も理解できる。

ここは少し様子を見ることにしよう。まだそこまで時間は深くない。親御さんへの連絡は、もう少し後でもいいだろう。

 しばらくして、美希は私が用意した服に着替え終わっていた。髪を乾かすためにドライヤーを起動させている。ウィーンという独特の音が、雨音に交じって響き渡る。

 やがて髪を乾かし終わると、今度は洋服を乾かし始めた。あれだけびしょぬれだったのだ。乾かし終わるまでにはまだ時間がかかるだろう。美希はずっと無言で、洋服をドライヤーに当てている。

 私は目の前の資料作りに集中しようと試みるのだが、美希の様子が気になって何度もちらちら覗いてしまう。普段、美希は端正な顔立ちで、目も輝いているように見える。しかし、この時ばかりは違った。美希は、どこかぼーっとしていて、目は虚ろなのだ。こんな美希は、私、いままで見たことがなかった。

 私は思わず声をかけてしまった。

「どうして散歩なんかしてるの、こんな日に。」

 なんだかトンチンカンな質問になってしまったような気がする。

 美希がドライヤーを止める。

「気分転換なの。」

「雨が降っているのに?」

「気が付かなかったの。」

「結構降ってたと思うけど。」

「ザーザーになって、初めて気づいたの。」

「でも・・・」

 美希は私の問いを拒むように、再びドライヤーのスイッチを入れた。仕方がない、そう思って私は再びパソコンとにらめっこをするのだが、やはりどうにも集中できそうにない。

 今日はもう作業を止めてしまおう。思いのほか資料作りは順調だ。焦らなくても、十分納期には間に合う。それよりも、美希のことが気がかりだった。

 何とかして美希から話を聞こうと考えるのだが、話のとっかかりがない。それに相手は、ドライヤーの音で耳を閉ざしている。さて、どうしたものか。

 10分くらい考えて、冷蔵庫の中に冷え冷えのプリンがあることを思い出した。本当は誰かのものなのだろうが、今は非常時だからしょうがない。誰かのプリンは、話のタネとして犠牲になってもらおう。

「そうだ。冷蔵庫にプリンがあるのを思い出した!」

 私はわざと美希に聞こえるように、比較的大きな声でそういうと、すくっと立ち上がり、冷蔵庫のほうへと足を進めた。案の定、冷蔵庫の中には、少し高そうなプリンが2つ。それを取り出すと、私は給湯室でスプーンを二つ取り出し、美希が座っている長椅子の向かい側に座った。

 改めて美希の顔を覗き込んでみる。美希はいつもの元気をすっかりなくして、しょんぼりとしている。

「美希も食べる?」

 少し間があって美希が答えた。

「・・・いらないの。」

「じゃあ、私だけ食べちゃおっかなー。」

 わざとらしくそういうと、私はプリンの蓋を開けた。黄金色のプルプルしたおいしそうなプリンが私を出迎えた。スプーンで一口分すくい上げ、美希に見せるようにしながら、口へと運ぶ。卵の上質な甘みが口の中に広がってくる。

「おいしーい。美希食べないんだ、もったいないなー。」

 そういってまたスプーンでプリンをすくい上げ、口に運ぶ。

「・・・わざとらしいの。なんか春香みたい。」

 やっとまともなリアクションをしてきたか。

「悪かったわね。演技が下手で。」

 実のところ、私は美希とは違って演技は苦手だった。私が芝居をすると、どうも不自然でわざとらしくなってしまうらしい。自分では自覚がないのだが。

「別にそういう意味じゃないの。」

 美希がドライヤーのスイッチを切った。服を持ち上げてパンパンと服を叩いて、乾き具合を確かめている。どうやら服は乾ききったようだった。

「美希、本当に食べなくていいの?すごくおいしいのに。夕ご飯も食べてないんじゃない?」

「うん・・・食べてないの。」

「じゃあ、せっかくだから食べなさいよ、ね。」

 美希は少し戸惑いを隠せないでいる。だが、空腹からくる食欲にはかなわなかったようだ。

「うん・・・。」

 私は美希の前にプリンを置いた。美希も渋々プリンを手に取った。やがて、プリンの蓋を開けて美希がプリンを口に運ぶ。

 しばらくして、美希が発する。

「・・・おいしいの。」

「でしょー、美希にふるまった甲斐があったわ。」

「これ、律子が買ったの?」

「『律子』じゃなくて、『律子“さん”』でしょ。はい、もう一回!」

 美希のいいところは、誰に対しても気後れせず堂々と話すことができることなのだが、私から見ればただ単に世間知らずで、ナイーブなようにしか見えない。うちの事務所にいるときは問題ないのだが、いざそんな口調で部外の人と接したら、「失礼だ」と相手が怒るのは必定。だからせめて、私に対しては呼び捨てにはさせないで、『さん』付けすることを徹底しているのだ。

「律子・・さん・・が買ったの?このプリン。」

「いや、違うけど。冷蔵庫に入ってるの知ってたから。名前も書いてなかったし。いいかなって。」

「ミキ、知らないからね。」

 私は微笑した。

「はいはい、わかってますって。またどこかで買ってくればいいんでしょ。」

「これ、社長が銀座のコージーコーナーで買ってきたメチャメチャ高いプリンだよ。」

「えっ!そうなの!?」

「しかも、今度来るお偉いさんに振舞う予定だったやつだよ、これ。」

 えー!そうなの!?だとしたらまずい!社長に怒られちゃう・・・。

 私が内心「やばい」と動揺が隠せない中、美希はフフフと笑っていた。

「な、なにがおかしいのよ。」

「ごめんごめん。冗談なの。ミキ、本当に誰のプリンだか知らないよ。」

 な、なーんだ。社長の接待用のプリンじゃなかったのかー。それを聞いてほっとした。危うく私の首が飛んでしまうところだった。

「まったく・・・驚かさないでよね。」

「フフフ。ごめんなの。」

 びっくりはさせられたけれど、美希に少しだけ笑顔が戻った。わずかだが話しやすい空気になったのは、幸いだった。

 今度は美希が私に尋ねてきた。

「お仕事、やらなくていいの?」

 どうやら、私がパソコンを投げ出して、プリンにありついていることを気にしているようだった。

「ああ・・・いいのよ。大分いいところまで進んできたし。今日はこれくらいにしておこうかと思っててね。」

「ごめんなさい。ミキのせいだよね・・・。ミキが、仕事をしている律子・・さんを邪魔しちゃったから。」

 美希にも自覚があったらしい。でも、美希が悪いわけではないのだ。私が集中できないだけなんだから。

「いいのよ、気にしないで。仕事は本当にひと段落ついているから。」

 私は笑顔を作って、手を横に振ってみるのだが、美希の顔は浮かないままだ。

「忙しいんだよね、『竜宮小町』の仕事・・・だから、律子・・さんもずっと残業続きなんだよね。」

「ええ、まあそうね。彼女たちにとって、今が一番大事な時期だから。」

「輝いてるよねー、凸ちゃんも、あずさも、真美も。・・・律子・・・さんも。」

 凸ちゃんとは、伊織のことだ。美希だけがなぜか彼女をそう呼ぶのだ。

「私も?」

「うん。律子・・・さん、アイドルを辞めて、『竜宮小町』の仕事を始めて、何だか・・・すごく・・・イキイキしてるかな。」

 少し言い含んだのが気になったが、美希が褒めてくれるなんて珍しい。少し気恥しい、

「まあ、『竜宮小町』は、我が765プロの社運がかかっているプロジェクトだからね。失敗させるわけにはいかないのよ。私のプロデュースの腕次第で、彼女たちの今後も変わってきてしまうんだし。手を抜くわけにはいかないのよ。」

「・・・みたいだね。」

 美希は浮かない表情で、私から目をそらすようにして机を見つめている。

「羨ましいの?」

 美希はプリンカップを机に置いた。気づけば、彼女はもう食べ終わっていたのだ。

「正直、そうだったかな・・・。」

 そういえば、美希は『竜宮小町』に強いあこがれを抱いていたのを思い出した。プロデューサーに何度も、「『竜宮小町』に入れてほしい。」と直談判していたのだ。美希の悩みは、未だに自分が売れないことなのだろうか。

 ん?「そう“だった”」?じゃあ今は違うというのだろうか。少し違和感を覚えながらも、とりあえず今は美希のことを褒めてあげることにした、

「『竜宮小町』には、入れてあげられなくても、美希ほどの実力があれば、あなたはいつか必ずトップアイドルになれると思うわ。」

 美希が目をキョトンとさせている。

「なんだか気持ち悪いの。」

 き、気持ち悪い!?あらやだ!?プリンが腐ってたのかしら!?

「ど、どうしたの!?プリンに何か悪いものでも入ってた!?」

 私はびっくりして、食べかけのプリンを机の上に置いた。

「そうじゃなくて、律子・・さんが、急に私に優しくするから。どうしてだろうって思って。」

 へっ?

「ぷ・・・プリンが腐ってたとか、何か悪いものが入っていたとかじゃなくて。」

 美希は噴き出していた。顔をゆがませ、手で顔を覆っている。

「律子さん、おっかしいの!」

 美希に馬鹿にされて、体の芯が少しだけ熱くなるのを感じた。顔が赤くなってしまった。

「な・・・何よ!心配して損したじゃない!」

 美希はまだゲラゲラと笑っている。

「そうじゃなくて、いつもがみがみ怒ってる律子・・・さんが、こうやって私のことを褒めるなんて、何だか変な気がするの。」

 そういうことか。確かにいつも怒ってばっかりで、真正面から美希のことを褒めるなんてめったになかったかもしれない。「言われてみれば・・・確かにそうだったかもね。」

「というより、律子・・・さんとお話しするのもなんだか久しぶりな気がするの。」

「あれ?そうだっけ。」

 頭をひねって反芻してみる。・・・確かに美希の言う通り、美希とこうして面と向かって話すのも久しぶりだったかもしれない。

「・・・そうなの。」

 美希は少し寂しそうな顔をしていた。私は美希を励まそうと試みた。

「美希、私は、本気で美希の才能を認めてるのよ。あなたには、他の人にはない才能があると思ってる。」

 そう、星井美希は「天才」なのだ。歌も振り付けもセリフも、全部一瞬の時間に覚えきってしまう。それだけでなく、まだ14歳なのに豊満なボディー、そして誰もが見惚れるような端正な顔立ち。まさに彼女は、アイドルになるべくして生まれてきたような子だった。

 だから私は真剣な眼差しで美希を見つめるのだ。美希もそんな私の真剣な眼差しに、驚いているような様子だった。

 だけど私はくぎを刺すのも忘れない。

「美希が今後もレッスンをさぼらずちゃんとやればの話だけどね。」

 美希がうんざりという顔をする。

「またその話なの。」

 いかんせん、この子にはさぼり癖がある。月並みな表現だが、美希はダイヤモンドの原石なのだ。だけど、いやだからこそ、磨かれる必要がある。なのに、この子は磨かれるのをさぼりたがるのだ。私が口酸っぱくレッスンに励めと言っているのは、私がこの子の才能にかけている裏返しなのだ。それを美希はなかなかわかってくれない。

「美希、最近ちゃんとレッスンやってる?」

「・・・まあ、それなりに。最近はレッスンも楽しくなってきたしね。」

 あら、それは意外なことだ。

「えらいわ美希!何が楽しくなってきたの?」

 美希は「うーん」と首をひねる。

「春香達と遊ぶことかな。」

「は?」

 春香たちと遊ぶ?

「実は最近レッスンを兼ねて、春香とか千早さんとかと、テニスコートに行ってテニスに行ったりしているの。あとカラオケレッスンも好きだなー。」

「か・・カラオケレッスン??」

「うん!カラオケで好きな曲を歌って点数を競うの。これも立派なボイストレーニングだよね!」

 あ・・・頭が痛くなってきた。それってレッスンっていうのかしら?

「律子さん、大丈夫?」

 美希が私に駆け寄ってきた。いきなり萎れて、右手で頭を押さえてしまったものだから、美希が心配して私に声をかけてきたのだ。

「大丈夫よ、美希。ちょっと調子が狂っちゃっただけ。」

「そう、ならよかった!」

 美希は笑顔を見せて、座っていたところへ戻っていった。

「律子さん、安心して。ちゃんと普通のレッスンも楽しく感じられるようになってきたから。」

「そうなの?」

「うん!春香達とレッスンをしていると、何だかとっても楽しいの!」

 そういう美希の顔は本当に輝いていた。まばゆいほどの笑顔だった。私も、そんな美希の笑顔を見ていると、心がことほぐようだった。

「そう、それは良かったわ。これなら、美希がトップアイドルになれる日もそう遠くはなさそうね。」

 ところが、そう言い放った瞬間、美希の顔が一瞬にして、まるで蝋燭の火をふっと消されたかのように、沈んでしまったのだ。

「どうしたの、美希・・・?」

 美希は私から目をそらすように下のほうを向いて、何かを考えていたようだったが、すぐ取り直した。

「あっ・・・うん。大丈夫なの。」

 何が大丈夫なのだろうか。というより、大丈夫じゃないから、ここに駆け込んだのではないのだろうか。

「お茶淹れてくるの。口が甘くなっちゃったの。律子・・・さんは、早くプリンを食べたほうがいいと思うの。」

 そう言い残すと、美希は逃げるようにして席を立った。給湯室でお茶を入れているらしい。私は残ったプリンを口に運んでいた。私には、美希の真意がさっぱりわからなかった。

 しばらくして、美希がハーブティーを淹れてきた。

「いい香りね。」

「うん。心が安らぐの。はい、どうぞ。」

 美希が、私が座っている長椅子のところにやってきて、二つのティーカップのうち、一つを私の前に差し出した。

「ありがとう、美希。」

 私はティーカップの取っ手を握り、香りを楽しんだ。透き通るようなハーブの爽やかなにおいだ。そしてお茶に口をつける。ちょっと温い。

「少し温いわ。沸かしなおしても良かったんじゃない。」

「そうみたいなの。お湯を沸かしなおしてくるの。」

 美希が再び席を立とうとした。私はそれをいさめた。美希にこれ以上席を立たれると、本当に事情を聴く時間が無くなってしまう。

「でも、これでちょうどいいわ。あんまり熱すぎると飲めないもの。」

「そう?いいの?」

 美希はおちょぼ口で聞いてくる。

「ええ。大丈夫よ。」

 私は微笑で返した。

 美希もハーブティーに口をつけた。やがてまた、会話が途切れる。せっかく美希を給湯室から引きはがしたのに、結局まだ私は、美希の話を聞けていない。そろそろ、意を決して聞き出さなければ。そのために、仕事を投げ出して、ここに座っているのだ。

「律子・・・さんは、どうしてアイドルをやめちゃったの?」

「えっ?」

 そうこうしているうちに、美希のほうから尋ねてきた。

「あんなに楽しそうにアイドルをやってたのに、いきなり辞めちゃうんなんて。」

 そうだ。私はかつて、美希や他の子と同じようにアイドル活動をやっていたのだ。だけど、それも今は廃業した身。

「もともと私は事務員になるつもりで、ここに入ったのよ。みんなのサポートをしたくてね。だけど、私がここに入ったころの765プロは、今よりもっと貧弱だった。それこそ、アイドルの頭数にも困っていたぐらいだった。だから、社長に頼まれて、私も『事務員兼アイドル兼プロデューサー』として活動していたってわけ。だけど、今はもう、頭数は揃ったし、私自身もアイドルとしてはパッとしなかったし、プロデューサー業も板についてきたから、アイドル業の方は、引退させてもらったってわけ。」

「それで・・・後悔しなかったの?」

 美希の顔が暗くなる。私のほうに目を合わせず、机のほうをぼーっと見つめている。

 正直な話、未練はあった。私がアイドルを引退するとき、社長が私を気遣って、最後にファンのみんなとのお別れライブを、六本木の小さなライブハウスを借り切ってやってくれた時のことだ。どうせ、私なんかのために人は集まらないと思っていたのに、その時のライブには、ライブハウスに入りきらないくらいの人が駆けつけてくれたのだ。

 私は最後に号泣した。こんな冴えない私の引退ライブのために、これだけ多くの人が集まってくれた。ファンの人たちも、一緒に泣いてくれた。私にとって、一生忘れることのできない思い出だ。

 その日以降、私はプロデューサーとして、『竜宮小町』を育てる側に回った。最初は、無名だった『竜宮小町』も、今やテレビに出してもらえるほどの知名度にはなりつつあった。プロデューサーとして、誇らしい。だけど、つい夢想してしまうのだ。もしも私がアイドルを続けていたら、あの撮影所のスポットライトを浴びていたのは、私なのかもしれないと。

 プロデューサーとして彼女たちを支えていくというのは、私の天命だと思っている。だから後悔はしていない。だけど、ふいにそう思ってしまう時があるのも事実なのだ。

「後悔は・・・していない。」

 それが美希への回答だった。

「でも、心残りなんでしょ。」

「・・・・・。」

 美希は賢い。美希はなんでも見通してしまうのだ。私の心の中さえも。

「だけど、もう遅いの。今更アイドルなんかに戻れるはずがない。『竜宮小町』だってある。」

 美希は私の目を見て訴えかける。

「戻れるよ。きっと。律子さんにその気があれば。だから・・・」

「勝手なこと言わないでよ!」

 思わず、声を荒げてしまった。美希がひどく怖気づいたのが分かる。

 私は美希から目をそらした。

「ごめん、美希。どうかしてた。」

 美希は微笑を浮かべていたようだ。

「ううん、いいの。美希も悪いこと聞いちゃったし。」

 私は美希のほうを見て、首を横に振った。

「美希は悪くないよ。」

 またしても重苦しい雰囲気に包まれる。美希がカップに手を付けて、残りのお茶を飲みほした。そしてカップをテーブルに置くと・・・、ゆっくりと今日ここに駆け込んだ真相について話し始めた。

「律子さん・・・ミキ、アイドルやめようと思うの。」

 えっ!?

驚天動地のことに、言葉を失った。私は驚いた様子で美希を見つめた。

「どうして・・・どうしたなの!?あんなに楽しそうにやっていたというのに。」

「・・・・・。」

 美希はそこから先を語ろうとしない。意を決して話し始めたのは良かったが、そこで勇気が途切れてしまったようだった。

 そんな美希に私は、追い立てるように質問をぶつけた。

「ねえ、美希。今日散歩していたっていうのは嘘でしょ。」

「・・・・・。」

「今日美希はオフだった。こんなところをほっつきまわる必要がない。それに、雨が降り出したのは、美希がここを訪れる数時間前、急に雨に降られたなんてありえない。」

「・・・・・。」

「ねえ、美希。本当のことを話してほしいの。もしかして美希は今日、逃げ出してきたんじゃないの。ご両親のところから。傘さえささず、一目散にここに逃げてきた。違う?」

「・・・・・。」

 私は時計を見る。時刻はすでに9時を回っていた。

「どうして私が美希の自宅に連絡を入れないかわかる?」

「・・・・・。」

「美希が話してくれるのを待っているからなのよ。美希がここに逃げてきたのはわけがある。多分、ご両親とかのことで、私に相談したいことがあったんだと思う。私はずっと残業続きで、ここに私がいるのは知っていた。だから私に・・・相談しようと思ったんじゃないの。」

「・・・・・。」

「訳を話してちょうだい。美希が話してくれないなら、私はご両親に電話をして、美希を引き取りに来てもらうわよ。」

 美希が吐き捨てるように答えた。

「パパもママも・・・ミキのことなんて心配していないの。」

 ぼーっとして、抜け殻のようになってしまった美希が、か細くそうつぶやいたのだ。

「なんですって。」

「電話なら、すればいいの。」

 あけすけに、突き放すように答える。だけどそれは、私に対してではない。恐らくは私が電話をしようとしている、その相手に対してだ。

「本当にかけるわよ。」

「・・・・・。」

 沈黙の肯定を受け取った私は、立ち上がって自分のデスクに戻り、受話器を取った。しばらくして、美希の母親が電話を取った。

「星井ですが。」

「夜分遅くにすいません。私、765プロダクションでプロデューサーをしています、秋月と申します。いつもお世話になっております。」

「こちらこそ。」

「それで、美希さんなんですけど、雨に打たれていたところをこちらでお預かりしておりまして、夜遅くに一人で出歩かせるのも危ないので、お手数ですけど、こちらまでお引き取りに来ていただけないでしょうか。」

 丁重に願い出たつもりであった。だが、その次に母の口から放たれたのは、信じられない言葉だった。

「秋月さん、もうあの子はうちの子ではありませんので、好きになさってください。こちらに送り届けていただいても、受け取る気はありませんので。それでは。」

「ちょっ、ちょっと!」

 それだけ言うと、一方的に電話を切られてしまったのだ。あとは、つーつーというむなしい音だけが脳裏を刺激していた。

「ミキ・・・帰る場所なくなっちゃった・・・。」

 美希がそうつぶやいた。

私は力なく受話器を置いた。そしてその場にへたり込むように座り込んだのだ。美希が話し始めた。

「ミキね、今日パパやママと喧嘩しちゃったの。それで気づいたら・・・家を飛び出してた。」

 美希の母親の、あの暗くて冷たい声。あの人は、おそらく本気なのだ。本気で、美希のことを「捨てよう」としているのだ。

「律子・・・さん、知ってる?ミキのパパとママは、役所で働いてる公務員なの。お姉ちゃんは、公立の学校の先生。みーんな、まじめさんなの。」

 聞いたことがあった。美希の口からではなかったと思うが、人づてに、美希の両親が公務員だという話は知っていた。普段のちゃらんぽらんな美希の様子しか知らないから、予想外のことに驚いた記憶がある。

「ミキね、パパとママからずっと言われてたんだ。『大きくなったらパパやママと同じように公務員になりなさい。そうすれば、結婚もできて、子供も産めて、幸せな家庭を築ける。』そう言われてきたの。だけど・・・」

 美希の声が震えている。

「だけど、ミキはずっとそんな人生嫌だと思ってた。あんな堅苦しい仕事なんかにつきたくない。ミキはそんなパパたちから逃れたい一心で、アイドルになりたいって思ったの。」

「美希・・・。」

 仕切りに遮られ、その表情をうかがい知ることはできないが、きっととてつもなく悲しい顔をしているのだろう。

「当然、パパもママも猛反対だった。お姉ちゃんも。だけど、ミキは必死にお願いしたの。『ミキにアイドルをやらせてほしい』って。その必死なお願いが通じて、何とかアイドルになることを認めさせたの。多分、パパもママも、ミキはすぐにアイドルに飽きるって思ったのかもしれない。ミキは飽きっぽい性格だから、アイドルに飽きて、パパやママが言うように、公務員を目指すことに納得するかもしれない。」

「美希は・・・飽きたから、アイドルを辞めるの・・・?」

 美希の強い口調が返ってきた。

「ぜーんぜん、ミキは飽きてないもん。むしろ楽しい。もちろん、レッスンはつらいことも多いよ。苦しいことも多い。だけど、765プロのみんなと出会って、一緒に練習して、一緒にご飯を食べて、一緒にラジオに出て、一緒にバカやって・・・そんな日々が飽きるはずなんてない!だけど・・・」

 一瞬、美希の声が潰えた。そのあと、美希はか細くつぶやいた。

「ミキ、怖いの・・・。」

 私は恐る恐る尋ねる。

「・・・何が?・・・」

「ミキ・・・だんだん家族から避けられていってる・・・そんな気がするの・・・。」

 私は目を見開いて驚いた。

「そんなバカな・・・。」

「ほんとだよ!ミキ、最初のうちは、仕事で帰るのが遅くなっても、パパもママもお姉ちゃんも、夕ご飯を食べないで待っていてくれたのに・・・。だんだん変わっていった。最初はミキのことを待ってくれなくなった。でもそれは、ミキの帰りがもっと遅くなっちゃったから、仕方ないって思ってた。だけど・・・だんだん・・・パパもママも・・・お姉ちゃんも・・・私と話したがらなくなったの。一緒の食卓についても、ミキがパパ・ママ・お姉ちゃんに話しかけても、全然返事をしてくれなくなった・・・。ミキのことなんて、眼中にないみたいだった。それどころか、わざと無視してる。アイドルとしてイキイキすればするほど、家族は私のことを避けていった。ミキ・・・それが怖くて・・・。」

 信じられない。それって虐待じゃないか!

「ミキが『竜宮小町』に入りたいって思ったのも、『竜宮小町』に入って、キラキラしたスポットライトを浴びて、活躍できれば、パパたちもミキのことを認めてくれるって思ったからなの。だけど・・・たとえ入れたとしても、それは多分逆効果だったと思うの。ミキは、頑張れば頑張るほど、みんなから嫌われていく・・・。」

 私は頭を抱えた。そして美希に尋ねた。

「美希は・・・どうしたいの?これから・・・アイドル・・・続けたいんでしょ。」

 美希は、なにも発しない。美希も多分迷っているのだ。自分がどうしたらいいのか。アイドルは続けたい。だけど、今のまま続ければ、美希の中で何かが壊れてしまう。

 とはいえ、事務所的には美希が辞めるのはありえない。この子はきっと大成する。それはプロデューサー・社長、そして私の共通見解だった。そして美希はやっと最近、芽が出てきたのだ。『竜宮小町』の人気が出てきたとはいえ、ここで美希を失うのは事務所的に痛い。それに本人もきっと後悔する。

 何としても、美希のご両親を説得せねば。

 そう思って受話器に手をかけたとき、ここで私はひとつ大事なことを思い出した。

「ねえ美希、このこと、プロデューサーに相談した?」

 美希の担当は、プロデューサーだ。私ではない。仮に美希のご両親を説得するとしたら彼になる。美希は、もう彼に相談したのだろうか。

「まだ・・・してない。」

それを聞いて、私は烈火のごとく怒った。

「どうして!?こんな大事なこと!どうしてプロデューサーに知らせてないのよ!?」

 美希は何も返さない。

「私に相談する前に、もっと早く事を知らせておくべき人がいるでしょ!?どうしてプロデューサーに知らせないのよ!」

「律子・・・さん。」

「私は美希のプロデューサーじゃないのよ!こんな大事なこと、まず、いの一番にプロデューサーに知らせるべきでしょ。美希、あの人のこと信頼できないの?」

「律子・・・さん。」

「今すぐプロデューサーに電話したほうがいいわね、それから社長にも。」

 私は受話器に手を伸ばして、プロデューサーの電話番号にかけようとした。

「律子さん!」

 美希の大声で、私は我に返った。

「律子さん・・・どうして・・・、どうして律子さんは・・・私のこと慰めてくれないの?」

 美希が途切れそうなか細い声で尋ねてくる。

 慰める・・・?私の中で想像しない言葉が出てきて、心の内が動揺している。「慰める」・・・確かに、今の美希を思えば、慰められたかったのかもしれない。だけどそれは、私の役目・・・だったの?美希はそれを・・・望んでいたというの?私に?

「律子・・・さん、何だかアイドルを辞めて、変わっちゃったね。」

「変わった?」

「うん・・・昔の律子・・・さんだったら、こんなとき、真っ先に私のもとに駆け寄って、優しく抱きしめてくれていたと思う。まず最初に、私のことを見てくれていたような気がする。だけど今の律子さんは、765プロのことしか見ていない。私のことなんて、見てくれてないの・・・。」

 ドキッとした。核心を突かれたような感じがして、驚いて私は立ち上がり、美希が見える位置に移り、美希を見つめながら、声を荒げた。

「そんなことない!私は・・・美希のことを思って言っているのよ。美希のことをかばってあげられるのはプロデューサーだけ。だから、私はまず最初にプロデューサーに相談してほしかったのよ!」

 今までずっとそうしていたのだろう。うつむいていた美希が顔を上げる。そのとき私はたいそう驚いた。

そこには、いつか見た顔があった。ぽろぽろと止まらぬ涙を流し、鼻をすすりながらも、懸命な作り笑みを浮かべている。間違いない。この顔は・・・美希が出演したテレビドラマで見せた、視聴者からも監督さんからも絶賛を受けた、あの演技の時の表情そのままだった。

「美希・・・その顔・・・。」

「律子・・・さん、ミキ・・・、演技うまいでしょ。これも演技・・・なの。律子さんに構ってもらいたくて、泣き真似をしただけなんだよ。」

 嘘だ!

私にはわかった。美希は「演技」という仮面をかぶり、心の奥底を隠しているのだ。

痛い沈黙ののちに、美希が言う。

「プロデューサーには、明日話してみるの。ミキ・・・アイドルを辞めるから。」

 声が震えている。鉄面皮のような美希の泣き笑いの奥底では、悔しくて、悲しくて、心を震わせているのだ。

 本当はアイドルを辞めたくない。だけど、辞めなければ、美希は家庭の中で居場所を失ってしまう。私は・・・どうしたらいいの・・・。

 この苦悶に満ちた状況に耐えきれず、私はゆっくりと美希のほうへ近寄った。

「美希・・・本当にいいの・・・?本当に・・・後悔しない?」

「・・・・ミキはもう・・・パパともママとも、お姉ちゃんとも、喧嘩したくないの。だから、ミキがアイドルを辞めれば済むことだから・・・。」

「美希、私が保証する。プロデューサーなら・・・あの人なら・・・きっとご両親とお姉さんの気持ちを変えられる。あの人は、それだけのバイタリティーを持った人よ。ねえ、美希。あの人に賭けてみようよ。美希がアイドルを辞めなくていい方法、プロデューサーなら、きっと!」

「嫌なの!」

 美希が耳をふさぎ、長椅子の上で体育すわりをして、泣き叫んでいた。

「ミキにとって、パパもママもお姉ちゃんも、大切な家族なんだよ!律子は、わかってない。何もわかってないよ!ミキのこと!ミキが今までどれだけつらい思いをしてきたか、どれほど悲しい思いをしてきたのか!律子なんて、大っ嫌いだ!」

 私はその場に立ち尽くした。

 大っ嫌い・・・か。嫌われて当然よね。私・・・正直、765プロのことしか、いや、もっと言ってしまえば『竜宮小町』のことしか考えてなかったかもしれない。

美希の言う通りだ。私はアイドルを辞めて、変わってしまった。

 そういえば、私がアイドルの時は、もっとみんなのことを気にかけていたような気がする。みんなのよき「お姉さん」として、もっとみんなのことをよく見ていたような気がするのだ。美希だけじゃなく、春香や千早だって・・・。

アイドルを辞めて、『竜宮小町』という素材を与えられ、私は彼女たちを自分の功名の道具としてしか使ってなかったのだ。今まで、13人で一つのチームとしてやってきたのに、私がみんなの間にユニットという壁を作ってしまった。

 みんな、何も言わなかったけれど、みんなそういう「壁」を感じていたのかもしれない。いつの間にか、私は「765プロダクション」の一員から外れていたのだ。

 美希がさっき私のことを「輝いている」と言っていたときに、言い淀んだ理由、それは私が変わってしまったからだ。もう今の私は、かつて美希が好きだった私では、もうなくなっていた。

 今の私は、アイドルたちの気持ちすら読み取れない、ただの冷血女。

 そんな私を、美希が嫌うのは当然だ。だけど、私にはやらなくちゃいけないことがある。たとえ嫌われてもいい。恨まれたって良い。私は、美希にアイドルを続けてほしい。

 思い出した・・・。私は、美希に惚れていたのだ。その愛らしさに、そしてその才能に。私は少しだけ美希に嫉妬していたのだ。アイドルとして一緒に活動していて、この子にだけは絶対に勝てないと思った。そして、この子だったら、「トップアイドル」になれると感じていた。

誰しもがなれるわけじゃない、一握りの人間にしかなることができない「トップアイドル」、美希は手を伸ばせば、その地位にたどり着けるのだ。私は見て見たい。美希が「トップアイドル」として輝く、その日を。美希という存在に惚れてしまった私のため、美希のファンであるみんなのため、そしてなにより美希自身のために。

 私はゆっくりと歩を進めて、美希に覆いかぶさるような形で抱きしめた。耳をふさいでいる両手を取り払う。

「美希・・・ごめん・・・。私、美希の気持ちなんて全然考えてなかった。」

「もう遅いの!ミキはもうこんなところにいたくないの!」

「お願い・・・美希。私のことは嫌いになってもいい。だけど、これだけは聞いてほしい。美希。人生はたった1回しかできない、やり直しが効かないロールプレイングゲームなの。アイドルを辞めるという選択をするのは簡単よ。でも、ここであきらめてしまったら、もう二度と『アイドルになる』という選択肢は選べない。今まで作ってきた美希のファンも、今までのレッスンの成果も、そして765プロの仲間たちも・・・全部失われてしまうのよ。美希は・・・、それでいいの!?たった一度きりの人生なのよ!進みたくもない人生を進んで、一生後ろ髪を引かれる思いをして、それであなた幸せになれるの!?」

「パパママ、お姉ちゃんに嫌われたくない・・・。無視されたくない。軽蔑されたくない。嫌な思いしたくない・・・。」

 私は美希の背中をさすった。

「私は・・・美希がそんな顔をしているのを見るのが、一番嫌なのよ。美希は、天真爛漫で、楽天家で、あか抜けているところが、取り柄じゃない・・・。私は。美希のことが好き。ずっと好きだった。今も好きだし、ずっと好き。だから・・・美希と離れ離れになるなんて・・・私・・・。」

 本気で耐えられないよ。今でも思い出す。私がアイドルだったとき、二人はバカやって一緒に時間をつぶしてたっけ。美希がびっくり箱を買ってきて、私を驚かせて、心臓が止まりそうになったこともあったし、美希が「私のため」と言って買ってきたシュークリームにからしが入っていたり、ビリビリするガムを握らされたこともあったな。その度に私は怒っていたけど、でも私はそんな美希が愛らしかった。本気で好きだった。

 気づけば私は号泣していた。

「律子・・・さん。それは、演技じゃないよね?」

 演技なはずあるもんか。私は・・・。

「私は演技が一番苦手なのよ。」

「そうだったの。」

 一呼吸おいて、私が尋ねる。

「ねえ美希。」

「何?」

「美希の言う通り、私は、実はずっと引っかかってた。アイドルを辞めたこと。」

「後悔してたんでしょ?」

「後悔っていうか・・・モヤモヤしてたの。私の夢は、プロデューサーになることだったから、『竜宮小町』を与えてくれたのは本当にうれしかった。だけど、アイドルもアイドルで、悪くなかったから。」

「ミキ、別に気休めで言ったんじゃないんだよ。律子・・・さんは、いつか本当にアイドルに戻れる時が来ると思うの。今は『竜宮小町』で忙しいかもしれないけど、彼女たちをトップアイドルにできたら、今度は律子さんの番だと思うの。」

 私は苦笑した。

「その時は、もう私はとっくに『おばさん』になってるわよ。」

「大丈夫だと思うの。律子さん、見た目に反して若いから、まだまだチャンスはあると思うの!」

 言ってくれるねー、この子。

「誰が老け顔よ、誰が!」

「律子さんなの!それに、律子さんのその眼鏡キャラは、年を重ねたほうが支持を得られると思うの。」

 あら、そう?

「ま・・・そういうことなら・・・今はプロデューサー業に励むとしますかな。」

「それがいいの。」

 美希はくすくすと笑っていた。私は肝心要なことを聞いた。

「美希は、どうするの?」

「ミキは・・・。」

 私は固唾を飲んで美希の返事を待った。

「ミキは・・・やっぱり、アイドルを続けたい。だから・・・少しだけプロデューサーに期待してみようと思うの。プロデューサーなら、私のために一生懸命汗かいてくれそうな気がするし。」

「美希・・・。」

その言葉を聞いて、うれしくなった私は、美希の体を思いっきり抱き着いて、締め付けた。

「ありがとう!美希!」

「うわ~、苦しいよ、律子。」

「律子『さん』でしょー。」

「わかったわかったの。律子『さん』。」

 私は本気でうれしかった。私の中で美希の存在がどれだけ大きかったのか、失いかけて初めて気づいた。今まで「美希」という存在が当たり前だった時には、気づかなかったし、気づこうともしなかった。私は『竜宮小町』の担当プロデューサーである以前に、『765プロダクション』の一員だったのだ。美希も春香も千早も、みんなみんな、私たちの仲間だ!美希がそれを思い出させてくれた。

うれしくて、うれしくて、私はいつまでも美希に抱き着いていた。

 それから私は、美希のためにお茶を淹れ直してきた。今度はちゃんとお湯を沸かしなおしてきた。

私と美希はソファーに座って、お茶をすすっていた。

 美希が私に話しかける。

「律子・・・さん。3日前のこと覚えてる?ここで春香と亜美真美と話していたこと。」

 少し頭をひねって思い出した。

「演技の話、だっけ。」

「うん。泣くときの秘訣。」

 そうだ。美希はあの時、自分の秘訣については「秘密」にしていたのだ。

「ミキはね、悲しくて泣く演技をするとき、『家族』のことを思い出していたの。パパもママもお姉ちゃんも、みんなで私なんか最初からいなかったかのようにふるまって、3人だけで楽しく団らんを過ごして、私だけそれを遠くで見ている。そんな様子をイメージするだけで、悲しくて・・・苦しくて・・・あっという間に涙が滝のように流れてくるの。」

「美希・・・」

 そう言っている美希の目にはまた涙が浮かんでいた。

「だけどね、ミキ気づいたんだ。」

「何に?」

「765プロのみんなと離れ離れになっちゃったら・・・家族からハブられるのと同じくらい・・・うんうん、それ以上に、悲しいって。」

 美希は、カップを手に取り、ハーブティーに口をつけた。そしてカップをテーブルに置く。

「律子・・・さん、さっき私のために本気で泣いてくれたんだよね。恥ずかしがらずに、私のこと『好き』って言ってくれたんだよね。」

 言葉に出されると・・・恥ずかしいではないか!私、勢いに任せてずいぶん恥ずかしいことを言っていたのだな。

「あー、顔が赤くなってる。かわいいの。」

「うるさい!先輩をからかうもんじゃないの。」

 美希は屈託なく笑っていた。それもすぐにまじめな顔になる。

「ミキね、多分初めてだと思うんだ。美希のことを本気で『好き』って言ってくれた人。ミキは、そんな人を失いたくないって思ったの。」

「美希・・・。」

「律子・・・さんだけじゃない。春香も千早さんも、他のみーんなも、ついでにプロデューサーも、ミキにとって大切な人。そんな大切な人たちを失ったら、ミキ絶対すごく悲しいと思ったんだ。ミキ、絶対にそんな悲しい思いだけはしたくない。たった1回の人生なんだもん。だったら、やれることは、やってしまいたい!パパ・ママ・お姉ちゃんに軽蔑されるのは嫌だけど、それでもミキは・・・アイドルをやりたい!」

 私はにっこりとほほ笑んだ。

「今の言葉、そのままそっくりご両親方に聞かせてあげたいわ。美希がどんな決意で、アイドルを続けるのか。それさえわかれば、ご両親方もきっと気が変わると思うから。」

「あとはプロデューサーの腕次第なの。」

 私はフフフと笑った。

「そうね。でも大丈夫よ。あの人は、有能なプロデューサーだから。」

「少しは期待しておくの。」

 美希はティーカップをつかむと、最後の一口を飲み終えた。それに合わせて私もお茶を飲みほした。

 時計の方に目をやる。すでに時刻は午後10時半になっていた。

「さ、カップを片付けたら、家に帰ろうか。」

 美希の眉が潜まった。私はそれを見て満面の笑みを浮かべた。

「私の家に。」

「えっ?」

 美希は驚いたように、キョトンとした顔をした。

「さっき美希のお母様に、言われちゃったの。『もうあの子はうちの子ではありませんので、好きになさってください。』って。」

 その言葉を聞いて、美希が悲しそうに下を向いた。

 構わず私は続ける。

「だから私、美希を家に住まわせることにしたの。」

 それを聞いて驚いたようにこちらを見返した。

「お言葉に甘えて、好きにさせてもらうわ。うちはアパートだから狭いし、安給料だから実家みたいに贅沢させてあげられないけど、何とかやっていけるわよ。」

 驚いて目を丸くしていた美希の顔が、パッと花を咲かしたように明るくなった。

「律子さん!」

 よっぽどうれしかったのか、美希が私のもとにやってきて、私に飛びついてきた。

「こらこら、あぶないって。もう、美希ったら。」

「律子さん・・・律子さん!」

 笑顔で抱き着いてくる美希は、本当に愛らしくて、まるで妹ができたみたいだった。

「まったくもうー、美希は甘えん坊さんね。」

「律子さん、だーいすき、なの!」

 まったく・・・本当にかわいい子ね。この子は。

 私は美希のキラキラした金髪を、いつまでも撫でまわしていた。

 どれくらいたっただろうか。もう時間が深くなってしまったので、そろそろ家路につこうという事なった。

私は給湯室でティーカップを洗い、美希は服を自分のかばんに詰め込んだ。私は一足先に傘を持って玄関口へとやって来ていた。

「美希―、行くよー。」

「待って!今行くの!」

 美希も自分の置き傘を持って、事務所の扉の前まで来た。私が事務所を施錠するので、私が最後に出なければならないのだ。

 美希が小走りでやってきて、扉を開けた。

「あっ、雨止んでる!」

 私も事務所の電気を消して、事務所から内階段のところへと出た。これまでザーザーと降っていた雨が嘘のように止んでいたのだ。

「ほんとだわ。」

「じゃあ、もう傘はいらないね。戻してくる。」

 美希が事務所に又入ろうとする。

「いいじゃない。持って帰りなさいよ、また降るかもしれないし。」

 美希は笑って返すのだ。

「いいもん、その時は律子さんの傘に入れてもらうから。」

 私は傘を持って帰れというわけね・・・。普段なら突っ込みを入れるところなのだが、何だかかわいらしいから、許してあげよう。

「はいはい、分かったわよ。」

 美希が傘を置いて、事務所から出てきた。事務所を施錠して、階段を下りていく。外に出て空を見て気が付いた。まだ雨のにおいは残っているが、空は晴れ上がっている。これは万が一にも降りそうにないな。

「ねえねえ、このあとラーメンを食べに行かない?」

 美希がそう提案してきた。そういえば、私も美希も、プリンしか食べていない。お腹はペコペコだ。

「いいのー?夜にそんなもの食べちゃって。太るわよ。」

 美希は得意げな顔をした。

「いいもーん、ミキは脂肪が胸に行くタイプだから。」

「まったくもう。」

 私たちは笑いあっていた。まあ、今日くらいは大目に見よう。

「見て見て、星が出てるの!」

 空を見上げた美希が指をさした。美希が指さした方向には、北極星が瞬いていた。

「本当ねー、きれいだわ。」

「うん!」

 雨上がりの夜の空は、まるで今の私たちの心もちを表しているかのように、きれいに澄み渡っていた。

 

『雨上がりの夜』 完

 



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