Continue to NEXT LOOP.../SIREN(サイレン)/SS   作:ドラ麦茶

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第八十二話 宮田涼子 宮田家/仏間 前日/二十三時五十五分四十一秒

 その日、宮田涼子は宮田家の仏間で祈りを捧げていた。

 

 部屋の明かりは点けられていない。この部屋だけでなく、家中全ての電灯は消されていた。唯一の明かりは、仏壇に立てられた二本のロウソクの弱々しい炎だけだ。窓から差し込む月明りさえ無い。日没過ぎから降り始めた弱い雨が少しずつ勢いを増し、今では窓を激しく叩いていた。

 

 涼子は、祈る。

 

 今、上粗戸の眞魚岩で、神代家の秘祭・神迎えの儀式が行われている。その成功を祈っていた。

 

 儀式が成功するとどうなるのか、涼子は知らなかった。それを知ることができる立場ではないし、知る必要もなかった。そもそも、秘祭を行っている神代家や眞魚教教会の者でさえ、何も知らないのではないかと思われる。

 

 しかし、儀式が失敗した時どうなるかは、多くの者が知っていた。

 

 涼子は祈りを捧げる。二十七年前と同じことが起こらないように。

 

 二十七年前の今日、神迎えの儀式に失敗し、村は、大きな土砂災害に襲われた。

 

 多くの村人が死亡、あるいは行方不明となった。その中には、当時、まだ産まれたばかりの涼子の息子も、いた。

 

 あの日のことを思い出すたびに、涼子は不安に押し潰されそうになる。あの日も涼子は一人だった。一人で仏間に座り、儀式の成功を祈っていた。息子は、大字粗戸の乳母の所へ預けていた。儀式が近づくと宮田家はあわただしくなり、とても面倒を見ている暇がなかったのだ。

 

 だが、それが災いした。

 

 その夜発生した土砂災害で、粗戸一帯は最も大きな被害を受けた。息子の遺体は、二十七年経った今でも見つかっていない。

 

 雨は、さらに激しく窓に打ち付ける。

 

 同じだ。

 

 二十七年前のあの日と、同じだ。

 

 あの日も、涼子は一人、仏間にこもり、儀式の成功を祈っていた。あの日も、日付が変わる頃、激しい雨が降り始めた。

 

 ――ああ、どうか、儀式が滞りなく終わりますように。村を――司郎を、お護りください。どうか、御先祖様。

 

 涼子は、祈りを捧げ続ける。

 

 ……と。

 

 背後から、鋭い視線を感じた。

 

 誰かに見られている。

 

 今、この家に涼子以外の人はいない。人が訪れる時間ではないし、儀式が行われている今、村人の外出は禁じられている。

 

 だが、その存在しないはずの誰かは、涼子の背後に静かに座り、じっと、刺すような視線を向けている。

 

 ありえない。この家には誰もいないのだ。いるはずがない。もう、いるはずがないのだ。

 

 心の中で、涼子がどう否定しても。

 

 背後の気配は消えない。何をするわけでもなく、ただじっと、涼子を見つめている。

 

 涼子は、ゆっくりと、後ろを向いた。

 

 部屋の隅に、誰か、いる。

 

 黒の礼装服に身を包み、正座をし、身動きひとつしない。膝の上で重ねられた手は脂肪が落ちきったかのように骨が浮き出ており、皺だらけだった。老女のようである。顔は見えない。ロウソクの心許無い明かりは、その者の胸のあたりまでしか照らさない。それでも、じっとこちらをを見つめているのが、涼子には判る。

 

 背中を、冷たい汗が流れ落ちる。

 

 あり得ない。この家には涼子以外いない。もう、涼子を無言で見つめる者など、いないのだ。

 

 地の底まで響くかのような雷鳴と共に、まぶしい光が窓から差し込んだ。

 

 その光が、部屋の闇に隠れていた者の姿を浮かび上がらせる。

 

 手同様、脂肪の落ちた皺だらけの顔。結い上げられた長い白髪。そして、何の感情も宿らず、ただ冷たく涼子を見つめる目。

 

 ――お義母(かあ)さま。

 

 稲光は一瞬で、部屋は、すぐ闇に包まれる。ロウソクの頼りない明かりだけが部屋を照らす。

 

 部屋にはもう、誰もいなかった。涼子以外、誰も。

 

 そう。

 

 この家には、今、涼子一人なのだ。

 

 いるはずがない。

 

 義母は、もう何年も前に死んだのだ。

 

 だから、いるはずがない。

 

 そう、自分に言い聞かす。

 

 それでも。

 

 涼子を見つめる視線は、気配は、消えない。

 

 ……いる。

 

 見えないが、確かに、いる。

 

 どこからか、じっと、涼子を見つめている。

 

 涼子は仏壇に向かい、手を合わせた。

 

 ――ああ、お義母さま……お許しください……どうか……お許しください……。

 

 涼子の祈りは、いつの間にか、義母に許しを請うものになっていた。

 

 

 

 

 

 

 宮田涼子は、宮田医院の先代医院長の妻であり、現医院長・宮田司郎の母だ。母、と言っても、司郎と血の繋がりは無い。司郎は元々、吉村という家に産まれた双子の子供の弟だった。吉村家は、二十七年前の災害で父・俊夫と母・郁子を亡くしており、孤児となった息子の一人を、宮田家の跡取りとして引き取り、育てたのである。

 

 涼子は、村で代々眞魚教求導師を務めている牧野家の長女として産まれ、二十三歳の時、宮田家へ嫁いできた。恋愛による結婚ではない。牧野家、宮田家は、羽生蛇村では神代家に次ぐ力を持つ家系であり、涼子自身が伴侶を選べるような環境ではなかった。両親が嫁ぎ先を選び、娘はそれに従う。それが当然であり、涼子自身も、そのことに疑問を抱いていなかった。

 

 そして、宮田家に嫁ぐということがどういう意味を持つのかも、涼子は深く理解していた。

 

「――あなたは、一刻も早く宮田家の跡取りを産むのです」

 

 宮田家に嫁いだ日、御両親にあいさつを済ませた後、義母が涼子にかけた最初の言葉だった。

 

 この時代、宮田家のような大きな家では、家系を途切れさせないことが何よりも大事なことであり、嫁の仕事は子供を産むこと、というのが当たり前の考え方だった。涼子もそのことを心得ており、一刻も早く子を授かろうと努力した。

 

 しかし、一年経っても、二年経っても、子はできなかった。

 

 義母は、毎日のように子を催促した。早く子を産め、子を産むことが嫁の務め、牧野の娘は跡継ぎも産めないのか――もはや中傷と言ってよかったが、涼子は耐えるしかなかった。

 

 三年、四年経っても、まだ子は授からない。

 

 この頃になると、涼子は、夫と二人、不妊治療を受ける相談をしていた。夫は医者だが、不妊治療は専門ではない。街の大きな病院で、専門医の治療を受けるべきではないか、と、涼子は訴えた。

 

 だが、義母が猛烈に反対した。宮田医院の院長がよその病院に罹るなど恥以外の何ものでもない。子を授からないのは、宮田家の嫁である覚悟が足りないからだ、というのだ。子が授からない原因が涼子一人にあるとでも言いたげな、極めて不条理な言い分だった。しかし、逆らうことはできない。

 

 五年、六年、七年経っても、子はできない。

 

 この頃になると、義母はもう、何も言わなくなっていた。もちろん、跡継ぎを諦めたわけではない。ただ、涼子のことを宮田家の嫁と認めなくなっただけだ。義母にとっては、子を産めない嫁に価値が無かったのである。義母が涼子を見つめる目は、感情が宿らない、まるでゴミでも見るような冷めた目だった。

 

 跡継ぎを産めない嫁など、宮田の家には必要ない。

 

 義母の目は、口よりも雄弁に、そう語っていた。

 

 八年目。涼子は、宮田家から離縁させられるとの噂を耳にした。

 

 離縁。涼子が、宮田家から籍を外される――という、単純なものではない。

 

 宮田家は、表向きは村で唯一の医者であるが、裏では、神代家に逆らう者を密かに捕え、監禁、あるいは処分するといった、非合法な行為を遂行する役割を担っていた。村の暗部と言っていい。村人に知れてはいけないことが、数多くある。

 

 だから、一度宮田の家に嫁いだ涼子は、離縁するからと言って、ただ実家に帰らされるわけではないのだ。

 

 宮田家から離縁されたものがどうなるのか? それは、涼子にも判らない。判らないが、想像はできた。神代に逆らった者と同じように、狂人として監禁されるか、秘かに処分されるかである。それが牧野家の娘であったとしても関係ない。

 

 涼子は怯えた。いつ、離縁を申し渡されるのだろう? 義母が涼子を見つめる目が、鋭い殺意のように感じるようになった。

 

 だが、幸運にも。

 

 九年目、涼子は、ようやく子を授かった。

 

 義母の目から殺意が消えた。だからと言って、宮田家での涼子の立場が良くなったということはない。義母からは、跡継ぎができるのに十年近くかかったことをさんざん罵られた。それでも、涼子は宮田家の嫁としての役割を果たすことができ、安堵していた。

 

 だが、涼子が宮田家に嫁いで十年。すでに三十を超えた涼子は、妊娠・出産に高いリスクが伴う身体となっていた。

 

 翌年、子供こそ無事産まれたが。

 

 涼子は出産後の出血が止まらず、緊急手術を行うこととなった。様々な処置が施されたが出血は治まらず、最終的に、子宮を全摘出することとなった。

 

 子宮全摘出――涼子は、もう二度と、子をもうけることはできない。

 

 もっとも、そのことについて涼子は、さほど気を落とすことはなかった。二度と子を産めない悲しみよりも、ようやく子供が産まれた喜びの方がはるかに上回ったのだ。いや、子供が生まれた喜びと言うよりも、義母から受ける重圧から解放された喜びと言った方が正確かもしれない。

 

 そう、涼子は。

 

 十年に渡る義母からの「子を産め」という重圧により、我が子に対する想いが、大きく歪んでいた。

 

 涼子にとって、子供は、自分の命に代えても護る大切なものではなく、義母から自分の身を護るためのものだったのである。

 

 だから。

 

 一ヶ月後、一九七六年八月三日の土砂災害で子供を失った時も、子を失った悲しみよりも、義母への恐怖が上回っていた。

 

 ようやく生まれた宮田家の跡取りを失い、そして、涼子は二度と子を宿すことができない――義母の怒りがどのようなものになるか、想像しただけで、涼子の震えは止まらなかった。

 

 あの、鋭い殺意の宿る義母の視線が、涼子の胸に浮かび、そして、突き刺さる。

 

 涼子は、義母の怒りを鎮める方法を考えた。

 

 そんな時。

 

 天から、吉村家の自動車が降ってきた。

 

 何が起こったのは今でも判らない。天から降ってきた自動車の中には、双子の赤ん坊がいた。涼子はそれを、天からの恵みだと思った。

 

 涼子は双子の弟を引き取り、宮田家の跡取りとして育てることで、義母の許しを乞うた。

 

 司郎と名付けられたその子供は、涼子の手により、立派に育てられた。

 

 それから時が過ぎ、宮田医院の院長は、涼子の夫から司郎へと代わった。

 

 司郎は二十七歳になった。結婚はしていない。そろそろ嫁をもらい、跡継ぎのことを考えなければならない頃である。

 

 義母は、もう十年以上に亡くなったが。

 

 ――跡継ぎを産めない嫁など、宮田の家には必要ない。

 

 義母の重圧は、今も涼子を苦しめる。

 

 あの、義母の視線は、今も涼子の胸に刺さったままだ。

 

 

 

 

 

 

 ――ああ、お義母さま、お許しください……お許しください……。

 

 宮田家の仏間で、涼子は手を摺合せ、畳に頭を擦り付け、義母に許しを請い続ける。

 

 間もなく日付が変わる時刻だ。雨はさらに強さを増している。この家には涼子一人だ。司郎はいない。宮田家の者は神迎えの儀式に参加する必要は無いから、どこへ行ったのかは判らない。

 

 イヤな予感がする。

 

 二十七年前と同じだ。二十七年前の八月二日の夜も、神代家は神迎えの儀式を行った。その時も、深夜になって強い雨が降り始めた。義父と義母、夫は家におらず、産まれたばかりの息子は粗戸の乳母の所へ預けていた。涼子は一人、仏間で儀式の成功を祈っていた。

 

 同じだ。

 

 二十七年間のあの夜と、同じだ。

 

 あの夜、日付が変わる頃、村は大きな地震に襲われ、各地で土砂災害が発生した。そして、粗戸に預けていた息子は、行方不明になった。

 

 もし、今夜も儀式に失敗し、村が災害に襲われ、そして、司郎が行方不明になったら――。

 

 義母は十年以上前に亡くなったが、今もこの家に居て、涼子を見ている。

 

 ――跡継ぎを産めない嫁など、宮田の家には必要ない。

 

 義母の視線が、涼子に突き刺さる。

 

 ――ああ、お義母さま……お許しください……

 

 涼子は義母に許しを請い、そして、儀式の成功を祈る。

 

 だが、涼子の祈りは届かない。

 

 かたかた、と、仏壇の燭台が音をたてる。

 

 顔を上げる涼子。燭台が、揺れている。

 

 揺れは徐々に大きくなり、ロウソク全体が、仏壇に掲げたマナ字架が、そして、仏壇全体が揺れ。

 

 やがて、部屋が、家が、大地が、大きく揺れ始める。

 

 地震だ。

 

 燭台が倒れ、ロウソクが床に落ちる。揺れはさらに激しくなる。揺れに耐えられなくなった仏壇も、大きな音とともに倒れた。隣の部屋でもタンスや棚が倒れる音が聞こえる。台所の方では、皿やグラスが割れる音が聞こえて来る。

 

 二十七年前と、同じ。

 

 やはり、儀式は失敗したのか。

 

 涼子は。頭をおさえて床に伏せる。

 

 ――司郎……どうか無事で……ああ、お義母さま……お許しください……。

 

 涼子は、許しを請い続け、ただ、地震が治まるのを待つしかなかった。

 

 

 

 

 

 


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