召喚後から十二話くらいまでのざっくりした内容となっています。
アンデルセン
真っ黒い夜に、白い影が浮かび上がる。
それに気が付けば波のように橙の火が広がっていく。
「これは……」
零れた声は空気を震わすことなく霧散する。
だからこそこれが夢であり記憶であることがはっきりと知覚することができた。
それは誰の夢か。
『××、それではな』
『はい。どうか、お元気で』
男の硬い声に白い影は声に笑みを乗せてふわりと袖を広げて男に背中を向ける。
男に背中を向けたことによって夢を見る己にはその顔が見ることができた。
『恨むのであれば、己が運命を恨め』
『……はい』
答えたその顔は穏やかな笑みだけが浮かぶ。
まるで喜びしか知らないとでもいうような笑みは、あまりにもこの黒い夜には不釣り合いだった。
だからこれは、間違いなく己のマスターとなった少女のものだと確信する。
『今日がその日なのですね、××』
ジジ、と耳障りな音がしたかと思えば少しだけ場面が変わり一人の女と少女が対面していた。
少女は先ほどと変わらない笑みで頷き、差し出された手にその小さな手を重ねた。
今のマスターよりもほんの少しだけ成長したような姿は、今よりもずっと感情の振り幅が少なく見える。
それが成長したからなのか、そうではないのかははっきりとは判らないが。
『あなたは恨まないのですか』
『……恨むことができればよかったのですが。私には少し、難しかったようです』
その瞳には怒りも憎しみも、ましてや悲しみの影もない。
それを見つめた女は僅かに困ったような顔をして重ねた手を離して「そうですか」と小さく頷く。
『あなたには、世話になりましたね。……最後の護衛を、お願いします』
『……ええ。お任せください、姫様』
『姫なんて……そんな柄ではないのですけどね』
やっと感情らしいものをみせた少女に、女は微笑みしずしずとその背後へと回り込んだ。
少女はその気配を感じ取って、長い黒髪を風に遊ばせながらまた笑みを浮かべた。
それはひどく美しく、そして人間性を失った人形のような伽藍洞なものだった。
だからこそ、己がマスターに感じた虚ろいだ中身のひとつを理解できた。
だが、ピースがまだ足りない。これだけではあそこまで感情を出すことはできないはずだ。
それを知りたいと思うのはきっと、己の中の何かを刺激するような何かが、このマスターにはあったからだろう。
その夢は召喚されてから三日目に見たものだった。
翌日も、そのまた翌日も、アンデルセンは夢を見る。
いつかの時代の、名も知れない
その身に願いを、喜びを、慈しみを、信頼を、心配を、親しみを、感謝を、期待を、希望を、欲望を、悲しみを、憎悪を、嫌悪を、怒りを、嘆きを、嫉妬を、罪悪感を、苦しみを、痛みを、呪いを、絶望を押し付けられ続けた
いつまでもいつまでも、繰り返し贄となる
まるで感情という機構を持っていない人形のように。
まるで笑うことしか知らない無邪気な子供のように。
だから彼は、それを嘲笑った。
「愚かな女だ。そして、だからこそ俺が召喚されたのだろうよ」
己が恋した少女と似ているようで全く違うのに、それと同じものを持つマスターだからこそ。
少女と違うとしたらそれはいつか訪れる幸福のためではなく、ただ平穏な日常をこそ愛していたことだろう。普遍的な日常を。刻々と変わりゆく日常を。
いつか来たる己が身を差し出すその時まで、ひたすらに。
「ああ本当に、人間は醜いものだ」
少女たちに犠牲を敷くだけの醜い記録は否応にも己が恋した彼女に起きた悲劇を思い起こした。
だからこそアンデルセンは人間の醜さを罵る。己が信じてしまった過失をも含めて、須らく醜く、汚く、価値などない。人々の言う愛など存在さえもせず、無意味なものなのだと。
此度の夢の中の少女が、白く化粧されていくのを見つめる。
夢だからこそ、その魂に刻まれた記憶だからこそ、己には何もすることができやしない。
それは生前、少女の最期しか知ることの出来なかった自分への報いか。
ああそれさえも、なんて無意味なことだろうか。
「くそ、このマスターは異質にも程がある。魔術にはそこまで詳しくはないが、明らかに常軌を逸する人格、記憶…魔術師でいうなら起源、か? 聖杯戦争などに関わることがなければただの子供でいられた……いや、それはないか。どうせこの夢のように何かに巻き込まれ、何かに捧げられ、何かに飲み込まれるのだろう。それが、この女に架せられた運命というべきものなのだろうな。俺からすれば気に食わんことこの上ないが」
ふん、と鼻を鳴らして目の前の少女の頭を叩く。
現実では確かに触れることができるのに、今はただ空を掻くだけだ。
その無駄に微笑む横顔を叩きたいのに、それは叶わない。
「とにかく腹が立つ。彼女に似ているのに俺にも似ているマスターが兎角腹が立つ。何故抗わない。何故変わらない。何故お前は恨まない」
いいや判っていた。この女は善いも悪いも理解していると。そして人の感情を受け入れては模倣する、機械のような人形なのだと。
決して報われることのない死なのに恐怖も悲嘆もない、ただ無為でなければと願うだけの女なのだ。
目の前の少女が、くべられていく火を見つめている。
今よりも幼い肢体が火に巻かれ、火に焼かれ、火に炙られてゆく。
ああだのにその顔に浮かぶ、淡き微笑の何と美しいことか。
『例えこの生が意味のないものだとしても』
少女の唇が、言葉を形作る。
橙の光の中で、誰に聞かせるわけでもなく。
『わたしは、それでいい』
ただ、無為でなければと囁く声のなんと儚いことか。
その顔をじっと見つめ、彼はまた指を伸ばした。
焼け爛れていく皮膚に、白く細い手足に、色素の薄い髪に、触れられることはない。
『誰に知られなくとも、わたしは』
その続きはついぞ形になることなく崩れ去った。
まるで脆いガラス細工のように、乾ききった砂の城のように呆気なく。
そして、彼の意識は急速に遠のいてゆく。
夢から覚めるかのように、夢から追い出されるように、夢から逃がされるように。
ぱちりと瞬けば、薄暗い視界に見慣れつつある天井が見えた。
横たえさせていた体を起き上がらせて首を巡らせれば、己のマスターである少女がすやすやと健やかな寝息を立てて目を閉じている。
聖杯戦争の最中だというのに、無防備に過ぎる姿は、だがだからこそ少女らしいと思った。
「フン、間抜け面だな」
眠っている少女に意味のない罵声を零して、ずれた掛布団を掛けなおす。
きっと少女が起きていれば珍しいだの何だの言うのが予想できたが、起きていなければ知ることもない。
暫くその寝顔を見つめ、今まで見てきた夢を思い起こす。
「……」
死に続ける記憶を持つ女は、何故狂わないのか。
それはただ、痛みではなく無為への畏れしかないからなのだろう。
意味などなくとも、誰か何かひとつだけでも残っているものがあるのならばそれでいいと願うからこそ、この女は狂えない。
もしかしたら、それこそ女に架せられた運命と呼ぶべきなのかもしれない。
「だが、お前はそれでも運命を呪わないのだろうな」
怒りも恐怖も模倣することしかできない人の皮を被ることしかできない人形の如き女には、さてどんな物語が似合うのだろうか。
バッドエンド。それはこの女には十分のはずだ。
ならば己が書くべきは。
「……いいや、まだ時間はある。ならばゆっくりと、水谷響という女を書くとしよう」
すでに戦いの火蓋は切られている。
時間はそう多くあるわけではないが、書き上げるには十分な余裕があるだろう。
筆が遅い方ではあるが、それなりにやる気は出てきた。このまま筆が乗れば、書けることだろう。
とは思ったものの翌日に乗りかけの筆を無理矢理取らされるとは思わなかったのだが。
この鬼畜め、と罵りながら書き上げた予定の三割程度のそれをもう一度見直す。
うむ、完成前に改めて文章校正をしなければな。
だが、出だしさえ書けば後はすぐに書けることだろう。
珍しくやる気の出ている自分に聊か笑いが出てくるが、そうだな、彼女のこれから先の物語を綴った後に今まで見てきた記録を書くとしよう。
……無断で書くと幾ら何でも怒るか? いや、マスターのことだ。怒りはしないだろう。
眠る顔を見て、アンデルセンはふと笑みを零した。
彼女が変わるだけの土台を作るのも、一興だろう。
それを最後まで見届けてやることができないことだけは残念だが、それでも彼女の長い長い、世には残ることのなかった
世界が彼女を犠牲と望むのならば、己くらいはこの少女の未来を願ってもいいはずだ。
だからそう。物語の締めくくりは、その未来に手向けたものにするとしようか。