不見倶楽部   作:遠人五円

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奇跡

  壁が抉れ、窓が割れ、床が削れる。

  双方本気になった『こちやさなえ』と副部長の衝突で巻き起こった光景は、この世のものとはとても思えない。

  目を疑い夢ではないのかと目を点にして呆然とする願子と塔子を誰が責められるだろう。

  準備室を塗り潰す勢いで伸ばされた無数の手を全て無視して、限界まで引き絞られた弓のように身体をしならせ放った副部長の一撃は、(ただ)れた『こちやさなえ』にくっきりと拳の後を残して、準備室の壁に打ち付けた。割れるフラスコと同じように簡単に壁は砕けちると、隣の理科室まで『こちやさなえ』は吹っ飛んだ。

  与えられた攻撃の跡へ、『こちやさなえ』の無数の手が発狂し拳の跡を隠すように集中する姿は、確かに痛みを『こちやさなえ』に与えていることが分かる。

  副部長の一撃は、拳を打つというよりは、杭を打ち込んでいるのに近い。柔らかく形のないものを殴っているはずなのに、巨大な木の杭がぶち当たったかのような低く鈍い音。その衝撃は『こちやさなえ』だけに限らず、準備室の窓も全て砕け散らし、地面に散らばるフラスコたちの破片さえ振動させて僅かに宙に浮かせるほどだ。

  粉々に砕けた壁の欠片が願子たちの頭を叩き、漫画のような光景に息を飲んでいた意識をようやく覚醒させた。

 

  逃げなければ。

 

  願子の脳は無意識にそう判断を下す。支える手から伝わる震える塔子の身体がそう判断させたのかもしれない。塔子の目に映る衝撃的な副部長のパントマイムでは、そうなっても仕方ない。

  しかし、願子たちがその場を離れると決めたのは、タイミングとして遅すぎた。揺れ動く状況が簡単にそれを許してはくれない。

  『こちやさなえ』から再び手が伸ばされる。副部長に殴り飛ばされたせいで隣の理科室まで飛んだために距離が離れているにもかかわらずだ。そのせいで現れるのは、異形の姿。

  伸びる。伸びる。

  人の形の限界域を優に超えて伸ばされる無数の手は、祟りを宿した八岐大蛇(ヤマタノオロチ)。腕は形状を変化させ、その一本一本は生物的な形をとった。腕は流に合わせて大きく膨らみ、表面に流れる祟りは(うろこ)を思わせる線を走らせ、掴んで離さないために牙が伸びる。『こちやさなえ』の姿は(うご)めく大蛇に潰されて、もう見ることも叶わない。祟りの蛇に触れられた規則正しく並んだ理科室の実験台は、それが内包する負の熱に当てられ溶けてしまう。嫌な臭いが辺りに漂い、瘴気の風が空気の質を塗り変える。

 

「行け! 振り返るな!」

 

  副部長の声だと理解するより早く、願子と塔子は(ひしゃ)げた扉から廊下へと飛び出した。本能が力の入らなかった足を力強く動かす。背後から次に聞こえてくるのは、打ち込まれる杭の轟音。その衝撃波に押されるように、願子と塔子は飛ぶように走る。だが、そう簡単に願子たちの逃走劇は簡単にはならない。

  潰すように爆ぜる音、砕くような低い音、焼けるような高い音、溶かすような不快な音、背後から様々な破壊音が願子たちの隣に並ぶ教室たちを飲み込んでいく。それが横に並ぶと、教室の壁を溶かし切り姿を見せる祟りの蛇。電気線、ぶら下がる蛍光灯を押しのけて、顔に開いた穴が僅かに細められ、祟りが願子たちを飲み込もうと大きな口を開くが、上から落ちてきた副部長の拳がそうはいかないと強引にその口を閉じさせた。拳の衝撃で祟りの緑黒い飛沫が辺りに漂い、願子たちの肌を焼く。鋭い針が身体を貫通するような痛みに二人は顔を(しか)めるが、ここまで来て足を止めるわけにはいかない。

  思い通りにならない状況に、祟りの蛇は背筋が凍るような叫びをあげて副部長を振り払う。しなる体に弾かれると、副部長は半ば溶かされ崩れ落ちそうな壁だったものを巻き込みながら吹き飛んだ。それでも願子たちの目では追えないくらい早く体勢を立て直すと、床が抉れるほどに踏み込んで、再び祟りに突っ込んでいく。

  集るハエを払うように躊躇(ためら)いの無くなった祟りによって起こされる光景は、最早人の埒外(ちがい)。無数の蛇はその体躯をより大きく膨らませ、狭過ぎる学校を削るように凌辱していく。蠢めく蛇はやたらめったら壁を壊し、願子たちには後戻りする道すら残されない。人の身を大きく超えるそれの相手を続ける副部長は、一騎当千の働きを見せるが、如何せん一人では手が足りなさすぎる。

  副部長の張る防衛線を超えて這いずる蛇は、願子たちにはどうすることもできず、また一つの教室が無くなった。

 

  無理だ。とても部室まで行けない。

 

  一本道では逆に危険と、存在の意味が無くなった廊下を外れてなんの部屋だったのか分からなくなっている教室に足を踏み入れた願子たちに、訴えかけてくる退廃的な光景が手に余る存在だということを改めて思い知らせてくれる。祟りのあまりの大きさに少し足を緩めてしまった願子たちを、副部長の相手をしながらも無数の蛇は見逃さない。床に散らばる元がなんなのか分からなくなった障害物を避けるため、さらに速度の落ちた願子たち目掛けて、阻む副部長の拳をその体躯では考えられないほど柔らかく避けると一匹の蛇が願子たちへと飛び出した。

  今度こそはと、大きく広げられた大蛇の口は、横へと裂けて限界以上に開き切り廊下を全て埋め尽くす。願子たちに迫り来る大蛇の口。木も、鉄も、電気も、生物非生物問わず全てを呪う祟りがこの世から存在を奪っていく。月明かりも喰らい、空気も喰らい、希望さえも全て喰らう。願子の視界の端に映るのは、光すら存在しない黒一色の世界。そこに小さく瞬く淡い光は祟りの炎。綺麗に見えるが、その光一つ一つが人を殺しきる祟りの塊だ。少しでも触れてしまったら、今度は肌を撫ぜるだけでなく、心の奥深くまで穿(うが)たれてしまう。そうなってはもう今の自分には戻れない。

  しかし、どれだけ足を動かしても、閉じる世界は無慈悲に願子に迫っていく。少しずつ視界を埋めていき、夜のはずなのに夜になっているみたいだ。遂に祟りの雫が願子の肩口に垂れるほどに近づいた。

 そんな迫る死から願子の命を救ったのは、今も拳を振るい続ける副部長ではなく、隣にいる塔子でもなく願子自身だった。塔子から渡された命綱を手放さずに懐に忍ばせていたお陰か、走る願子の勢いに逆らって懐からスルリと蛇の口に願子の命を引っ張り出す。願子の命よって作られた紙の御守りが祟りの中に落ちると反射的に蛇は口を閉じてしまった。御守りは最後の役割を終え、祟りに包まれるとあっという間にこの世から姿を消してしまう。

  九死に一生を得た願子だが、弱い人の身を守るものはもう何もない。その証拠に動き続けていた願子の体が段々と停滞していく。触れられてさえいないはずなのに、離れたところで口を開く蛇たちに生きるために必要なあらゆるものが吸い込まれてしまう。ゆっくりと絶望を教え込むかのように指先から力が抜け、踏み出す足は廊下の固さに負けたかのようにぐにゃりと膝をついた。

  蛇はそれを見逃さないが、それをよしとする副部長ではない。数を数えるのも億劫になる程の蛇たちの顔を余すことなく映す複眼が、膝をつく願子の姿を捉えていた。

 

「衝撃に備えろ!」

 

  蛇たちの相手を止めて願子たちの方に振り返ると、拳を伸ばすのはボロボロになった廊下へ目掛けて。拳を起点に廊下が弾け、木の板が衝撃に耐えかねて宙に反り返る。蛇たちに体を穴だらけにされている廊下は、打ち込まれた衝撃を受けきることはできずに大穴を開ける。浮遊感が願子たちを襲い、木の破片が柔い肌に突き刺さる感触が、手放しかかった願子の意識を僅かに繋ぎ止めた。

  身体が下階の廊下にぶちあたり、願子の身体は無造作に跳ねるとついに指先一つ動けなくなってしまう。床に横たわる身体はマネキンのようで、とても一人では動くことができない。だが今までで違うのは、目だけは動かせ景色が止まってしまうことはないということ。頭上で続く副部長と『こちやさなえ』の激突音。空からパラパラ舞い落ちる何かの破片。はっきりと目と耳にそれが伝わる。止まってしまう世界よりも、今は伝わってしまう状況が恐ろしい。一匹の蛇が頭上で跳ねると、今にも崩れかかった廊下から破片が願子のこめかみに落ちてきた。避けることもできずその与えられる力に逆らえず頭は流れ、鈍い痛みに手を伸ばすことも叶わない。

  絶望だけが彩る世界の中で、意識があるのは救いなのかもう一つの絶望なのか、視界が動かされた廊下に転がる願子の目の先には、不見倶楽部のプレートがしっかりと写り込んでいた。

  ゴールだ。ゴールが見える。願子と塔子はここに行き着くために死ぬような思いをして走ってきた。希望はすぐ目の前にある。後少し歩けば辿り着くそこは、しかし、果てしなく遠い。一歩が出ない。頭の中でどれだけ暴れても何も変わってくれはしない。力が出ないとかそういう問題では無いのだ。自分の身体がまるで他人の身体、映画を観ている観客と一緒だ。現実感がまるで無い。目を閉じれば上から再び迫る破壊音だけが願子の意識を包み込む。

 

  もうここまでなのか?

  死ぬ? 私が?

  いや…………ダメだ!

  塔子も副部長も、命を懸けてここまでしているのに、ここで死んでしまっては何にもならない!

  動け!

  動いて!

  私はまだ逃げていただけで何もしていない!

 

  そんな願子の思いに応えるように奇跡は起こった。

  近ずいている。

  瞳に映る不見倶楽部の文字が少しずつ大きくなっていく。

 

「諦めちゃダメよ! 願子さん!」

 

  起こった奇跡は簡単なことだ。願子が目を開ければ、願子の身体を肩に担いで、ボロボロになっている塔子が自分の身体を引きずりながらもなんとか願子を運んでいた。

  塔子は足から血を流し、着飾っていた装飾も半分以上が無くなっている。それに加えて先ほどまで『こちやさなえ』に飲み込まれていたのだ。願子を支える塔子の足は千鳥に動き、かなり無理をしているのが分かる。

  それでもゆっくり、少しずつ、確実に、一歩また一歩不見倶楽部の小洒落た扉へ歩き続ける。

 

「ここまで来たなら勝たなきゃ嘘でしょ!」

 

  吠える塔子に願子は何も返すことができない。それでも塔子は願子の気持ちが分かっているように笑顔を見せた。

  実際に分かっているのだ。身体に伝わる願子の熱は、祟りの炎に負けないくらい熱く、その思いの強さを塔子に教えていた。

 

「分かるわよ願子さん。願子さんが知りたがっていた幻想は確かにあった! 凄いものね、『こちやさなえ』も、副部長も、私も目が奪われたわ。だったらその初戦くらい勝たないと、きっとまだまだ続くわ、まだまだあるわ、私たちの物語はまだ始まってすらいない! こんな祟りなんかに終わらせない! だから、私に、願子さんに、それと……」

「願子!」「願子さん!」

 

  扉が開く。

  扉に付いた蛇の装飾は、祟りの蛇と違い異様に頼もしく見えた。それが見えなくなると同時に視界を覆うのは友里と杏の笑顔が二つ。

  真っ暗な廊下に部室から伸びる光が二人の姿を照らし出し、願子たちへと伸びてくる。

  光の道を遮るものは無く、眩い光が願子たちへと確かに届いた。辿り着けはしなかったが、諦めず走り続けた願子たちを迎えるために向こうの方からやってきた。

  願子たちの元へ辿り着くと、迷い無く今まで温め続けていた友里と杏の想いが、二人の手によって願子の手へと握らされる。それに続けて合わせられるのは、友里、杏、塔子の手。

 

  あぁ、温かいなぁ。

 

  友里の想い、杏の想い、塔子の想い。それぞれ描く想いは違うが、その熱は心地よく願子の動かない身体を解していく。その熱に当てられて動かないはずの願子の手が、ピクリと一度強く手の中の卵を握り込んだ。手に握る卵は四人の熱を感じ取ると、こそばゆいのか小さく握られる願子の手をハンカチ越しに小突き返す。

 

「願え!」

 

  副部長の声が、響く破壊音を遮って頭上から降り注いだ。ここまでの激戦を終え、副部長も限界が近い。四人の邪魔をさせないために最後の力を振り絞り、祟りの一滴も下に落とさないように壁という壁を跳ね回り縦横無尽に駆け巡る。ここまでする副部長の思惑は四人にはさっぱり分からないが、そんな副部長の熱も四人が握る卵に伝わっているのか、願子の手を小突く卵の動きが次第に強くなっていく。

 

  願い?

  私の願い?

  祟りに勝つこと?

  幻想を見ること?

  どれも違う。

  願うことなど、そんなこと当然決まっている。

 

  願子たちの願い。それは示し合わせたわけでもなく、四人は同じ想いを卵に願った。

 

『四人でこの先も一緒にいたい』

 

  ーーーーパキリ。

 

  卵にヒビが入る。四人の熱が一つに重なり、小さく刻み込まれた願いが蛇の卵に消えない跡を残す。願いの想いが強くなるごとに、その小さな溝を押し広げ、入るヒビは卵の表面に願いを描き切ると、卵の欠片がぽとりと落ちた。

  遂におまじないは成就(じょうじゅ)する。

  緑黒い祟りの蛇を見据えて、卵に開いた小さな穴から覗く白く美しい二つの手が、残りの殻を打ち破り、四人の想いを乗せた形が姿を表した。包んでいたハンカチは音も無く四人の手から離れるとパサリと地面に吸い寄せられる。

  長い緑の髪、青く縁取られた白い上着と、御幣(ごへい)のような模様が描かれたスカートは、形状からして巫女装飾で間違いない。艶やかな髪には、蛙と白蛇の髪飾りを付け、手には特徴的な形をしたお祓い幣を握っている。高い鼻にパッチリとした両目、風に揺れる長い髪は(なび)く麦畑のような人の世の原風景を思い起こされる。豊かな胸、細くしなやかな手足、シミひとつ無い白い肌、抜群のプロポーション。ふわっとした服装でも分かるほど発達した女性の象徴は、同じ女性の願子たちでさえ息をのむほどの美しさだ。およそ人としての美の頂点を思わせる少女の容姿は人間離れしていた。しかし、ほのかに白く発光し薄く透けている様が、生きている生物ではないことを表している。

  少女は四人の姿を見据えると、太陽のような満面の笑みを向けて願子の手へと手を伸ばした。動けない願子だけでは無く、動けるはずの三人も少女から溢れる神々しさに息をすることも忘れ、ただ手を伸ばすだけの少女の姿をただ目で追っているだけで動けない。

  逃げるという選択肢は、はなから存在しないが、その選択肢があったとしても願子は選ばないだろう。絶対に悪いことにはならない。そんな確信が願子にはあった。

  優しいが力強く少女の手が願子の手を握ると、それに合わせて願子の心を縛っていた祟りは、その一切合切を少女の小さな手によって握りつぶされる。

  少女の手から伝わり願子の身体に流れるのは祟りを裏返した奇跡の力。気怠さは無くなり、身体全体に(みなぎ)る力が戻ってくる。

 

「あ、あの」

 

  ようやく絞り出された願子の呟きは、しかし少女に遮られてしまう。願子の想いはもう既に分かっていると、白魚のような指が願子の口を塞ぎ、少女は頭上に蠢く祟りの方へ向き直る。

 

「ーーーー」

 

  少女が何かを呟くと、何もない空間から沸き立つのは、祟りと対になる奇跡の光。

  月明かりよりも透明な優しい光、祟りの蛇を喰らうため無数の光の線が束なり形作るは神聖なる白い大蛇の姿。きめ細やかな鱗、白く三日月を描く牙、そのどれもが少女に負けない美しさを放っている。

  それが空へと飛び立つと、隅々にまで走っていた黒を白に塗り潰し始めた。

  消える。

  不安も、恐怖も、乱れた心を正すように、溶けた心を整える。

  あれほどの祟りが何の(すべ)も無く、最後の一滴まで喰らい尽くされてしまう。不安になる叫びは悲痛に染まり、大きく見えていた祟りは、白い大蛇と比べればそこらへんに転がる塵芥(ちりあくた)と何の違いもありはしない。

  白い輝きが晴れた後に残るのは、荒廃した校舎と身体中から血を滴らせた副部長のみ。崩れた校舎の隙間から差し込む月明かりが、副部長の瞳を何も無い空間に浮かび上がらせた。

  副部長の無数の目に映る自分を見上げる五つの顔。口を開けて固まる四人と、やることを終えて消えていく少女に柔らかい笑顔を向けると、最後の言葉を言い放つ。

 

「俺たちの勝ちだ」

 

  願子たちが副部長の言葉を理解して歓声の声をあげるのには、それから少しの時間を要した。

 

 




次回は積み重なっている願子たちの疑問の解答編です。

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