不見倶楽部   作:遠人五円

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蟲の目が見てる

  走る。走れる。

  『こちやさなえ』が願子の元に現れたが、今度は世界が止まってしまうことは無く、思う存分木造の廊下を塔子と共に走れていた。副部長から渡された御守りはゴミなどでは無く、確かに御守りとしてその効力を存分に発揮する。『こちやさなえ』が現れないことに焦りを感じていただけに、恐怖と嬉しさが混じり合ったおかしな笑みを浮かべながら足は止めずに後ろへ目をやれば、追って来ている『こちやさなえ』が願子の目に映る。

  相変わらずドロドロと流れ落ち続ける身体は走っているのに大きさは変わらず、その源がどこから沸き立っているのか分からないが、それは走る願子たちに離されることは無く、しかし距離も縮まることもなく、一定の距離を保ってぴったりとついて来ていた。ただし走っているためか、それの形は定まっておらず、人を模倣していた時ほどの視覚的な恐怖はあまり感じられない。おかげで、願子は気兼ね無く走ることに集中することができている。

 

「どうなの願子さん。私には見えないから分からないのだけれど」

「今のところ余裕、足は速くないみたい。この分なら絶対捕まらないと思うけど」

 

  逃げる願子たちが思い切り走れる理由は『こちやさなえ』の足が遅い以外にもう二つ理由がある。それはもう大分暗くなり、部活に勤しんでいた生徒たちが帰ってしまったために前を気にせず気兼ね無く走り回れること。もう一つは、学校の形にある。柵型のような縦に幾つか離れて並んだ形では無く、長方形に近い四角の形を四階建ての学校はしていた。おかげで登ったり、降りたりといった余分な動作をせずに回っていられるのだ。『こちやさなえ』が現れてから三周、体力的にもまだ大丈夫。

 

「どうしよう塔子、このまま部室まで行っちゃおうか?」

「あら、それもいいかもしれないわね」

 

  願子たちが駆け回っているのは三階、不見倶楽部の部室があるのは二階の角であり、今願子たちがいる場所からは丁度対角に位置した場所になる。階段があるのが角から長手側に少し内側に入っていることを考えれば、願子たちが部室に行くまでに降りられる階段は三つ。そのどれを選ぶかによって道順が異なってくる。ただ、どこを選んだとしても今の調子で行けば大差ない。

  そこで走り続ける願子たちが選んだのは、最も遠い対角に位置する階段だった。階段自体は最も遠い位置にあるが、降りてしまえば部室はすぐ隣、それも階段まではこのまま走り続ければたどり着くことができるからだ。『こちやさなえ』が全く願子たちに追いつきそうにないのを考えれば、選んだのは当然だと言える。

 

「ならこのまま行っちゃおう、副部長には悪いけどお役御免ってことでね」

 

  そう決めたなら後は短期決戦だ。部室まで全力で走れば三分も掛からない。願子はギアを上げ、それに続いて騒音をたてながら塔子が続く。目の前には何の障害もありはしない。ギアを上げた願子たちの後ろからは、『こちやさなえ』が変わらずついて来ていたが、曲がり角を曲がったところでそれももう見えなくなった。後は少し先にある角を曲がって階段さえ降りてしまえばゴールだ。

  副部長の言っていた作戦ももう関係なしに部室へ向けて一直線に向かう願子だったが、浮かべる笑みとは裏腹に嫌な予感が頭を過ぎった。

 

  簡単過ぎないか?

 

  初めて見たときにあれだけ願子に恐怖を植え付けた『こちやさなえ』が、まるで赤ん坊のように簡単にあしらえている現状が、嬉しいながらも不安になる。

  不安の材料は、不気味な『こちやさなえ』だけではない。

  副部長がどういった男であるのか、当然まだ知り合って二日の願子が全てを知っているわけではないが、頭が良く強かであろうことは十分分かった。

  その男がわざわざ何回も『こちやさなえ』が出たならば自分が相手をすると言っていた。つまり副部長でなければ相手にならない。そんな『こちやさなえ』のことを最も知っている男がそれほどまでに言っているのに、このまま簡単に決着になるとは願子には思えなかった。

 

「……塔子、本当にこのまま行ってもいいのかな?」

「あら? どうして?」

「簡単過ぎない?」

 

  願子の問いに塔子は頭を巡らせるが、答えがなかなか出てこない。それも当然、塔子は『こちやさなえ』を知らないのだ。簡単かどうか聞かれても、答えに必要な最も大切なピースが欠けている。願子のように一度でも見ていたならば答えも変わったのだろうが、塔子から出た言葉は「そんなこともあるんじゃないかしら?」といった答えにもなっていないものだった。

 答えの出ないまま走ることを止めるわけにもいかず、進めるときに進んでおこうと吹っ切って足を動かすが、頭の中で動き回る不安がその動きを鈍らせる。装飾のせいで願子より少し遅れていた塔子が、願子を抜くくらいにはその速度が落ちてしまった。しかし、それが功を奏した。

  曲がり角に差し掛かろうとしたその時、月の光に照らされた廊下を塗りつぶように突如として緑黒い粘着液が湧き立ち人の姿を模ると進路を阻む。穴のような唇のない口が弧を描き、獲物が自ら飛び込んで来るのを待ち構えている。

 

「塔子!」

 

  間一髪。それに突っ込みそうになっている塔子の腕を強引に引っ張り願子は何とか足を止めた。慣性に従って暴れ回る装飾が、制服の上から掴んだ願子の腕を打ち付ける痛みに歯を食いしばりながら足を思い切り踏ん張って、『こちやさなえ』の手前で何とか勢いを殺し切った。

  何が何だか分からないといった顔をする塔子だったが、青ざめた顔の願子を見ると咄嗟に理解し、自分を引っ張り立ち止まった願子の反動を利用して、今度は塔子が願子を引っ張って来た道をなぞるように走り出した。

 

「願子さん平気?」

「あんたのアクセサリーからのダメージの方が大きいよ! これが終わったら絶対に引き千切ってやる!」

 

  微妙な顔をする塔子から視線を切って願子は背後を見ると、『こちやさなえ』は特に動きを見せることはせず、笑った顔を崩すこともない。悔しがるそぶりも見せず、むしろ描いた弧はより三日月型に広がったようにさえ見える。

  あの笑顔は嘲笑だ。

  『こちやさなえ』は楽しんでいるのだ、間違いない。初めて願子が遭遇した時に、割れ物を扱うような手振りで触れたのは、どうやって殺そうかとご馳走を前にして舌舐めずりする肉食獣と同じ、それは今も変わらない。

  そう考えると、願子の全身に悪寒が走りくまなく鳥肌が立つ。それではまるで『こちやさなえ』に感情があるようではないか。見て、聞いて、あの汚泥が人のように考えて行動しているのだとしたら、これほどゾッとすることはない。単純なシステムを相手にするのとは訳が違ってくる。

  背後に佇む『こちやさなえ』へともう一度目を向ける願子の表情が分かっているように、それは小首を傾げると、重力に従って頭を思わせる部分がべちゃりと廊下に落ち、この世で最も汚れた泥溜まりを作る。ありえない動きをして恐れる願子の反応をまるで楽しんでいるかのようだ。

 

「塔子やばいよ。あれ感情があるのかも」

「あれって、こちやさなえ? まさか……」

「私から見た感じそうとしか思えないの」

 

  『こちやさなえ』の疑問は尽きないが、議論を交わしている余裕はない。捕まるわけにはいかないのだから、とにかく足を動かすしかないのだ。しかし、改めて前を向く願子の顔は、新たな驚愕によって簡単に足を止めてしまった。

  沸き立つ。沸き立つ。今まで背後にいたはずの『こちやさなえ』が目の前に現れる。不快な笑みを浮かべて、流れ落ちる体を揺らしながら月の明かりを吸い込み空間を自分色に染め上げるとあっという間に人の姿を形作る。

 

  どういうこと?

 

  後ろの廊下に振り返るが、そこには『こちやさなえ』の姿はもうない。二体いるわけではないのなら、つまり一瞬にして願子たちの前に現れたということだ。

  どうやって? という願子の疑問は、しかし、すぐに解消された。蜘蛛の糸すら映し出すと言われる月明かりのおかげなのか、照らし出される廊下の違和感に願子はすぐに気がついた。

  動いている。

  木造の廊下、張り合わされた木の間、目地の中をものすごい勢いで何かが流れていた。それを目で追っていけば、目の前にいる『こちやさなえ』へとそれは全て続いている。

  それはそうだ。相手は人のように形を変えられない生物ではなく、流れ続ける汚泥なのだからこんな芸当できて当たり前。それが示すのは、いつでも願子を捕まえることができるということ。

  副部長に貰った御守りを願子は強く握りしめるが、そんな行為意味を成さない。止まった世界でなくとも、『こちやさなえ』にとって人間は、自分で動くことのできない人形のように好き勝手できる玩具と大差ないのだ。

  足がすくんでしまい固まる願子はもう動けない。しかし、ここには蛇に睨まれた蛙を救い出せる者が願子の隣に控えていた。

 

「願子さんこっち!」

 

  願子の手を掴み、引っ張る塔子の目には『こちやさなえ』の姿は映らない。だからこそ塔子は何に怯えることもなく動くことができていた。しかし、塔子が向かうのは『こちやさなえ』がいる方向。見えていないのだから仕方がない。勢いよく突っ込む塔子を止めようと願子は足に力を入れるが、震える体には思った通りの力が入らない。

  やばい。

  まずい。

  いけない。

  『こちやさなえ』との距離が段々と縮まるなか、願子に出来ることは既にない。ただ塔子に引っ張られて、地獄への片道切符を切ってしまった。

 

  捕まる!

 

  目を閉じて、灼熱と化した黒い感情が再び自分に流れ込むのかと身構えた願子だったが、いつまで経ってもそれは来ない。まだ肌寒い春の夜の空気が肌を撫で、繋がれた塔子の手の熱だけを感じる。そっと目を開ける願子の前には『こちやさなえ』の姿は無く、背後でただ不気味に笑っている。

 

  あぁ、見逃された。

 

  『こちやさなえ』はまだ楽しむつもりだ。逃げ場のない夜の学校で願子を弄ぶつもりだ。

  なんだかどっと疲れた。

  塔子に連れられ廊下を走る願子の体から力が抜けていく。手から伝わる弱い力に塔子は眉を顰めると、このままではいけないと近くの部屋へと転がり込んだ。

  大きな黒い実験台、フラスコ、ビーカー、鼻をツンとくすぐる多くの薬品の匂い。ホルマリン漬けにされた動物の目が塔子たちを覗いている。塔子たちが入ったのは理科準備室。普段鍵が掛けられているはずの部屋がなぜ開いているのかは分からないが、扉を閉めて急いで鍵を掛ける。

 

「……願子さん大丈夫?」

「いや、無理だって……あれは無理だよ、逃げ切れない……」

「願子さん!」

「分かってるよ、諦めちゃダメだってことはさ、でもいったいどうすればいいの?」

 

  項垂れる願子の目が死んでいく。目の光が消え失せ、『こちやさなえ』の目のように、輝きだけを吸い込む穴となっていく。薬品の匂いに包まれる空間が、より一層死に近づいていることを暗示しているようだ。部屋自体が大きなホルマリン容器になったみたいだ。

  これではいけない。自分に発破を掛けたくせに、誰より早く一抜けるなど許さない。それに、このままでは願子さんが願子さんでは無くなってしまう!

  塔子は強く拳を握り、

 

「願子さんのお馬鹿さん!」

 

  願子の顔に拳が打ち込まれた。

  普通平手打ちじゃないのか?

  構えも無く、フォームもバラバラな一撃だったが、元気付けるだけのものとは違うマジな一撃は、願子の頭を強く揺らし一時的に『こちやさなえ』のことを綺麗さっぱり吹っ飛ばした。

  感情だけでは足りないと、願子は物理的にも後ろへよろめいて、実験台の上に幾つか並んだフラスコたちを突き飛ばし、硝子の音が部屋に響く。

 

「痛ったッ! 塔子、あんた元気付けるにもやり方があるでしょうが! 普通本気で殴る? 私にも一発殴らせなさいよ!」

「やった! 願子さんが元気になったわ!」

「この! 塔子!」

 

  『こちやさなえ』のことは頭の中から消え去り、願子は塔子に拳を振り上げて近づいていく。しかし、それに怒ったのは、塔子では無く『こちやさなえ』の方だった。

  自分がいるのに、こんな漫才を見せられて喜ぶほど能天気な祟りではない。

  カチャリ、と願子の背後から漏れ出た汚泥が硝子の破片を飲み込んで姿を現わす。てっきり恐れ戦くと考えていた願子は、頭の中に広がった怒りのせいで、その顔に恐怖の影は無くなっていた。

  面白くないのは『こちやさなえ』だ。

  浮かべていた笑みを歪めると、それに合わせて身体から幾つかの手が流れ出す。しかし、願子の方へ伸ばされる手を、飛んできたフラスコたちがその進行を防いだ。

 

「なんで! 私が! いつまでも! あんたの! 相手を! しなきゃ! ならないの! 今は! 塔子を! 殴りたいの!」

  「その調子よ願子さん!」

 

  手当たり次第に置かれているフラスコやビーカーを引っ掴み、『こちやさなえ』に投げつける。別にダメージが入っているわけではないが、手は飛んでくるフラスコに当たるとその勢いに押し負けてその場に流れ落ちてしまう。

  塔子の目から見れば何もいない空間にフラスコを投げ続けるというシュール極まりない光景であるが、願子の顔を見る限り悪い状況でもないらしいことが分かると、願子に続いて同じくフラスコたちへと手を伸ばす。

  しかし、フラスコも無限に存在しているわけではない。部屋に響く硝子の音が続くにつれて、その数は当然減っていく。だが、それより早くしびれを切らしたのは『こちやさなえ』。

  千日手に飽きた『こちやさなえ』が手を引っ込めると一気に願子へと飛び掛かった。

  投げる手を止め、願子の視界を汚泥が覆い尽くす。怒りが恐怖に塗りつぶされ、願子の顔が歪んでいく。

  あぁ、ダメだ。

  しかし、次に願子の目に映ったのは、目の前に広がる祟りの泥ではなく、両手を開いて間に立ち塞がる塔子の姿だった。

 

「塔子!」

 

  塔子の身体に汚泥が纏わり付く。数多の願いを込められた装飾たちは、その効力を発揮することなく『こちやさなえ』へと飲み込まれる。塔子の優れた肢体も余すことなく隠されて、聞こえてくるのは塔子の僅かな呻き声。

  焼かれている。

  犯されている。

  何も見えないはずの塔子の身体にも、負の感情を含んだ熱が駆け巡る。

  願子は勘違いしていた。

  見える願子よりも、見えない塔子の方がある意味恐ろしい。塔子から見ればなんの変化もないのに、全身をくまなく痛みが襲う感覚など、願子に理解できるはずがない。

  祟りを向けられていない塔子なら、その痛みも襲わないと思っていたのは甘過ぎる。『こちやさなえ』はそんなに甘い存在ではない。殺されないまでも、心を蝕む痛みは確実に塔子の身体を(なぶ)っていく。

  どうすればいいのか。

  もし願子が手を伸ばし『こちやさなえ』に触れようものなら、あれは確実に願子の方へ目を向ける。次は命まで手を伸ばすことだろう。手を出さなければきっとこのまま、祟りに心を満たされて塔子は廃人になってしまう。

  人は自分が思っているより自分が大切だ。しかし、それでも願子はその思いをかなぐり捨てて塔子の方へ手を伸ばす。

 

「ダメよ!」

 

  塔子の叫びも虚しく、願子の手は伸びていく。頑固だから、一度心で思ったならば終わるまで願子は止まらない。しかし、その手は塔子に触れる前に願子の思いとは裏腹に止まってしまった。

  願子の手が掴まれる。骨張ったゴツゴツとした男の手。

 

  「瀬戸際さん、離れていろ」

 

  部室で聞いた優しくも戯けた声よりも数度温度が下がったかのような低い声に、自然と願子の足は一歩、二歩と後ろへ下がる。

  そうして男が構えた形は、塔子の素人丸出しのものではない。両足を開き、左手は緩く前に出され、胸の前で優しく握られる右の拳。その姿は知識のない願子にも分かるくらいに堂に入っている。

 

  「副部長!」

 

  願子の泣きそうな声を合図にするように、突き出された手は拳ではなく開かれ、流れ落ちるだけだった『こちやさなえ』を確かに掴んだ。流動的なはずのそれは固まってしまったかのように、手の隙間から零れ落ちる事はなく、副部長は思い切り塔子から『こちやさなえ』を引っぺがし準備室の壁へと叩きつける。

 

  『ぁぁぁぁああああ』

 

  泥から生まれる(あぶく)が弾け、空気の抜けたような叫び声を挙げる『こちやさなえ』は、再び飛び込んで来るのかと思われたが、その場で止まるだけで、なんの動きも見せなかった。

  あれ?

  しかし、僅かな違和感を願子は見逃さない。およそ傍観者になっている願子の目には僅かに震える『こちやさなえ』の姿が見えた。

  怒っている?

  喜んでいる?

  恐れている?

  矛盾を孕んでいるように震えながら小さく収縮と膨張を繰り返す『こちやさなえ』が何を考えているのか願子には理解できない。

  時折浮かんでは弾ける(あぶく)を見ながらただ突っ立っているだけだった願子だが、急に飛んできた塔子に意識が戻され落としてしまわないようにしっかりと受け止める。塔子の重さに膝を着くも、腕に伝わる心臓の鼓動と上下する胸から塔子の生を実感できる。

 

「……塔子」

「……願子さん……どうよ、私もやってやったわ」

 

  弱々しく笑う塔子に笑顔で返し、支えてやれば大分気だるそうではあるが、それでもなんとか塔子は自分の足で立ち上がった。

  塔子を投げてよこした副部長の前では、副部長がいるだけで抑止力になっているようで、未だにその場に微睡んでいる『こちやさなえ』はもう願子のことなど眼中にないようだ。

 

「いやいや、瀬戸際さんが四つも卵をぶち割ってくれたおかげでようやく会えたな」

 

  こんな状況でも比較的いつも通りな副部長は、願子たちに背を向けたまま理科準備室の扉を静かに指差す。その先には常識では考えられないないほど(ひしゃ)げた扉が目に入る。端にくっきり残る手の跡が、そこから副部長が入って来たという証。副部長は逃げろと言っている。だが、そんなことよりも副部長の言葉に意識を持って行かれた願子は聞き返さずにはいられない。

 

「副部長、見えるんですか!」

 

  願子にしか見えないはずの『こちやさなえ』が、副部長には見えている。いくら詳しいと言っても副部長は祟られてはいないはずだ。御守りも持っていない副部長が存分に動き回っているところからもそれが分かる。

副部長は何か悩んでいるように見えたが、こめかみの辺りを指で掻き、ぶっきらぼうに願子の疑問に答えてくれる。

 

「んー? そうだなぁ……瀬戸際さん突然変異って知ってるか?」

「突然変異?」

「そうさ、突然変異。生物が集団の中であらゆる要因で異なった形質を持つようになることさ。有名なのならアルビノ、メラニズムなんかは聞いたことがあるんじゃないかな?」

 

  アルビノ、メラニズム、確かに願子も聞いたことがある。しかし、それがいったいなんの意味を持って副部長が言っているのか理解出来ない。肌の色が異なるからって、見えないものが見えるわけではない。そんな願子の疑問などお構いなしに副部長の話は続く。

 

「アルビノだったら一、二万人に一人の確率。メラニズムならもう少し少ないかな」

「はぁ? それで?」

「瀬戸際さんと小上さんは運がいいなあ、これはあいつにも見せたことないんだぞ。……いいか、俺の確率は七十億分の一だぞ」

 

  ゆっくりと振り返る副部長の姿に、二人は静かに息を飲んだ。恐怖ではない、物珍しさに目を奪われたわけでもない。ただその綺麗さに目が奪われる。七十億分の一、地球上にただ一人。

  深い深い森のような濃い緑色をした複眼が二つ。月明かりを反射して、ほのかに光るその両目が二人の心を掴んで離さない。夜の景色を背景に浮かぶ様はまるで大きなホタルにようだ。

 

「複眼は目の中でも特殊だ。俺には人の目には見えないものが見えている。さあ行け瀬戸際さん、ここからは本気でいく」

 

  たった一人であろうとも、副部長の両目に光る無数の目が『こちやさなえ』の姿を捉える。副部長の心を感じてか、水溜まりのようにそこにあるだけだった『こちやさなえ』は収縮を止め、身体から無数の手が伸びた。

  やる気だ。塔子の時とはわけが違う。『こちやさなえ』は副部長を殺す気だ。伸びる手の一本一本から漂う濃厚な負の空気が、凝縮して空間さえ犯していく。

  足が竦む。声も出ない。

  そんな願子と塔子とは違い、副部長はそんな様子に深緑の目を細めおかしそうに笑うことで『こちやさなえ』の殺気に返した。

 

「あぁやだやだ、そんな姿で俺に向かうなよ」

 

  副部長が笑顔から口を結び直すと、周りの空気が弾け飛ぶ。

  ああそうか、副部長は怒っているんだ。

  誰かは分からぬ東風谷早苗を唯一知っている副部長の気持ちなど、今まで知ろうともしなかった。

  きっと副部長は東風谷早苗のためにここにいる。

 

「あんまりこういうこと言うとあいつが調子に乗りそうで嫌だがなぁ、早苗の方がお前より美人だ」

 

 

 




*副部長に程度の能力はありません。なぜならこれは体質だから。

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