不見倶楽部   作:遠人五円

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友里と杏

  日が傾いて真っ赤な太陽が友里の顔に紅い化粧を施そうとしても、それより紅い感情が、友里の肌をより紅く彩り陽の光を弾いてしまう。薄暗くなってきた部室を飾るいろいろな形をしたランプの光も同様に、むしろ友里の姿だけ別だというように浮き彫りにした。数多の光に背を向けて、より深く、より深く、自分の内側に入り込み、音も光も遮断して己の中の真っ暗な空間に浮かぶのは友里ただ一人。

 

「ゆ、友里さん」

 

  こんなに近くにいる杏のことも目に入らず、ただ自分の思いに没頭する友里に、杏は何も出来ずにいる。

  副部長は言っていた。最も重要なことを二人に任せると言っていた。その結果がこれだ。渡された卵を両手で抱きしめる杏と、ソファーの上で体育座りでまるまる友里。折角の豪華な部室もこんな二人だけでは、綺麗な調度品も、上品な雰囲気も台無しだ。

  三人が出て行ってから三時間近く経っても、全く状況は変わっていない。今頃願子と塔子の二人は、学校中を駆け巡っているのだろうに、二人がこれでは全てが台無しになってしまう。

 

「ゆ、友里さん」

 

  そんなわけにはいかないのだ。杏もよく分かっている。この三時間で何百回も友里の名前を呼んだが、そよぐ柔風(やわかぜ)のようなか細い杏の声では友里に全く届かない。友里の真っ暗な内側には、小石が投じられるほどの波紋すら立たず、ただ無へと沈み込む。しかし、それでも辛抱強く言い続け、塵も積もれば山となる。積み上げられた小石は、暗闇から溢れるように友里の元へと一つが落ちた。その衝撃に友里の怒りが少し外に漏れ出るように、

 

「うるさい」

 

  たったの数日だが、杏がまだ聞いたこともないような低い声が返される。マグマが地面から吹き出す前兆のような、導火線に火がつこうとしているような、そんな空気が声の感じから漂っている。顔すら上げず呟いた一言の大きさは決して大きくはなかったが、それでも杏の耳はしっかりその一言を拾い上げた。

 

「よ、よかった」

 

  三時間、三時間だ。

  ただ隣にいる人間に声をかけ続ける時間に比べれば、どんなものでも反応が返ってきてくれる方がずっといい。大きな岩にただ声をかけ続けるような意味もないことをしているわけではないのだ。ただ、それは杏から見た場合の話。友里から僅かに漏れた怒りは、雨水が集まり大きな川となるように導かれ、怒りの矛先が変わっただけだ。それが向かう先は、ただ一人友里と同じ空間にいる杏に他ならない。

 

「何がよかったの?」

「だ、だって友里さんずっとそんな感じで……ようやっと動いてくれたから」

「動いてくれたからなに? なにもよくないでしょ、あたしが今からその卵を握り潰すって言ったらそれでもよかったと言えるわけ?」

 

  ゆっくりと身を起こす友里の目は冗談ではないと訴えている。その瞳に映るのは、この三時間燃やし続けた怒りの炎。徐々に暗くなる空とは対照的にその輝きは一層強くなるばかり。友里の目からは、空に輝く一番星光すら掻き消すほどの光が見える。

  それでも杏はにっこり笑顔を浮かべるだけで、引き下がる様子は見られない。

 

「そ、そんなこと友里さんはしませんよ」

 

  何の確信がある?

  いくら杏が気丈に振る舞ったところで、友里には火に油を注ぐ行為でしかない。そんなことは杏にだって今の友里の様子を見れば分かるだろうに、的外れな杏に友里の手がより強く握られる。

 

「なに? それ? あんたにいったいなにが分かるの?」

 

  理解できるはずが無い。友里の中に渦巻く気持ちなど、杏には絶対分からない。そんな確信が友里にはある。

 

「た、確かに全部は分からないかもしれない……それでも、友里さんが自分に怒ってることは分かります」

「は?」

 

  だからこそ、杏から出た言葉に友里は固まってしまった。それは正しく友里の図星だった。友里の思いは外に向けられるものではない。

 

  イラつく。

 

  イラつく。

 

  副部長が出て行き、塔子も願子も出て行った。残された友里の頭の中に渦巻いたのは単純な怒り。蛇の卵の存在も、『こちやさなえ』も、副部長も、何よりも今自分が不見倶楽部の部室に座っていることに大きな怒りを感じていた。

  不甲斐ないんだ。他の誰よりも付き合いの長い親友に自分は何一つしてあげられない。もしそれを友里が願子に言ったとして、きっと「そんなことはない」と、願子なら言うだろう。だが違うのだ。はっきり言って、一緒にいることなんて誰だって出来る。今の自分は願子にとって所詮そんな気休めのようなものでしかない。

  しかもそんなちっぽけな存在の自分が副部長に任されたのは、他でもない忌避すべき蛇の卵を持っていること。なんだそれは。副部長の手から目の前に置かれた時にどれだけ自分を抑え込んだのか理解できる者は友里を置いて誰もいない。本当ならすぐにでも両手で粉々に握りつぶしてしまいたかった。見えないぐらいに遠くへ投げ捨ててしまいたかった。でも出来ない。何故ならそれが親友を救うために大切なものだと、信用出来ない男が言ったから。

 

  ふざけるな。

 

 友里は自分の手に爪が食い込むほどに握りしめ、歯を食いしばった。目の前に卵が置かれたあの時、友里が口を開かなかったのは、言えなかったのでは無く、言わなかっただけだ。きっと一言でも口から出れば、芋ずる式に副部長の作戦を台無しにするようなことを言っていた。それがどれだけ幼稚なことなのかは当然友里には理解できる。だから何も言わなかった。それでも、口を開かなかった自分に嫌気がさすし、きっと口を開いたところで、副部長に説き伏せられるだろうと予測できるところも腹が立つ。

  願子は友里にとって初めての友達だ。

  小さい頃に髪の色が原因で虐められていた友里に、駆け寄って来てくれたのが願子と友里の始まり。あの日から、どれだけ多くの友達が友里にできても、友里にとっての一番の友達はいつだって願子だ。

  だから友里はずっと昔に決めていた。願子が危機に陥ったなら、次に願子に誰より早く駆け寄ろうと決めていた。願子が危険に陥っている今だからこそ、力になりたいのに、その力が友里にはない。踏み出す一歩は、どこに踏み出せばいいのか分からない。道は果てし無く遠く、願子の後ろ姿すらも友里の目には映らない。

  自分には何も出来ない。

 

「分かりますよ、私はいつもそうだったから」

 

  だが、杏だって同じだ。

  小学校も、中学校も、いつも席でただ一人だった。

  何かしたわけではない。容姿が悪いわけでもない。それでもずっと一人だった。それは自分が何もしていなかったから。

  毎日、毎日呪うのは、周りの人間ではなく、まるでただの観客のように遠巻きで眺めているだけの自分。映画やテレビのような光景をチャンネルも替えずに某っと眺める行為に嫌気がさしているのに、リモコンを握ろうともしない自分に何度も腹が立った。それでも自分の手は、足は言うことを聞いてくれない。いつしか心のどこかで諦めていた。きっと自分はずっとこの先も一人なのではないかと思っていた。

 

「でも違った」

 

  高校に入って杏はようやく一人ではなくなった。

  大事な友達。

  友里にとっての初めての友達が願子であるように、杏にとっての初めての友達も願子だ。それに友里と塔子だって。

 

「私たちにはまだやれることがありますよ」

「そんなこと言っても、その卵に祈って何になるの?」

「そうですね……本当は黙ってるつもりだったけど言っちゃいます。実は私だけは本当に蛇の卵に願いを叶えて貰ったんです」

「は?」

 

  二度目の驚愕が友里を襲う。

  卵が願いを叶えてくれた? そんなはずないだろう。もしそんなことがあったとして、なぜ杏はそれを願子に伝えていない? しかし、微笑む杏からは嘘を言っている気配は全くしない。いつの間にか吃る口調もどこかに行ってしまった杏は、強い自信に溢れている。今自分がしていることは正しいことだと確信があるのだ。

 

「私は自分を変えたかった。でも、それが出来なくて、そんな時に塔子さんに教えてもらったのがあのおまじないで、私はつい祈っちゃったんです。親友と呼べるくらいにいい友達ができますようにって、それが叶ったらいいなって、馬鹿みたいに卵を大事に握って……結局卵は割れなかったけど、それでも本当に出来ちゃいました」

 

  閉め切った窓からは風が滑り込む隙間もない。それなのになぜか杏の目を隠していた前髪は、モーゼが海を割ったように杏の顔を明らかにするため左右に開いた。

 

  いい笑顔だ。

 

  部室に散らばる個性的なランプのように、芯に強い光が灯っている。いつもたどたどしい杏の面影が全く見られず、別人かと友里が思うくらいに。

  でも、それでも、

 

「杏の言いたいことは分かった。でも、その卵に祈るのだけは絶対嫌」

 

  ここまで来たらもうただの意地だ。

  杏に絆されようとも、それでも友里に最後に残るのは卵に対する純粋な怒り。確かに副部長に対しての嫉妬、杏に塔子は知らなかったから、それらを全て飲み込んでの自分へと向けた怒り。それらに怒りをぶつけるのは御門違いなのかもしれない。だが、こんな状況を生み出した卵への怒りには何の戸惑いもありはしない。

  友里が思うに願子は少しおかしいのだ。

  こんな状況に自分をした蛇の卵に対して、あまり怒りを見せていない。訳は分かっている。中学の頃にあれだけ幻想や不思議を求めていた願子だからこそ、恐怖や怒りの源にきっと喜びがあるのだろう。ずっと隣にいた友里には、願子が口に出さずともそれが分かってしまう。

  だが、それはおかしいのだ。

  願子はもっと怒っていい、喚いていい。

  こんなことになったのは蛇の卵のせいだ。渡してきた塔子のせいだ。止めてくれなかった杏のせいだ。見ていただけの友里のせいだともっと怒っていいはずだ。

  なのにそれをしないなら、少なくとも親友である自分くらいは蛇の卵に対して怒りを向けなければ、それさえなくなったら本当に自分には何も無くなってしまう気がするから。

  起こしていた身体がまた小さく丸まっていく。自分の中に没頭する。漏れ出ないように、自分の身体を殻のようにして、これ以上気持ちすら失わないように自分を守る。

 

「友里さん!」

 

  杏の声はもう届かない。

  だが、そんなまるまる友里に待ったを掛けたのは、杏が起こした行動でも、願子でも塔子でもない。

  窓が震える。

  テレビでしか聞いた事のない炸裂音が後から部室に響いた。

  続いてやって来た振動の第二波に、杏も友里もバランスを崩してしまった。

 

  「卵!」

 

  咄嗟に杏は自分の身体を下に入れ込み、卵が潰れるのだけは回避する。うまく背中で床を受け、胸の前で杏の手に優しく包まれていた卵は無事らしい。まるで他人事のように杏の様子を眺めながら、床に大の字に転がっていた友里も何とか立ち上がる。

 

「友里さん、今のなんでしょう」

 

  友里は口を開かない。分かるわけないからだ。

  それに、振動の原因よりも、結果の方が気にかかる。異常な揺れだった。十数年しか生きていない友里にも、今のが地震などではないと理解できる。今友里たちの周りで起きている異常。蛇の卵と今のが、関係していない訳が無い。

 

  願子は無事?

 

  その考えが過ぎった時には友里はもう走り出していた。怒りは力だ。燃える怒りが燃料となって友里の心臓の回転数を上げる。血液が全身を駆け巡り、指先ひとつ余すことなく友里の怒りを強く伝えた。

  もし願子に何かがあったら、友里の怒りはどこへ飛ぶのか分からない。飛ぶ火矢のごとく、日が落ち橙色に照らされた蛇の取っ手に手を伸ばす友里を阻んだのは隣にいた杏だった。

  杏は横合いから思い切り友里の肩口に向かい飛び込むと、ぐるぐる二回転ほど友里を巻き込んで回り、友里を絨毯へと引き倒す。両手に握られた蛇の卵を友里の胸元に押し付けるように腕を突っ張って杏は勢いよく上半身を起こした。友里が下。杏が上。友里に馬乗りになった杏は、しっかり友里が聞こえるように強く叫んだ。

 

  「ダメですよ友里さん!」

  「何が!」

 

  押さえつけられた杏の腕を押し返すように友里は上半身を起こそうとするが、全く身体が動かない。凄い力だ。華奢な杏の身体からこれほどの力が出るとは信じられない。驚愕を押し殺して怒りに任せる友里の顔を杏は真っ直ぐ見つめて言う。

 

「出てはダメです」

「何でよ! 願子がピンチかもしれない!」

「それでもです。私たちの役割はここで願子さんが来るのを待つことでしょう?」

「今ので願子は来れなくなったかもしれないのに? 今更何言ってんの! あたしが、あたしが行かなきゃ」

 

  全身に力を入れて身体中動かすが、ピクリとも杏は動かない。ただ、静かに友里の顔だけを見ている。やがて、暴れるだけだった友里にも、自分を見る杏の顔が嫌にはっきり見えてきた。口を真一文字に結んだ杏の目は、とても悲しそうに見える。敵意はない、恐怖もない、ただ静かな悲しい覚悟が杏にはあった。そして友里が最も聞きたくない決定的な言葉をゆっくり口にする。

 

「友里さんが行っても、何もできないじゃないですか」

「……それは!」

「それに願子さんには塔子さんが一緒にいて、副部長だっています。友里さんが行かなくても、願子さんは一人じゃないですよ」

「……それは…………それは」

 

  視界がぼやける。

  副部長に啖呵を切った時でさえ溢れなかった涙が、頬を伝って濃い紅色の絨毯(じゅうたん)を湿らせた。

  行き場の無い怒りは、遂に行き先を決めもう抑えることは友里にはできない。

  溢れていく。消えていく。ダメなのに、これじゃあ本当にあたしには何もない。

 

「……それじゃああたしには、何があるの? 何をすればいいの?」

 

  音も無く零れ落ちる怒りの雫に顔を濡らし、友里が見つめたのは杏の顔。暗闇を見続けていた友里がようやく杏の方へ心を向けた。悲しそうにしていた杏の目は、優しい暖かみを内包し、不見倶楽部の部室を照らすランプのように瞬いている。

 

「何もしなくていいです」

 

  押さえつけていた両手を退けて、友里の手を掴むと引っ張り立たせる。言葉の意味が分からないのか、面食らっていた友里は、杏のされるがままに立ち上がった。聞き返そうにも、力の源が零れた身体には全く力が入らず、これ以上零したく無いがために、友里は歯を食いしばり、次の杏の言葉を耐えるしか無い。

 

「何もしなくていいんですよ、友里さんが行かなくても、願子さんの方から来てくれます。友里さんは自分を壊しすぎなんです。友里さんがいつも面倒そうにしてるのは、自分の心を、思いを壊して周りに合わせているからでしょう? 私には分かりますよ。でも、そんなことをしなくても願子さんがいつも隣にいてくれるように、きっとすぐに願子さんは来ます。だって、願子さんの親友が泣くほど自分を思ってくれてるんですもん、きっと来ます」

 

  限界だった。最後の一線は簡単に超えてしまった。止まらない涙は、友里の心を洗い流し、最後の一滴まで怒りの心を消していく。そのぽっかり空いた心の溝を埋めるために友里は叫んだ。言葉なんかじゃないもっと原始的なもの。

  それが段々小さくなり、消えるまで杏はずっとそばにいた。両手に握った卵ごと友里の両手を優しく包んで。泣き腫らした友里の顔がいつも通りに見えるように暖かく照らし隠すランプの光は、部室も友里を慰めているように見えた。

  怒りは消え去り、外に広がる静かな夜と同じく平穏を取り戻した友里の少し目尻に残った怒りを杏は片手で拭い取る。そうしてやればもうすっかりいつもの友里が戻ってくる。泣いた後だというのに、もう不機嫌そうな面倒くさそうな顔をする友里に、杏は自然と小さく笑みを作った。

 

「全く……かっこ悪いところ見せちゃったね」

「大丈夫、友里さんはかっこいいですよ」

「あっそ、それよりどさくさに紛れてなに握らせてんの」

「ダメでした?」

「ダメ……とは言ってられないか、困ったことにこれが今のあたしのできることなんでしょ」

 

  不敵に口を歪める友里には、もう迷いは見られない。しっかりと両手は杏と一緒に卵を優しく包み込む。祟りを生み出すはずのそれは、ずっと握っていた杏のおかげか、掌を通して妙な暖かさを友里に伝えてくれる。これが間違った行動ではないと友里に訴えているようだ。

 

「本当に嫌になるわ」

「なにがですか?」

「副部長、きっとこうなるって分かってたの、あたしが杏に負けるってね。だからあたしと杏を一緒にしたのよ。本当に信用ならない」

「その割には嬉しそうに見えますけど」

「ま、今回は副部長の言う通りにしましょう、新しい親友も出来たしね」

「友里さん……」

「あたしが泣いたこと、願子には内緒」

 

  小指を立てて杏の前へと手を伸ばせば、満面の笑みで同じく片手を出し迷い無く小指を絡ませる。

  杏にとって初めての友達との秘密。嬉しくない訳が無い。

 

「さっさと願子が助かるように願いましょ、ついでに副部長に一発報いられますようにってね」

 

  強く握る卵が聞いているかもわからないが、言葉に出して確かに友里は卵に願った。嫌いだけどそれしかないから、たったの一度でいいから奇跡を見せて欲しいと卵に伝える。

  杏も同じだ。自分は十分卵に助けられたから、それが悪いだけのものじゃないと知っているから、今度は願子が助かるように、優しく卵に力を込める。

  緑色のハンカチを通して、確かに蛇の卵は二人の熱を受け取った。

 


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