不見倶楽部   作:遠人五円

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パンドラの箱

  ここ二週間程は驚くべきほど平和だった。と言っても泥は絶えず湧き出ており、それの対処に副部長達は奔走してはいたのだが、泥の発する電磁波を覚えた副部長、匂いを覚えた刑部、幽霊に情報を貰っている美代、式神で情報を集める伊周といった情報収集に長けた四人のおかげで泥が満足に動く前に補足し撃滅することが出来ている。

 

  異変解決者である五人の働きは最低限のラインは超えており、そのため調査班の為の時間は存分にとは日が短くなっている冬においては言えないが、確かに確保することに成功していた。しかし、それでも調査班の進展はおもわしくは無かった。

 

  二週間、たったの二週間であるが動いている調査班の質は決して低くはない。まだ二十歳前の少女達であるが、いずれ人の頂に立てるだけのポテンシャルを秘めた少女、現代最強の忍、死とともに歩む巫女、奇跡と突然変異の後輩達、だがそんな彼女達でさえ事の真相を追う道程は果てしなく遠く、ようやく手掛かりを指が触れ始めたのは冬休みに入る数日前、十二月二十二日にだ。

 

  期末テストをなあなあで済ませ、冬休み前で早めに終わった学校の長い放課後を使って杏と美代は諏訪湖間欠泉センターにいた。今年は例年と比べて冬の寒さは厳しく、冬将軍のやる気が高いようで、諏訪湖の外縁には氷が張り、舞う雪の量も日に日に増えている。そんな景色を眺めながら映画のようにその中を矢のように飛ぶバイクは氷の結晶にタイヤを取られることもなく、間欠泉センターの前にピタリと停車した。

 

「いいね〜杏ちゃん早かったよ、また乗せてね!」

 

  杏の後ろに乗っかり、腰に回していた手を離すとヘルメットを脱ぎ捨てて元気よく飛び降りる。舞う白い結晶の中に跳ねる亜麻色の髪は美しいが、その下に光る真っ黒な瞳は無機質な雪とは対照的に同じく黒いものを捉えている。

 

「はい! ……でも美代さんなんで間欠泉センターなんですか? 今までずっとバイクで街中駆け巡っていただけでしたけど」

「楽しかったよね〜、ビューンって早いし」

「当然です、私の相棒ですから!」

 

  バイクに乗れたことを心から喜ぶ美代の言葉に杏も嬉しそうに笑顔を見せる。美代に限らず副部長達異変解決者は誰もが一般的とは言い辛い生活をしているため、こういう体験は当然初めてなのだ。副部長も普段は山の中に一人でいるように、伯奇は閉ざされた山奥の里で育ち、刑部は山の中で一年を過ごす。伊周も格式高い古いしきたりのある家におり、美代も恐山から普段は出ない。時代錯誤の生活を送る五人からすれば、普段目にはするものの手は出せない文明の利器に触れられることはこの上ない楽しみであった。とは言えそれを気に入るかどうかは当人次第で、副部長と違い美代は気に入ったらしい。

 

「特にこう音が良いね!恐山でやったら怒られちゃうし」

「そうなんですか?」

「イタコのおばあちゃん達から霊さんが逃げるだろ〜って」

 

  目尻を無理やり指で釣る上げ美代はそんなことを言う。

 

「ゲームも駄目〜、テレビも駄目〜、つまんないよ〜」

「大変そうですね」

「本当にね、イタコでいるためにはそういうのは必要無いんだってさ」

 

  霊を降ろす行為には、およそ現代の娯楽や生活は邪魔になると考えられており、一般よりもズレた生活が基本とされる。それ故諏訪に行けという紫の指示は美代にとって良い息抜きの時間でもあった。しかし、いざ来たら大きな仕事が待っており、ただ楽しむわけにもいかない。

 

  異変解決者の中で唯一調査とパトロールを兼ねており、死を見る美代にしかある意味分からないことがあるために今回美代は杏に言って間欠泉センターまで来た。いつまでも話を続けるわけにもいかないので、

 

「さーて、間欠泉センターに来たのはね、間欠泉センターが唯一身近で地下と繋がっているからだよ。ちょっと危ないかもだけどさ、そろそろ行かないことにはもうどうにもならなそうだからね」

 

  そう言って間欠泉センターの中へと遠足に来たように消えていく美代を追って杏も急いで駐車場にバイクを停めると間欠泉センターの中へと走っていく。

 

  間欠泉センターは昭和五十八年に温泉採掘中に掘り当てた間欠泉を見る為の施設である。当時は五十メートルも噴き上がった間欠泉だが、今では人工的に噴き出すものへと変えられている。元世界第二位とまで言われた間欠泉も見る影は無く、その一時の栄華からの衰退ぶりは世界の縮図のようでもある。

 

  入館料は無料であるため、諏訪湖に向いた間欠泉のところへ二人は顔を出すと、湖畔の柵へと美代は飛び付いた。

 

「いや〜相変わらず何て言うかすごいね〜」

 

  諏訪にいればほぼ何処からも望める諏訪湖を見て何がすごいというのか杏には分からないが、黒々と真珠のように鈍く光る美代の目を見ていると薄ら寒いものを杏は感じる。

 

  杏も随分おかしなものと関わってきたが、美代はその中でも極めて異質な存在だった。異変解決者五人の中で最も浮いた空気を纏っており、今現在まだ詳細も分からない事態と直面しているにもかかわらず一番取り乱していない。

 

  それは彼女が死に関して普通の人とは明らかに考えの相違があるからだ。霊を身に降ろせる者というのは誰でもそうであるのだが、身体の内に流れる波長が死に近い。その中で誰より死に近いのが美代である。

 

  例えこの異変で美代以外の人が全員死んでも彼女は悲しまない。例え死んでも彼女だけはいつでも死人と語らうことが出来るからだ。そんな美代が言うすごいという言葉の重みを杏は感じることもなく、間欠泉の前で諏訪湖を眺める美代の隣に立ち同じく諏訪湖を見てみるが、杏の目に映るのは水面に消えていく粉雪だけだ。視界一杯に広がる水溜りに白い結晶が溶けていく光景は美しいが、すごいと言えそうには無かった。諏訪に生まれて十六年、杏は飽きるほどこの光景を見ている。

 

「美代さんいったい何が凄いんですか?」

 

  だからこそ杏はそう美代に聞くが、美代は甲高い笑い声を上げるだけで何も答えない。数分笑い続けた後、美代はくるりと間欠泉の方を向いて笑い声を止める。ただ一人違う世界を生きているような美代に杏は異変を追うよりも美代といることに少し不安になるが、これも必要なことだと自分に言い聞かせて再び美代の名前を呼ぶ。

 

「美代さん?」

「杏ちゃんはいいよね〜、見えないんだからさ。私はもう帰りたいよ、ここに来てからずっとそう」

「……美代さんには何が見えてるんですか?」

 

  杏が美代と調査を始めてから美代はずっとこの調子であった。何か思わせ振りなことを言うのだが、その根本を語ることはなく、ひょっとすると既に彼女は全て分かっているのかもしれないが、その証拠もない。しばらく何処かに留まると、すぐにもう行こうと言ってはぐらかす。だが今回はそうでは無かった。

 

「杏ちゃんはあの泥ちゃんのことどう思う?」

「どうって……私は副部長先輩と違って知識も無いですから詳しいことは言えないですけど、ただただ気持ち悪いです」

「うんうん、私も同じ。ただおかしいと思わない? ふっくん一人取ってもさ、見つけるのに時間がかかり過ぎだって」

「でもそれって普段目に見えないからとかじゃあないんですか?春の異変はそうでしたし」

 

  春の異変、蛇の卵というルールに則り手順を踏まなければ普通の人はそれは見ることも叶わない。杏が遭遇した速度の祟りもそれであり、それを指して杏はそう言うのだが、美代はすぐに顔を横に振って否定する。

 

「そんな質の高いのじゃないよ、ルールすら持たないもっと雑な存在だよあれは、ただ祟りの集まった粗悪品。だからこそ誰の目にだって映るんだ〜」

「じゃあなんで……」

「なーんでだ?」

「それは……どうなんでしょう、私は副部長先輩ではないですから分かりません。美代さんが帰りたいと言うのはそこにあるんですか?」

 

  杏の言葉に美代は満面の笑みを見せる。その黒い目が細められ、正解だと手を叩いた。

 

「広野や野原の中にさ〜、一本だけ木が立ってれば誰でも気付くでしょ? でもそうじゃないから気がつかないんだよね」

「それってどういう」

「今も居るよ、幽霊ちゃん達に頼んでからずっと喚いてる。諏訪のそこら中で、つまり」

 

  そこまで言って、場所を示すように美代は足元を足で小突く。

 

「すっごい大きな泥溜まりがすぐ足元にあるんだよ、常にそこにあるそれから泡のようにたまに地上に出てくるの、だから何処にでもいつでも泥ちゃんは姿を現せる。望めば今すぐにでも私と杏ちゃんの目の前にね」

 

  最後にそう締めくくり、美代はまた笑い声を上げる。杏は何も言えなかった。美代から語られた事実は軽く杏の想像を超えていたと言える。常に人が生活している足元で、『こちやさなえ』の何倍もの大きさの泥がいるなど誰が思う。それが暴れた時の被害は、校舎の一部が吹き飛ぶだけで済むはずがない。そして美代が帰りたいと言う理由もこれで明らかになった。だがそんな時限爆弾がすぐ下にいる中でどうして美代が笑っていられるのか杏には分からず、それがまた美代の不気味さを引き立てている。

 

「それがずっと分かっていたんですか?」

「うん」

「ここに来てから?」

「うん」

「怖くないんですか?」

「全然、面倒くさいから帰りたいだけで怖くないよ〜」

「なぜです?」

「だって死んでも私は皆に会えるもーん」

 

  ここに来てようやく杏は美代の異常性に触れる。死というものの捉え方が異なり、日常の挨拶のように『死』という単語を口に出す。薄暗いものの中で底抜けの明るさを持つ美代は空元気や勇気からそれが来ているのではなく、気にしていないからこそ明るいのだ。人にとっての終点は彼女にとっては旅の途中に転がる石でしかない。その寂しさに気付いた杏は悲しそうに目を細めた。

 

「どうしたの杏ちゃん?」

「美代さんそんな悲しいこと言わないで下さい」

「なんで? 死がそんなに悲しいの?」

「はい……だって、私は美代さんと二人でドゥカちゃんと走れて楽しかったですよ、死んじゃったらもう二人で走れないじゃないですか」

「…………ふーん」

 

  十四時を報せる鐘が鳴り、間欠泉から水の柱が噴き上がる。真っ黒い瞳を一度閉じてそれを見る美代はなんとも言い難い気持ちが胸の中で渦巻いていた。美代は忌み子だ。彼女は死体から生まれ落ちた。世に絶望し自殺した妊婦から生まれた彼女には生まれた時から死が隣り合い、初めて母に抱かれたのも母の幽霊からである。彼女が過ごした十五年は幽霊だけが共にあり、きみ悪がって人は彼女に近づかない。それがどうも諏訪に来てからはそれが違い、副部長や杏といった不見倶楽部の面々は彼女にとって幽霊以上におかしな存在であった。友人とは死んだ者としかなれないという彼女の常識がそれは良いことなのかどうなのか、未だに彼女の中で答えは出ないが、今は目に映る脅威をどうにかしてからでも遅くはないと顔を笑顔に戻して杏の方へ顔を向ける。

 

「そろそろ帰ろう〜、見たいものは見れたからふっくんに報告しないとね、死以外なら私よりもふっくん目は良いからさ〜」

「それはいいですけど何が見えたんですか?」

「地下の水は今表層にいる泥ちゃんよりも死の色が強いみたい。つまり泥ちゃんは下に潜るのに力を使ってるんだってこと〜、多分だけど私達が追ってる相手は地下にいるよ、それが何かは分からないけどね〜」

「じゃあ早く副部長先輩に伝えましょう!」

「うん、じゃあまた後ろに乗っけてね? ぶっ飛ばして行こお!」

「はい! しっかり掴まっててくださいよ!」

 

  そうして杏は背中に生命の熱をしっかり感じながら間欠泉センターを後にして学校へと走るのだが、活動拠点となっている不見倶楽部の部室は現在足の踏み場もない状態にあった。

 

  二週間前から学校に保管されているかつて在籍していた生徒の資料という資料をごった返し、副会長、友里、塔子の三人はあるものを探していた。それは別で調査をしている願子と生徒会長が副部長と美代、伊周の予想の元掴んだ手掛かりのおかげだ。

 

「副会長、本当にあるんですか?」

「そのはずです、我が一葉高校の長い歴史はこういう時にこそ活かされるべきです」

 

  この数日あまり成果の上がらない行為に疑問を覚える友里の声に抑揚の薄い声で諭される。

 

「被害者に共通点を見つけたのは良いけれど、なんというか地味だわ」

「仕方ありませよ、貴女達不見倶楽部が本気で幻想を追う時だって膨大な資料を漁るでしょう? それと同じです」

 

  塔子の文句も直様訂正され、束になっている資料に目を通し、投げ捨て、目を通し、投げ捨てを三人とも繰り返す。部室に聳える紙の塔の中心だけはぽっかりと開き、その中心にある一枚の紙、それを元に照らし合わせているのだが、数日で見つけられたのは六人分の資料、あと一人分が足りなかった。中心の紙に書いてあるのは人の名前で、八つの名前が書かれている。古い紙で少し黄色くなっているそれは願子と生徒会長が神長官守矢史料館から持ってきたものであり、そこに書かれている人物達こそ今回の被害者の共通点である。

 

「それにしてもなんで今更洩矢の巫女さんが狙われてるのかしら?」

「そんなのあたしに聞かれても分からないわよ」

 

  紙に書かれた八つの名前は、かつて諏訪において神事を取り仕切っていた者の名である。その筆頭は東風谷であるのだが、それ以外の七つの血筋、その内の六つの者が既に泥に喰われたことが確認することができている。最後の一つを探るために今こうして三人は動いているが、何万枚とある生徒の資料からただ一つを探す作業は拷問に近かった。

 

「でも副会長よく気づきましたね、諏訪にいればそのほとんどの人が一葉高校出身者だからその生徒の進学先や就職先を見て軌跡を追うなんて」

「これも生徒会だからこそ気付いたことと言いましょうか、私の立場が役に立ってよかったです」

「それは良いのだけれど悔しいわね、折角見つけた六つは既に終わっているんだもの」

「ただおかげで残りの起こるであろう回数は分かりました。後はそれが起きるよりも早く私たちが七人目の手掛かりを見つければ未然に防げるかもしれません」

 

  残り一枚、それを探すために副会長は分身すら駆使して資料を探る。それさえ分かれば後手だった状況を同等までに引き上げられるのだ。しかし、その道のりが遠い。例え見つけられたとしても、その進学、又は就職先へと連絡し、姓が変わっているようならばまた振り出しに戻る。そんな作業を計六回も繰り返し、それだけで十日近く消費しているのだ。だが逆に十日しか掛かっていないのは副会長の力が大きい。

 

「七人目だってもう手掛かりは掴んでいるんです。あと少し頑張りましょう」

「最初は北川屋、次に等々力、次に石光、次に向井、比較的少ない苗字に変わってくれてるからまだ良いけどこれで次に田中、とか鈴木だったら最悪ね」

「やめてよ友里さん、もしそうなったら友里さんの所為よ」

「なんでよ、最悪な事態を言っただけでしょ」

 

  実際に二人目を見つけた時に途中で苗字が佐藤に変わっており、その時は三人とも地獄を見た。数百枚近い佐藤の進路先に連絡を取り、数時間電話をし続けてようやっと目当ての相手を見つけることが出来たのだ。それをもう一度やりたいとは思えない。

 

「……ありました。向井 照さん、これで三人目ですね」

 

  この日二時間掛けてようやく目当ての資料を見つけたというのに三人に喜ぶ姿は見られない、それが意味の薄いものであることが分かっているからだ。すぐに携帯で電話を掛ける副会長の姿に小さく二人は祈りを捧げる。数分話して電話を切った副会長の顔を僅かな期待を込めて二人は伺うが、無表情の副会長を見ると心の中の希望が崩れ去る音が聞こえるようだ。

 

「どうだったのかしら?」

「当たりでした」

「本当ですか! それじゃあそのまま」

「ええ、次の苗字は門司です。まだ先は遠そうですね」

「あらあらあらあら」

 

  そう言って塔子は幾つかの紙の塔の上に倒れ込み紙雪崩を起こすが、それに文句を言う者はいない。もしこの紙の塔が年期別に分けられていたりすればその限りではなく拳が塔子を襲うのだが、積もり積もった過去の資料は最初から使われることは無いとごちゃ混ぜにされていたためそれがさらに三人の歩む速度を落としてしまっていた。今更さらにごちゃ混ぜになったところで気にする必要は無い。

 

「気持ちは分かりますが最近のものに近づいたおかげで次は整理されている束に手が出せます。生徒会室に行きましょう」

 

  目当ての人物を見つければ、そこから二十年分くらいの資料は飛ばしてしまうことができる。そうして現在に近くなれば比較的作業は楽になる、最近のものはまだ使うことがあるためにしっかりと分けて保管されているからだ。その資料は生徒会室に、それ以外を部室に分けることにより効率化をはかったのだが、これがなかなか功を奏した。生徒会室にまで行ける程に近づければ、目的の相手に行き着くまであと少しである。

 

  部室を出れば廊下にはいつも通り生徒の姿は見られず、それどころかどこからも生徒の声も聞こえない。テストも終わり部活が再開しているのだが、降り続ける雪のおかげで外で活動する部活は休止しており、それに便乗する形で中で活動する部活も同じく休止、不見倶楽部と生徒会以外は早めの冬休み気分を味わっていた。これに副会長は溜め息の一つでも零したいところではあるのだが、現状が現状のため今回はやる気のない学校の部活たちに感謝をする。

 

  白くデコレーションされた校庭とその奥で輝く諏訪湖を見れば、この街で泥が人を殺しているなどとは信じられない。だが実際に電話を掛けて行き着いた六つの出口の先には死が待っており、それが現実であるのだと泥に対峙しなくても、調査班の中でこの三人が一番嫌という程思い知らされた。上履きのゴムの擦れる音だけが嫌に耳をつき、しんしんと降る雪を窓から眺めていると、少しだけ現実逃避ができるため三人は特に会話もせずに景色を眺めながら生徒会室まで移動をした。

 

  生徒会室へと入れば、再び目に付く紙の塔に三人とも目を瞑って嫌そうな顔を見せるが、すぐに扉を閉めて作業に入る。どれだけ大変であろうとも、この単純作業が一番の近道であり、今まさに欲しい重要な情報なのだ。

 

「門司……門司……見つからないわね」

「はぁ、もう今日でまたこれで三千枚目よ、ギネスに登録できるって、一日にどれだけ多くの紙に目を通したってね」

「少し休憩しましょうか、あまり長い時間ずっと続けても疲れに負けて見落としが増えてしまいますからね。生徒会室でもコーヒーくらいはお出しできますから少し待ってください」

 

  昼前から作業を始め午後三時、疲れた目を瞬かせる二人の限界が近いことを察した副会長によって一時の癒しの時間が訪れる。暖房は薄っすらと点いてはいるものの、それでは窓から這い寄る寒さを完全には打ち消せないため冷えてしまった身体に副会長から手渡された湯気の立つカップがそれを和らげてくれた。

 

  ただ休憩といっても特にやることがあるわけではなく、手が伸ばせる範囲にあるのは資料とコーヒーカップくらいのもので、休憩でありながら資料をただ眺めるといったことに時間を割いていた塔子がここ数日疑問に思っていたことをふと副会長に漏らした。

 

「そういえば副会長さん、これだけ資料があるのに部長の資料は無いのね」

 

  何度か気になって手を伸ばして副部長と同じ現三学年の資料、部長が幻想郷に行ったのは高校一年の頃であるためあるはずなのだが、部長の資料は影も形も無かった。まるで最初から無かったように見えるが、その年の入学生徒数を見るとしっかり部長を含めた数になっている。

 

「それはそうです。幻想郷に正規の手順で入るとなるとその存在が幻想へと変わってしまいます。別に種族が変わるわけではない感覚的なものでありますが、その結果外の世界ではその存在がいた証が消えてしまうのですよ。だからさなちゃんのいた証も消えてしまったというわけです」

「でもそれっておかしくないですか? だって副部長は覚えてますよね、副会長だって」

「それは副部長がさなちゃんが幻想郷に行く最後の瞬間まで見届けたからですよ、副部長曰く通り道に最後までいたからこそ消え去る証に触れることができたとか、それで副部長がその時持っていた写真にさなちゃんの姿が消えずに残っているのです。その恩恵で私と会長の写真にもさなちゃんが残り忘れ去ることが無かったというだけですよ、私と会長は悲しいですがお零れで覚えているだけなんです」

 

  そう言って副会長はカップを置いて寂しそうに生徒会室のソファーの上で膝を抱える。副会長も生徒会長も早苗と親友であることに間違いはないのだが、早苗にとって副部長が特別であるように、副部長にとって早苗は特別なものなのだ。たった二人で続けていた不見倶楽部という部活で過ごした時間はやはり特別なもので、そこで築かれた関係は親友の中でも特に強い繋がりを持つ。それを羨ましいと副会長は思いはするが、決してその位置に立ちたいとは思わない。早苗と副部長はその二人だからいいのだ。早苗の代わりにそこに立つ者も、副部長の代わりにそこに立つ者も合わないだろうと副会長は思ってしまう。

 

「副部長はなんて言うか幸せなのかしら、部長と離れて」

「心配しなくても大丈夫ですよ、さなちゃんと別れた最後の日に副部長は神を見たと言って笑っていましたから」

「神って……確か八坂神と洩矢神とかいう二人だっけ? 本当に居たんですか?」

「さあ? さなちゃんはよくその二人の話をしていましたが私も会長も見えませんでしたし副部長も見ようとはしませんでしたから、それでもその話を会長と副部長は信じているようでしたけどね」

 

  神はいるという話を信じるかどうかとは個人の自由であるが、実際信じるという人間が現代にどれほどいるというのか。早苗がその話をする時は微塵も信じていないという影は見えず、確かにいるのではないかと思わせるだけの空気はあった。それでも副会長は半信半疑であり、全面的に肯定し面白そうに話を聞いていた生徒会長、信じていたように見える副部長と、だからこそ早苗と仲良くなれたのだろう。そんな中で神を見たという副部長の言葉に嘘はないだろうと思われた。

 

「あら私も信じるわよ……それより友里さんほら副部長の資料はあるわよ」

「副部長の? ってなにこれ、正式な資料なのに名前が書いてないじゃん、どこまでふざけてるのよあの人は」

「仕方ないですよ、副部長の名前は私も会長も知らないですしひょっとするとさなちゃんは知っているかもしれないですけど……その代わり分かることもありますよ」

 

  そう言って友里達の方へ近寄ってきた副会長が資料の中に指を差す。

 

「え……出身地がこれどこ?」

「聞いたことないわね」

「なんでもロシアとヨーロッパと中東の間にある小国だそうです」

「副部長って外国人なの⁉︎」

「意外でしょう? 血筋的には日本人らしいのですがね」

「あらあらようやく副部長のことが一つ分かったわね」

「さあそろそろ休憩は終わりにして作業に戻るとしましょうか」

 

  副部長の意外な事実に驚いている暇は無く、膨大な資料の海へと戻っていく。それでも副部長の秘密が後を引き、どうにも友里と塔子は資料を探すのに身が入らない。しかし、ここまで来ると探す相手は随分と絞られているためすぐに目当ての人物まで行き着くことができた。

 

「見つけましたね、門司 薫、これで最後だといいのですが」

「でもそろそろ最後じゃないかしら、これで違っても年を考えれば後一人くらいでしょう?」

「そうね」

 

  見つけた相手の生年月日が1975年なのを考えればこれが最後に近いのに間違いはなく、ようやっと三人の肩から力が抜ける。電話をかける副会長も気が楽そうで、二人は安心して見ていられた。

 

「それにしても驚いたわね、副部長が外国から来てたなんて」

「でも副部長って一人暮らしでしょ? 前に副部長に聞いたけど外国に家族がいるって感じじゃないけど」

「あらあら、あんまりそこは詮索しない方がいいんじゃないかしら、今度外国の話でも聞いてみたら?」

「話してくれると思う? 副部長って秘密主義なところがあるから」

「…………はい……失礼します」

 

  もう終わったものだと呑気に会話をしている二人だが、副会長が電話を切ったことによって意識がそちらに向けられる。期待を込めて顔を向けた二人だが、副会長の顔は今までで一番優れないものであり、二人の脳内で嫌な警報が鳴り響いた。できれば副会長から口にされることは聞きたくないが、耳を塞ぐわけにもいかない。いったいなにがあったのかわざわざ二人が聞くよりも早く、副会長の口から最悪の一言が飛び出した。

 

「困りました……次の苗字は村田。ここ数年で村田という苗字を持っている生徒は一人だけ……残されるは東風谷だけです」

 

  なにも言えず、塔子の頭の中だけで目当ての少女の姿が描かれる。最後に見たのは木乃伊のように痩せ細り消えていった少女の姿、すでに諏訪の大地には王手が掛けられてしまっていた。


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