不見倶楽部   作:遠人五円

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卵の中身

「ちょっと待ちなさいよ!」

 

  願子は、雨雲のせいで暗い放課後の無駄に長い廊下をこれでもかと走っていた。前方にはゴテゴテと装飾まみれの少女がジャラジャラ騒音を立てながら同じく全力疾走している。

  いつもと違う朝、隣のクラスの村田さんが死んだという知らせが回り一番取り乱したのは塔子だ。一度教室を出て戻ってきてからも、授業中落ち着きがなく何かに怯えたように小さく縮こまり辺りをきょろきょろ見回していた。理由は分かっている。間違いなく蛇の卵のおまじないに関することというのは確かだ。死んだ村田さん、それに反応を見せた小上 塔子、桐谷 杏、この三人に関係しているのは、蛇の卵のおまじないで間違いない。それを裏付けるように、願子の呼びかけにも答えず、教室を無言で走り去っていった塔子の態度が何より物語っていた。

  一段飛ばしで階段を駆け上がっていき、途中すれ違う生徒も突き飛ばす勢いで塔子は遂に屋上まで走り抜けた。屋上へと続く鉄製の扉を開け放ったが、落下防止で建てられた高いフェンスの内側に広がる水溜り、土砂降りの屋上に出るのは無理があると、屋上への扉を開け放ったまま壁を背にして座り込んでしまった。屋上の扉から這い寄ってくる冷たい空気が頬を撫でる中、息も絶え絶えに願子もようやく塔子に追いついくと、運動不足が原因か、立つのもしんどい願子は階段の一番上の段に腰を下ろす。

 

「全く! 一体なんだってのよ!」

 

  吐き捨てるように言う願子の言葉を拾う者はなく、二つの荒い息遣いだけがその場に流れる。何を言うわけでもなく二人とも座り込みんでいたが、願子は息が整ったところで、塔子の方へ顔だけ振り向くと同じ質問を繰り返した。

 

「一体なんなのよ」

「なにがかしら?」

「なにがって、あんたは分かってるでしょ!」

 

  塔子は膝を抱え込み頭を埋めていた状態からちらりと願子を(うかが)ったが、荒れている願子の返答を受けると、ゴツっと音がするほどの勢いで再び頭を埋め直す。

 

「……分からないわ」

「っ……塔子!」

「分からない! 分からないわよ! 願子さんはこう言いたいのでしょう? 卵が原因で村田さんが亡くなったって、だって、だってそんなはずないでしょう! おまじないはおまじない所詮お遊びじゃないの、それで死んでしまうなんてありえないわよ! そう、現実的ではないし願子さんの方こそ分かっているはずだわ、そんなことはあるはずがないって! 失敗したら危険だなんて言われているおまじないなんてそれこそいくらでもあるし、もしそれらが全部本当だったとしたなら私も願子さんもすでにこの世にいないはずでしょう! だから、だから…………分からないのよ」

 

  急に立ち上がり願子に詰め寄った塔子だったが、一通り言い切るとぺたりとその場に座り込んでしまう。いつも余裕を感じさせる少女の面影は無く、打ち鳴らされる装飾たちの音もこの場では虚しいだけだ。だからこそ願子は理解してしまう。今起こっていることは本当に異常事態なのだと、普通とは違う願子の望んでいたものなのだと。これが望んでたもの? 吐き気に襲われ喉元まで登ってくる胃液を口を押さえることによってなんとか抑え込む。懐にある卵が今は妙に重い気がする。

  そうして項垂(うなだ)れて動かない二人の元に、雨音に紛れて二つの足音が登ってきた。そっと目をやると、願子の視界に映るのは長い金髪と黒いおかっぱ。

 

「……友里、杏ちゃん」

「願子何やってんの、あんな大声で会話してたら嫌でも聞こえるよ」

 

  面倒くさそうな顔をする友里の顔はこの場に似付かわしくないほど普段通りで、願子のどうしようもなくこんがらがった頭を少し冷静にしてくれる。二人は階段を登りきると、願子と塔子を立たせて屋上前の廊下で全員向かい合うように円になった。

 

「ちょっと、塔子も何やってんのよ、あらあら五月蝿いのがあんたでしょうが」

「友里さん……だけれど」

「だけれどもへちまもないの、あんた分かんないとか言ってたけど知ってはいるんでしょ? これのことちゃんと話しなさい」

 

  そう言って友里は懐から今は誰もが見たくないだろう卵を取り出す。ニヤついた笑顔は消え去って、いつになく嫌そうな顔をしている塔子は一瞬目を見開いて、しかし一向に口を開く様子は無く、直ぐに視線は明後日の方向へと逃げてしまい辺りをキョロキョロと見回すだけだ。この現在命さえ掛かっているのかもしれない問題に願子たちを巻き込んだのは間違いなく二人に卵を渡した塔子である。最初におまじないのことに首を突っ込んだのが願子からだったとしても、塔子には全てを話す義務があるのだろうが、そうだとしても躊躇(ためら)われるのだ。異常だ。不可思議だ。人の常識を超えたことが起こっている。何をしても悪いことが起こってしまうようにしか思えない。だからこそ塔子はただおまじないのことを話すといった簡単な一歩でさえも踏み出すことができない。

  そんな塔子に業を煮やす願子だったが、それが限界に達する前に今まで黙っていた杏が前に出てきた。

 

「あ、あの、私がお話します」

「ちょ、ちょっと杏さん」

「で、でも蛇の卵のおまじないが本当に危ないものなら、ちゃんと話さないと」

「そうは言ってももうなにがなんなのか分からないのよ! 本当に危ないのならそれこそそれについて話すだけでも危ないかもしれない! 村田さんのようになるのなんて私は嫌よ!」

「だ、大丈夫ですよ、それなら塔子さんはなにも話さなくていいですから、私が全部話せば問題ないでしょうきっと」

 

  「大丈夫なの?」という言葉は、願子からも友里からも出ては来なかった。きっと話せば直ぐに村田さんのようになると分かっていても杏は絶対に話すだろう。そういった覚悟を、走ってきたせいか少し乱れた前髪から覗く二つの瞳が言っている。

 

「そ、そうは言ってもあんまりお話することは無いんですけど……ふ、二人とも多分気になってると思うんだけど、卵を捨てちゃいけないって私が言ったことが関係あるの」

「だからあたしが捨てたいと思ってるって言った時止めたわけね」

「う、うん……その理由は、卵が割れて願いが叶うまで卵を無理に割ったり粗末に扱ったりしないことだって、それが唯一のルール」

「え、それだけなの?」

「う、うん、でもそれはかなり難しいと思うの。ネットとかで調べたんだけど、蛇の卵って下手に動かしちゃうと孵らないっていうから私たちの持ってる卵が割れることは無いの。その卵を粗末に扱ったりせずに割らずに一生持ってるなんて、で、出来るはずないもん」

 

  確かに、と願子も友里も納得するしかない。そうなってくるとこの蛇の卵のおまじないは、

 

「それじゃあもうこれ罠じゃん!」

 

  願子は叫ぶしかなかった。絶対に孵らない卵が割れた時に願いが叶う、つまり願いが叶うことなどありえないのだ。しかもその願いを叶えてくれないただの卵を粗末に扱うことも許されない。

 

「いったい誰が考えたのよこんなおまじない! 塔子は知らないの!」

「最初に言ったけど知らないわよ! 私も聞いただけ、村田さんもそう、いったいどこが発信源かなんて分かったものじゃないわ」

「あたしたちの発信源はあんただけどね」

「そ、それは悪いとは思うけれど、だってしょうがないじゃない、こんなことになるなんて誰が思うのよ!」

 

  塔子の言うことも最もではある。今まで数多くのおまじないをやってきた塔子に、中学時代それに首を突っ込みながら巻き込まれた願子、今まで成功しようが失敗しようが何も起きなかったのに、今度のおまじないだけ警戒しろという方が無理な話だ。一通り全員言いたいことはいい終わり、また雨音だけが一時その場を支配したが、それを破ったのはまた友里だった。

 

「でもこれで一つ分かったんじゃない?」

「なにがよ」

「隣のクラスの村田さんが死んだ理由」

 

  友里は、「まあみんな分かってると思うけど」と、一旦置いて、

 

「もし村田さんがおまじない関係で本当に死んだとしたなら……村田さんて卵が割れたんでしょ? でも『割れた』んじゃなくて『割った』が答えなんじゃない? つまりルールを破ったから」

「そうね、本当に卵が原因ならだけれど」

「塔子、まだそんなこと言うわけ? そんなに怯えてるのに?」

「確かに状況だけ見れば卵が原因なのでしょうけれど、常識的に考えてそれが原因だと言える? それに……信じたくないのよ」

「そうは言っても卵が原因だと思ってこれからどうするか考えた方がいいんじゃない? あたしだってこんな馬鹿げたことで死ぬのなんて嫌だし、それに今一番危ないのは、あたしでも願子でも塔子でも無くて卵にヒビが入ってる杏よ」

 

  その言葉にハッとして願子と塔子の視線が杏へと集まる。卵が割れることが死に近づくというなら、確かに今一番危険なのはこの四人の中だと杏だ。当の杏は困ったように小さく笑みを作るが、その表情は弱々しい。

 

「だ、大丈夫ですよまだ生きてますよ、足だってちゃんとあります」

「杏ちゃんそんな冗談言ってる場合じゃないって! 本当に大丈夫なの? その、あんまり言いたくないけど何か見えたりしない?」

「よ、よく分からないけど大丈夫。私には三人の顔しか見えませんよ」

 

  その杏の様子に願子はほっと肩の力を抜いた。願子の隣にいる塔子も同じようだ。二人が最後に見た村田さんの様子から言って、彼女には何かが見えていたようにしか思えない。それも彼女にしか見えないであろうものだ。卵の所為で精神がいかれてしまったのか、それともそれ自体が卵の呪いというべきものなのかは二人には分からないが一先ず安心だろう。しかし、村田さんを見ていない友里と杏には当然何がなんなのか分からない。

 

「願子、なんで何か見えるって発想になるのよ、それが割った時の代償なわけ?」

「どうなんだろ、分かんないけど私と塔子は数日前に村田さんに会ったのよ、凄い錯乱した様子で、誰にも見えない何かを見てた。それに怯えてたから卵の呪いに関係あるのかなって」

「なんであんたはそんな大事なこと早く言わないのよ」

「しょうがないでしょ、塔子も言ってたけどこんなことになるって分かってたらすぐに言ってた」

「それで? 見えるって何が見えるのよ」

「それは……よく分かんない。確かこちなんたらって言ってたんだけどよく聞こえなくて、塔子分かる?」

 

  振られた塔子は一瞬迷った顔をしたが、ようやく塔子も覚悟を決めたのか、しっかりと三人の顔を見るとこう言った。

 

「こちやさなえ……確か村田さんはそう言ってたわ」

 

  塔子はしっかり聞いていた。願子よりもあの時村田さんの近くにいたから。しかし、それがいったいなんなのか塔子には分からない。何よりその名を口にするのも悪いような気がして、その名前を村田さんから聞いた時から、何か心が毛羽立ったような感じがしたからだ。ただ、杏が卵のことを口にしたのに、自分が口を開かないのは流石に無いと吹っ切れてのことだった。

  こちやさなえ、恐らく人の名前であろうことは四人にも想像がつくが、それがいったい誰のことなのかというと、

 

「「「誰?」」」

 

  全く心当たりが無かった。

 

「誰よこちやさなえって……友里知ってる?」

「知ってるわけ無いでしょ。多分姓がこちやで名がさなえなんだろうけど、そんな珍しい苗字一度聞いたら流石に覚えてるはずだし、杏はどう?」

「し、知らないです。でも村田さんが危険な状況で口にするくらいだから重要な人なんじゃないですか?」

「そうね、ひょっとしたらこのおまじないの発案者だったりするのかしら」

「マジで?」

「知らないわよ」

 

  知らない。分からない。このおまじないに関して、情報が出たとしても分からないことが多すぎる。四人が四人とも今までに無いくらい頭を回すが、行き着く先は『分からない』という答えでしか無い。

  一歩も前に進まず、雨音が強くなり天候もますます悪くなるのに合わせるかのように事態は悪化していく。今分かっていることは、おまじないのルール、村田さんが死んだこと、こちやさなえという誰かくらいのものだ。しかし、そのどれもが不可解なものばかり、本当に分かっていることなど無いと言っても過言では無い。

 

「……もうやめにしないかしら?」

 

  そんな進まない状況で塔子が言った言葉は諦めだった。

 

「少し冷静になって考えてみるとやっぱりおかしいわよ、おまじないで人が死ぬなんて考えられないわ。それをこんな場所で大真面目に考えるなんて、この状況の方がよっぽど異常だわ」

「塔子がそれを言っても説得力無いよ。私も塔子も村田さんを見た時にこれは普通じゃ無いと感じたはずだし、逃げたってしょうがないじゃん」

「じゃあどうすればいいのよ! 探偵気取っておまじないの謎を追い求めてそれで本当に助かるの? むしろ村田さんは病気で、たまたま卵が割れたという事が重なって卵のせいで死んだように見えるだけかもしれない!」

「塔子少し落ち着きなさい。あたしだって信じられないけど、何もしなきゃ下手すればあたしたち早くて明日にでも死んでるかもしれないの。そうはならなくてもこの卵を持って一生怯えて暮らすなんてあたしはごめんよ」

「じゃあどうするってのよ!」

 

  重苦しい空気と、雨のせいで、目に見えない暗いものが可視化されいるんじゃないかと錯覚するほど空気が悪い。堂々巡りの状況に、誰よりも信じたくない塔子のストレスは限界を超えてしまう。こうなってしまっては最悪だ。このままでは何の答えは出ず、卵のおまじないのことなど放って置いて普通の日常に戻ることになるのかもしれないが、それは決して普通ではない。絶対に普通ではないのだ。一歩間違えればあの世行きの片道切符を持っての生活など正常でいられるはずがない。そして、その切符が早くも切られかけている杏がいる。このままでは、また村田さんのようになる少女を見ることになるかもしれないのだ。骨に皮だけ纏い、声は(かす)れて死人のように生きる生活。今度は他人ではなく友人が壊れる姿を見ることになるかもしれないのだ。だから、

 

「……分かった。じゃあちょっとみんな卵前に出してくれる?」

「願子?」

「いいから、私にいい考えがあるの。これなら一発で問題を解決できるかも」

 

  願子の呼びかけに、もともと出していた友里、杏もおずおずと、塔子はかなり渋っていたが、それでももうどうにでもなれといった感じで取り出した。願子も懐から取り出し、四つの卵が目の前に現れる。

 

「こう見ると綺麗なんだけどね」

 

  卵を持っていない方の手を一度固く握り締めて、願子は心の中で覚悟を決める。今まで望んでいた普通でないこと。しかし、それが楽しくも無く、友人たちを危険にさらすものなど受け入れられるはずが無い。だったらやるのは自分であるべきだ。 おかしなことに首を突っ込むのは慣れている。行くなら行くところまで行くしかない。それが自分なのだから、こうなったら最後まで突っ込もう。こんな状況でも、頭の最奥で『きっと面白いことがある』とありえない考えが(くすぶ)っている自分の頭に自嘲気味の笑みを浮かべて、願子は握り締めていた手の力を抜く。

 

「割るのがいけないんだったら、『割られた』なら平気でしょ?」

「願子!」

 

  誰が願子の名前を読んだのかそれは分からない。しかし、誰が反応するより早く三人の卵を引っ手繰り、

 

「お願い!」

 

  全ての卵を廊下に叩きつけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あれ?」

 

  おかしい、なんだこれ。

  卵を叩きつけた瞬間、くしゃりと(ひしゃ)げた卵が急激にスローモーションになったかと思えば、いつの間にか雨音はしなくなり雨が止んだ。

  いや、止んでいるのでは無い。

  屋上へと開け放たれた扉から見える景色に願子は静かに息を呑んだ。

  雨が止まっているのだ。雨粒一つ一つが重力に逆らって空中を漂っている。歪な楕円を描く雨粒は、周りの風景をくっきりと写し取り、数多の雨粒たちに反射して雨粒の中はまるで万華鏡だ。その景色をバックに視界に映る三人も人形の様に動かず、願子自身の身体も卵を投げ放った体勢のままピクリとも動かない。しかし、意識だけははっきりとしていて、まるで静止画か写真の世界に入ってしまったようだ。

  ただし、そこには世界が止まっている以外に一つ違和感があった。

 

  パシャリ

 

  間抜けな音を響かせて、水面を踏む音が聞こえる。それは間違いなく願子の方へ向かって来ていた。屋上から滑り込む冷気は消え失せ、どろりとした生ぬるい空気が肌を撫ぜる。重い鉄製の屋上の扉は、紙にでもなってしまったかのように、嫌な空気を受けて簡単に左右に揺れて、その軽やかな動きに似合わぬ鈍い金属音を立てる。

 

  パシャリ

 

  雨が何かを避けることは無いのに、地面に広がる水溜りが一つ、また一つ小さく爆ぜ、雨粒たちも景色を写す仕事を止めてしまっているのかその見えない存在を写すことはない。ぬるい空気に当てられて、脂汗が(にじ)み出る。世界が止まっているはずなのに、(にじ)み出た汗は額を伝い、ポタリと地面へ落ちていった。

 

  ペタリ

 

  扉の軋む音に合わせて遂に足音が変わった。乾いた一歩、屋上へ続く廊下にべったりと足跡が残される。水滴で形成された足跡は、最初ただの跡といった何の生物かも分からないものから、一歩一歩進むごとに、見慣れた人のものへと一歩ずつ変化していく。

  その足跡の先には、スローで拉げていた四つの卵が、全身にヒビを入れ細かい破片を辺りに散らばしていた。

  入ったヒビを押し分けるように、暗い(もや)のようなものが表面に染み出し、それは徐々に量が増え、ペタリと足跡が卵の隣に落ちた時それは姿を現した。

  (もや)が、落とされた足を伝うようにそれの全身を包み、緑黒いヘドロが何もない空間から沸き立つように流れ落ちながら形を変えていく。頭、身体、足、およそ生き物に見えないそれがとった形は人に見えなくもない。頭には穴が三つ空き、顔を模しているようだ。マネキンより出来の悪い泥人形、こちらに二つそれから(あふ)れるように伸ばされるものは、流動的に先端が五つに分かれ、手となり目の前まで迫ってきた。

 

  目に映っているのはいったいなんだ?

 

  手を形作るヘドロに含まれる黒い結晶は嘆きの塊。吸い込まれるように視線を奪われ、瞳を通じて心を侵食されてしまう。鳥肌が立つ、吐き気もする、耳鳴りがして頭痛もする。苦痛を直接脳に捻じ込まれたみたいだ。

 

  やだ、嫌だ、こっちに来ないで!

 

  しかし、身体は言うことを聞かず、伸ばされた手がぬるりと頬に触れた。焼け(ただ)れたのかと間違うほどに熱を持ち、身体中の血管に火が放たれたようだ。それが巡って心臓に達し、鼓動の早さが一段と上がる。全く動いていないはずなのに、全力で運動した後の辛さに、そこから爽快感を引いた感じ。今自分が息をしているのかも分からないが、喉が詰まった感覚に陥り、首を引きちぎりたくなる。頬に触れられた指先は、その場で願子を弄ぶかのようにくるくると指先を回される。それに合わせるかのように思考がシェイクされ、嘔吐感が急激に増幅されるが、口から放たれることがない胃液はそのまま願子の喉を焼く。

  そのヘドロは、苦しむ願子の様子に満足気に口に見える溝を弧の形へと変えると、より一層人に似た形状を取った。顔は相変わらず三つの点でしかないが、長い髪を思わせる器官が伸び、身体には服のようなものが浮かんでくる。だが、どれだけ人の形に近くなってもそれは人にはなりきれない。形を成している全てのものは、上から下へと流れ落ち、一度真っさらに戻ったかと思えば内から新たなヘドロが(こぼ)れ、またある程度精巧な人の形となる。

 

「こちや……さなえ?」

 

  願子の口から不意に出た言葉に、自分自身が困惑する。誰かも知らない人物なのに、何故目の前の泥人形をそうだと思ったというのか。それは名前を呼ばれ、より嬉しそうに願子の傍へと一歩近づく。分からない。分からない。それを気にする余裕も無いほど願子の意識は混濁(こんだく)して、近づいたそれの圧力に(うめ)き声すら上がらない。

  笑みを浮かべるそれがより深く手を伸ばし、手を重ね合わせ絞るような形で首に差し掛かった時、急に後ろ髪を引かれて、鋭い痛みが走るのと同時に願子の意識は遠のいていった。

 

 




こちやさなえだ! こちやさなえが出たぞ!

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