不見倶楽部   作:遠人五円

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蛇の卵にご用心

  朝起きたら卵をまず磨く。なんとなく受け取る羽目になった卵だったが、願子の中ではここ数日すっかり日課となってしまっていた。あまり力を入れないように、柔らかいハンカチで優しく撫ぜられる卵はどこか嬉しそうに見える。

 

「どうよ!」

「どうってあんた……」

 

  そうしてツヤツヤになった卵だが、それをここ最近毎朝見せびらかされる友里からしたらたまったものではない。登校中にこんなものを見せられる人生とはいったいなんなのか、ほぼ倒されることが決まっているヒーロー物の悪役でもまだマシな人生を送っているだろう。これが見知らぬ他人からだったとしたら、友里はすぐさま諏訪湖の水底に沈むように祈りながら、湖目掛けて投げ捨てているところだ。

 

「この前まで死んだ魚みたいな目して卵を見てたってのに何愛着持ってんの、あたしはあんたの将来が心配だわ。変な宗教にはまりそうで」

「まあまあ、私の勘が告げているの、卵を大事にしなさいって」

「勘は勘でもそれは勘違いよ」

 

  片側に流された髪をかき上げ大きなため息を一つ。友里の長い金髪が風に揺れる姿が湖の湖面にゆらゆら映る様は蛇の卵なんかより十分美しい。そんな友人にいつもなら、すいませんといった態度を見せる願子だが、何かに夢中になっている時だけはてこでも動かないほど頑固だ。中学から同じことを繰り返しているというのに、本当になんの進歩もない。

 

「友里〜、卵に罪はないんだからさ」

「そりゃそうだろうけど……まあ今のあんたに何言っても無駄ね、それで何をお願いしてるわけ?」

 

  卵が割れた時に叶うお願い。当然願子も叶って欲しいお願いを卵に刷り込むように毎日磨きながら祈っている。

 

「ふふーん、もう友里ったら分かってるくせにさぁ」

 

  友里の質問に満面の笑みを浮かべて答える願子の顔に拳を埋め込みたい衝動を抑えつつ、「面白い不思議なことがありますよーにってやつね」と、仕方がないとなんだかんだ言って答えてくれる。

 

「そうそう、その通り!」

「帰りは怖いわよー」

「もうなによそれぇ」

「それに願い事って言ったらダメなんじゃなかった?」

「あっ……私自身が言ってないからセーフよセーフ! そんなことより友里は卵どうしてる?」

「あたし?」

 

  うん、と肯定した願子の顔を見て、なんとも言えない難しい表情になる友里。しばらくそのままにらめっこが続いたが、先に折れたのは友里の方で、嫌そうに懐から卵を取り出した。

 

「なんだかんだ言って持ってるじゃん!」

「あのね、あんた考えてみなさいよ、今まで中学生だったやつが高校に上がってすぐ蛇の卵持ってますなんて親にばれたらどうすんのよ。それもただ持ってるんじゃなくて、あんたみたいに毎朝磨いてますなんて言ったら口すっぱく早く学校行けなんて言ってる親から次に出る言葉は早く病院行けに決まってるでしょ。だから制服に隠しておくしかないの!」

「だったら捨てればいいのに」

「嫌! なんか呪われそうだし!」

 

  そう言って卵を懐に戻すと、友里はつかつか先に行ってしまう。湖に小さく寄せる波の音をBGMにしながら、諏訪湖の湖畔を十数分も歩けば学校だ。(なび)く金色の後に続いて、願子は学校の校門をくぐり抜ける。

  学校に着けば、いつもと変わらぬやかましさ。湖から一変したリズムに少し戸惑いながら二階の教室へ行けば、その教室の一番後ろの席の真ん中、そこが願子の席だ。友里の席はその隣。いつもより数割増しで面倒くさそうな顔をした友里は、席に着くとどっかりと鞄を席の横に置いて机の上に腰掛ける。

 

「もう、友里早いよ。ほら拗ねない拗ねない」

「別に拗ねてなんかない」

「その顔でそれは無理があるから」

 

  そんな風に幼馴染特有のいちゃいちゃを繰り広げる二人だったが、中学の頃から変わらないそんな二人の光景に、卵を持っている以外にも高校に入って変わったことがある。その証拠に、ポツンと二人の間に影法師が伸びてきた。そっちへ願子達が向けば、座敷童子のような少女が、二人の方に笑みを浮かべて歩いてきている。

 

「あ、あの、おはよう」

「おはよう、杏ちゃん」

「おはよ、杏」

 

  杏はその言葉により一層笑みを深めると、嬉しそうに願子たちのそばへと寄っていく。相変わらず長い前髪に目元が隠され表情を読むことは少し難しいが、願子たちはここ数日の交流のお陰で、なんとなくの雰囲気は読むことができるようになった。願子は新聞部に入っていた時に磨かれた洞察力、友子はもともと願子と違って友達が多いことからそういうことは自然と身についていた。

 

「ど、どうかしたの?」

 

  可愛らしく、こてんと首を掲げる。友里の眉間に寄ったシワが気にかかったのだろう。杏は二人と違ってコミュニケーション能力は低いらしく雰囲気で察することはできず、長年一緒にいる願子ならまだしも、あって数日の杏に拗ねてるだけなんてこと分かるわけなかった。

 

「なんでもないよ、友里はちょっと拗ねてるだけー」

「だから拗ねてないって」

「ま、まあまあ二人とも、落ち着いて。それで、なんで、友里さんは拗ねてるんですか?」

「なんだかんだ言いながらも、結局卵を持ってる友里なのだったってことでね」

「べ、別に持っててもいいと思いますけど」

「あんたたちには良くても、あたしは嫌なの。捨てたくても不気味で捨てずらいし、大っぴら気に持ってても今度はあたしが不気味になるだけ。もはや呪われた装備よこれ」

 

  教室で卵を出すのは躊躇われるのか、外から懐を指差す友里。アメリカのギャングが、表立って言えないところで銃なら持って来てるぜというポーズに微妙に似ている。そんな友里に第一に反論したのは、当然ながら絶賛好奇心中毒者に成り下がっている願子だ。懐から恥ずかし気もなく卵を出すと、友里の目前に掲げた。ハンカチの淵に綺麗に彩られたレースがひらひら舞って、友里の鼻を優しく撫ぜる。

 

「そんなことないって、これが意外と可愛いのよ」

「可愛いってあんたねえ、いくらなんでも毒されすぎよ。中学生の頃からほんっとに変わらないんだから、大体それって目的変わってない? ペットが欲しいなら他のにしなさい」

「うっ……まあ、ほら孵らないのは九分九厘そうだとして、宝くじを買ったと思えば楽しめるみたいな感じで、折角なら可愛がって楽しもうと」

「ならもうちょっと大人しく楽しんで」

 

  ハンカチが擦った鼻を擦りながら放たれた友里の文句はド正論だった。もうぐうの音も出ないというやつだ。居た堪れない空気の中いそいそ卵を戻す願子の隣で、意外にも杏が次に口を開いた。

 

「捨てるのは良くないですよ」

 

  うん? と願子はこれに違和感を持つ。吃りながらも一生懸命話すのが可愛らしい杏だが、前にも一度全く吃らず言葉を発したことがあった。それは初めて願子たちと杏があった時。階段でぶつかり卵が少しの間手から離れたあの時だ。

  それを思い出した願子が杏の方を見れば、檻のように視線を阻む前髪の隙間から薄っすらと覗く眼光の強さに軽く足が竦む。

 

「どうして?」

 

  少しイラついているためか、それに全く気がついていない友里の言葉に、「い、いえ、あの」と、鋭い眼光は直様なりを潜めてしまい、元の杏に戻ってしまった。面食らった願子だが、そんな杏を見ているとさっきのは気のせいだったように思えてしまう。あと少しでも時間があれば、願子の中で何かしらの答えが出たのかもしれないが、思考に決着がつく前に、占いの悪魔が三人のところへ姿を現したことによって、そうなる機会は失われてしまった。

 

「あら、友里さんどうかしたのかしら? 不機嫌そうね」

 

  相も変わらずにんまりとした表情を貼り付けている塔子の辞書には遠慮という文字は無いらしい。不機嫌だと分かっているのなら来なければいいのに、触らぬ神に祟りなしである。じゃらじゃら打ち鳴らされるクリスマスツリーのような制服がより一層不快感を募らせてくれるが、願子達は慣れてしまって、思うことなど今日は黄色が多いから天秤座のラッキーカラーは黄色だな、なんてことくらいだ。

 

「あんたがあたし達にこんなもの渡すからよ」

「いいじゃない、減るものでもないし」

「あたしの余裕が磨り減るの」

「あらあら余裕がないのね、だからそんな髪色なのかしら」

「これは地毛よ」

 

  頬に手を当て心配なのよーとふざける塔子に、髪を見せつけるように靡かすことで返す友里。興味ないのか、「あら、そう」と返事をした後、塔子は少し悩む素振りを見せ、「でも捨てないほうがいいわね」と、杏と同じことを口にする。

 

「なんでよ」

「私も貰ったものとはいえ、貴重なものなのよ友里さん」

「なら他人にあげるべきじゃあないわね」

「あらあらあら、友里さん、私達は他人じゃなくて友人でしょう?」

 

  何か言おうと口を開きかけた友里だったが、ここでまたもやHR始まりのチャイムによって阻まれてしまう。塔子はどうやらチャイムの女神様に好かれているらしい。もしこれが装飾品達の効果なら凄まじいが、如何せん恩恵がしょぼすぎる。ただ今回に限っては効果覿面(てきめん)で、友里は舌打ちを一つすると、開く教室の扉に合わせて、先生に注意される前に机から椅子に座りなおした。

  HRが終わると、退屈な授業が始まり、願子は早速授業そっちのけで外の諏訪湖へと視線を逃す。杏と塔子の言った卵を捨ててはならないといった発言がどうしても気にかかったからだ。願子からすれば塔子のことはどうだっていいが、やはり杏の言葉が頭の片隅に引っかかる。あの場で杏に続きを話せてもらえれば一番だったのだが、恐らく次に聞き出すのは難しいだろう。

 

「どうかした?」

 

  いつの間にか席を願子の方へと寄せていた友里が小声で聞いてくる。塔子が友里に与えたイライラのおかげで今朝のことは吹っ飛んだらしい。視線はしっかり前に向けたままなあたり慣れたものだ。

 

「いや、卵を捨てちゃダメっていうのが気になって」

「まあ確かに気になるけど、サッカー選手がボールは大事にって言うのと同じようなもんじゃないの?」

 

  趣味で何かをやっている場合、その趣味のものを捨てるというのは確かに考えられない。しかし、

 

「そうかなあ?」

「なにが気にかかるのよ」

 

  もちろん杏だ。たったの数日ではあるが、あの少女が心優しく嘘をつけない少女であるということは願子も友里も十分分かった。だからこそ、疑問が頭の中を泳ぐのだ。

 

「だって杏ちゃんが言うんだよ?」

「それはあたしも思ったけど、なんとなくじゃないの? 塔子はそれに乗っかっただけ」

「そうかなあ、もっと何かあるんじゃない?」

「何かって?」

「今朝友里も言ってたじゃん、呪い……とか?」

「馬鹿言ってんじゃないわよ」

 

  友里が離れて行き、どうやら話はここまでらしい。考えのまとまらないまま、昼まで願子は諏訪湖の眺めに逃げ込んだ。

  そうして授業を逃避しながら消費して、今日もこの時間がやってくる。およそ全校生徒の半数による、昼休み恒例購買部へのパン買い競争の時間だ。いつもなら弁当のある願子だったが、この日はたまたま母親が忙しく、パンを求めて願子も廊下を走っていた。最短距離を行っても多くの生徒が邪魔で逆に遅くなると考えた願子は少し遠回りして購買部を目指す。急がば回れの精神だ。願子の他にもちらほらと同じ廊下を走っている生徒がいるあたり、この考えは間違ってはいないらしい。しかし、購買部に着いた時にはもう長蛇の列。いったいこの中の何人がなけなしのお小遣いを握りしめ並んでいることか。パンを買うまでのこの無駄な待ち時間をどう消費するべきか願子は頭を回す。突っ立っているだけでできることなどたかが知れているというもので、壁に画鋲の穴が開いてるだとか、前に並んでる人の肩にゴミが、といったどうだっていいことしか目につかない。ただ困ったことに、無意味に意識を散らしている時こそ不意の一撃とは来るものだ。

 

「あら願子さん、今朝ぶりね」

 

  占いの悪魔に願子は肩を叩かれた。なぜここにいるのか、最初並んでいる時には願子の目につくことはなかった。塔子の目立つ風貌を考えれば嫌でも目につくはずだ。驚きと嫌悪の表情が隠されることも無く願子の顔には出てしまい、これが種明しよというように、塔子は見事なドヤ顔を披露してくれる。

 

「願子さん何をそんな難しい顔をしているのかしら、別に横入りするようなズルはしてないわよ。ただ占ってあげる代わりに私に代わって先に並んで貰っていた子と代わっただけだわ」

「へーそーですか」

 

  塔子の占いを信じるとは変わった子がいたものだと願子は思う。占いの悪魔が好む占いは、単純な星座占いや手相占いなども好むが、それらとは明らかズレたものが多い。蛇の卵などはまさに最たるものだ。

 

「それでまた卵でも振る舞うの?」

「私だってそうホイホイとはあげないわよ、言ったでしょう? 貴重なものだと」

「だいたいどっから貰ってきたのよ」

「それは企業秘密ですわ」

 

  口に人差し指をつけて内緒のポーズ、このポーズで塔子程人を不快にできるものがいるだろうか、いやいない。ツヤのある黒髪が黄色い布を巻き込んで垂れるツインテールの黒と黄色の二重螺旋は引きちぎりたくなり、ぱっちりした目にほのかに淡い唇と高い鼻、薄く化粧を施された顔は墨で塗りつぶしたくなる。無駄に端正な顔立ちをしている割に、中身がそれを台無しにしている。この少女の容姿に騙され何人が占い地獄に落ちたことか、一言でも喋らせ口を開けさせたら最後、シュールストレミングのような少女だ。願子からすればそんなものを相手に時間を潰すなど校長先生の長話よりも嫌なのだが、今回ばかりは朝の友里とのやりとりが頭の片隅に引っかかる。気になったのなら突っ込まずにはいられない、迷惑さで言えば願子も江子もそう変わらなかった。

 

「まあそれは今はいいけどさ、朝に言ってたけど、なんで卵捨てちゃ駄目なわけ? 私は捨てる気ないけどさぁ、どうせ塔子のことだから貴重以外にも何か理由あるんでしょ」

「あー、うーん、そーねー」

 

  悩むそぶりを見せる塔子に、願子はイライラが募っていく。こういう時塔子はいやに勿体振る癖があるのだが、こうなるとパンを買う順番が来るのが早いか、塔子が口を滑らせるのが早いか根比べだ。

 

「ちょっと、勿体振る必要があることなわけ?」

「あら、あんまりすぐに言ってもありがたみがないでしょう?」

「いやありがたみとかいらないから早く言ってよ」

「そーねー、それは……って」

 

  「村田さん……よね?」と塔子は願子の質問に答えることを放棄して、購買の方から歩いてきた一人の少女へと言葉をかけた。隣のクラスの村田さん、おまじないの通り蛇の卵が割れた少女。その存在は当然願子の好奇心センサーに引っかかる。それに抵抗する素振りさえ見せず、少女の方へ振り向いた先に待っていたのは、願いを叶えた輝かしい少女、ではなく、骨に皮を張り付けたと言わんばかりの動く木乃伊(みいら)がそこにいた。

 

「えぇと、あー村田さん?」

「塔子……さん」

 

  願子の問い掛けは村田の嗄れた耳には届いていないらしく、この世の黒いものを掻き集めたかのように濁った瞳には塔子のことしか写していないらしい。ボサボサの髪に痩せこけた頬、今にもパトラッシュと共に天に召されそうな少女から絞り出された声は摩り切れすぎて老婆のようだ。廊下にポツンと立つ人外じみた少女には近寄りがたいのか、それとも少女から染み出る陰々滅々(いんいんめつめつ)とした空気のせいか、生徒が避けて少女を取り残しぽっかり開いた小さな空間はおよそ日常とかけ離れている。

 

「あ、あら村田さん、あなたどうしたの? そんな急に痩せてしまって」

「え、そうなの?」

「ええ、だって一週間前に卵をくださった時はまだ普通で……」

「卵?」

 

「あ」と、どこか今まで余裕のあった塔子の口が間抜けなOの字を描く。

 

「塔子……さん……卵…………あげたの?」

「え、ええ何人かには」

 

  少女の空気に圧されてか、普段答えないようなことも塔子は口を滑らせてしまう。その摩擦のない一言で、ただでさえ顔色の悪い少女の顔が血の気が引いてより一層土気色になり、抑えきれない感情を表すためか所々髪の抜け落ちた頭を掻き毟り、ポタポタ赤黒い血が廊下の色を塗り潰す。

 

「くそぉ……なんで、それでも……まだ駄目なの」

 

  ボリボリ、ボリボリ、鈍い嫌な音が廊下に木霊する。少し騒がしかった購買に並んだ生徒たちも、その異様な様子に気がついたのか、ちらほら少女に注目し始めた。濁りきった瞳には光は無く虚ろで、その目にはもう塔子の姿も写っていない。塔子も願子も少女の雰囲気に飲まれてしまい、さながら石像のように固まってしまった。ボリボリ、ボリボリ、ツーっと少女の顔に一筋の赤い雫が垂れ始めて、ようやっと願子の手が少女の腕を捉えた。

  少女の自傷行為を止めることができたものの、未だ声は出ない。そんな願子の瞳は、行き場に困り少女の顔へと照準が合う。変だ、と願子は眉をひそめた。何も見ていなかったはずの少女の瞳が、確かに何かを捉えていた。息は荒く、願子のつかんだ少女の腕の脈は、異常なほどに早く脈打っている。僅かに震えながらも、一点を捉え続けている少女の瞳の先へと、願子はゆっくりと顔をやったが、そこにはなんの変哲もない窓があるばかりで、そこから見える諏訪湖はいつもと同じく静かなものだ。

 

「窓に!窓に!」

 

  しかし、少女にとっては違うらしい。枯れきった喉から最後の力と言わんばかりに喚き、願子の手から逃れようと後ろに大きく仰け反る。ただ、痩せ衰えた少女の非力では、その場で蠢くことしかできず、遂に廊下にいる生徒全員がひそひそと少女に注視し始めた。ここにきて塔子もようやく動き始め、願子と同じように少女の腕を掴むと、少女の顔が自分へと向くように引き寄せる。

 

「村田さん落ち着きなさい、いったいどうしたというのよ」

「あぁ……こち……が……」

「え? こ……何?」

「ぁぁぁぁああああ!」

 

  少女は願子の言葉に腕を振り切ると喚きながら走り去って行ってしまった。追おうにも追えなかった。少女の濁った瞳が最後に願子の顔を覗いた時、願子の勇気や優しさといった輝かしい気持ちが須くくすんでしまったようだった。足の裏は廊下に張り付いてしまったかのように重く、生徒の誰もが動かず少女の去っていった廊下の方へと視線を向けるだけで、動く素振りもない。願子はもう一度少女が見ていた窓へと向くが、小さな波が静かに立つ壮麗な諏訪湖が奥に佇むばかりで、おかしなものなどありはしない。しかし、何かがおかしい。それはここにいる誰もが分かっているが、原因が何かが分からない。願子の横で、余裕の表情が完全に崩れ、噛み合わない歯を打ち鳴らす塔子ただ一人を除いて。

 

 

 

 

 

 

  それから数日、結局これまでと変わらない日常がまた巡る。普通の朝、普通の朝食、普通の毎日。全く当てにならない麻薬のような中毒性を持つ好奇心の向かうまま、変わったことに首を突っ込み変わらない日々を過ごす。不思議を望み、変わったものを好み、幻想を夢見て、不思議なことなどないのだと、幻想は所詮幻想なのだと知っていながらだ。しかし、日常とはくだらないことで一変してしまう。事実は小説より奇なり、始まりがどれだけ些細でも、気がついた時には大きくなっているものだ。そう、まだ願子は気がついてはいなかった。いや、むしろ気がつかなかった方が幸運だったのかもしれない、自分が首を突っ込んだ先がギロチンの処刑台なのだということに。

  いつものように、友里と共に通い慣れた諏訪湖の湖畔を通り学校へ行き、だらだら授業を受けて家に帰る。その日もそうなるはずだった。ただ、今にも降り出しそうな雨雲に覆われた雲と、灰色に染まった諏訪湖がなんとなく今日は良くない日だということを願子に告げていた。家を出てから、空気中に多分に含まれた空気が、長い願子の後ろ髪を引く。

  教室に入ると、少し騒ついたクラスメイト、普段気取っている塔子も、物静かな杏もどこか落ち着かない様子で、塔子に至ってはカタカタ貧乏ゆすりまでしている。願子はそんな教室を眺めながら友里に問うてみても答えが返ってくるわけもなく、しばらくするといつもより早く先生が教室に入ってきた。騒ついていた教室が、さーっと波が引いたように静かになる。聞こえるのはポツポツ窓に当たり始めた雨の音と、嫌という程はっきり聞こえる先生の話し声のみ。

  先生の話が終わる頃には、雨は本降りになっていて、いつも窓から綺麗に見える諏訪湖が、今日に限って霞みがかってよく見えない。塔子は先生の話が終わると同時に教室を出て行ってしまった。杏は呆然と座ったままで、いつも能天気な友里も難しい顔をしている。そんな中で、願子の頭の中では、好奇心が最大限の中毒性を持って願子に訴えかけている。『きっと面白いことがある』いつも外れるはずの勘が、今回ばかりは嫌な方に当たる気がした。

 

 

 

  隣のクラスの村田さんが死んだ。

 

 

 


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