「お待ちしていました」
六月の半ばに入り不見倶楽部は戸隠に来た。
あ、蕎麦が食べたい。そう思った不見倶楽部の行動は早かった。長野で蕎麦と言えば戸隠そばである。戸隠そばは岩手県のわんこそば、島根県の出雲そばと合わせて日本三大そばに数えられている。戸隠は山岳信仰が盛んであり、古くから修験者が多く通った場所だ。彼らの携行食料としてそばは戸隠に入って来たと言われ、幾つかの特徴を持ち、その中でも特に特徴的なのがぼっち盛りと呼ばれる独特な盛り付け方である。
今では戸隠だけでなく、長野市周辺の旅館に泊まれば必ずと言っていいほど食事に出てくるほどに当たり前だ。しかし、戸隠そばだ。戸隠とついているからには、戸隠で食べなければ意味がない!
そうして不見倶楽部は土日を使い戸隠へ発った。だが、困ったことに一度戸隠の地を踏んでしまうと右を見ても左を見ても蕎麦屋蕎麦屋蕎麦屋蕎麦屋。
一家に一人蕎麦打ち職人が居ると言われる戸隠なのだからしょうがない。だが全ての蕎麦屋を回れるほど時間はなく、しかし最高のそばを食べたい。
そんな不見倶楽部の問題は、副部長が生徒会副会長を頼ったことによって解決した。何を隠そう副会長の親は戸隠出身。蕎麦屋程ではないが、数多く宿のある戸隠で祖父母が旅館を営んでいるのだ。
その宿の戸を開けば、女将の代わりに和服に身を包んだ副会長が姿を現し願子たちは相当驚いた。ベリーショートの髪型に和服姿の副会長はスナックの若いママみたいだった。それが妙に似合っている。固まる願子たちと違い唯一驚いていない副部長が手続きを済ませた。
通された部屋は昔ながらに日本旅館を絵に描いたような部屋だ。床の間があり、洒落た長押に部屋の大きさに見合わないちっちゃなテレビ。背の低いテーブルの上にはお茶請けの入った木のお盆が乗っている。部屋の説明も副会長がしてくれ、この土日は仲居として願子たちの相手をしてくれるらしい。
「でも驚きましたよ、副会長のお婆ちゃん家が旅館でたまに手伝ってたなんて」
「そうですか? 私たち三学年の中では常識なんですよ瀬戸際様」
「ねえ副会長、そのなになに様って呼び方どうにかなりません? なんかこそばゆくて」
「もう癖ですから出雲様が慣れていただければいいかと」
無表情で淡々と言葉を返す副会長はロボットか何かと間違えてしまうほどに抑揚もない。家の手伝いは立派であるがこんな感じで接客をして大丈夫なのか疑問である。だが副会長曰くこれはこれで人気らしい。実際旅館のホームページでは看板娘として紹介されている。
「それで副会長、いったいどんなそばを食べさせてくれるんですか⁉︎」
そう、今回はそばを食べに来た。杏が珍しく目をキラキラさせて副会長に詰め寄る。普通なら身体を反射的に下げてしまう場面であるにも関わらず、副会長は全く動じない。血が通ってるのかも怪しいと感じてしまう副会長から返される言葉は。
「チキチキそばを手に入れろ。手裏剣ゲーム、いえーい」
やる気の無い口調で虚空を見つめる副会長から齎される言葉。いえーいの部分に哀愁が漂っている。そう言い切った副会長はバッと和服を脱ぎ捨てると下から現れたのは見慣れた一葉高校のセーラー服。急なことで思わず目を手で覆っていた願子たちを残し副会長は部屋を出て行ってしまう。その形のままどうしていいかわからず突っ立っている四人を残し副部長までも荷物を部屋に置くと出て行こうとしていた。
「あら副部長どこに行くのかしら?」
「どこにってお前たちも行くんだよ」
「いやどこに行くんですかって話なんですけど分かってます?」
「ああ、いいか行くのはちびっ子忍者村だ!」
ちびっ子忍者村。戸隠で有名なのは何も蕎麦だけではない。戸隠流忍術という言葉を聞いたことがある者もいるだろう。世界で最も有名な忍術の流派であり、なんと門下生は世界中に十万人を超える。
そんな戸隠流発祥の地である戸隠にあるのが忍術体験が出来るちびっ子忍者村だ。そんなちびっ子忍者村で出来る忍術体験の一つが手裏剣投げ。
「五枚の手裏剣を投げ何枚的に刺さったかで今日うちの旅館で夕飯に提供するそばの量を決めさせていただきます。これは会長発案ですので文句は帰った後に会長に言ってあげて下さい」
ちびっ子忍者村に向かう道中、副会長がゲームの説明をしてくれる。普段なら願子と塔子あたりが喚き散らして文句を言うか喜ぶかの場面であるのだが、別のことが気になって全く願子たちの耳に入ってこない。
道を先頭で歩く副会長。なぜか地元の人と思われる人とすれ違う度にその人たちが副会長に頭を下げているのだ。なんだこれは、意味が分からない。願子たちが知らないだけで副会長は相当有名らしい。
「あの副会長? そのーなんていうか副会長って実は凄い人なんですか?」
ちびっ子忍者村の入り口が見えてきたあたりでついに願子は副会長に聞いてみたが、「そんなことないですよ」と華麗に受け流されてしまう。入り口に着いた願子たちがチケットを買おうとチケット売り場へ足を向けようとしたが、それは副会長に止められてしまった。
何事かと副会長に言う前に、副会長が入り口に近寄ると、何人もの職員が急に副会長に駆け寄り大地に頭を打ち付けんばかりに頭を下げる。願子たちの頭の中で警報が響いた。確定だ。この人やばい。
「ちょっと副部長、副会長っていったい何者?」
「そうですよ、なんか凄いですよ。副部長先輩は知ってるんですよね?」
「まあね。 まあそんな気にしなさんな、副会長がなんなのかは見てればすぐに分かるさ」
勿体振る副部長も副会長に続いてさっさと忍者村の中に入ってしまい、願子たちはそれを追うしかない。そこまで広くはない忍者村の中でお目当の場所に着くのには時間は掛からず、どういうわけか手裏剣投げ体験コーナーには願子たち以外の客の姿が見えない。
そに疑問には副会長の「一時的に貸し切りました」と副会長が答えてくれる。本当に何者なのか願子たちには分からないが、副会長は自身自分に向けられる疑問には興味がないようで、気にした様子もなく再びゲームのルールを口にした。
「先程も言ったとおりルールは簡単です。手裏剣は五枚、向こうに的がありますね、距離はそうでもないですから安心してください。その的に何枚刺さるかで提供させていただくそばの量を決めさせていただきます。別に的のどこに当たろうと構いません。当たるか当たらないかでカウントさせていただきます。このように……投げて当たれば一ポイントです」
「ねえ副部長、私凄い気になることがあるんですけど」
願子の言葉に頷く三人。副会長が無造作に投げた手裏剣は真っ直ぐに的の中央に向かい飛んでいき小気味いい音を響かせた。続いて投げられる手裏剣も先に投げた手裏剣の軌道をなぞるように同じ場所に吸い込まれる。投げるというより落ちているに近い。それほどスムーズで無駄がない。
「なにが?」
だが副部長が願子たちの疑問に気づいていないフリをして答えてくれない。それどころかさっさと五枚の手裏剣を投げると全てが的に刺さっている。副会長と比べると如何にも素人といった感じで刺さった位置もバラバラだが、流石である。
「だから副会長が何者かって話ですよ!」
「副会長? 我が一葉高校生徒会副会長様だよ」
「いやそういうことじゃなくてですね」
ニヤつく副部長は真面目に返す気は無いらしい。肝心の副会長は今は杏に手取り足取り手裏剣の投げ方を教えており、その姿は嫌に堂に入っていた。その教えを忠実に再現した杏のポイントは二ポイント。ふらふら飛んだ手裏剣はなんとか二つは刺さっている。その奥では変なポーズで投げている塔子が見事全部の手裏剣を外している。代わりにすっ飛んだアクセサリーが一つ的に刺さった。
「あらあらあら」
「あらあらじゃないでしょ塔子、投げ方がおかしいの、せめて普通に投げれば……ほら当たる」
「友里さん凄いわ!」
しれっと友里は五枚中三枚の手裏剣を的に当てた。副部長や副会長ほどではないにしろ、そこそこのスピードを出し的に当たるあたり運動が得意のようだ。それにしても上手いもんだなあとほのかに輝いて見える友里の手を眺めながら願子は一人驚くが、その理由を願子はまだ知らない。
「おい瀬戸際さん。後はお前だけだぞ」
「うぇぇぇぇ」
「大丈夫ですよ瀬戸際様、投げ方はちゃんと教えてあげます」
嘆く願子の手を取って、副会長が教えてくれる。手裏剣はメンコを持つように手で挟む、肘を直角に曲げて顔の横に、足は肩幅より広く開きぶれないように。どれも分かりやすい説明で副会長曰く基本中の基本らしい。
これだけ詳しい副会長がいったい何者なのか、地元だからでも通りそうだが、願子の好奇心は別の答えを導き出した。ここはちびっ子忍者村。やたら手裏剣を投げるのが上手い副会長。ちびっ子忍者村の職員が頭を下げる存在。
「副会長……副会長ってまさか忍者?」
「違います」
違うそうです。だがそう言う副会長は普段のストレスを発散するように的に手裏剣を投げまくる。的の中央に落ち続ける手裏剣によって出来る針のむしろ、願子に教えていた手裏剣の投げ方を無視して投げられ、願子たちの目に映るのは手裏剣の軌跡のみ。その姿は誰がなんと言おうと紛れもなく忍者だった。
さて残されるは願子、ポケットから『色眼鏡』を出す。願子が唯一他の者と違うのは、この眼鏡を上手く扱えるということ。不見倶楽部の一年生四人の中で特別な世界を覗ける願子の視界が虹色に包まれる。
「行ける! ソバが見える!」
一つ目、外れた。二つ目、明後日の方向へ。三つ目、隣の副部長の足元に。四つ目は副会長の目の前に飛び指で掴まれる。五つ目はそもそも手から溢れ足元に。
色眼鏡は視界が変わるだけで身体能力は別に上がりません。がっくりと願子は地面に膝をついた。
「結果は出ましたね。先に旅館に戻って準備をしますのでゆっくり帰って来てください」
どこからともなく取り出したビー玉ぐらいの黒い球体を副会長が地面に叩きつけると、爆発的に広がった煙幕が願子たちの視界を隠し、それが晴れた時に副会長の姿はそこには無かった。
「ちょっと副部長、あれ忍者ですよね」
「そうだよ、副会長は若くして戸隠流忍術の免許皆伝。ああ見えて世界中にいる門下生十万人の中で最強の実力者よ。単純な近接戦闘だと俺より強いんだからやんなっちゃうよ本当に」
なにそれ。驚きたくても話がぶっ飛び全ていまいち頭が追いつかない。そんな願子たちを無視して言うだけ言って帰路につこうと歩を進める副部長。その後を追いながら副部長に副会長のことを聞き出そうと追求するも自分で聞けと言うばかり。
どうも不満な願子たちが旅館に着き部屋の扉を上げると既に夕飯の準備はできてるらしく、天ぷらと辛味大根、胡瓜と茄子の漬物が盆に乗って置かれている。その盆にぽっかり空いたスペースにこそ願子たちが待ち望んだそばが来る。
「お待たせしました」
開け放たれた扉から、打ち立てであろうそばの微かな香りが願子たちの鼻をくすぐる。口いっぱいに啜れば絶対に美味い! 今か今かと待ち切れない願子たちの目の前に幻想が姿を現した。
「副会長が」
「「「「増えてる!」」」」
部屋に入ってきた和服に戻っている副会長の後ろからまたそばの盛られたザルを持った副会長が入って来る。その副会長の後ろからも副会長。副会長の後ろから副会長。これぞ分身の術。願子たちの口を間抜けに開かせるには十分過ぎる。
「副会長、忍者ですよね?」
「違います」
違うそうです。副部長からもう答えを貰っているため間違いはないのだが、それでもシラを切る副会長の姿があまりにも動揺してないせいでそうなんだと勘違いしてしまいそうになるが、そんなことはない。
寧ろ違いますと言いながらより忍者っぽい動きをする副会長は願子たちが思っているよりノリがいいのか、これが副会長なりの楽しみ方のようだ。
副会長によって配られたそば。それに目を落とし誰もが目を開く。水に濡れ光り輝くそばのきめ細かさ。ぼっち盛りという独特であるが美しい盛り付け。すぐにでも箸を伸ばしたい衝動に駆られてしまう。そばが置かれ完成した盆の上で、そばを彩る真っ白な辛味大根と、普段そこまで口にすることの少ない山菜の天ぷらは最強のお供だ。そして願子と塔子のザルの上にはそばが無かった。
「「え?」」
「ゼロポイントだからね。仕方ないね」
副部長の言葉を合図に待ちきれないと友里と杏が箸を伸ばす。箸からしなだれるねずみ色の輝きを口に入れれば、想像以上のそばの風味と滑らかさ。そば特有の喉越しまで美味しい。思わず綻んでしまう顔を止めることができない。
そして願子と塔子は世界を呪った。そばが食べたい、そばが食べたい。口に広がるのは代わりに口に含む山菜の香り。昇る太陽、立ち込める霧、それが育てた美味しさが、山の恵みが願子たちに怨みパワーを与えてくれる。
「おい瀬戸際さんに小上さん、そう辛気臭い顔をするな。分けてやるから元気出せ」
世界は優しい。世界はそばの香りに包まれている。願子と塔子も両手を投げ出しその世界へと飛び込んだ。
「私も行きたかったよぉぉぉぉ! 置いていくなぁ‼︎」
「会長、お土産です」
なんとかなった。