不見倶楽部   作:遠人五円

15 / 43
先に書けたので


副部長と杏のとある一日

  やべえや。

 

  副部長の心の内を支配している言葉はこの一言に尽きる。ある日少し早めに今日は帰ろうと部室を後にした副部長は、たまにはいいだろうといつもの帰り道である諏訪湖の湖畔を離れて諏訪の街中へと足を伸ばした。

 

  そこまでは良かった。そこで杏に会ってしまったのがそもそもこの一日の放課後が非常にエキサイティングになってしまった原因である。

 

  副部長と杏の二人きりというのは不見倶楽部のメンバーの中ではかなり珍しい組み合わせであった。副部長は基本的に自分から誰かを誘うことはない。放任主義というか事勿(ことなか)れ主義である副部長は誰がなにをしても自分に関わること以外はどうだっていいと思っている節があるからだ。

 

  対して杏はいつも願子や友里、塔子と一緒におり、副部長に自分から寄って行くのは願子と塔子が筆頭であり、自分から副部長のところに行くことはない。

 

  だから二人が街中で会ったのは偶然であり、杏が身の丈以上の大きなバイクに跨って目の前にいる状況が副部長は信じられなかった。

 

「副部長先輩今日はもう部活はいいんですか?」

 

  一葉高校にもちゃんとテスト期間なるものがある。勉強に集中するために部活動は休みとなり、二日前から不見倶楽部も休みのはずなのだが、そんなことは気にしないというように部室には変わらず副部長の姿がありそれは願子たちも勿論知っていた。副部長がいるならと願子たちも部室に籠城する構えだったのだが、勢いよく登場した生徒会長と副会長の活躍によりあえなく御用となった。

 

  願子たちはしっかりとテスト勉強をしなくてはならなくなったわけであるのだが、副部長はというと長い付き合いだからなのか会長と副会長になにも言われることもなく部室にいつものように通っていた。不満が出るのは当然だが、後ろで光る会長の目がそれを許してくれない。

 

「まあね。それより桐谷さんなかなか凄いのに乗ってるな」

「分かります⁉︎」

 

  副部長の言葉に嬉しそうに顔を輝かせる杏は心の底にあるスイッチが入ってしまったようだ。テスト期間中に大型バイクに跨る理由を是非とも副部長は聞いてみたかったが、エンジンがどうのマフラーがどうのと専門的なバイク知識を語る杏の姿を見るにそれは不可能らしい。というか免許取れないんじゃないか? ということすら聞けない。

 

  興奮して話す杏の話に分かっているような雰囲気で相槌を打つ副部長に杏はある程度満足するとようやっと落ち着いたようで、重いバイクを押しながら副部長と並んで歩き始めた。杏の意外なパワーはここから来ているのかもしれない。

 

「それで副部長先輩今日はどうしたんですか?」

「たまにはオカルトを追おうと思ってね。帰るついでに最近噂のとこに行こうかと」

 

  副部長が今日早く部室を出た理由はそれだ。ここ最近の約二年間は祟りの相手をするために諏訪中を駆け回っていたが、中学の頃の不見倶楽部はこうやって毎日東風谷早苗と共にオカルトを探して諏訪を歩き回っていた。たまには初心に帰ろうと副部長がふと思い立ったのが切っ掛けである。

 

「噂ってどういったものなんですか?」

 

  杏の疑問にどうしようかと副部長は首をかかげた。このオカルト探索とも呼べる行為は基本的に徒労に終わる。噂は所詮噂でしかなく、大体は幽霊の正体見たり枯れ尾花だ。だが二年前の東風谷早苗たちの幻想入りによって多少の変化が見え始めた。

 

  基本的に流れ込んだ祟りはそれら同士で混じり合い固有の形をとるのだが、余った祟りがもともとあったものと結びつくことがままあった。しかしそれは小さな変化であり、それによって生まれる幻想は祟りの塊たちと比べるとものすごく弱い。一応危険そうなものは副部長が見つけた時に潰していたのだが、狭い諏訪市内で祟りの余波を受けて誕生した幻想は数多く今でも副部長の取りこぼしたものが多くある。

 

  だから今回の探索でそういったものが出る確率は半々といったもの。副部長の知った噂の内容が内容だけに杏に話そうかどうか迷っているわけだ。杏だって不見倶楽部の部員である。そういった話を聞けば着いてくるにに違いなかった。

 

  足を止めて暫し考えていた副部長だが、杏の押す大きなバイクを見ると小さく頷き話し始めた。

 

「最近諏訪の近くにできたトンネルがあるだろう?」

「まさかその最近できたトンネルを車やバイクで走っていると、どこからともなく後ろから見たこともないバイクが迫り勝負を仕掛けてきて、いつの間にか周りの景色が変わり気がついたら事故してしまっているというあれですか? そのバイクはどこのメーカーにも規格がなくて、回る車輪は火を噴きまるで生きているように走るとも、最近だと諏訪で有名な走り屋数人が馬鹿馬鹿しいと飛び込んでいき漏れなく全員病院送りとなったあれですか?」

「知ってるじゃん」

 

  まだトンネルとしか言ってなかったのに杏から語られるそれこそ副部長が聞いた噂。目をギラリと光らせて話す杏の姿は正しくオカルト部員のあるべき姿だった。感心している副部長に「そうですか……」と返すと急にバイクに跨りヘルメットを副部長に投げると後ろの空いているスペースを指す。

 

「副部長先輩乗ってください! 副部長先輩がわざわざ見に行くってことはそういうことなんでしょう? この祟りは許せません! 二人で退治しちゃいましょう‼︎」

 

  そう言う杏に副部長は何も返せなかった。杏は勘違いをしている。副部長は本当に今日はただ見に行こうと思っていただけだ。だが杏の方がどうもやる気になってしまっているらしい。何が彼女をこうさせるのか、入部テストと称した部長お手製のアンケートのおかげで杏がバイクが好きだということは副部長も分かっている。だがそれは踏み込んではならなかった領域らしい。

 

  暫くバイクの後ろのスペースと杏の顔を交互に眺めていた副部長だが、「さあ!」と力強い杏の言葉によって背中を押され、こうなったらどうにでもなれと後ろへ跨る。

 

「たまにはこういうのもいいか、桐谷さん安全運転で頼むよ」

「はい! 全開でぶっ飛ばします!」

「いや安全運転で……」

 

  この後に副部長はこう語った。祟りを相手にするより死ぬかと思った。もう絶対に桐谷さんの後ろには乗らないと。

 

  風になった二人を乗せてバイクは走る。少し日が伸びてきた諏訪の道路の上に長い影が伸びた。ただ佇む影と違いそのスピードが尋常ではない。目測でも100キロ近いスピードが出ているのが分かる。周りを守られた車と違って全身で風を受けるバイクに乗る二人が感じる体感速度は100キロ以上。嬉しそうな杏と違って副部長の顔はみるみる青ざめていく。

 

「ちょ、ちょっと桐谷さん、まだトンネルに入ってすらいないんだから40キロくらいでさあ!」

「副部長先輩何言ってるんですか! 折角バイクに乗っているんだから速く走らないと意味ないですよ‼︎」

 

  そう言って杏はさらにアクセルを回す。副部長はもうなんだか泣きたくなってきた。

 

  そうして二十分ほどの過激なアトラクションに揺られる副部長と杏の目の前にトンネルの入り口が見えてくる。山の中央にぽっかりと空いたそれは大きな生物の口のようにも見え、また冥府への入り口にも見えた。

 

  そのトンネルに入る手前でバイクを横にし急ブレーキをかけるとバイクは停車する。トンネルの先には小さな光が出口の位置を示しており、それへと続く最近は青色系の方がいいという理由の蛍光灯の緑がかった光が不気味に点々と続いている。

 

「見た目は普通のトンネルですね」

「あ、うん……そうね」

 

  もうトンネルどころではない副部長は生返事しか返せない。虚ろな目の副部長とは対照的に決意を持ってトンネルを見る杏。これでは杏の方が副部長という地位に相応しく見えてしまう。杏は再びバイクの先をトンネルへと向けると、「行きましょう」と力強く宣言した。

 

  流石に噂を聞いて、それを見る間もなくトンネルを出てはいけないと、ここに来る道中よりも随分遅い速度でバイクは走る。

 

  普通なら邪魔だと他の車からクラクションの雨を受けても仕方がないくらいの牛歩だったが、ある程度噂が広まっているせいかまだ五時を過ぎたばかりだというのに薄暗いトンネルの中を走るのは杏と副部長を乗せたバイクのみ。

 

  トンネルの中の冷たい空気が二人を包み、暗い少し湿った道路がバイクのヘッドライトを反射して光る。重々しいバイクのエンジン音だけがトンネルには響き渡った。普通のトンネルだ。誰が見ても普通のトンネル、ここに噂通りのバイクが出るとは信じられない。しかし、幾分か進んでいくとそれも変わる。道に残る蛇行したタイヤの跡。それも一つや二つでは足りない。およそトンネルの中央に残されたタイヤの跡は絡み合い一匹の蛇のようにも見える。

 

  確かに噂通りの何かがこのトンネルにはあるらしい。アクセルを握る杏の手に力が入り、副部長は眉を顰める。

 

  丁度タイヤの跡の残る中央に来たところで副部長がついにコンタクトを外した。暗いトンネルの中で全ての明かりから浮く緑の光。それがトンネル中を余すことなく見つめ始める。

 

「どうですか?」

「いやいやこれは……何も見えんなあ」

 

  結果は白。副部長の目には特に何も映らなかった。蛍光灯の明かりとところどころ滴る水滴が見せる波と波紋の世界。それだけがトンネルを構成しており、むしろ異物なのはバイクの方だ。祟りの気配はまるでなく、普通としか言いようもなかった。

 

「じゃあただの噂でこれはただみんなが同じところで事故しただけですか?」

「うーん、まだそうとも言い切れないんだよねこれが」

 

  幻想にはルールがある。『こちやさなえ』蛇の卵のおまじないがそうであったように何事にもルールがあるのだ。手順と言ってもいい、妖怪のように性質にそれがあるものもいれば、その場に現れるだけでもそれを必要とする存在がいる。例えばこっくりさんやトイレの花子さんがいい例だ。このトンネルの祟りもそういった類のものであれば説明がつく。

 

「なあ桐谷さん、確か事故ったのって走り屋だったんだよな? 他の事故ったのもそういう感じなんじゃないかと俺は思うんだが」

「つまり、速度が関係しているってことですか?」

「そうそう、唯一ここで事故った奴らに関係しそうなことと言ったら一番関係ありそうなのがそれだろう?」

「なるほど分かりました!」

 

  杏が勢いよくアクセルを回す。前輪を少し浮かして破壊的な加速を見せるバイクと共に、副部長の目には確かな変化が見えていた。

 

  それはバイクのエンジンによって起こる振動。それが強くなっていき一定の波に変わった時だ。杏と副部長の後ろから轟音が聞こえる。二人の姿を消してしまうほどの光が二人を飲み込んだ。

 

  急いで後ろを振り向けばそこに居たのはバイクなんてものじゃなかった。火を纏った人よりも大きな車輪が回り、大きな牙の生えた口が付いている。車輪の数は合計八つ。その形は誰もが知るある生物と同じ形をしていた。

 

「副部長先輩、一体これって……」

「こいつは大蜘蛛だ。なるほど、祟りが混じってこうなったか!」

 

  大蜘蛛。大きな蜘蛛の妖怪の伝承は多くある。その中でも有名なのは『信濃奇勝録』というものに記された大蜘蛛が人間の生気を吸い病死させたというものだろう。信濃と名のつく通り、これは長野県での話である。それらの伝承は年月を得た蜘蛛が怪しい力を持つという俗信から来ており、どうも日本人はそういうものが好きらしい。

 

  そんな大蜘蛛は大小様々で、弱い者から強いものまで千差万別。その内の一体が祟りと混じったのが今の姿に他ならない。

 

「祟りが混じったらって、どう混じるとこうなるんですか⁉︎」

「祟りにも流行があると言えば分かるかな? 時代によって信仰される対象は異なる。ここ百年あまりで急速に普及し見ないことはなくなった車。それに対する信仰の負の感情が祟りとなったんだろう。速度に対する怨みかな? まあ何にせよこれは困ったな、桐谷さん周りを見てみろよ」

 

  迫り来るあまりに巨大な大蜘蛛が目につき、周りを見ていなかった杏が少し目を大蜘蛛から外しただけで副部長の言いたいことが分かった。

 

  トンネルだったはずの周りの景色がガラリと変わっている。果てしなく続く荒野とたまに生えているサボテン。そして今走っているどこまでも伸びている大きな道路。照り付ける日差しは眩しいが、全く肌はその熱を感じることはなく、身体に当たる暑いどころか寒い風だけは、そこがまだトンネルの中であると訴えていた。

 

  しかし目を奪われてばかりもいられない。挑発するようにこつりこつりとバイクの後輪を大きな車輪が小突いてくる。大蜘蛛からの挑戦状、バイクの手綱を握る杏にもっと本気で走れということだ。どっちが速い、どっちが速い? ヘッドライトのように光る八つの目が細められ、見下し笑っているように見える。

 

「普通なら人を食うことを第一とする小妖怪だろうに、祟りのせいでスピード勝負に目覚めたとか笑い話にもならないな、さっさとおさらばして貰おう」

「待ってください副部長先輩! 」

 

  腕を振りあげようとしている副部長に杏の叫びにも似た声が掛けられる。副部長は怪訝そうな顔でどうしようか思案するが、ヘルメット越しに見える杏の激情に腕を下ろす。

 

「私はバイクが好きです。バイクを粗末に扱う者は許せません!」

 

  杏がバイクに触れたのは丁度中学生になった頃だ。杏の家は個人営業のバイクショップだった。小さな頃はなんの興味も持てず、親がドライブに連れて行ってやると言っても首を縦には振らず近寄りすらしなかった。その理由は単純に怖かったからだ。無骨なボディーにくっついているのは二つの車輪。そんなものが超スピードで走る姿が恐ろしかった。だが中学生になったある日、遂に杏の孤独に対する自分自身への怒りが爆発した。その日杏の親がたまたま言った乗ってみるか? という冗談。今までバイクに近寄りもしなかった杏が乗るわけない。そう思っていた杏の親の期待を裏切り杏はバイクに跨った。感じる風が、果てしないスピードが杏の心を癒してくれた。杏だけの秘密の相棒。どこへでも一緒に連れて行ってくれ、普通の人では届かないスピードという世界を見せてくれる最高の友人。初めて乗ったその日から、『ドゥカティ 900MHR』は杏が何があっても手放したくないものの一つ。

 

「だから副部長先輩、 私は勝ちます! このスピード勝負だけはやらせてください! 私とドゥカちゃんがやられたバイクの仇を討ちます!」

 

  ドゥカちゃんてなんだよと思いながらも副部長は拳を振るうのを止める。勝負の心に燃える杏の目から覗く光は凄まじい。勝ちだ。今杏は何より勝ちを欲している。『こちやさなえ』の時も最初から最後まで唯一折れなかった最も心の強い杏が勝ちを欲している。副部長は持ち上がる口角を止めることができなかった。おどおどしていた時も、自分の意見をはっきり言えるようになった今でも杏の本質は変わらない。普段口数が少なくても、杏はやると言った時はやる女だ。

 

「分かったよ杏、ここは任せた」

「はい!」

 

  杏の返事と同時に周りの景色がまた変わる。自分とに勝負を受けたと大蜘蛛の車輪の音に合わせて現れたのは深い森と高い山。荒野から砂を掻き分けて生えてくる木々は相当シュールだ。整えられた勝負の場は山だ。それもただの山ではない。

 

「霧ヶ峰とはこっちもホームグラウンドだな」

「昔から走ってる道です! 負けません!」

「頼もしいがゴールはどうする? 別に設定されてはいないだろう?」

 

  ちらりと横を見れば霧ヶ峰スキー場の看板が映る。ここから諏訪湖へ向かってのダウンヒルの形になるのは明白だった。

 

「この道は途中で国道二十号と直角に交わるから諏訪湖までは無理。そうなると……」

「療護園前バス停が距離的にベストです! そこまで抜かれなければ私の勝ち! もし追いつかれたら後ろの化け物の勝ちです!」

 

  それを了承するかのように大蜘蛛が吼える。車輪の音が一段と高くなり、地面を擦る車輪の強さに負けて砕けていく。それに混じって弾ける火花が大蜘蛛の後を引いて道に散る。

 

「あの子! 道路はみんなのものなんだから大事に使わないとですね‼︎」

「おい杏! 文句はいいから前だけ見てろ、どうせこれはあいつが作り出した世界だ‼︎」

 

  副部長の目に映る妖気によって作られた世界。その世界を繋ぎ止めるように伸びる大蜘蛛から伸びる糸たちが副部長には確かに見えていた。

 

  そんな妖怪の作った世界ではあるが、この幻想の霧ヶ峰は現実と忠実であり公平らしい。祟りに犯されどう変わったのか、この霧ヶ峰のレースに本気で挑んでいるようだ。

 

  そうして訪れた最初のカーブ。昔から走っていると言った通り杏はなかなかのスピードで突っ込むも危なげなく曲がる。曲がる邪魔にならないようにほぼ地面と平行に身体を倒した副部長の目に映ったのは驚くべき光景。大蜘蛛の八本の脚が器用に動き、速度を下げるどころか上げて突っ込むも、大蜘蛛は遠心力に負けることもなく二人にジリジリ近づいた。八つの目が、大きな口が真横に走る。大蜘蛛は負けると考えてはいないらしい。大地を割る車輪の炎の熱が杏と副部長に届く距離だ。

 

「おいおい、いざとなったら俺が潰すがいいよな?」

「大丈夫です、まだ行けます! もっとスピード出しますから振り落とされないでくださいね‼︎」

「え?」

 

  アクセルを目一杯捻る杏の想いを形にするようにスピードは上がっていく。最高速度200キロを超える杏の愛車は下り坂と二人分の体重を受けてその速度域の限界を突破する。縮まりはじめていた大蜘蛛との距離がまた僅かに遠ざかる。それでも千切れずくっついてきている大蜘蛛も相当な速度だ。

 

  あまりの速度によって生まれる風の壁が細々と身体にぶち当たり副部長の目を涙目に変えていく。それも気にせず杏は二つ目のカーブへ速度を落とさず突っ込んだ。

 

  霧ヶ峰スキー場から療護園前バス停までの間にある大きなカーブはおよそ六つ。その六回が勝負を左右する。少しでも速度を落とそうものならカーブですら足を緩めず楽々と曲がる大蜘蛛には勝てない。

 

  いくら杏のドライビングテクニックが高かろうと、200キロ以上の速度で曲がり切れるわけがない。それが大蜘蛛にも分かっているのかからから車輪が笑い声を上げた。だが大蜘蛛にも分かっていないことがある。今まで勝負した相手にはいなかっただろう、副部長のような男が。

 

「副部長先輩‼︎」

「ったくそういうのはいいのか……よ!」

 

  カーブに入った瞬間にそのカーブに合わせて身体を倒し、地面に打ち付けられた副部長の拳を起点に曲がり切れないカーブを強引に曲がった。大蜘蛛の大口開けた顔を置き去りにして二人は走る。大蜘蛛が本気になるのにはちょっとばかり遅かった。走るというより落ちるといった勢いに近い二人は大蜘蛛が再び視界に入ることもなく三つ目、四つ目、五つ目と同じようにカーブを曲がった。

 

「副部長先輩! この調子なら勝てますよ!」

「いや、どうやらそうでもないらしい」

 

  療護園前バス停に続く最後のカーブの手前は比較的真っ直ぐな道が続く。最高速度を超える二人の後ろから、速度の祟りがその本性を現し迫っていた。八つの車輪が限界を超えて回転し、八つの火の道をアスファルトに刻みつける。その車輪に任せていた綺麗な走りではない。身体を揺らし、限界まで口を開き、機械的な力と生物的な力が一体となった走り。迫る。迫る。迫る。速度の限界が見えずどこまでも加速していく。

 

「おい杏」

「分かってます‼︎…………速いですね、すごい速い。副部長先輩次のカーブでは助力は最低限でお願いします。副部長先輩の力を借りた曲がり方は速いですけどそれでも速度は僅かに落ちます。次のカーブは私が最速で駆け抜けます‼︎」

 

  カーブが迫る。超スピードの世界では曲がり角が曲がり角には見えない。立ちはだかる壁のように行くてを塞ぐものと何も変わりがない。それに自ら飛び込み、(あまつさ)え最高のタイミングでハンドルを切らなければならない恐怖に打ち勝った者だけが最速の道を行ける。

 

  副部長の手が地面に触れる。打ち込むのではなく触れるだけ、杏の力を完全に伝えるためだ。迫る壁を前に杏の身体を一ミリもぶれず呼吸に一切の乱れもない。

 

  壁が迫る。

 

  まだだ。

 

  壁が迫る。

 

  まだだ。

 

  壁が迫る。

 

  まだまだ。

 

  壁が迫る。

 

  今だ!

 

  ブレーキは掛けない。その代わり頭が地面を擦るほどに倒れ込み、速度の方向を強引に捩じ曲げる。浮く車体を力で押さえつけ、哀れな人間を吹っ飛ばそうと掛かる遠心力に逆らい進む。200キロを超えるスピードでの曲がり、杏は確かにやった。およそ人間離れした技、療護園前バス停の標識がもう目と鼻の先に見えている。だがそれでも大蜘蛛は剥がれない。それどころか速度の祟りは人の技を嘲笑うかのように横に並んだ。

 

  負けない、自分は負けない。哀れな人間たち。速度という世界において人という身は遅すぎる。鉄の馬に乗らなければ自分と遊べないとはなんと哀れ。

 

  大蜘蛛の口が動き、二人に何かを伝えようとするが分かった言葉は一つだけ。

 

『おそすぎる』

 

「そんな……私今までで一番速かったのに……なのに私……」

「おいおい杏、折れるなよお前は」

「でも私……私勝つって言ったのに……」

「勝ったさ」

 

  副部長が杏の後ろから飛び降りる。鍛え込まれた副部長の身体は軽くはない。およそ175センチの副部長の体重は80キロ近い。所詮80キロではあるが、それでも重しとしての働きは存分に出来る。副部長のいなくなった分、前輪を上げて急加速した杏と相棒は、最後の瞬間確かに速度の祟りの前にいた。

 

  最初にテープを切ったのは杏。勝負は決した。その瞬間に幻想は砕け散り、元の風景に戻っていた。速度の祟りは断末魔を上げ、トンネルを包み込んでいた幻想と共に欠片も残さず消えていく。それが終わる頃に二人の視界に映るトンネルの入り口。トンネルの中の幻想は一人の少女の勝利をもって終焉を迎えた。

 

「まさにこれぞ妖怪退治、相手のルールを破っての勝利は気持ちいいもんだな」

「……勝ったんですね、私が勝ったんですね‼︎」

「ああ」

 

  バイクから飛び降り杏は両手を上げて似合わない雄叫びを上げる。杏が不見倶楽部に入ってから初めて自分で掴んだ勝利だ。

 

「俺のサポートもなかなかだったろう?」

「はい副部長先輩のおかげです! ただその衝撃と副部長先輩がやった最後の行動のせいでドゥカちゃんのボディが軽く凹んだので弁償してくださいね‼︎

「……はい」

 

  結構高かった。

 

 

 

 




実は一番書き始めた時にキャラに困った杏ですが段々とキャラが立ってきて書いてて一番面白いオリキャラです。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。