なお、リデル三姉妹にはまだ様々な確執が隠されていたりしますが、それはまた別の機会で。
オックスフォードのクライスト・チャーチ・カレッジに戻って過ごした出発までの一ヶ月間は、アリスにとって楽しいと言えるものではなかった。
アリスはダイアゴン横丁から自宅に帰って来て早々に、置いてきぼりを喰らって泣き喚く不機嫌モード全開のイーディスとばったり対面。そのまま二人は大喧嘩してしまったのだ。
最終的には二人の姉ロリーナが仲介に入って仲直りの握手という形に落ち着いたが、アリスもイーディスも内心では未だに納得などしていなかった。
それから数日……アリスはイーディスと全く口を聞かない様に振る舞い、イーディスもまた同じ様に姉のアリスに対して徹底無視を極め込んだ。
過去アリスとイーディスの姉妹関係がここまで急激に冷え込んだのはこれが初めての事で、ロリーナと父ヘンリーも酷く頭を抱えていた。
元よりイーディスを快く思っていなかったアリスがこの度、本物の魔女としてホグワーツに行く事が決まったのを切っ掛けに、イーディスの方が長年誰にも言わずに隠し続けていた“人気者で優等生で美少女な姉”アリスへの嫉妬心を全開にした格好だ。
『いっつもそうじゃない! いつも! いつもッ! “おまえ”ばっかり“楽で良い思い”をしてさ! 悔しいぃ……許さない……認めなぁいッ!』
それは初めてイーディスが他人に見せた感情だった。まだ幼い女の子だというのに、二人が一緒に寝泊まりする部屋の照明が震える様に突然停電した。
『きゃあっ!? お、お願い、イーディス……も、もうやめよ……? 真っ暗になって危ないし……ねっ?』
『はぁ……はぁ……黙ってよ……はぁ……はぁ……あたしが……あたしが……に……』
……昔からそうだった。イーディスが感情的になると、必ず周囲で何か不思議な事が起こる。それも大概悪い意味で。
『負けない……あたしが……なるの……あたしが……“アリス”になるの……もう一人の、アリスに……ッ!』
今になって思えば、その数々の経験こそがイーディスの魔法力への目覚めに繋がったのかもしれない。
しかも今のイーディスはアリスと同様に、自分も魔法が使えると確信している様だった。まだ上手に魔法を制御こそ出来ていないものの、アリスと違って生まれながらの天才でもあるイーディス。
その愛くるしい小さな身に溢れる稲妻の様な膨大な魔力を弄び、一度悪さを企むともう誰の手にも負えない……アリスはこの妹の将来性に身震いしてしまうほど、イーディスに恐怖と不安を抱いていた。
『もう嫌よ……これ以上は付き合ってられない。イーディス、お互いに少し頭を冷やしましょ? あたしもしばらく別の部屋に行くから、あなたも好きにしてちょうだい』
……この妹は危険過ぎる。色々な意味で。アリスが下した判断は、そんなイーディスを拒絶する事だった。
『じゃあ……えっと……おやすみ、イーディス』
……それ以上は何も聞かなかった。イーディスへの苛立ちが募っていたアリスは、泣き崩れる妹の返事も待たずにダイアゴン横丁で買った荷物を纏め、その日のうちに姉妹二人の部屋を飛び出した。
『ぐずっ……ずるいよぉ……お姉ちゃん……あたし、は……』
アリスが出ていった後、イーディスが声を殺して泣きながらぽつりと呟く。しかしその悲しい言葉の裏側に隠された真実の意味を相手に伝えるには──残念ながら今のアリスとイーディスでは若過ぎた。
こういう時、月日が経つのは早いもので、あれから既に一ヶ月が経過していた。
来たる九月一日──明日はいよいよホグワーツの新学期が始まる記念すべき日だ。
「はぁ……これ以上あの妹を見ていると憂鬱になりそう……早くホグワーツに行きたい」
一人になったベッドの上で、真っ白いネグリジェ姿のアリスが枕を抱く様にして寂しそうに溜息を吐く。
ベッドの近くに置かれた大きな鳥籠からは、落ち着いた声量で鳴くふくろうの物静かな声が聞こえてくる。
「ああ、ヴィリケンズ……ごめんね、今あなたを鳥籠から出してあげられないの」
アリスの新しいペットとなった黒ふくろうは熟慮の末に“ヴィリケンズ”と命名された。これはアリスが命名に悩んでいた時に、前方を横切るダイナをふと見て直感的に閃いた名前だ。
そんなヴィリケンズはクールで大人しい寡黙な性格で、飼い主たるアリスの言う事には高い忠誠心を見せた。
最近ではハリーが暮らすダーズリー家がある、リトル・ウインジングのプリベット通りまで手紙を持って飛んでくれる。
あれから頻繁にハリーと手紙のやり取りを交わした訳ではないが……アリスが受け取った手紙の内容によると、ハリーのペットとなった白ふくろうは“ヘドウィグ”という名前に決まった。これは『魔法史』の教科書に載っていた名前からとったらしい。
もちろん読書好きのアリスもホグワーツ指定の魔法の教科書にはしっかり目を通している。どれも面白くておかしかったが、ちゃんと教科書になっていたのはアリスも素直に評価した。
そして新入生が最初に覚える簡単な魔法を幾つか試してみようとも考えたが、それでまた嫉妬深いイーディスを不機嫌にさせるのは不味いと断念した。
あれからイーディスとは互いに口を聞いていない。イーディスの方は時折仲直りしたそうにアリスに声を掛けようとしてくる素振りを見せるのだが、あの悪知恵が働く妹の性格を嫌というほど知っているアリスはわざとらしくイーディスから逃げ続けた。
ただ、内心ではちょっと妹が可哀想だから仲直りしても……と、思わない事はない。
血の繋がった他人の様な冷え込んだ関係だが、それでも同じ母親から生まれてきた姉妹である。しかし自分から仲直りを持ち掛けるのだけは絶対にお断りだった。
あの悪どい妹の事だ。こちらが下に見て優しく接したら、また以前の調子で虐めてくるに違いない。
もしかしたら、それが妹なりの姉とのスキンシップなのかもしれない。だからと言ってアリスにはイーディスを簡単に許せない複雑な背景が幾つもある。
ある時の事──今より少し若いアリスが特別可愛がっていた鼠の子供がいた。いつも鼠には目が無い白猫のダイナにも「食べないで」と言っておくほど、アリスはその鼠を大変気に入り、家族に内緒でこっそり観察保護していた。
そんなある日、餌を持って来たアリスがベッドの下に隠していた鼠用のスペースから発見したのは──踏み潰された死骸だった。
その場に居合わせたメイドが言うには、ベッドを掃除していた時に隠れていた鼠の存在に驚き、悲鳴を上げたそうな。すると丁度ベッドの上で退屈していたイーディスが“待ってました”とばかりにその鼠を発見──嬉々として踏み潰したそうだ。
その日アリスは酷く泣き崩れ、ロリーナやヘンリーに事情を話したのだが……二人とも鼠が嫌いだった事からイーディスの肩を持った。
『お利口さん♪ ちゃんと“あたしの”言う事聞いてダイナは偉いねぇ。もう一人の“偽アリス”も、あんな間抜けな鼠のどこがいいんだか……くすくす♪』
──後日、甘えるダイナを優しく撫でながらイーディスが笑顔でそう言っていた。当時のアリスがもう少し賢ければ、すべてイーディスが仕組んだ事だったと気付けたかもしれない。
──また別の日。家庭教師との勉強中にアリスが余裕を持ってトイレに行った隙を突いたイーディスは、家庭教師が見てないところでアリスの“模範的な”ノートをカンニングするという悪事に。
驚くほど器用な事にイーディスはアリスのノートにびっしりと細かく書かれた模範解答を少しずつ弄り、一見正しい様に見えて結果的にそのすべてが微妙に間違った解答になるよう差し替えた。
そうしてトイレから戻って来たアリスが家庭教師に自分のノートを得意気に提出──その時は何故かアリスが家庭教師から酷く叱られ、逆にイーディスは頑張ったねと褒められていた。
当時の純真無垢で真面目なアリスにはまるで意味が分からなかった。しかし今になって思えば、アリスも小悪魔イーディスのおかげでだいぶ精神が鍛えられたと思う。
「はぁ……そりゃあ、有名になったあたしもちょっとは悪いかもしれないわ……」
消灯時間も過ぎ、薄暗いベッドの上でまたしてもアリスが溜息交じりに独り言を呟く。
イーディス側の立場から見ると、それだけアリスという存在が憎くて欲しくて妬ましいのだろう。
頭も良く、運動神経も抜群で容姿端麗──おまけに存在すら知らない様な世界中の人々から無条件に受け入れられ、好まれ、愛される『不思議の国のアリス』の主人公にも選ばれた。
その上で自分が魔法使いである事を知り、まさにアリスは人生最高の状態に立っていると言える──尤も性格が根暗なアリス本人はそう思っていないが。
「でも、だからってイーディスの悪事を許すなんて……そんなのあたし嫌よ」
お互いに譲れない想いがある。姉妹が分かり合うにはもうしばらく時間が掛かるだろう。
それから結局、アリスは出発前にイーディスと和解する事なくホグワーツに行く事となった。ホグワーツで必要な物はすべて揃え、荷造りは既に終らせた。
ペットとして持ち込むヴィリケンズもアリスの言う事を聞いて大人しく鳥籠に入っている。ちなみに白猫のダイナは今回ホグワーツに連れて行かない事にした。
というのもダイナは最近、アリスよりイーディスに対してなつく様になっていた。もしかしたら飼い主であるアリスも知らないところで、似た者同士気が合うのかもしれない。
「えっと……他に何か大事なもの……あっ!」
忘れ物はないかと思考していると、アリスが徐に部屋の本棚から一冊の本を引っ張り出す。それはアリスが一番大事にしている宝物──ルイス・キャロルがアリスの為に毎日徹夜で手書き、完成させた本だった。
『地下の国のアリス』──綺麗な表紙には英語でそう描かれており、現在世界的に広まっている『不思議の国のアリス』よりも僅かにページ数が薄い。
それもそのはず……『地下の国のアリス』はリデル家でピクニックに行った際、訪れたゴッドストウの村で聞いた不思議な物語を誰よりも気に入ったアリスが、ルイス・キャロルに書き留めておく様に頼み、後日アリスへと直接プレゼントされた思い出深い本なのだから。
言うなれば『不思議の国のアリス』の原型となった本であり、この世界にただ一冊しか存在しない大変貴重な物だ。
「あたしの為に書かれた、あたしが主人公の物語……」
アリスは思い詰めた表情で本の表紙を撫でると、それをホグワーツ行きの荷物の中にこっそり追加した。
(やらなくちゃ……今度はあたしがホグワーツで見て聞いて楽しんだことを物語にするんだ……そして世界中の小さな子供達にもっと知ってもらいたい……魔法みたいに素敵で不思議な事が、世の中にはこんなにもいっぱい溢れているんだってことを……!)
頑張り屋でしっかり者だけど、性格は根暗で卑怯で毒舌家──そんな幼いアリスには密かな夢がある。退屈な現実に子供らしい夢と希望を破り捨てられ、絶望に泣き疲れたアリスが姉のロリーナと交わした約束──
(──ドジスンさん、見ていてください。いつか、あたしもあなたの様に頑張って素敵な本を書きます。あたしにはパパやお姉ちゃんみたいに文才なんてないけど……でも、頑張ってあたしの想いをみんなに届けます)
今から数年前、ルイス・キャロルがリデル三姉妹に聞かせた様な素晴らしい物語を本にして書き留める。そして子供のアリスが成長して大人になったら、ロンドンの小さな出版社でひっそりと地味に働いているのかもしれない。
そこから自分の書いた物語を世界中の魔法使いやマグルの子供達に読み聞かせてあげたい。いつの日か、人間界と魔法界が一冊の本で繋がる事を信じて──
それこそが空想好きな魔女、アリス・プレザンス・リデルが見つけた将来への道標になるのだから──
『アリス自慢の可愛いペット紹介』
ダイナ→白猫。メス。気まぐれで悪戯好きな猫らしい性格。もちろん血統書付き。正式にはリデル家のペットとなっているが、事実上の飼い主とも言えるアリスよりも、一番の遊び相手であるイーディスにとてもなついている。今回、ホグワーツに入学する際にアリスが家に置いていった。アリス曰く「鼠取りの名人」らしいが……?
ヴィリケンズ→黒ふくろう。オス。滅多に流通しておらず、ふくろうの中では極めて稀少価値が高い。飼い主たるアリスの言う事しか聞かない。ハリーが飼っているヘドウィグとは兄妹の様に育った関係で仲も良好。
動物好きなアリスは『不思議の国』と『鏡の国』において、ダイナの他にヴィリケンズ、キティ、スノードロップという名前の猫をたくさん飼っています。
これが本作に登場する“黒ふくろうのヴィリケンズ”の元ネタです。
ちなみにハリポタ世界のアリスはダイナしか猫を飼っていないという設定です(キティやスノードロップについてはまたいずれ……)。