夜の教会には、ただ一人の人影しかない。
瞑目し、軽く俯き、静かに祈る神父。
そこへ。
「――ランサーが出たぞ」
黒を身に纏った女性が姿を現した。
そうですか、と頷いて、神父は顔を上げる。
「しかし良かったのか? ライダーはバーサ―カーの後詰へ向かわせ、ランサーはルーラーの排除。我が陣営の主力は全て出払ってしまったが」
「構いませんよ」シロウは軽く微笑み、首を振る。「何を措いても――ルーラーは除く必要があります。それに、敵の本拠地へ殴りこんでくるほど、敵も短気ではないでしょう」
小さく息を吐き、セミラミスは使い魔である鳩を操る。ルーラーは何故か車でトゥリファスへ向かっているらしく――よってトランシルヴァニア高速道を必ず通る。カルナに待ち伏せ場所を指示したのも彼女であった。
恐らく鳩による監視も、また”黒”による監視にもルーラーは気付いているだろう。それでいて姿を隠そうともしないのは、クラスの使命感故か、絶対の自信がある故か。
――恐らく”黒”の陣営は妨害してくるだろう。
シロウは冷静に考える。かの大英雄に比肩する英雄がそういるとは思えないが、この一戦で確実にルーラーを葬れると楽観もしていない。
これはただの戦端に過ぎず、正念場はまだ数日先……、アサシンの宝具の完成を待つことになるだろう。
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(……ふむ)
己が本拠地とする家――その長い煙突の上で、”赤”のアーチャーは異変を感じ取っていた。
魔術工房として使われていたためか、煙を上空へ逃がすため、煙突は異様に長く、周囲に視界を遮るものは存在しない。その上で、彼女は街の細部に至るまで警戒の視線を向けていた。現状、仕掛けて来ようとする敵の姿はない。
だが、今彼女が感じているのはそれとは別の感覚。
緊張ではなく弛緩。付近の警戒が弱まっているように感じたのである。
アーチャーが見る限り、鳩やゴーレムが上空からこのシギショアラの街を監視していたのだが、今はその網は薄い。僅かを残し、ある方向へ向かっているようであった。
「今なら、大丈夫か」
霊体化を解き、彼女は小さく呟く。
これは単純に、すこし夜風に当たりたかったからであり、また監視の目が緩んでいる今なら見つからないだろうと考えたからであった。
(さて、戦闘が始まるな)
街は死んだように静まり返っていたが、その奥底で……大気が身震いするような予感がある。
夜の闇の中にあって、アーチャーの視覚は一点の曇りなく、遥か遠くの対象を捉えることができる。
やがて、その優れた視力が、小さな影を捉えた。
向かい合って立つ二騎の英霊。
得物は槍と剣。
剣を持った男の背後で、安全圏への離脱を図る影もふたつある。片方は資料で見た通りの顔、”黒”のマスター、ゴルド・ムジーク・ユグドミレニア。そしてもう一人は――。
「……ルーラー。なるほど、彼女の争奪戦、というわけか」
裁定者のクラスを冠するサーヴァントは、真名看破や神名裁決といったスキルを与えられる。戦闘に転用すれば絶大な力を発揮する能力である。自らの陣営に引き入れれば、勝利をぐっと手繰り寄せることができるだろう。
向かい合う英霊の闘気は、遠く離れた彼女の許まで、痺れるように伝わってくる。
思わず、息を呑む。
聖杯大戦の口火は、間もなく切られようとしていた――。
「あ、おーい、アーチャー?」
その間抜けきわまる声が届くまでは。
見下ろすと、屋根へ出たアルが、煙突を登ろうとしているところだった。
「……何をしに来た、マスター」肝心なところで水を差されたアーチャーは、苛々を押し殺して答える。「敵の監視にかからぬよう、上へは登ってくるなと言ったはずだが」
「いや、アーチャーが実体化しているから、今は大丈夫なのかと思って」
彼は言って、隣に腰掛けた。
「…………」
アルが差し出してくる毛布に、無言で首を振る。サーヴァントにとって、暑さ寒さなど何ら気にする必要がない。断られることは予測していたのか、彼は大人しく毛布をひっこめた。
「安全なのは今宵だけだ。もう来るなよ」
「ああ」頷き、アルは首に提げた双眼鏡を構えた。「さて、街の状況は……わっ」
眼にも留まらぬ速さで、アーチャーは双眼鏡を取り上げた。
「……眼を潰す気か、愚か者。それにこんなもの無くとも――」
彼女が視線を向ける先へ、アルも顔を向ける。
瞬間、遠くの大地が白昼の輝きに充ちる。
大地と大気が震える。
「――見えるだろう、充分」
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トランシルヴァニア高速道上に於いて、
互いに真名は知らなくとも、向き合っただけで判る。
――この男は難敵である、と。
だが、二人にとってそれは恐れることではなく、喜ぶべき事実に過ぎない。
ゴルドとルーラーが存分に退却したのを感知し、ジークフリートは血が沸騰するような感覚を覚えた。
それはまた、カルナにしても同じこと。
爆発するように膨れ上がる闘気。殺意を全身に漲らせ――ここに。
聖杯大戦は始まった。
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詳細は見えずとも、彼方で行われる戦闘が人智を超えたものであることは明らかだった。
息することも忘れ、アルは瞬く閃光を見つめていた。
「間違いなくランサーとセイバーだろう」
戦いぶりを見、アーチャーはそう断定した。
得物が剣や槍だからといって、クラスが確定する訳ではない。むしろそういった予断が危地を招くことすらある。しかしながら、あの堂々たる渡り合いを見せられては疑う余地などない。
「マスターの立ち位置から考えれるに、ランサーは”赤、セイバーは”黒”だな」
「倒せるか?」
毛布を躰に巻き付けたアルが訊いた。
英雄にとっては、単純ながら、それ故に答えにくい質問である。しかしこのアーチャー、余計な誇りや過度な自尊心は持ち合わせていない。
二騎の戦闘を見る限り、その卓越した技量もさることながら、真に驚嘆すべきは耐久力であろう。
あれ程の打ち合いを経てなお、互いに目立った傷がないのは、単純な耐久値の高さというより――宝具によるものと推察される。自らの全力を以て貫けないとまでは言わないが、それでは手数が足りなくなる。
「少なくとも、真名が判らぬ状態で立ち合うのは避けた方がよかろう」
アーチャーは冷静な思考の結果、そう判断した。
「そうか……」
彼女がそう言うからにはそうなのだろう、とアルは思う。少なくとも、自分より遥かに戦闘経験が豊富なのだから。あのサーヴァントとは戦わない、と頭に書き込んでおく。
そこでふと思いついた。
「あ、じゃあ……、ここから現地にいるっていう”黒”のマスター――ゴルドだっけ? を狙撃することはできる?」
「余裕だ。一撃で仕留められよう」
アーチャーは即答する。そもそも大した援護も戦闘もできぬマスターが、なぜあの場にいるのか、彼女には疑問で仕方がなかった。
「じゃあ!」
興奮するマスターを留め、彼女は首を振る。
「可能だが、それは吾々が”赤”の陣営に所属していれば、の話だ。ここで奴を射れば、間違いなくこちらの居場所が割れる。両陣営を敵に回す可能性がある現在、無闇に敵を襲うことは得策とはいえない」
「なるほど……それもそうか。すまなかった、余計な口出しをして」
「構わん。寧ろ、『マスターを狙うのは嫌だ』などと言い出さなくて安心したところだ」
少なくとも、彼女にとっては聖杯の獲得が第一であり、その為ならば卑怯卑劣と罵られようが、何の痛痒も感じない。
――それが、
原作にある描写は基本省略。