大聖杯は万能の願望器である。
それは間違いない。
その身に蓄えた魔力を用い、あらゆる願望を叶える。最初に結果を与え、その後に過程が現れる。既に結果が出ているのだから、達成に支障はない。空前の規模で起きた大爆発で罅が入ろうと、機能は停止しない。
願望は叶う。無論、叶うが――。
”幸福を与えてくれ”
「幸福を与える」――その言葉が意味するところは何か?
大聖杯はまずそこから思考を始めた。無論、大聖杯に意志はない。極めて高性能な計算機と考えれば良い。達成のために必要な工程を導出するのだ。要件定義は必須といえる。
例えばこれが、「幸福にしてくれ」ならば簡単だった。幸福に「する」――即ち、一時的に脳が快楽を感じさえすれば良い。ヘロインを投与すれば終わる。
しかし「与える」とは何事か――?
人類の幸福に関する思考様式、記述を参照し、大聖杯は解釈を完了した。
――幸福とは状態であり、「与える」とは、状態の半永久的な持続を求めている。
解釈は終わったが、なかなか難度の高い望みである。
変化は容易いが、状態の維持は難しい。
「水を氷にする」のは簡単だが、「永遠に氷の状態をとらせる」のは難しいことと同様の話。大聖杯の魔力は膨大だが、永遠に冷却を続けることはさすがに不可能である。
さて、どうする?
第二の問いを大聖杯は思考する。
この時点で既に対象者が消失しかかっていたため、その身柄を内側に格納、保護して、大聖杯は思考を継続した。
何やら人間たちが大聖杯を運び出し、地下深くへ押し込んだが、特に抵抗することはなかった。思考はどこでも続けられるからだ。周囲の魔術師たちが、内側の魔力を取り出そうと躍起になったので、それだけは妨害した。
さほど長い時間もかからず――大聖杯の処理速度を考えれば、相当な時間なのだが――最適解と思われる答えを発見した。
――状態の維持を達成するためには、周囲の環境を整えるほかない。
氷そのものに干渉するのではなく、冷凍庫を造成する、という発想である。当然、冷凍庫はいつか壊れるから、永久凍土に埋めるなり、地球外に飛ばすなり、手段は考えなければいけない。
こうして大聖杯は最後の問いを得た。
どのような環境であれば、対象者の幸福な状態は、半永久的に持続するか?
恐るべきことに、解はほぼ無限に存在した。「結果」の後に「過程」を出そうにも、これは過程そのものが結果。大聖杯の魔力をもって起こせるありとあらゆる奇蹟が、候補になって立ち塞がるのだから、当たり前ではある。
いつの時代へ送る? 何の形をとらせる? 傍らに誰を置く? どの記憶を封じ、どの記憶を与える?
演算は続く。
永遠の命を与えるか。巨万の富を与えるか。全ての美酒美食を与えるか。好みを完璧に充たした異性を与えるか。一生分の薬物を与えるか。過去の後悔をなかったことにするか。遠い未来、対象の願望が叶った世界へ送るか。
演算は続く。
対象者は何に最も幸福を感じたか、繰り返す出来事は幸福感を低下させるのではないか、幸福値をどうやって評価するのか、判断の基準はどうするのか。
演算は続く。
根源的な問い、人間の欲望と幸福。何度も始めに立ち返り、魔力をもって引き起こせる事象を再検討。無限に近い候補を、最初から最後まで計算し尽くし、別候補の結果と比較。
環境はいくらでも存在する。虫の一匹、微風の温度、日光の角度まで……。
人智を超えた魔力資源を用いても、演算には長い時を要した。
それでもなお――大聖杯は万能の願望器。そうである以上、答えが出ないことは有り得ない。
埃を被り、地下室の奥深くで、誰からその存在を忘れられても、ひたすら演算を続ける。検討再検証を繰り返す。
そして――。
答えは出た。
この世に存在する無限の可能性を検討した結果、対象が最も幸福になれるだろう環境を発見した。
即座に、大聖杯は起動する。解を実行するために必要な魔力を算出。ようやく本来の仕事を果たすのだ。
誰もが忘れた地の底に魔力が充ち満ちる。奇蹟の輝きが溢れ出し、遂に願望が叶えられる時。
最終検討完了。演算に間違いはない。対象を送り出す。
とはいえ。
それでも、対象が幸福になるという保証はない。大聖杯はもっとも確率の高い環境を選んだだけで、絶対に幸福になるかといえば、それは誰も判らないことである。
こればかりは仕方がない、そもそも願望の内容が破綻していた。
”幸福を与えてくれ”――?
どんな人間でも、大聖杯でも、たとえ神でも、それだけは不可能。
それはそうだろう。
幸福とは与えられるものではなく、自分で摑むものだから。
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――永い夢を、視ていた。
願望を慟哭した。喉が枯れるほど叫んで、動けなくなるまで踠いて、全身から血を流して、それでも夢を追い続けた。
その痛みは胸に残っているが……何故だろう。
不思議なことに、焦燥や悲愴――身を灼く炎は、消えていた。
理由は判らない。どこかに消えたのか、なにかが癒したのか、それとも――
願いは忘れていない。いまも心の底から望む世界がある。
けれどそれは以前のように、己を駆り立て、背中に重く圧しかかる咎としてではなく。
晴れ渡った空のように、清々しく気持ちが好い、軽やかな羽となって、背中を押してくれている。
ああ、これなら。
どこまでも飛べる。理想を求めて、夢に舞える。
眠っていたらしい。
瞼を閉じたまま、ゆっくりと感覚を取り戻す。
躰は横たわっている。
温かい大地がこの身を受け止めて、揺り籠のように包んでいる。
嗅ぎなれた香りが鼻腔をくすぐる。
囁き合う草、静謐を望む樹々……森のなかにいるようだ。
いつから寝ていただろう。
いつまで眠っていられるだろう。
疑問は切望の残滓。
あるいは、裏返し。
草を踏み分ける穏やかな音……
それなら――たぶん、大丈夫。もう少しだけは。
だから目を瞑っていよう……そう思う。
すぐに肩を叩いて、声をかけて、起こしてくれるだろう。
誰が?
誰かが……、きっと。
柔らかな木漏れ日の下。
その声を待っている。
ありがとうございました。