力任せに縛った止血は不完全で、傷口からはいまだに血が流れ出ていた。
壁に手を付いて、無理やり前に進む。足の裏に付いた血が滑って歩きにくい。
何度も転び、その度気力が萎えそうになった。
止まることはできない――最後の義務を果たすまで。
城内は静まり返っている。
自分の荒い息と、足音がやけに大きく響いた。
一生辿り着かなければ良いと思った。この先に待っている運命を思えば、永遠の痛みなど安い代償だ。
心臓の鼓動にあわせて、突き刺すような痛みが走る。
苦悶の声を上げる毎に、頭のなかで問いが渦巻く。
――俺は、どこで間違えたのだろう。
答えは、もちろん判っている。
全部だ。
ずっと間違えてきた。正しい道なんて、ひとつも選べなかった。
アーチャーを止めなかったことが、間違い。
聖杯大戦に参加したことが、間違い。
父の期待に応えられなかったことが、間違い。
生まれたことが、間違い。
アルという人間の始まりが、そもそも間違いだった。それからしてきた全ての決断が間違いで、だからこれは当然の結末。
やっと抱いた正しい願望さえ、自分の手で握りつぶさなければいけない。
自業自得の末路だというのに、それを嫌がる自分がいる。その感情は間違っている。
だって、約束をしたから。
――なあ、アル。”皮”を被った私は、理性も願望も失ってしまうだろう。仮にランサーを倒しても、止まることはない。
――きっと汝のことも忘れてしまう。そうなった私はアタランテではない。一体の化物だ。目標を見失った化物が何をしでかすか、考えるまでもなかろう?
――令呪を使っても無駄だ。生半可な命令では反抗を許してしまう。だから絶対に抗えないような……それだけで化物を停止させるような、強力な命令をするしかない。
――だから……もしそうなった時は……。
”私を終わらせてくれ”
何て残酷なことを頼むのだろう、と思ったけれど。
きっと彼女は、それがこちらにとってどれほど辛いことか、知らないのだろう。
でも約束した。
知られてはいけない……そう思ったから。自分のこの気持ちを知ったら、彼女にまた重荷を負わせることになる。そんな身勝手な真似はできない。だから、自分が責任をもって終わらせると言った。そのために逃げて、そのために生き延びた。
マスターとして、彼女に何かしてやれることがあるとすれば、精々それくらいのこと。
だから歩く。失血によって遠退く意識を、傷の痛みが覚ましてくれる。
先の見えない昏い廊下。闇のなかを泳ぐ。
やがて、辿り着く場所が見えた。
巨大な広間だった。
石造りに設えられた柱、壁、玉座の壮麗さは語るべくもない――しかし。
そこに在りし日の面影はなかった。瓦礫が堆積し、床と言わず壁と言わず弾痕のように抉り取られ、部屋は今にも倒壊しそうである。
その先に、ひとつの人影。
獣のような唸り声を立てる少女――、いや、違う。
それは、悍ましき獣。
腕も脚も奇妙に捻れ、身体中を血で汚し、有り得ない場所に臓腑が覗く。
嗚呼……なんて酷い姿をしているんだ。
泣き笑いの表情を浮かべる。
獣はこちらを見据え、容赦のない殺気を放った。原動力である憎悪を失い、寄る辺を失った獣は、次なる獲物を捜している。それが誰だろうと関係ない。喉笛を噛みちぎり、熱い血を浴びようとしている。
ランサーの姿はない。
アーチャーは約束を果たした。だから、次は自分の番。
彼女との唯一の絆……右手を掲げる。
赤い燐光が、場を充たしはじめる。
躊躇うことは裏切りだ。
「令呪をもって命じる――自害しろ、アーチャー」
獣の絶叫が響き渡った。
獣は鼓膜を震わす咆哮を上げ、苦痛にのたうち回る。
自分を殺そうとする正体不明の強制力に、その狂気の全てをもって抗おうとする。生きる理由を失ってなお、死ぬことはできないと啼く。
そして。
獣は動きを止めた。自分を害することなく、しかし抵抗に全精力を使い果たし、弱弱しく目の前の人間を見た。
その噛み合わない口から、掠れた声が漏れる。
「ア……ル……」
そう、自害の命令と、それに抗う狂気が打ち消し合って、アーチャーは正気を取り戻したのだ。魔獣の皮を脱ぎ捨て、いつもの彼女に戻った。勝利した二人は大聖杯に各々の願望を託し、祝杯を上げる。錚々たる面子のなかで、まさか自分たちが勝ち残るなんて、巡り合わせとは不思議なものではないか。
――と。
そんな、甘いユメを
不意に、アルの視界が傾いていく。
「あれ……?」
踏ん張ろうにも、床がなくなってしまったように力が入らない。
躰は止まらず、そのまま左に倒れ伏した。
横になった視界の真ん中に、人の脚を咥えるアーチャーが見えた。
不思議に思って、自分の躰を見下ろすと、千切れかけていた左脚が、とうとうなくなっていた。
ああそうか、と思った。
この期に及んで、自分は何を期待していたのだろう……?
倒れたまま、右手を上げる。
「重ねて命じる――」
最後の令呪が消えてゆく。
「自害しろ……アーチャー」
#
獣は今度こそ命令を実行した。自らの手で胸を刺し貫き、霊核を確実に破壊した。
力を失ったその肩から――ずるりと、”皮”が落ちた。
アーチャーの躰が傾いて、倒れていく。
「アーチャー……!」
両腕と残った右脚で、必死に彼女の許へ這う。
「アーチャー、アーチャー……!」
もどかしいくらいに遅い進み。すぐ目の前に倒れているのに、躰が動作を拒否している。
「アーチャー!」
やっと辿り着いて、肩を揺する。片足のない躰では、彼女の上体を抱くこともできない。
「……煩瑣い奴だ」
「アー、チャー……」
眉根を寄せて、アーチャーは瞼を開けた。
「そうか……。私は……ランサーを倒した、か」
「そうだよ! アーチャーの勝ちだ……!」
アーチャーは鼻を鳴らした。
「まさか……こんなもの、勝利とは呼べまいよ」
「…………」
何か――手はないのか。
理性を取り戻したアーチャーのために、何か……何か!
その時、大地が揺れた。
「……!?」
震動は徐々に大きくなり、この部屋へ到達する。呆然と顔を上げると、玉座が粉々に砕ける様子が見えた。その下より、何か巨大なものが浮上してくる。
それは。
「……遅いよ」
大聖杯。
低い音を響かせ、大聖杯は勝者の前に顕れた。
そこかしこに罅が入り、切れかけの電灯のように、不安定な明滅を繰り返してはいるが、間違いない。見れば判る。嘔吐しそうなほどの魔力を、その裡に宿している。
あれほど望んで、命を懸けてきた報酬が、手を伸ばせば届くところにある。
誰に何を教えられた訳でもないが、確信した。
望みを口にすれば、必ず叶えられる。
「アーチャー……あれ」
「ああ……」彼女もそちらに目をやると、苦笑を浮かべた。「あれを望んでいたのだったな、私たちは」
「そうだ……大聖杯なら……願いを言えば」
消えかかっているアーチャーに――そうだ、受肉を願えばどうだ? 彼女を死なせたりしないで、この世界に留めて――それで――。
(それで、お前に何ができる?)
自分には何もできない。アーチャーに迷惑をかけることしかできなかった自分が、彼女を引き留めて、何をするというのか。
もっと他にあるはずだ。アーチャーのためになる……彼女の願望!
「アーチャー! 願いを言うんだ! 今なら間に合う、全ての子供が愛される世界を――」
アーチャーは、静かに首を振った。
「いいのだ、その願いは」
「え――?」
彼女は美しい微笑を浮かべる。
(やめろ……その顔は……)
清々しい、澱を洗い流したような表情。諦観の笑みだ。
「もうその願いはいいのだ……。ここに至るまでに、私は私の願望を穢してしまった。犠牲を出し、間違った道を選び、悪に堕ちた。だから、願望を叶える資格などない」
「資格なんて――そんな、それじゃあ、アーチャーが――」
「私の願いは正しい、と言ってくれただろう?」
「ああ言った! 君の願いは正しい、だから――」
「……アルだけだ」
「なにが……」
優しい瞳が、空を見上げている。
「汝が、汝だけは、私の願いを正しいと、そう言ってくれたから……だから、それでいい」
「ふざけるな!」
怒鳴ると、彼女は驚いた表情でこちらを見返した。
「なら俺が叶える! 俺がアーチャーの願いを叶えてやる! 大聖杯! 全ての子供が――」
……声が出ない。
「全て、の……」
肺がなくなってしまったように、息が続かない。
(――叶うのか?)
大聖杯はどんな過程をもって、この願望を叶えるだろう?
アルに思いつくのはたったひとつ、”子供の数を減らす”というふざけたものだけ。もしも、大聖杯がそれを採用してしまったなら――。
願望は……。
救いは……。
「俺の願い、は――」
俯いた顔、震える唇が、言葉を紡ぐ。
「アタランテに、幸福を与えてくれ……」
……それが、アルの罪。
またしても彼は間違えた。
過程など気にせず、ただ全ての子供が愛される世界を望むべきだったのに。
アーチャーの願望を絶対に叶えなければいけない場面で、彼は
生涯に亙って、彼はこの時の選択を悔いることになる。
「何を――愚かな」
翡翠の瞳を瞬き、アーチャーはアルを見た。
「ふざけているのは汝ではないか……。富でも根源でも願えば良かろうに……下らぬことに聖杯を使って……」
「……下らなくてもいい。だって俺はアーチャーを……」
何と思われてもいい。叶うならなんだって構わない。
しかし、大聖杯は何の反応も示さない。
アルが願望を叫んだ直後、大聖杯はいっそう眩い光を放ち、またすぐ元に戻った。魔力が消費されることもなく、アーチャーの退去が止まることもなかった。
「なんで……おい、なんでだよ!? 聖杯は万能の願望器だろ! 叶うはずだろう……?」
罅が入って不完全な状態だったせいか、あるいは願いの対象が既に消えかけているからか。
「あまりに愚かな願いに、大聖杯も呆れたのだろうよ」
悲痛に叫ぶアルに、アーチャーが手を伸ばした。
その手を両手で包んで、アルは首を振った。
「駄目だ……頼む……」
アーチャーの姿が薄れていく。もう下半身は粒子に変わり、天に昇っていた。
彼女は掠れる声で呟いた。
「ああ……すまなかった。私は、汝の足を……どうして……」
「そんなのどうでもいい……! 俺なんかより、これじゃアーチャーが……」
「なにを泣くことがある……子供か」
アーチャーの頬に雫が垂れていた。それが自分の涙なのか、彼女の涙なのか、よく判らなかった。
話したいことが沢山あって、訊きたいことが沢山ある。
彼女の生前の話を聞きたかった。冒険譚や、仲間のことについて語って欲しかった。
どうしても気になっていることがあった。あの檻の鍵を開けておいてくれたのは、実は君じゃないのか――。
けれど、そんな時間はなくて。
「帽子を――帽子を買う! あんな時代遅れの帽子じゃなくて、もっと綺麗な、アーチャーに似合った帽子を……! だから……」
最後に、馬鹿みたいなことを口走っていた。
きっとアーチャーもそう思ったのだろう。
彼女は一度目を見開いて、それからわざとらしい溜息を吐いた。
「本当に、愚か者だな、汝は……。それにな――そう、ひとつ教えてやろう」
そして、それはもう見惚れるような――。
最高に魅力的な笑みを浮かべて。
「この耳も、存外気に入っているのだ、正直言って……」
可愛らしく耳を揺らした。
消えていく……。
光の粒へ溶けていく……。
必死に握っていた掌の感触が、突然消えて。
伸ばした腕は、此岸と彼岸の距離に阻まれた。
頬を暖かい風が撫でて、前髪を揺らして、昇っていく。
視線は自然と上へ。
穴の空いた天井の向こうに、黎明の空が見えた。