キャスターが何か言い出す前に、アーチャーの矢が彼の眼を貫いた。
「これはこれは、過激なご挨拶をどうも」
「……やはり幻影か」
キャスターの姿はゆらゆら揺らめき、徐々に透けて消えた。
アーチャーは苛立ったように声を荒げる。
「キャスター、汝の下らぬ戯言に付き合っている暇はない。退いてもらおう」
「マスターと二人連れ添い、それ程に急いでどちらへ?
こつこつと足音を響かせ、また別の硝子柱の陰から、キャスターが現れる。これも幻影だろう。
無視して、アーチャーは全身に殺意を漲らせた。
「汝では私に勝てぬ。それくらい判っているだろう。それとも『
「おおう! これは嬉しい驚きですな。吾輩の
「…………」
アルとアーチャーをじっくり観察するように、キャスターは彼らの周囲を歩き始めた。
「しかし意外でしたぞ。貴女の願いを叶えるためには、
「正義は並立を許すという話だ、
「なるほど、なるほど……」
顎髭を弄り、キャスターは二人の正面で立ち止まった。
「では、こういった趣向は如何でしょうか。せっかくのマスターとの逢瀬なのでしょう。予定通り観劇と洒落込むというのは?」
「去れ、文人」
弓に矢を番え、アーチャーがキャスターを睨み付けるが、彼の不敵な笑みはますます濃くなっていくばかりである。
付き合うだけ時間の無駄。無視して通過するか、宝具でこの部屋ごと倒すか――と、アーチャーが思案した時。
彼女は、この部屋を充たし始めた魔力の渦を感知した。
「まさか――宝具を使うつもりか?」
「その通り! 貴女方のため、ここに劇場を開きましょう!」
「そんなことをして……!」
無論宝具は警戒すべき代物だ。だがアーチャーの見る限り、キャスターは一切の敵意を発していない。彼はこちらに攻撃しようとしていないのだ。発動されるのがどんな宝具であれ、直接ダメージを与えるようなものでないことは見当がつく。悪足掻きのつもりか。
目の前に立つ彼を射たが、やはり幻影。三人目のキャスターが現れ、にやりと笑った。
アーチャーの殺気をものともせず、キャスターは――幻影の方だが――腕を開き、声高らかに叫んだ。
「貴女が敵に回った今、天地に上映を拒む者なし! さあ我が宝具の幕開けだ! 世界は我が手、我が舞台! ――『
アルは劇場に座っていた。
「は――?」
座っているのは、観客席のなかでも真ん中の、一番いい席。正面の奥に、紅い緞帳の降りた舞台が見える。座席のクッションが程よい硬さで、躰を受け止めていた。
目に入る限り、自分以外に観客の姿はない。しかし静まり返った劇場には、開演を今か今かと待つ時特有の、わくわくとした空気が充ちていた。
(これがキャスターの宝具? ならアーチャーは……)
アーチャーは――舞台にいる。
なぜかそう直感した。
「(アーチャー!)」
しかし、張り上げたはずの声は響かない。
席から立とうとしても、釘で打ち付けられたように、脚が動かなかった。
「野次はご遠慮いただきたい。上映中暴れるのもね」
不意に左から声がした。
はっとして顔を向けると、座席を一つ空けて、キャスターが座っていた。
「(お前、何を……!)」
怒鳴ったつもりだが、口がぱくぱく動くだけで、やはり何の音も耳に入らない。
キャスターは口の前で人差し指を立て、子供にするように「シーッ」と言った。
こちらが諦めて黙ったのを見届けると、彼はウインクをひとつ残し、次の瞬間には消えていた。
呆然として、正面の舞台へ視線を戻す。
するとそれを待っていたかのように、深紅の幕が上がり始めた。
アルにはどうしようもなかった。
あの向こうに――アーチャーがいると判っているのに。
観客と役者の距離。
人間と英霊の距離。
此岸と彼岸の距離。
その断絶は、あまりに深い。
#
景色が切り替わる。
アーチャーは森のなかに立っていた。
どこか見覚えのある――森のなかに。
やれやれと首を振る。この程度でダメージを受けると思われているのだろうか?
「下らぬ幻影だな」
《幻影? まさか!》呟きに呼応して、朧な人影が現れ、大袈裟に手を振った。《貴女もご存じの通り、吾輩の本分は物語。これは貴女を主役に据えた芝居なのです! もちろん元ネタは貴女の人生そのもの。さぞ、演技にも身が入ることでしょうな……はは……》
人影が溶けるように消えていく。
「なるほどな」
いずれにせよ下らないと、心の中で吐き捨てた。
しかしこの強制力は本物だ。演劇宝具とでも言おうか、彼に指名された役者は、この悪趣味な劇が終わるまで、攻撃も退場を許されない。付き合うしかなかった。
そして上演が始まった。
森。
遠ざかっていく背中と、必死に伸ばした腕。
予想通りの展開だ。
(まあ、まずはこれを見せるだろうな)
これがアーチャーの始まった場所。男児を望んだ父に、森へ棄てられた記憶。
当時の彼女にとって、森は恐るべき異界であった。恐ろしい獣や化物が住み、人間の力が及ばぬ地。ひとりで入ってはいけないと言われていた場所へ、置き去りにされたのである。
暮れていく空は、己の命を映している。陽が完全に没した時、生命の灯もまた消えるだろうと思った。
だが、追体験しようとショックを受けることはない。何度も夢に見て、何度も苦悶した。ここは彼女が既に通り過ぎた場所。
この程度で攻撃とは笑わせる。
《親の愛を受けられなかった原初の記憶! ああ、なんとも涙を誘うではありませんか?》
キャスターの鬱陶しい語りも、今のアーチャーには通じない。
《しかし幸運とはあるもので、女神の慈悲を受けた彼女は、精悍な狩人へ育つのです……》
時が過ぎ去っていく。
熊の乳を飲み、獣の剽悍さを手に入れた。狩人の養育を受け、比類なき弓使いと変貌した。
成長した彼女は船に乗る。ギリシャ中の英雄が集った船だ。死を待つばかりの捨て子だった彼女は、いつの間にかそれほどの力を手に入れていたのだ。
潜り抜けた冒険の数々、航海を共にした仲間……。
仲間内で争うことも、酷く心を傷める出来事もあったけれど、それらを含めて、間違いなく、彼女の人生で最も輝かしい時だった。
飛沫を上げ、勇ましく進む舳先……。
船尾に白く残る曳波……。
そんな、滄溟の栄光。
冒険を経るうち、彼女の名声は、留まることなく広まった。その美しさ、勇ましさは、野を越え山を越え喧伝された。その麗姿を一目見ようと、男たちは彼女の許へ押し寄せた。
彼らの対応に苦慮しながら、冒険を終えたアーチャーの前に現れたのは、ひどく懐かしい顔だった。
「父上……」
柔和な表情を浮かべ、彼女の父、イアソスが立っている。
その姿を見た時、どれほど喜んだろう。
各地を巡り、愛される子の歓びを知った。そして自分がそうでないことに、ずっと煩悶を抱えていた。
けれどもう悩む必要はない。
女は要らぬと言った父も――、我が功績を認め、今は私を愛してくれる。
「ああ……」
嗚咽を漏らし、父に近寄る。長い時を経たが、ようやくその腕に抱かれるのだと思った。
「やっと逢えたな、我が娘」
イアソスは満面の笑みを浮かべ、彼女の両肩に手を置いて――。
《ああ、しかし何たることか! どうして『
「求婚者が押し寄せておる。結婚し、子を為せ。アルカディアの跡継ぎを我が眼に見せてくれ」
その眼は、彼女を見るためにあるのでなく。
その腕は、彼女を抱くためにあるのでなく。
「断らないでくれるな? 父の頼みを、まさか娘が断るなど、そのような親不孝をお前は為さぬな?」
「わた――しは」
真っ白な頭のなか。
たったひとつ、確信した。
自分が愛されることはない。
だから、親の愛を求めてはいけない。
愛の存在を知り、だが己は決して愛を得られないのだと知った。
きっとその時、何かを諦めたからだろう。
悲しみも痛みも、もう感じなかった。
イアソスの言葉を受け止める彼女の表情は、普段通りの平坦なそれに戻っていた。否――戻ったのではない、変わったのだ。
「ええ、判りました父上。ですが伴侶を選ぶ際、ひとつだけ条件を付すこと、お許し願いたい」
《おお”赤”のアーチャー! 親の愛を失った子供よ!》
それからは早回しの映像が、眼前を掠めていった。
伴侶を得、獅子の姿に変えられ、そして……。
「死んだ、か」
舞台上には、何も残っていない。
背景も大道具もない。暗い壇上に佇む彼女を、スポットライトが上から照らしていた。
アーチャーに対面する形でもう一人、舞台の隅に本の頁を捲るキャスターが座っていた。彼にライトは当たらず、灰色の人影としてそこにいる。
「あ、終わりましたか?」分厚い本を閉じ、彼はアーチャーに目線を送る。「どうです、お気に召していただけましたかな?」
「予想通り、下らない出し物だったな。いつの間に落書き屋に鞍替えしたのだ?」
アーチャーは冷たい瞳で、キャスターを見下ろした。
そもそも、自分の人生を見て絶望する英霊などいるのだろうか。彼女は思う。
だってそれは自分の経験、自分の思考だ。それを経ているからこそ今があるのであり、その過程にどんな挫折や後悔があろうと、それは生前に済んだこと。死後に持ち込むような真似はしない。少なくとも、自分はそうだ。
「馬鹿にされたものだな。こんな宝具で私をやり込めるつもりだったのか」
溜息を吐く。世紀の大文豪シェイクスピアも、所詮はこの程度ということか……。
「おっと! アーチャー殿、貴女は勘違いされているようだ。吾輩とて、この毒にも薬にもならぬ人生をもって、物語とする気はさらさらございません」
「何だと……?」
「だってそうではないですか? こんなもの、悲劇にも喜劇にもなりやしない。そうですなあ……吾輩が書くならば……そう。悲劇であれば船を嵐に沈没させていたでしょうし、喜劇であれば、獅子でなく、兎の耳と尻尾を生やしたでしょう」
両手を頭の上にのせ、兎のジェスチャーをしてみせるキャスター。
しかしそれ程ウケていないと判るや、すぐに手を下ろし、咳払いで誤魔化した。
「……ともかく、ここまでは第一幕。観客に
「シェイクスピア……ついに気が狂ったか」
敵意を通り越し、もはや憐れみの籠った視線で、彼を見つめる。
アーチャーの生涯は幕を下ろした。生まれてから死ぬまで演じきり、これ以上何の物語を続けるというのか……。
「はっはっはっは! それは作家には誉め言葉ですな! その通り、吾輩、過去の記録になんぞ、何の興味もありません。興味があるのは
「現在――だと?」
なにを言っている……?
(奴は――私に何を見せるつもりだ?)
アーチャーの思考に、僅かながらでも動揺が生まれたのはこの時だろう。
「さあさあ、幕間はこれにて終い! 席をお立ちの皆様方も、急いで戻って席に着け!」
勢いよく立ち上がり、シェイクスピアが朗々と声を張り上げる。
「これより――第二幕を開演する!」