……しあわせ。
ここはとても心地良い。
なんてすばらしい場所だろう。
暖かくて、静かで、穏やかで……。
甘い、甘い……。
蜜のなかにいるような。
無限に引き延ばされた、黄金の微睡み。
”――それで良いのか?”
……。
”赤”のアサシンの、最も意地悪いところを挙げるなら、これだろう。
彼女は理性を奪わなかった。正しい思考能力を残したうえで、この蜜に漬け込んだのだ。
その半端な理性が……より深いところへ堕としてくれる。
だってそうだろう?
何度も繰り返した戦いのなか、何もできなかった。
果ては自分の不注意で、敵に囚われた。
戻ったところで、また自分の愚かさを知るだけじゃないか。
このまま死んでしまえば、いい。
”――それで良いのか?”
良いんだ、これで。
アーチャーにだって、見放された。
記憶を失って、何かが欠落した日々を送っていた。けれど彼女のお蔭で、その穴から眼を逸らせた気がしていた。
甘えていた。
ただ、甘えていた。
それを受け容れてくれた彼女は、どれだけ優しかったことか。
それももう終わり。
アーチャーは。
”――それで良いのか?”
……?
微かな違和感。
なぜ、彼女は
いや、勘違いに違いない。そんなのは言葉の綾。ただの……。
でももし、そうでなかったとしたら。
しかし……。だが……。
”――それで良いのか?”
”――それで良いのか?”
”――それで良いのか?”
「それで良いのか青年ンンンンン!!」
「うるっせええええぇぇぇぇ!!」
叫んで、アルは思い切り躰を起こした。
「はぁ……はぁ……え?」
頭から血が引き、一瞬くらりと眩暈がする。傾いた躰を支えようと、床についた腕に、力が入らず、ばたりと横に倒れた。冷たい石床が頬を冷やした。
ここは……。
横になった視界で、周囲を見廻す。
目の前には鉄格子がある。どうやら、牢獄に繋がれているらしい。湿っぽい空気と、黴の臭いが鼻腔を擽った。
壁に窓はない。牢の外にある壁際に、小さな灯が点っていた。
「……ん?」
対面する牢――その暗がりにも、何か閉じ込められている。
躰を慎重に起こす。相変わらず力は出ない。
目元を擦り、眼を細める。何故か判らないが、巨大な岩が置いてあった。
「おお、圧政に屈してより二日、それが叛逆だ青年よ! その底力、胆力、我が同胞と呼ぶに相応しい!」
とんでもない大音声が反響し、寝起きの頭をぐらぐら揺らした。
「うぅ……」
額に手を当て、深呼吸する。酸素が脳に染み込んで、徐々に思考がすっきりしてきた。
思い出せる記憶はそれ程多くないが……自分の置かれた状況は判る。”赤”のアサシンに捕らえられた後、何らかの処置を受けて、この牢獄に入れられていたのだろう。
もう一度、恐る恐る対面の牢を観察する。
岩山のように見えたそれは――、筋骨隆々の大男であった。
――『筋力A/耐久EX/敏捷D/魔力E/幸運D/宝具C』
「さ、サーヴァント……!」
「はははははは。その名で呼ばれる屈辱、それこそが我が叛逆を輝かせるのだよ」
「……?」
どうやら言葉は通じているようだが、何を言いたいのかさっぱり判らない。
しかし、何故牢屋にサーヴァントがいるのだろうか。
まさか囚人を見張っている訳ではあるまい。というより、よく考えると、彼も捕まっている立場である。
いったい、何のために……?
敵サーヴァントなら殺せばいい。味方サーヴァントの手綱が執れないのなら、令呪を使えばいい。檻に入れる意味がない。
「えっと、貴方は……」
「君と志を同じくする者だ。出自は知らねど、圧政に抵抗するその矜持を見ればこそ」
「はあ」
やはり意味が判らないが、これだけは言える。
このサーヴァント、間違いなくバーサ―カーだ。”赤”か”黒”か知らないが……。
だが……その声には聞き覚えがあった。
あの蜜のなか、何度となく聞いた声。
”――それで良いのか?”
己の理性の囁きだと思ったが……どうやら、彼が引き戻してくれたらしい。
「あの……」通じるか判らないが、頭を下げた。「ありがとうございました。貴方のお蔭で、俺は……」
「私はただ君の叛逆心を呼び覚ましたに過ぎぬ。君の叛逆は君が負い、君が誇り、君が果たすものだ」
なにか金属の触れ合う音がした。
「……ん?」
音がするのは、こちらの牢ではない。自分の手足は拘束すらされていなかった。
対面するバーサ―カーのものかと、暗がりを透かし見る。
「……ひっ」
思わず悲鳴を上げてしまう。
バーサ―カーは、見るも無残な有様だった。
身体中を鎖で巻かれている――なんてレベルではない。
腕にも脚にも胴体にも、鎖が刺さっている。一本や二本ではなく、何十という数が、隙間なく打ち込まれていた。全身から血を流し、指一つ動くことを許されない様は、痛ましさのあまり直視できない。
「だ、大丈夫なんですか、それ……」
震える手で、彼の躰を指差す。
発言した直後、失言だと思った。大丈夫な訳がないではないか。
しかしバーサ―カーはあろうことか、にっこり微笑んだ。
「大丈夫。ほら傷口も笑ってる」
「そ、そうですか……」
どう見ても笑ってはいなかったが、曖昧に頷いておく。なんにせよ、彼も一角の豪傑らしい。
それにしても……これからどうすれば良いのだろう。
思い付いた時は正解だと思ったけれど、こうして冷静に考えてみると、とんでもない勘違いをしているだけに思えてきた。夢の論理が、目覚めると同時に溶けていくように……。
「どうした青年。圧政者の傲慢を打ち倒してこそ叛逆は為されるのだ。途中に休む暇はない」
溜息が聞こえたのか、バーサ―カーが呼びかけてくる。彼の言葉の意味も、何となく判るようになってきた。
その声が抱く、自信と覚悟に魅かれたからか。
気付いた時には、口を開いていた。
「あのう……。もし、ですよ」
言いながら、馬鹿なことをしているなと思う。
バーサ―カーに相談を持ち掛けるなど……。
「もしも、圧政者の力が虚栄に過ぎず、叛逆の途上で城が崩れた場合、貴方はどうするんですか?」
「次なる被虐者を救うのだ。我らが道程に終わりはない」
これ以上ないほど、明快な答え。
誇りに充ち満ちた、彼の生き様そのもの。
「……そう、ですよね」
思い悩んでいた自分が莫迦らしくなる。
まったく……。
まったく、本当に莫迦だ……。
壁に手を付いて立ち上がる。力が抜けそうな腿を叩いて、檻の出口に向かう。
軽く手を触れただけで、扉は向こうに開いた。鍵はかかっていなかった。ずっと自由の身だったのだ。恐らくそれが、”赤”のアサシンの愉悦なのだろう。
牢屋を出て、向かいの鉄格子に近寄った。
近くでバーサ―カーを見ると、いっそう痛々しさが増すと共に、その存在感に圧倒された。どれ程の間こうしているのか、床には血が溜まり、回復を始めた肉がみちみちと鎖を銜え込んでいる。それでも彼の瞳は爛々と輝き、全身に闘気が漲っていた。
「あの……。出られない、んですか?」
「鎖の縛は極めて堅固。さらに現在の私は力の供給を断たれた状態にある。素晴らしい、素晴らしいほどの逆境、圧政ではないか。ははははは」
「鎖か……」
格子の間から腕を差し入れる。一本の鎖を摑んで引っ張ってみるが、鎖の先端は奥の壁にがっちり喰い込んでおり、まったく抜ける気配はない。
「ぐぐぐぐぐ……」
仮に抜けたところでどうなるのか、正直見当もつかない。自分に有利に働くのか、或いは殺されるのか。理性を喪失した戦士の行動など、判るはずがない。
「必要ないぞ青年!」
間近より、大声が鼓膜を震わせる。
「でも……」
「これは我が叛逆。私が負ったことなのだ。手助けは不要だ」
その言葉で、心は決まった。
「手助けじゃないですよ」歯を食いしばり、思い切り引く。「俺は、ただ貴方の叛逆心を呼び覚ましているだけ、ですから……!」
その時、鎖の張りが緩んだ。
勢い余って手が鎖から離れ、後ろに転がる。
「っててて……。――え、どうして……?」
見ると、バーサ―カーを繋いでいる鎖が、どれも力を失ったように弛んでいた。
間違いなく自分が引っ張ったこととは関係ない。そんな程度でどうにかなる強度ではなかった。
理由は判らないが、ともかく――。
一瞬、バーサ―カーの躰が肥大したように見えた。
腕が脚が、じゃらじゃらと鎖を引き、固定されている背後の壁ごと拘束を破壊していく。
「これが愛の為せる業。叛逆は続くのだ青年」
実に爽やかな微笑みが――こちらを見下ろしている。
「え、えっと……」
冷や汗が額を滑って行った。
「お、俺は関係ないですからね!? そのこれは……、し、失礼します!」
振り返らず、出口へ向かう。横に檻が立ち並ぶ廊下を抜け、冷たい空気が流れてくる方へ走る。……正直なところ、彼ともう一度会いたいとは思えなかった。
「
背後から雷鳴のような雄叫びが届く。それと共に、城の構造自体が軋むような、厭な音が響き始めた。
重い扉を抜けた先は、先ほどの陰気な牢獄とは違う、豪奢な城の廊下。窓がないということは、地下なのだろう。
さて右と左、どちらへ向かったものかと首を振り――。
「アーチャー……」
腕を組んで立つ、アーチャーの姿を見つけた。
「――遅い」
彼女は開口一番、そう言った。
「ああ、ごめん……遅くなった」
でも「裏切り程度で取り乱してもらっては困るな」――なんて、なかなか思い出せないよ。そう言い掛けて、ぐっと言葉を呑み込んだ。
「急げ、恐らくもう勘付かれている」
「判った」
アーチャーの先導に従って走る。
柔らかい絨毯が足音を吸収する、静かな廊下に、とても小さな声が聞こえた。
「だが、よく戻った」
聞き違いかと思って、彼女の横顔をまじまじと見つめる。アーチャーの表情に変化はなく、よく判らなかった。
それよりも、訊ねなければならないことがある。
「でも……良いのか? アーチャーはそれで……。君の願いは……」
「やはり、そうか」
「え?」
「本当は天草の願いが私のものと完全に重なる――などと、汝は考えていなかったのだろう?」
「な、なにを言って――?」
走る先、廊下の天井を見上げる。
「……それだけ目を泳がせておいて、よく言う」アーチャーが溜息交じりの声を出した。「あの時は、あまりにもわざとらしかったから、敢えて指摘しなかったが……まさかここまで嘘が下手だったとは」
「…………」
「勘違いするなよ。我が願望を諦めた訳ではない。ただ……、天草の解答は、汝を犠牲にしてまで縋るものではないと……、そう思っただけだ」
俯いて足を動かす。
(本当に、莫迦だ……)
彼女の願望を侮辱したのだと、今の今まで気づかなかったなんて……。
三度目の行き止まりにぶつかり、アーチャーは舌打ちした。
「チッ……私が地下に来た時点で、既に構造を変えていたか」
振り返ると、アルが息を切らし、今にも死にそうな顔をしながら走ってくる。アサシンによる最低限の栄養補給しか受けられず、二日に渡って寝続けていたのだから、無理もないといえばそうなのだが――。
「早くしろマスター!」
アーチャーは容赦しない。いざとなれば、自分の命と引き換えにしてでも、彼一人を逃がさなければならないのだから。
いくつもの部屋を抜け、扉を開けた先。
広大な空間に、二人は踏み込んでいた。
「ここは……」
あたりを見廻し、アルが呟く。
静かな場所だった。
どこか神秘的な、無機質な、人間が立ち入ってはいけないような……。
硝子の円柱が、整然と立ち並んでいる。硝子の内側には薬液が充ち、その中に――。
「ひ、人……?」
ゆらゆらと、人間が浮かんでいた。男女関係なく、いずれも裸、白い髪の人間が揺蕩っている。意識はないのか、一様に眼を瞑っていた。
「いや、ホムンクルスだろう」
「ホムンクルス?」
「天草に聞いている。マスターからではなく、予め鋳造したホムンクルスに魔力供給を担わせるのが、”黒”の戦略だったらしい。その施設が残っているのだろう」
「それは……」
「なにを傷付いた顔をしている。魔術師というのは、並べてそんな存在ではないのか」
アーチャーの冷静な指摘に答えるように、この場に似つかわしくない、暢気な声が響いた。
「その通り! しかしアーチャー殿、戦闘を放り出してお出かけとは、女帝殿はたいそうご立腹であられましたぞ!」
硝子の柱の陰から、髭面の男が芝居がかった仕草で歩き出てくる。その顔は、アルにも見覚えがあった。
「……キャスター」
「いかにも」
アーチャーの眼光を受け流し、”赤”のキャスターは悪戯好きの子供のように、瞳を妖しく煌めかせた。