ケイローンに突き飛ばされたカウレスは、目の前で扉が閉じるのを見た瞬間、令呪を行使した。
彼の行動に迷いはない。この場で扉を閉じる目的は、サーヴァントを閉じ込めることにしかないのだから。
「令呪をもって告げる――我が下に馳せ参じろ、アーチャー!」
二画目の令呪が消える。これにより、ただちにアーチャーは空間転移を完了する――はずだった。
「なんだ!? いったい何が……」
膨大な魔力が消費され、しかし何も起こらない。アーチャーが現れるどころか、微風ひとつ吹かなかった。
『アーチャー! 返事をしろ! どうなってる!?』
『――煩瑣い奴よ。折角の見世物を邪魔するでない』
必死に念話を送ったカウレスに返答したのは、アーチャーではなく、”赤”のアサシンであった。
『アサシン――どうして……』
『我が領域でそんな小細工は認めぬ、というだけよ。……ああ、そうじゃ、お前にも声くらいは聞かせてやろう。こんな機会は二度とないぞ?』
『お前――!』
彼女との念話が断ち切られ、代わりにアーチャーとの回線が開く感覚がある。
カウレスは悪態をついた。しかし今は状況把握に努めるほかない。
『アーチャー! 大丈夫か!? アーチャー!』
#
「――あ……ぐ……」
何か込み上げてくる感覚。咳き込むと、口からごぼりと血が溢れる。
どうにか頭を持ち上げた視界は、紅く染まっている。それで目から血が流れていることに気付いた。次いで、耳から血が噴き出す感覚。
「あ、ああああ……」
――知っている。
「どうだ? ケイローン。お前を殺した毒の味は?」
全身の細胞一つひとつを擂り潰されるような。
血を抜き取られ、代わりに硫酸を流し込まれたような。
そんな幼稚な比喩で、とてもこの苦痛は形容できない。
耐える苦しみを知る者は、天地にただ一人、ケイローンしかいないのだから。
『アーチャー! 返事をしてくれ、アーチャー!』
念話は聞こえても、認識する余裕がない。脳領域全てが、痛みの感知にのみ使われている。
「ああああ――ぁぁぁあああああ!!」
死なせてくれと懇願した。
こんな苦しみを味わうくらいなら――不死など要らぬと叫んだ。
「ヒュドラの猛毒――調合には骨が折れたぞ」
悶える彼を前に、セミラミスがうっとり微笑んだ。
宝具の発動とほぼ同時、咄嗟の判断でジャンヌは聖骸布を召喚し、自らの口元に当てていた。
それでも毒は防ぎきれない。大気に溶け込んだ毒は、身体中から
「ぐっ――……」
旗に寄りかかるように立ち、セミラミスを睨む。全身が痺れ、動きが鈍くなっているのを感じた。
だがどうにか、致命傷には至っていない。
それよりも――。
絶叫を上げるケイローンへ視線を向ける。
この数秒で、毒はもう全身を巡っているだろう。聖骸布を渡しても無駄だ。そもそもこの毒は、彼を殺した直接の死因。この間に入った時点で、死亡は確定していたのだ。
ケイローンは苦しみ踠き、それでも弓を手放さない。
「アサ……シン……!」
「ほう、まだ立つか? 中々骨があるな」
そう……。寧ろ、
ヒュドラの毒――触れた者が即絶命する猛毒。不死を捨てたはずの彼は、既に死んでいなければおかしいのである。執念のみで生きているのだろう。
だがそれも、僅かな間のこと。
すぐにケイローンは立つこともできなくなった。ずるずると崩れ落ち、床に小さな血の池ができた。
「セミラミス――!」
力を振り絞り、ジャンヌは玉座へ驀進する。
時間と共に状況は悪くなるだけ。まだ動けるうちに全霊の攻撃を叩き込むしかない。
「邪魔をするな、ルーラー」
膨大な数の鎖が向かってくるが、そんなものは無視。
身を低く保ち、体内の魔力を脚にのみ集中させ、一直線に駆ける。
「なに――?」
ジャンヌの突撃が、ほんの僅か、セミラミスの予測を上回った。
鎖の下を抜け、玉座の彼女へ旗を突きつけ――。
「
突如、女帝の前に、鱗のような盾が投影された。
原初の海に棲んだ神魚の鱗――その硬度は、聖女捨て身の一撃を防ぐに余りあるものだった。
反動を受け、動きが止まった彼女を、直ちに数百の鎖が縛り上げる。
「お前に付き合っている暇はない、今はあの男の苦しむ様を――?」
だが――ジャンヌに注意を取られたセミラミスは、ほんの一刹那、ケイローンから意識を逸らしていた。
……それで充分。
「……貴女は勘違いをしている」
セミラミスの視界には血溜まりしか映っていない。
慌てて首を振り、ケイローンの姿を捜す女帝の下へ声が届く。彼女が座す、その真上から――。
「我が願望は不死の返還。だからこそ……私は決意したのです。今度こそは、と」
顔を上げたセミラミスの上、弦は限界まで引き絞られ、音速を超えて標的を貫くであろう。
全身の血管が破裂し、身体中の孔という孔から血が噴き出る。
常軌を逸した苦しみを湛えてなお――ケイローンは正気を失わず。
「今度こそは不死を捨てることなどしない――どんな苦しみが齎されようと、死という慈悲を願わぬと。それが
大賢者が放ちし、渾身の一射。
何者も追い付けぬ、光の如き一矢。
殺意を全身に宿し、空間を切り裂く軌道は過たず――、
「な――に?」
「これは意表をつかれたな、ケイローン。貴様の足掻き、中々に良質な観劇であった」
無限に等しい魔力供給、庭園という主戦場。
セミラミスはこの場の
ケイローンの躰が失墜する。
もう何の力も出ない。即死の毒は、賢者の躰を丹念に殺し切った。
紅い視界にセミラミスの立ち姿を――部屋の中央に見付けた。
だが、もう遅い。
いつかと同じだ。
少しずつ――薄れてゆく。
確実に――喪われてゆく。
音が、視界が、呼吸が、身を灼く痛みすら……。
ケイローンは苦しみの内に目を瞑った。
(最期に……ルーラーにはお礼を言いたかったのですが)
保証はない。けれど、上手くいく方に彼は懸けた。
(
最硬の盾、自在の転移。
どんな大英雄が勝負を挑んだところで、攻撃を掠らせることもできまい。
ただひとつ、意想外の一撃を除いては。
――その矢は既に番えられている。
――その弦は既に引き絞られている。
――その狙いは既に定められている。
予備動作不要。故に予測不能。
すべて弓兵が願ってやまぬ――射撃の窮極。
――それは星から放たれる。
回避する術はなかった。矢は女帝の脳天を――霊核を貫いた。
躰を縛る鎖が消え、ジャンヌは静かに着地する。
消える間際のセミラミスの表情は見えなかった。もしかすると、射られたことにも気付かなかったかもしれない。
「…………」
首を振り、聖女は想いを断ち切った。まだ彼女の戦いは終わっていない。
それと同時、啓示が降りる。
「――え? まさか……」
二、三度瞬き、彼女は要塞を包む空気を感じ取る。どうやら間違いではないらしい。
ここまで侵入したのに、とは思うものの、ジャンヌは啓示に従い、逃走を選択した。
#
「クソ――クソッ!!」
カウレスは廊下を走り、壁を殴りつける。
来た道を戻れる保証はない。すぐ敵サーヴァントが追撃に来るかもしれない。
それでも――今は走ることだけに集中する。
ケイローンは消滅した。
(俺じゃなければ――姉さんなら)
アーチャーを救う術を思い付いただろうか。マスターとして何もできないまま敗退することもなかっただろうか。
カウレスは逃げる。
ひたすら逃げ続ける。
(逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ!)
仮に逃げ切ったとして、その先に何があるだろう?
自分に何が残っているだろう?
そんなことは――どうでも良い。
(姉さんさえ蘇るなら――もう、どうでも良いさ)
世界中で、亜種聖杯戦争が執り行われている。
ほとんどの聖杯は作成途中に頓挫。やっと完成したものはどれも暴発。どうにか体裁を整えた戦争ですら、
無数に行われる戦争のなかに、一つくらいあっても良いだろう。
真の力を持つ、聖杯が……。
#
一合武器を交わすたび、閃光が散り、夜を明々と照らす。
戟音は耳を劈き、何よりも質量と密度を以て、周囲の空間を歪めていた。
上段から振り下ろした先、敵の姿は既にない。振り向きざま逆袈裟に斬り上げると、ランサーの突進とぶつかった。敵の勢いは抑えきれず、大地に轍を残して後退する。
二度の戦闘を経て、互いの手の内は判っているつもりであったが、二人は共に、相手の隠された実力に戦慄していた。
魔力供給の枷を解かれた”赤”のランサーは、猛火を駆使し、空を地を縦横無尽に駆ける。その速度はとても目で追えず、セイバーは己の勘のみで対処していた。
対する”黒”のセイバーは、ランサーのように直接的な変化があった訳ではない。しかしながら、彼のあらゆる感覚が、自分でも驚くほど明敏に研ぎ澄まされていた。
外面のみを見れば、カルナの優位は確実であった。敵の真名を知り、致命的な弱点も判っている。黄金の鎧を纏った身体は、セイバーの剣閃をもってしても断ち切ること叶わない。
それだというのに、なぜ押し切れないのか……?
無論、易々と倒せる相手だとは考えていない。だがこの戦闘におけるセイバーの剣の冴えは、これまでのそれとは次元が違った。
遠くに佇むセイバーのマスターを一瞥する。
それでいいと、カルナは思う。
「――ハァッ!」
宙を飛び、セイバーの視線が外れたことを確信して、突進する。
槍の切っ先が当たった――刹那、セイバーは身を引き、最小限のダメージで受けきってみせた。逆にランサーのがら空きの懐へ、
そのまま激しい打ち合いが始まった。
極至近において、大剣と巨槍が交差する。
振るう武器の奥に好敵手の瞳を見――両者は口元を緩めた。
技術も
ただ戦士としての、祈りにも似た意地だけが、躰を突き動かす原動力。
渾身の一撃をぶつけ合い、二人は間合いを取った。
言葉を交わすような無粋はしない。
慎重に武器を構え、相手の出方を窺う。
その時、背後の要塞から凄まじい轟音が響いた。
だが、そんなものに気を取られ隙を晒す、未熟な二人ではない。
一秒にも満たぬ探り合いを経て、意志を固めた。
大地を蹴り、英雄たちは更に苛烈な剣戟の坩堝へ飛び込んでいく――!
――この感覚は何なのだろう。ジークフリートは考える。
乞われるまま戦い、乞われるままに死んだ。
この戦闘だって同じだ。マスターに戦いを命じられ、それに従っているだけ――否。
益体のない言い訳だ。
さっさと認めてしまおう。
これは、己が望んだ戦いだ。
思わず笑い出しそうになる。
自らの生涯を、選択を、悔いることは決してない。ただ、こんな生き方があるのかと、それを知れたことが嬉しいだけ。
敵の技量は己のそれを陵駕している。食らいつくので精いっぱい。とうに限界は超えている。いつ敗北してもおかしくない。――だというのに。
どうしてこうも躰が軽いのか。心に清爽な風が吹いているのか。
剣を振るうことに、これほどの歓びを覚えたことが――果たしてあっただろうか。
永遠に続くかに思われた戦いも、いずれ決着を迎える。
このまま続けても押し切れないと判断し、カルナは賭けに出る決断をした。
成功確率は不明だが、彼の考える限り、これが最も勝利に近い。だがもし失敗したら――。
(失敗すれば敗北する)
その事実に、カルナは何の感慨も抱かない。元より命懸けの勝負をしているのだ。そんなことは当たり前。
セイバーの剣に思い切り槍を叩き付け、宙へ飛び上がる。
体勢を崩した敵の背後。躰を”鎧”で覆ったジークフリート唯一の弱点、露出した背中を視認。
彼が振り向く、その前に。
カルナは槍を投擲した。
神速で飛ぶ巨槍を、セイバーに確認する暇はない。
炎の軌跡は、一直線に彼の背を目指す――しかし。
セイバーは、槍を弾いた。
体勢を崩された瞬間、敵の狙いを直感したセイバーは、咄嗟に剣を後ろへ回していたのである。重い衝撃を受けながらも、彼はランサーの一投を防ぎ切った。
そして、槍を弾いたこれこそ、唯一無二の好機。
敵が武器を失った今、最後の猛攻を仕掛ける……!
だが――振り返った先にランサーの姿はない。
「――ッ!?」
一瞬の驚愕を浮かべるセイバーの背後。
槍の投擲に隠れ、上限を超えた魔力放出により、瞬間移動が如き速度で、カルナはセイバーの後ろを取っていた。
眼前には、好敵手の弱点。
「武具など不要。真の英雄は眼で殺す……!」
勝負が終わる寂寥。
「――『
酷烈なる眼力は熱線と化し――、ジークフリートの背を貫いた。
仰向けに倒れたジークフリートの許へ、カルナが静かに歩み寄る。何かを言おうと思ったのではない。ただ、己が倒した相手を看取ることは、最低限の礼儀であると考えたからだ。
「ランサー……。虫のいい話だが、ひとつ、俺の頼みを聞いて、くれないか……」
下半身から粒子に変えていくセイバーの言葉に、言ってみろと頷いた。
「俺が消えた後、我が、マスターを、殺さないで欲しい」
「――そんなことか」こちらへ駆けてくる、彼のマスターを一瞥する。「言われるまでもない。戦いは既に終わっている」
ロシェは懸命に足を動かし、セイバーの許へ走った。そのすぐ傍に敵サーヴァントがいることなど、考えてもいなかった。
「セイバー!」
息を切らし、己がサーヴァントを見つめる。既に彼の躰は、半分ほど消えかけていた。
顔を傾け、ジークフリートは唇を動かした。
「すまない、マス、ター……。俺は、敗けてしまった」
「謝るな――! それに……それに……」
目元に涙が浮かんだことに気付き、ぐしぐしと拭う。
喉に何かつかえているように、なかなか声が出なかった。
「それに……敗けてなんかない。セイバーの勝利だよ……!」
「……?」
横で聞いていて怪訝に思ったカルナは、間もなくその言葉の意味を知る。
「なる程――確かに、お前の勝利だ、ジークフリートよ」
魔力供給が――途絶えていた。
この戦闘で消費した莫大な魔力、その分が補填されていない。これでは戦闘どころか、現界すら覚束ない。
ジークフリートは驚いたように眼を見開いた後、穏やかな笑みを浮かべた。
「勝ちを譲るな、ランサー。俺は……、いや……。そうだな、受け取っておこう。我が、マスターのために」
そして、彼は消滅した。
先ほどまでの死闘が嘘だったように、城の前を静謐が支配した。
瞑目し、カルナは自らの消滅に備える。
その前に、マスターに謝罪をしたかったけれど。
心残りを晴らしてしまえるほど、時間は残されていないらしい。
「…………」
ロシェは少しの間、崩れた城壁を無言で睨み上げていたが、すぐ身を翻して、遠く駆けて行った。
ミレニア城塞から、トゥリファスから、遠く……。
遠く……その、もっと向こうへ。
#
とはいえ、これは”黒”が想定した経過ではなかった。
確かに作戦通りではある。”赤”のランサーを真向から倒すのは難しい。よってセイバーが足止めし、その隙に別動隊が魔力供給を断つ。
しかし――これは彼らが知る由もないことだが――この作戦にはいくつか想定外があった。
まず、セイバーが稼いだ時間内では、複雑怪奇に入り組んだ迷宮を通り抜け、天草の許へ到達できなかったこと。
次に、仮に時間内に辿り着いたとして、現在ランサーの魔力供給を担っているのは、大聖杯であるため、天草を倒すだけでは不十分であること。
結局のところ、”黒”の作戦は破綻していた。にも拘らず、なぜランサーは斃れたのか。
#
大聖杯の間で、天草四郎はひとり佇んでいた。
もし”赤”のサーヴァントが敗北した場合、敵が最後にやってくるのがこの間である。
大聖杯だけは、何としても守り抜かねばならない。
たとえ味方が全滅し、自分ひとりしか残っていなくとも。
絶対に……。
絶対に……!
だから部屋の前に人影が現れた時も、彼は動じなかった。誰であれ、己が為すことは変わらない。
しかし――敵が何者か見定めた時。
さしもの天草も、動揺を禁じ得なかった。
彼の前に立つ、その男は――。
「何故――何故だ。何故お前がここにいる……!?」
――その男は、