そもそもセミラミスの宝具、『
状況の変化によって、その計画は破棄され、予備案として用意されていた墜とす方を実行に移したのだが、だからといって「さかしまである」概念が失われる訳ではない。浮遊するほどのエネルギーを失くしたとしても、庭園内の水は逆流を続けるのだ。
そしてそれは、大聖杯強奪用に用意された構造も同様。装置は墜落の最中も稼働を続け、大聖杯を取り込もうとし続けた。
結果的に、大聖杯は地脈より剥離し、半端に上昇し、城塞と要塞の中間あたりに位置する部屋で停止していた。
その部屋より出てきたセミラミスは、部屋の前の廊下で、腕組みをする”赤”のアーチャーと顔を合わせた。何か言うより先に、向こうが口を開いた。
「天草は中にいるか?」
「ああ、いるぞ。何か用か?」
「大した用ではない」
「そうか」
そう言って立ち去りかけた時、アーチャーが腕を解いた。
「お前にも用がある、アサシン」
「何か……?」振り返り、セミラミスは小首を傾げた。「その言葉に対して、全く喋りたくなさそうな顔をしているな、おまえは」
「我がマスターは無事だろうな?」
アーチャーは淡々と訊ねた。感情を完全に制御した無表情で、声に一切の震えはない。
すこし不思議そうに、セミラミスは訊ね返した。
「そんなに不安なら、見に行けばよいではないか。奴は地下の牢に隔離している。誰も逢瀬を邪魔したりはせぬ」
「質問に答えろ、アサシン。無事なのか?」
「……もちろん約束は守っているとも。傷一つつけてはいない」
「本当か?」
「そう疑うなら見に行けというに……。仮に殺したりすれば、すぐにおまえが気付くであろう? 今敵対者を増やしたりして、こちらに何の得があるというのだ」
「そうか。ならいい」
話は済んだとばかりに口を閉じたアーチャーを見て、セミラミスは口元を吊り上げた。
「裏切ったというのに、無事を保証せよとは、おまえも随分あのマスターに情が移ったのだな」
「情? 何を言っている」
「違うのか」
「言っただろう。お前たちに生殺与奪の権を握られたくないだけだと。魔力供給どころか、令呪まで奪われては、いつ自害を命じられたものか判らんからな」
「その割に、扱いを一任するというのは不思議だな。いったい何を考えている? ――それとも、考えが纏まっておらぬのか」
フンと鼻を鳴らし、アーチャーは部屋へ入って行く。
「……なかなか難儀な奴よの」
セミラミスは溜息を吐く。決して仲間と信用した訳ではないが、彼女はそれなりにアーチャーへ同情を寄せていた。彼女の境遇に憶えがあったというのもあるし、そこから発したであろう願望に、何となく物悲しさを感じていた。天草と違い、足掻く時間すら与えられなかったからだろうか……。
#
アーチャーが部屋へ入ると、大聖杯の前で懸命に作業を続ける天草四郎の背が見えた。
「おっと! マスターの邪魔はしないようにお願い致しますよ」
部屋の隅の暗がりに、キャスターが姿を現した。右手の人差し指を、口の前に立てている。
「キャスター……」
「ただいまマスターは、大聖杯と吾輩の間に魔力供給のパスを通している最中でして。ま、もっとも、潤沢な魔力を戴いたところで、戦いには役立ちませんがね」
「大聖杯が蓄えた魔力ならば、サーヴァントの数騎程度、余裕で運営できる、か」
「その通り!」大声で叫びかけ、キャスターは口を抑えた。「ランサー殿は、これまで力を制限していたようですから、ようやく本領発揮というところでしょう。直に目にすることは叶わないでしょうが……」
そんな場にいたら、吾輩など戦闘の余波で消し飛んでしまいます! とキャスターは
「アーチャー殿も、如何です? 今ならまだ接続は間に合うかもしれませんよ?」
その時、一段落ついたのか、大聖杯の前から天草が近づいてきた。
「残念ですが、間に合いませんよ」
「おや、そうでしたか。期待を抱かせてしまったようなら申し訳ありません、アーチャー殿?」
アーチャーは返事せず、軽く溜息を吐いた。
「アーチャーさんの持ってきた情報によれば、黒は今日か明日の晩に攻めてくる――ですね?」
天草の問いに、目線で頷く。
「であれば、事情がない限り、今夜攻めてくるでしょう。時間がありません。本来であれば、それまでに大聖杯の起動も済ませたかったのですが……」
「優れた物語には、優れた逆風が必要なものですよ、マスター。『
「貴方はそう言うでしょうね」軽く肩を竦め、天草は上を仰いだ。「ところでアーチャーさん、私になにか用事があって来たのでは? それとも、キャスターに
「ほう! ようやく吾輩の本業が必要とされる時がきましたか!」
キャスターを視界から外し、天草を見据える。このキャスターは、まともに相手するだけ時間の無駄だと、そろそろ彼女も気付いていた。
向こうに、大聖杯の光がぼんやり見えた。
ずっと求め焦がれ続けてきた、自らの望みが……。
「先に使わせてほしいということでしたら、すみませんがお断りします」
彼女の視線を追って、天草が微笑んでみせたが、眼は笑っていなかった。
「そうではない……」
アーチャーは瞬きした。
大聖杯の残光が瞼の裏に残った。
「天草四郎――お前は、なぜ全人類の救済を望む? それを正義と信じるからか?」
「人類を愛しているからですよ」天草はすぐ答えた。「だから救いたい。貴女も子供が好きだから、願望を抱いたのではないですか?」
「私は――」
なぜか彼女は言葉に詰まった。
子供は好きだ。だから彼らが愛される世界を望んだ。
けれど……。そう、その願望を抱いたのは――いつだったろう。
どうして、この望みを追い続けられたのだろう。
「……失礼する」
アーチャーは踵を返し、大聖杯の間を後にした。
彼女が去った後、作業に戻ろうとする天草に、キャスターが語り掛けていた。
「吾輩、彼女はあまり好きませんな」
「おや、これはどうしてです? 彼女の生涯は、なかなか貴方好みだと思いましたが」
髭を引っ張り、キャスターはつまらなさそうに言った。
「人生ではありません。気になるのは過去ではなく、現在……。彼女、マスターと同じような大望を抱きながら、聖杯に願えば何とかなると考えていたのでしょう? まったく怠惰というほかありますまい! 何やら色々悩んでいるご様子でしたが、吾輩に言わせれば全て自業自得。子供を救う術を思考放棄した、その怠惰が今の煩悶を呼んでいるのですからね!」
「それは――それは違いますよ、キャスター」天草は真剣な口調になった。「彼女は考えています。考えに考え、思考を続けた末に――聖杯に頼ると決めたのでしょう。怠惰ではなく、むしろ真摯な姿勢といえます」
「ほう、マスターにはそう見えましたかな? しかしそれにしては……」
「何か気になりますか?」
「……いえ、やめておきましょう。味方の精神を弄ぶというのも――ま、それはそれで面白そうではありますが――吾輩も、そこまでの冷血漢ではありませんからな!」
軽薄な口調で話し、キャスターは現れた時同様、唐突に姿を消した。
#
「ランサー、ここにいたか」
アーチャーが最後に訪れたのは、魔術師の集う間だった。
魔術師たちは円卓を囲み、口から雑音を吐き出し、脈絡ないそれらは誰に届くことなく、天上まで昇っていく。
本来”赤”のマスターとして腕を振るうはずだった、哀れな者の集まりだ。尤も、今は彼女のマスターも似たような境遇にあるのだが……。
彼らはアサシンの毒によって、聖杯大戦に勝利したという幻想を抱いたまま、それ以上の思考をやめていた。
本来であれば彼らを生かしておく利はない。殺す利もないのだが、その二者択一を迫られれば、アサシンは殺す方を選択するだろう。
彼女にそれができない理由は単純で、”赤”のランサーが常に目を光らせていたからだ。
細面の青年は、魔術師の背後に、何をするでもなく、ただじっと立っていた。アーチャーが入ってきたことに気付き、顔だけそちらに向けた。
「ランサー……、訊ねるが、貴公のような英雄が、なぜ天草に従っている?」
彼女の言葉は、魔術師たちの頭上を、鋭く切り裂いた。
「我がマスターのためだ」
表情一つ変えず、ランサーは答えた。
「マスターの……? どういう意味だ、それは」
「我がマスターは聖杯を望んでいる。報いるために、あの男に協力する必要がある」
「…………」
ランサーの理屈は単純で、だからこそアーチャーは眼を瞠った。
英雄としてではなく、一人の人間として、あまりに完璧な高潔さ。
「ならば……、その為ならば、天草の願いを正しいとするのか?」
「正しい――?」ランサーは僅かに首を傾けた。「ああ、お前たちの不思議な議論のことか。……オレは命令に従うのが役割で、ただその役割を全うする。だから結果に興味はない。好悪を断ずることもない」
その返答は概ね想像通りだった。彼ほどの英傑ならば、そう答えてもおかしくない――ただひとつ、気になる点を除いては。
「不思議な議論とは、何の話をしている?」
アーチャーが訊ねると、唐突にランサーが頭を下げた。
「……お前とマスターの会話内容を、あのアサシンが盗聴して広間に流していた。聞いてしまったこと、謝罪しよう」
「あ、いや……、謝罪は不要だ。問いに答えて欲しい」
ゆるりと頭を上げ、ランサーは「そうか」と口を開いた。
「ならば答えよう。お前たちは、『第三魔法の適用が正しいか』を議論していたが、そのことについてだ」
「……それのどこが、不思議なのだ」
少し考え、ランサーは答えた。
「人類発展の方向性を考えるに、いずれ人類は魂の物質化を成功させ、種としての進化を果たすだろう。第三魔法――それは人類がいつか至る道だ。であれば、結果の正誤を議論しても意味がない。仮に議論するなら、その過程で大聖杯を用いるのが正しいか、だ」
「…………」
アーチャーが沈黙したのは、ランサーが想像以上の饒舌だったからではない。
彼の指摘が、全く正鵠を得ていたからだ。
そう、それはどうなんだ?
結果は正しくとも、その過程は……。
「それともう一つある」ランサーは独り言のように話した。「おまえの願望については話し合っていたが、マスターの願望に言及していなかっただろう。願望なく戦うマスターがいるのかどうか、オレは詳しくないが」
「ああ――それなら心配はいらない」
「心配はしていない」
アーチャーは苦笑した。彼の突慳貧な物言い……喧嘩を売っていると解釈されても仕方ないだろう。
「我がマスターの願望は生存だ。不老不死になれるなら、それに越したことはないだろう」
「そうなのか?」
やや驚いた様子でランサーが言う。尤も声に色がついただけで、表情に変化はない。
「そうだが……、何が疑問だ?」
「いや……生存と不老不死は別の概念だと思っていた。欲求と願望では違いがあると」
「――それは」
アーチャーは思わず息を呑んだ。
だが言葉を探しているうちに、まあオレの勘違いだろう、とランサーが呟いて、それきり口を噤んでしまった。
部屋を出る際、ランサーを振り返ると、彼は入った時に見た姿勢のまま、静かに佇んでいた。
「礼を言うぞ、ランサー」
彼は少しして、ぽつりと呟いた。
「……何の話をしている」
アーチャーは、また、苦笑した。