永い夢を追っている。
追い縋り、脇目もふらず走り続け、けれど少しも近づけない。
……仕方がないさ。
間には無限の距離が横たわっているのだから。
どれほど地上を走っても、月には手が届かないように……。
そうして諦めた人間が何人いるだろうか。
「全ての子供が愛される世界――それが私の願望だ」
アーチャーの声は幽かな残響を残して、大気に飛散した。
誰も何も言わなかった。彼女の言葉が真実であることは、その沈黙が痛いほど語っていた。
最初に口を開いたのはアサシンだった。彼女は真剣な瞳で、一つひとつ丁寧に発音した。
「お前の願望を穢す意図はないが、言わせてもらう。……それは、不可能ではないか?」
アーチャーは殺意すら感じさせる瞳で、アサシンを睨んだ。
だがその反応もまた、想定通りのものではあった――彼女自身が何度も自問したのだから。
「不可能を可能にすることが奇蹟ならば、奇蹟を為すのが聖杯だろう」
「確かにそうかもしれぬが……」
「では”全人類の救済”なら可能と言うつもりか?」
視線は天草に移る。
彼の微笑は途絶えることなく、真正面からその問を受け止めた。
「可能です。私は全人類を救済する」
何でもないことのように、あっさり彼は言った。
「その言葉に偽りはないな?」
「ありません」天草は胸の十字架を握る。「神に誓いましょう。そしてそれは、貴女の願いと重なります」
「ならば、次は貴様の番だ、天草四郎。汝は如何にして救済を為す?」
アーチャーの眼光と、アルの揺れる瞳が、彼を射抜いた。
(あるのか……? そんな方法が、本当に……?)
天草はゆっくりと口を開いた。
「――人類を『有限』の枷から解き放つ。全人類に、第三魔法を適用します」
#
たったひとつの家族しかない世界。
その世界は幸福に充ちていた。父と母は互いに寄り添い、子に惜しみない愛を注ぐ。
誰もが幸せで、善性を信じ、悪という概念すら存在しなかった。
ふたつの家族がいる世界。
その世界は争いで充ちていた。ふたつの家族は、それぞれ愛する者のために剣を執った。
幸せのために、悪徳が広がり、頽廃と死が精神を侵した。
どうして?
幸せになりたいだけなのに。
幸せになるために、不幸にならなくてはいけないの?
どうして?
どうして個の善が集団の悪を生む?
それが人類共通のシステムだから?
――だとすれば。
どうして人類は連帯の指向性を与えられたのか。
社会を構築することを、生存戦略に選んだのか。
ああ、我々は間違えた!
人類は最初の一歩で、地獄に踏み込んでいた。
繁栄の道と信じて、巨大な陥穽に堕ちたのだ。
……。
……違う。
違うさ、人類は間違えてなんかない。
ただ、この戦略を循環させるための、ある技術が完成していないだけ。たったひとつの障碍……針のように小さなそれが、流れを堰き止めているだけ。
有限。
この世の全てに限りがあるから、人は善のために悪をなす。
たったそれだけの些細な障碍が、幸福を妨げている。
ならどうすれば、皆が幸福になれるのか。
もう、判ったね?
本当は、ずっと知っていただろう?
太古の昔より、人類はずっと追い求めてきたのだから。
第三魔法による、魂の物質化――不老不死を。
#
覚束ない足取りで、アーチャーとアルは玉座の間を出た。アサシンが庭園へ続く扉を開いてやり、二人は導かれるまま外に出た。
さかしまの庭園。瑞々しい青葉と花々が彩り、水路を清らな水が逆流していく。
美しい場所だ。
こんな状況でなければ、もっと楽しめただろう、とアルは思う。
制御されているのか、高度に対して柔らかな風が、前髪を揺らした。
風景に馴染んだテーブルと椅子が見つかり、二人はそこに腰掛けた。
すこし考えさせてくれ、という申し出に、「存分に話し合い、考えて下さって結構ですよ」――と天草は答えた。そのほかに何も言わなかったが、きっと彼は判っていたのだろう。自らの正しさを。
魂の物質化。
人間を肉体の軛から解き放つ。痛み、餓え、乾き、我々を苦しめる全ては消え去り、あとには穏やかな世界が広がる。人類は悲願を果たし、高次元の生物種へ進化する。
その方法まで、天草は懇切丁寧に教えてくれた。魔術や魔法に全く疎いアルにも、判り過ぎるくらい判るほど。だから断言できる。
天草の願望は正しい。
法律も倫理も関係ない、絶対的な善。
不老不死が悪などというのは、小説や映画の戯言。一度は不老不死を夢見、不可能と知った者が吠える負け惜しみに過ぎない。
正解!
正解だ!
人類は救われる!
なのに何故、素直に快哉を叫べなかったのか……?
「……あの男の願いは」
アーチャーの声を聞いて、アルはようやく顔を上げた。それまで自分が俯いていたことにも気づかなかった。
「気が狂っていると思った。……だが、正しいな」
「……そうだね」
「けれど――私は」
それ以上言葉を続けられず、アーチャーは口を噤んだ。
彼女が何を迷っているのか、アルは理解していた。理解しているからこそ、伝えるべきかずっと躊躇していた。
だが、話さなくてはいけないだろう。それが自分の示すべき誠意だ。
「アーチャー……、君の願望を聞いてから、俺はずっと、叶える方法を考えていた。その結果、全ての子供が愛される世界をつくる、ひとつの方法を思いついた――それは」
彼女は無言で頭をもたげた。
「”子供の数を減らすこと”……。世界から子供が減れば、人類は否が応でも子供を愛さない訳にはいかなくなる。そんな馬鹿げた答えだ。もちろん、それがアーチャーの望みに沿わないことは判っている。本気じゃない……。でも、もし俺が聖杯に願ったら、過程はそうなるだろう」
アルは無理に笑ってみせた。
「でも、天草四郎のそれは、犠牲を生むような、俺みたいに完成度の低い方法じゃない」
アーチャーは何も言わないが、その瞳は確かに、アルを見つめている。
「――ただ」息を吐く。「その世界に、”子供”はいない」
不老不死の世界に、子供は存在しない。
年齢という概念が消滅するだろうし、不老不死の生物は子供を必要としない。
それこそが、生物種としての進化を果たし、より完璧に近付いたことの証であるからだ。
「アーチャーが悩んでいることは、たぶん判る。でもこれは、君が考えているような、複雑な問題じゃない。命題はひとつ――『全ての子供が愛される世界』と『愛されない子供がいない世界』は同一か?」
アーチャーがわずかに眼を見開いた。
彼女の煩悶は、たったそれだけの命題に集約できるだろう。何を言われなくても、それだけは判る。
判るさ……。
あの地獄で、子供を救おうとした彼女の背中を見たのだから。
その姿に魅かれて、自分は戦うことを決意したのだから。
「――それでね、アーチャー」
アルは席を立って、空を仰ぐ。
青い空に、白い月が、冗談みたいに浮かんでいる。
ああそうだ、と思う。決して手の届かない地、月へ、人類は旅立ったのだ……。
「俺は、その二つは同じだと思う。天草四郎の願いは、君のものと重なっている」
その時、初めてアーチャーが口を利いた。
「……本当にそう思っているのか?」
「…………」
「答えろ!」
「……ああ。本心から、そう思っている」
本心だ――本心だとも。
少なくとも、アーチャーが救われて欲しい、という願いは本心だ。
彼女が救われるには、天草の願いに乗るしかない、という想いは本心だ。
アーチャーはアルを睨んだ。
「汝は――その意味を判って言っているのか?」
黙って肩を竦め、その場を離れる。背中に彼女の視線を感じながら、歩き去っていく。
――意味なんて当然判っている。
天草に協力すると言ったら、邪魔なマスターがどう処理されるかくらい判っている。
確かに、自分の願いは生き
けれどアーチャーはもう、一度ならず命を救ってくれたのだ。彼女に報いるためには、それくらい……。
#
気付いた時には、躰の拘束は終わっていた。
全身に鎖が巻き付き、ぎりぎりと絞り上げられる。
「ぐ……ぁっ……」
骨の軋む音がして、アルは苦悶に顔を歪めた。
「――一人で出歩くとは、愚かなマスターよの」
耳元で誰かの声がしたが、振り返ることなどできない。
呼吸ができなくなり、意識が遠退くのを感じる。
油断した。
どうにか、どうにか抵抗しなければ。しかしそんな術は――。
術は、ある。
いや……、まだ大丈夫か?
頭痛。
迷っている暇はなかった。
躰に残る全ての力を掻き集めて叫ぶ。
「――
鎖の締め付けは一瞬緩んだようだったが、しかし逃れられる余地はなく、すぐにもっと強い力で縛られた。
「……どんな奥の手があるかと見てみれば」
ああ、これはアサシンの声だなと、やっと思い至った。
「一秒にも満たぬ間、ただ忘我させるだけとは……。貴様、本当に協会の魔術師を謀ったのか? しかもこんなつまらぬ魔術で、魔力を使い切った……?」
躰から力が抜けていく。
足にも腕にも、何の力も入らない。崩れそうな躰を留めているのは、敵の鎖だった。
結局自分には何もできないのだなと思い知る。
「よくもまあ、あのアーチャーが付き合ったものよ」
すっかり失望したように、アサシンが呟いた。
「アル! 貴様、アサシン――!」
――遠くから彼女の声が聴こえるような。
「そう怒るな、アーチャーよ。もう結論は出ているのだろう? その決断を少し早めてやっているだけではないか」
「それは……、だからと言ってッ……!」
「のう、アーチャー。お前はなぜ腹を立てている?
惰弱で――愚鈍。
脳内にその単語が谺した。
まったくその通りだなあ、と笑いたくなる。
アーチャーが口を酸っぱくして、常在戦場の心構えを持てと言っていたのに。敵地の中をたった一人、サーヴァントから離れてうろつくなど、自殺行為にもほどがある。
こうなったのは自業自得だ。自分の無能が招いた、自分の責任。
こんな馬鹿マスター、今回ばかりは、彼女も愛想が尽きただろう。
それでいい。それで自分の望みは果たされるのだから。
「何を躊躇っている? 胸の内で決めたことを、言葉にするだけだろうに」
「私は――私は……」
白い靄が覆ってゆく視界に、アーチャーの端正な瞳が見えた。迷い俯く、その顔が。
――肯け!
――こんな愚かなマスター切り捨てろ!
肺に空気はなく、苦痛の吐息が漏れただけだったけれど、声が出たならそう叫んでいただろう。
「さあ、アーチャー。答えを聞かせよ。こんな男、切り捨ててしまえば良いではないか」
「…………」
「早くしろ。この男が大事なら大事で、死ぬまで迷うつもりか?」
「……いいだろう」
嗚呼――でも。
意識を失う間際、ほんの一瞬だけ。
助けてくれと思ってしまったことを、アーチャーは許してくれるだろうか。
最後に、彼女の迷いを断ち切った表情が見えた。
「――私は、このマスターを裏切る」