聖杯は万能の願望器である。
凡百の魔術師には一生かかっても使いきれぬ魔力を蓄え、それを用いてあらゆる奇蹟を現出させる。
巨万の富、魔法の完成、根源の到達……叶えられない望みはない。
そこに過程など必要ない。戦争の勝者が願えば、聖杯はただ「結果」を与えてくれる。最初に結果があるのだから、達成に障碍はない。
だが――それは決して、過程を必要としない意味ではない。
結果の後に過程が現れるのだ。
順序が逆転しただけで、省略される訳ではない。
願えば叶えられる。間違いなく、絶対に叶えられる。
ただ、手段は判らない、というだけ。
……まあ、願望は達されたのだ。そんなこと、些細な問題だろう?
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「問題は……」
「どうした?」
「いや、何でもない。独り言」
アルは肩を竦めて、道の先に聳える建築を眺めた。
ミレニア城塞――という呼び名には「元」を付ける必要がある。歴史ある石城を土台とし、不思議な造形の浮遊要塞が突き立ったその様相は、何とも表現しがたい威容だ。
周囲に黄色いテープが張り巡らされ、警官が警邏に立っている。野次馬の姿もなく、市民は普段通りの生活を過ごしているようだった。
奇妙なことに、今にも崩れそうな城からは、煉瓦のひとつも落下してこない。いかにも不安定な見た目をしているが、強風にかしぐこともなかった。
アルとアーチャーが近づいていくと、警官が無言で左右に割れた。
「おや」
敬礼をして並ぶ彼らに会釈を返す。顔を見ると、警官の瞳は、一様に灰色で染まっていた。
「歓迎されているらしいな」
皮肉気に口を曲げて、アーチャーが先に歩いて行く。アルも慌てて随いていった。
敷地内の粉塵は落ち着いているが、瓦礫が積み上がっていて、ひどく歩きにくい。正面玄関までの間、何度も転びそうになったところを、アーチャーに助けられた。
玄関の扉は開け放されていた。最初から開いていたのか、自分たちの接近に応じて開けたのかは判らない。冷たい風が、内に吹き込んでいる。
踏み入った城は静まり返っていた。
崩壊した瓦礫の山と、静止した古城の組み合わせは、不思議とアーチャーによく似合った。彼女だけならば、敵は侵入されたことに気付けないのではないかとさえ思う。これを言ったら怒られるだろうが。
だしぬけに、先を行くアーチャーが足を止め、右腕を出してアルを庇った。
「――”赤”のアーチャー、そのマスターか?」
二人の前に、幽鬼のような青年が佇んでいた。
ほっそりした肢体、真っ白な肌色に、胸元の赤石が映える。儚げな風貌だが、その眼光は鷹のように鋭い。
――『筋力B/耐久C/敏捷A/魔力B/幸運D/宝具EX』
ステータス情報など知らなくとも、対面しただけで、このサーヴァントの力量は感じ取れた。
「その通りだ――”赤”のランサーだな? セイバーとの緒戦は見させてもらった。さぞや名のある英雄なのだろう」
「そうか」
アーチャーの賞賛にもこれといった反応を見せず、ランサーはゆるりとこちらに背を向けた。
それは敵対するつもりはないという意思表示であり、同時に、背後から襲われたところで、何の問題もないという自信の表れであった。そして実際、この英雄はそれだけの力を持っている。
「お前たちを案内するよう言われている。……随いてこい」
ゆったりした仕草で、ランサーは回廊の奥へ消えていく。
アルはアーチャーの横顔に顔を向けたが、彼女は視線を返さず、すぐに歩き出した。
廊下は複雑に折れ曲がっている。途中で何度も建材が変わり、足音が違う音を響かせた。尤も、足音を立てているのはアルだけだ。
(問題は――)
アルは考える。
聖杯の仕組みを考えるに、願望を叶える際、問題となるのはひとつだけ。
――その願いを叶える過程がたったひとつしかない場合、それがどんな邪悪でも、その過程は発生してしまう。
聖杯に問題はない。
願いを叶える者、人間の方に問題がある。すなわち、善悪の概念を持っていることが問題だ。
純粋に考えれば、願望が叶うのなら、その過程でどんな犠牲が生まれようと気にするべきではない。しかしそれを切り離して考えられないのが、人間の弱さ、あるいは社会性と呼べるものだ。
とはいえ、犠牲の発生を厭うなら、それはそれで解決策はある。願望に過程を含めてしまえば良い――犠牲を生まない過程を。
矛盾している。
唯一解に別解を求めるなど、無為。
そんなものがあるとすれば……。
やがて広間に着いた。
天井が高い。
広い円形の間で、奥に玉座が置かれている。黒い衣裳を纏った女が、ひとり腰掛けていた。艶然とした笑みを浮かべて、入ってきた自分たちを見つめている。
――『筋力E/耐久D/敏捷D/魔力A/幸運A/宝具B』
当然ながら、彼女もサーヴァント。そしてもう一人、豊かな髭を蓄えた男が、悪戯っぽく目を輝かせて、玉座の手前に立っていた。
――『筋力E/耐久E/敏捷D/魔力C++/幸運B/宝具C+』
おや、と思う。今まで会った中で、このサーヴァントが最もステータスが低い。というより、これでは戦闘力としてはほぼ期待できないのではないかと思われる。
つまり、戦闘力以外の部分で、極めて強力な力を発揮するか、あるいは本当の役立たずかだ。
アルとアーチャーが広間の中央まで進むと、案内は終わったとばかりに、ランサーは入口沿いの壁際にもたれた。
形だけ見れば、完全に囲まれたことになる。彼らに揃って攻撃されれば、抵抗の余地なく殺されるだろう。
「おお! ”赤”のアーチャーよ、歓迎致しますぞ?」
髭の男が、大仰な身振りで話しはじめた。
「……突然の訪問には驚きましたがね。しかし、『
こちら、と言った時にランサーを指し、次のこちら、で玉座のサーヴァントを指して見せる。
「大変心細く感じておったのです。何しろ吾輩、キャスターですから。それも全く戦闘には役立たぬ、ただの作家ですからなあ――」
「キャスター。黙れ」
玉座の女が頭を押さえ、苛々した声で言った。キャスターはこれまた芝居がかった仕草で肩を竦め、よく回る舌を止めた。
「――ということは、汝はアサシンか」
目の前のやり取りを、顔色一つ変えずに受け流したアーチャーが口を開いた。
「ほう、何故そう思う?」
「どう見ても、セイバーのように堂々立ち合う
「なる程の」
正解とも間違いとも言わず、アサシンはくすくす笑う。
”黒”ではランサーが王だったように、”赤”ではこのアサシンが女王なのだ。
「してアーチャー、今頃になって顔を出すとは、随分遅い合流ではないか?」
「赤だ黒だの色分けは、召喚者の都合だ。生憎と、我がマスターはそのどちらでもなかったからな」
「つまり……、自分は未だどちらにも与していない、と言うつもりか?」
アサシンがすうっと眼を細めた。
無視して、アーチャーは淡々と告げる。
「ライダーの件について謝罪はしない。あの時点では私以外の皆が敵だったし、奴も納得したうえでの戦闘だ。そこで負けたのは、奴自身の問題だろう」
「そうさな。確かにライダーは撤退命令を無視した……と聞いておる。判った、そのことで責めるのは止めよう」
当然ながら、これはアサシンの寛容さではない。敢えて許すことで、この後の交渉を有利に進めようという肚である。
アサシンは薄っすら微笑み、玉座に座り直した。
「では訊こう、アーチャー。貴様は何をしにきた?」
「確かめるべきことがある」
アーチャーの鋭い声音に対して、広間の雰囲気は弛緩したままだ。
相変わらずキャスターの男はにやつき、ランサーは興味なさげに眼を瞑り、アサシンは玉座で隙を晒している。
「確かめること……?」
「ああ。天草四郎を出してもらおう」
天草の名が出た瞬間、僅かな驚きが呼気となって、アサシンの口から漏れ出た。
「あの男に何の用だ」
「奴の願い――”全人類の救済”、その真贋を確かめにきた」
ぷっ、と、キャスターが噴き出した。
「貴様何が可笑しい――」
アーチャーが即座に睨み据えると、キャスターは片手を拡げ、肩を震わせながら、ぶんぶんと首を振った。
「い、いえいえ! 吾輩てっきり、無謀にも単身特攻に来たのかと――そう思っていましたもので、ふ、ははは、まさかマスターと志を同じくする者だったとは、よ、予想外だったものでして……!」
必死に笑いを堪えながら、キャスターは髭を引っ張った。そのままくるりと身を翻し、アサシンに顔を向ける。
「いかがです女帝殿! どんな悪鬼が来るかと警戒してみれば、なんと我らがマスターの大望に付き合って下さる、世にも奇特な婦女子ではないですか! これはもう、天草殿を出してよろしいのでは?」
「しかしだな――」
アサシンが不服そうに言い掛けた時、玉座の奥から足音が響いた。
「ええ、キャスター。私も同じく思っていたところですよ」
「マスター……!」
「大丈夫ですよ、アサシン。彼女の
(この男が……)
この男は、果たしてアーチャーの願いを託すに足るものなのか……?
アルもアーチャーも、彼の姿を食い入るように見つめた。
黒い修道服を纏い、褪せた髪に褐色の肌。胸に十字架を提げた、どこからどう見ても柔和な神父にしか思えない男。
第三次聖杯戦争のサーヴァント、今回の聖杯大戦における最大のイレギュラー。
――天草四郎時貞。
「では伺いましょうか、”赤”のアーチャー。貴女は何を求めますか?」