陽が没した。
空の向こうに輝きの残滓が残り、街はいましばらく薄明に包まれるはずだった。
だが陽が隠れると同時、シギショアラのごく一部は意外な昏さを迎えていた。
「霧……?」
道行く男が、困惑気味に辺りを見廻す。この時間帯に突然霧が出るなど、経験のない事態である。
「ぐ……あ……」
「おい、どうした!?」
不意に横を歩く男が、眼を押さえて蹲った。見ると、路上に疎らに立っていた人影は皆、倒れ伏している。
「一体なにが――」
肌をピリリと焼く感覚を僅かに感じた後、喉と両目を針で刺された。少なくとも、男はそう感じた。
耐え切れず、石畳をのたうち回る。
痛みに意識を手放す間際――。
遠くから――なにか、雷鳴が聴こえたような……。
「ナアアアアアアアアアアアア―――――ゥ!!」
絶叫を上げ、”黒”のバーサ―カーは霧に飛び込んだ。
途端に視界は白く染まり、足が重くなる。敏捷のランクが下がっているらしい。
だが、彼女が立ち止まることはない。
足から放出される雷電は石畳を黒く焼き、抉り、破砕していく。倒れ伏す一般人の服の裾が焦げる。
それら一切を顧みず、バーサ―カーは突撃する。
道々に残る魔力の形跡を、ただ辿る。
やがて魔力の痕跡は、路地の行き止まりで途絶えた。
「ゥゥ……?」
途絶えた――ということは、この近くに潜伏しているはず。或いは……。
「! ――ゥウ!!」
霧の中を、溶けるように迫ってきた影へ、滅茶苦茶に槌を叩き付ける。
一瞬霧が晴れた先にいたのは――子供。
何故ここに子供が――いや、そもそもどうして動いている――?
バーサ―カーの手が止まる。
見ると、霧の向こうに揺らめく影は一体ではない。何人もの子供が、彼女を取り囲んでいた。
彼らはサーヴァントではない。どう見てもただの人間だった。
アサシンが操っている一般人、と結論。だがこう囲われては……。
複雑な思考を打ち消す。
正しい一人を捜そうなんて考える必要はない!
バーサ―カーにできることなど、限られているのだから……!
がむしゃらに槌を振り回し、周囲の霧を晴らすだけに徹する。
そのまま移動すればいずれ――。
異様な動きを見せる一体を発見し、即座に打ちかかる。
だが命中する寸前で、敵はひらりと攻撃を躱した。そのまま霧には戻らず、彼女の目の前に姿を現す。
「もう、てきとうに攻撃しないでよ。せっかくのひとじち、なのに」
低い姿勢でメスを構える少女――これが。
「……?」
バーサ―カーはアサシンを前にして、僅かな困惑を見せた。
何故、姿を見せた……?
霧の中に気配遮断で潜むという、有利な条件を何故捨てた……?
理性あるが故に、一瞬彼女は脚を止めた。
だがすぐに狂気が思考を支配する。
そう、そんなことはどうでも良い! ただアイツを――潰す潰す倒す倒す殺す殺す殺――!
「ひとつおしえて?」
収縮した視界の中心で、首を傾げる顔。
「
「ゥ……」
途端、彼女は停止する。
”出来損ないだ! 失敗作だ! こんなもの断じて人ではない!”
「とっても変なにおいがするから――、たしかめておきたくて」
鼻をすんすん鳴らし、眉を顰めたアサシンの言葉など、耳に入っていない。
ただ脳天まで白くなるような怒りだけが……。
”来るな来るなァ! 人間の振りをして近づくんじゃないこの――”
「アアアアアアアァァァァァァァァァ――――――!!」
”怪物”
#
「今さら目くらましのつもりか!? アサシン!」
バーサ―カーに遅れること暫くして、彼女のマスター、カウレスも霧に飛び込んだ。
即座に気管に痛みが走り、両眼からは血が噴き出すような感覚。
(罠か……そんなことで)
そんなことで……今更追跡を諦めるとでも思っているのか?
「あ、あぁぁぁぁああああ!」
咆哮し、己を鼓舞する。
力を失おうとした腿を叩き、無理やりにでも動かした。
鼻と口を覆って再び走り出す。
こんな対処、何の役にも立たないだろうことは判っている。だが、何としてでも。
あのアサシンだけは倒す。
「倒すんだ……絶対に!」
「――なら、落ち着きなさい」
気付いた時には彼は抱えられ、霧から脱していた。眼下に白い霧と、所々突き出した屋根が見える。
「はぁっ?」
躰が着地の衝撃を受ける。先ほどとは離れた、民家の屋根にいるらしい。
首を捩じって見上げると、”黒”のアーチャーの貌が見えた。
「貴方が死ねばサーヴァントも消える、それは判っているはずです」
「あ……アーチャー……」
彼を認識するにつれ、カウレスの顔は歪んでいく。
「お前――お前が――お前がッ!! お前がッ! 姉さんをッ!!」
「そうです。――私の力不足です」
淡々と頷いてみせるアーチャーを前に、激憤は頂点に達した。
「放せ!」
躰をばたつかせ、彼の腕から転げ出る。無論、人間の力がサーヴァントを上回ることなどないから、これはアーチャーが放したに過ぎない。
「ですが今口論しても仕方がない――そうではないですか」
「何を言ってっ――お前――自分のしたことを――」
「理解しています」そう話すアーチャーの顔に表情はない。「ですから、こうしてここに来たのです。あのアサシンは、私が倒す」
「それは……」
カウレスの思考に、僅かに冷静さが戻った。
そうだ、優先するべきはアサシン。責め苛むなど、後でいくらでもできること。
だからこそ――アーチャーには譲れない。
「駄目だ」
「何がですか?」
「お前は手を出すな。あのアサシンは、俺が殺す」
アーチャーはゆっくり頷いた。
「貴方が殺すのは結構。ですが手を出さない訳にはいきません。私は私でアサシンを狙います」
「な――だからお前はッ」
「貴方はマスターの役割に徹してください。あの霧に特攻するなど、倒す前に無駄死にするだけですよ」
「…………」
押し黙ったカウレスを一瞥し、アーチャーは再び霧の中へ突入していく。
へたり込みそうな躰を支え、カウレスは屋根から街を見下ろした。
その中にバーサ―カーと、アサシンの姿を思い描いて。
(ああは言いましたが……)
霧の中、アサシンを射るに適する場を求め、アーチャーは疾駆する。
(できることなら、アサシンは私が討ちたい)
それは当然、マスターの仇討ちのためであり――同時に。
(カウレス君……彼に復讐を達させる訳にはいかない)
去り際に見た、あの復讐に憑りつかれた顔。憎悪に染まった瞳。
否定はしない。復讐に身を捧げる人生があり、それを為して幸福を掴む者もいる。
だが、彼のそれは己を焼く炎だ。敵を殺すために自身を燃やし、復讐が成った時――その身もまた燃え尽きる。
喪ったものを補おうとして、それは決して補えないことに気付くだろう。
死者は一切の感情を抱かない。よってマスターの肉親を救ったところで、贖罪になるなどと考えていない。ただの自己満足であり、しかしだからこそ、最後の仕事として相応しい、とアーチャーは思った。
#
夜と霧――条件は二つまで揃っている。
だが残りのひとつについて、”黒”のアサシンは確信を持てずにいた。
今も霧の向こうで、槌を振り回すサーヴァント――あれは生物か、否か。
「う~ん……」
ぱっと見た限りでは女性型と判別していたが、近づいてみると自信がなくなった。どうにも機械の臭いが鼻につく。宝具を使って良いものか。
三秒ほど悩んだ後、アサシンはぽんと手を打った。
「ためしに斬ってみて、血がでるか見ればいいんだ!」
”黒”のバーサ―カー、フランケンシュタイン。正確には”ヴィクター・フランケンシュタインの造った人工生命体”だが、彼女はその名で知られている。まあそれは仕方がない。彼女には名前がないのだから。
原初の人間――イヴを生み出そうとして造られた彼女は、しかし失敗作と詰られた。
感情を持っていないと、理性が歪んでいると、
それはとてもかなしくて。だから、人間になろうとした。
けれど、結局”彼女”は人間になれず。
怪物として消えた。
だから――。
「ナアアアアアアゥゥゥ!」
見えない敵に戦槌を振るう。ここが戦場でない以上、周囲の残存魔力はほんのわずかであり、間もなく機能停止することは間違いない。それを理解したうえで、彼女は暴れ続ける。
狂気の赴くままに暴れ続け、己の身朽ち果てるまで戦い続ける。
それがバーサ―カーの務め。
霧の中に影が見えた――槌を振るうが、霧を切り裂いただけ。
瞬間、背中に衝撃。
「ゥアッ」
振り向きざま殴りつけるが、敵は軽やかな身のこなしで距離をとった。
「血がでてる……じゃあ、やっぱり」
ナイフから垂れる血を眺め、アサシンは薄っすら微笑んだ。
「アアァァァ――――ゥ!!」
ようやく姿を見せた敵。こんな好機はもうないと――。
バーサ―カーは全魔力を注ぎ込んで吶喊する。
「あっ」
重い一撃を受け止めきれず、アサシンの小柄な体躯は吹き飛ばされた。
空中で器用に身を捻り、背後の壁に着地する。
危なかったが、結果は無傷。路上に立つ敵へ今こそ宝具を打たんとし――。
「……あれ?」
膝を付いたバーサ―カーを見た。
全く同時に、カウレスも屋根の上で膝を付いていた。
「はぁ……あぁ……ったく……」
身体中から力が抜けていく。魔力を使い果たし、こうして起きていることすらままならない。
荒い息をついて、彼は手を掲げる。
「令呪を、もって、命じる……バー、サ―カー。……”闘え”」
ああ、最悪のマスターだな、と自嘲する。
それでも――ここで止まるなんて許さない。
「ウウウウゥゥゥゥゥゥ―――――ォォオオオオ!!」
魔力が体内に充ちると同時、バーサ―カーは極限まで高めた雷を放出した。
稲妻がうねり、紫電が街を煌々と照らす。
宝具を使うまでもなかったな、と彼女に接近していたアサシンは、今度こそ致命的に吹っ飛ばされた。
「――――っ」
壁に思い切り打ち付けられ、呼吸が止まる。そして一時的にではあろうが、左腕が利かない。
さらに――今の魔力放出のせいで、あれほど濃かった霧が散っている!
慌てて霧を操作し、自分の周囲へ集めようとしたところへ。
「――手柄をとるようで申し訳ありませんが」
”黒”のアーチャーが正確無比の狙いを以て、矢を放つ。
その矢は榴弾。どうにか躱したと思ったアサシンの傍で爆発し、肉体を容赦なく抉り取る。
「……がぁっ」
その身は地上に失墜する。
今度こそ、本当に霧が晴れた。それを維持するだけの力は、もう残っていない。
混乱する頭を動かし、アサシンはよろよろ起き上がる。
(いつのまに二人めが……? でもとにかく、にげないと!)
「それは、できません。”黒”のアサシン」
満身創痍のアサシンの前へ、また新たなサーヴァントが立ちはだかった。
穢れなき純白の衣。
はためく聖旗。
「ジャック・ザ・リッパー……、あなたの行いは、ルーラーとして看過できません。ここで退場して戴きます」
晴れた霧、朧月の下、聖女は粛然と職務を執行する。
「ぅ、ぁ、ううぅぅぅ……」
右腕で躰を引きずる。遅々たる進み、無様な逃走、芋虫のような醜態……だとしても。
「いやだ――いやだ、
アサシンは悲痛に叫ぶ。彼女が倚る者の名を呼ぶ。
聖女が静かに歩み寄り、顔に手を当てた――その時。
膨大な魔力がアサシンに充ちた。
「まさか――令呪で撤退を!?」
感知した時には手遅れ。深刻な手傷を負いながらも、アサシンはその姿を消してゆく。
――だが。
それは執念。
怒り、憎しみ……そういった負の感情だけが生み出す力。
「アアァァァァァァ―――『
ただその姿だけは、最期の刻まで凛凛しく起つ花のように……。
#
嗚呼――もう、助からない。
令呪で引き寄せたアサシンを一目見て、玲霞は確信した。
「ぁ……
「もう大丈夫よ、痛かったでしょう?」
「負けちゃった……わたし」
「いいの……いいのよ、ジャック」
彼女を抱き上げ、幼子をあやすように、ゆっくり背中を叩いてやる。
それでほっと安心したように、アサシンは呟いた。
「なんだか……ねむい」
「ええ、今はゆっくりお休みなさい。起きたら――何をして欲しい?」
「えっと……」
ふっと微笑んだ玲霞の心臓を、矢が貫いた。
痛みを認識する前に、二の矢が頭を貫き、彼女は即死した。
#
「……どうして射った、アーチャー」
アルは、矢を打ち放った姿勢のまま、街を見下ろす”赤”のアーチャーに詰め寄った。
「アーチャー!」
「どうして、だと……?」
ゆっくりと、アーチャーは彼を見返した。