「さて、さて」
陽が昇るのを待って、フリーランスの
朝早くからシギショアラの街並みを興味深そうに眺める姿は、傍から見れば熱心な観光客に見えないこともない。だがその実は、いざという時に備え、周辺の地理を頭に叩き込んでいるだけである。
道端の花に水をやっている女性と、辺りをじろじろ見ていた獅子劫の目が合い、彼女はぎこちなく顔を逸らした。
『嫌われてるねぇ、オレのマスターは』
くすくす、と笑い声が聞こえる。しかし――、声の主はどこにも見えない。
「……
獅子劫が片眉を上げ、吐き捨てるように呟いた。己の風体については先刻承知のことである。
『そんな警戒が必要か? ”黒”の連中の本拠地はトゥリファスなんだろ?』
「そりゃそうだがな」獅子劫は注意深く辺りを窺う。「監視網はこっちにも広げてるだろうよ。使い魔や一族の魔術師――俺たちの様子は筒抜けだって考えた方がいい」
『そんなもんかねぇ』
霊体化した
さらに言えば、仮初とはいえ肉体を得られたというのに、霊体化してマスターの後ろを随いていくだけというのも実に退屈だった。
少し考え、モードレッドは口を開いた。
『……マスター。頼みがあるんだが』
「おう、何だ?」
『服買ってくれ』
「……何で?」
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朝陽が射し込むカフェの中。扉のベルを響かせ入ってきた店長に、元気よく挨拶を送る。
「おはようございます、店長!」
「うん、おはよう。……あれ、アル君、その包帯はどうしたの?」
目敏く店長が、アルの手を指差した。
見下ろすと、右手にぐるぐる巻いた包帯が眼に入る。
昨夜の腫れがまだ引いていなかったので、取り敢えず隠すために巻いておいたものだ。湿布にするべきかもしれないが、カフェの店員が刺激臭を漂わせているのも問題かと思い、包帯にした。
「ああ、これですか?」右手を挙げ、そのまま首を抑える。「何か昨夜から腫れてて……すみません」
「そうかい? 今日大丈夫?」
「それは勿論!」
実際痛みはもうなく、腫れているのを忘れてしまうほどであった。それにいくら店長が優しいからといって、タダ飯を喰らうのには抵抗がある。万一ここを放り出されでもしたら、野垂れ死には免れまい。
「まあ、無理はしないでね」穏やかな声で店長が言って、ぱんと手を叩いた。「そうそう、言い忘れてたんだけど、実は今日は予約が入っていてね」
「予約――ですか? 何の?」
「貸し切りの、ね。昼からウチでパーティーをやるってことでね。お客さんは入れずに、もう少ししたら準備を始めるから。今のうちに休んでおいて」
そんな予定を伝え忘れるなんて、店長にしては珍しいな、と思いつつアルは頭に書き込んでおく。
「貸し切りか……」
カウンターを一瞥すると、昨日の忘れ物である、茶色い鞄が置かれたままになっていた。
仮に昨日の男が忘れ物に気づいたとして、店で貸切パーティーをやっていては、入りにくいかもしれない。とすると、今の内に警察に持って行った方が良いのではなかろうか。幸い、警察までは然程遠くない。
そうと決まれば行動は早い。
「すいません、店長、ちょっと行ってきます!」
言うが早いか、アルは店を飛び出した。
昨日と同様に、鞄を持って警察までの道のりを歩く。
「あ、こういう時って、中に入ってるものを警察で確認しなきゃいけないんだっけ……」
そうなると身分証の提示とか求められそうな気が……。いや、あのカフェは昔からシギショアラにあるそうだから、店長の名前を出せば大丈夫だろうか。
そんなことをつらつら考えつつ、近道の曲がり角を曲がったところで。
(……勘弁してくれよ、本当に)
そう思わずにはいられない。
その細い路地には、小さな子供が、壁に凭れるようにして蹲っていた。
「あー……、君、どうしたの?」
「…………」
おずおず声をかけるも、その子は肩を震わせるばかりで、何も話そうとしない。
「……迷子? 親とはぐれちゃった?」
こくん、と頷く少年を見、アルは顔を顰めた。
別に難しいことではない。幸い自分が向かっているのも警察なのだから、一緒に連れて行けば良い話。
しかし、自分の身分には何の保証もない。誘拐犯に間違われるかもしれず、それは何だか――面倒だった。
面倒だと思うと同時、アルは己の自分勝手な思考にぞっとする。
もし記憶を失い、経験が失われたとき、人間の本質が浮かび上がるとしたら。
以前の自分は――、こんなにも身勝手だったのだろうか。
それは駄目だろう、と首を振る。
溜息をひとつ。
腰を屈め、子供の前に手を差し出した。
「お兄ちゃんと一緒に探そう?」
「……うん」
差し出された手を暫し見つめた後、小さく頷いて、少年はアルの手を握った。
「よし、じゃあ一緒に警察に――」
「こっち」
「え」
早速警察へ向かおうとしたアルを遮り、少年は真反対の方向へ腕を引っ張った。
「おかあさん、こっちだとおもう」
「いや思うって言われても――」
「いいから!」
大人と一緒にいるという安心がそうさせるのか、少年の足取りは堂々としたものである。
その確信を持った腕に、自分に確信が持てないアルは引き摺られていった。
これではどっちが迷子だか判らないな、と思いながら……。
#
山上協会から逃げるように麓へ下りてきた獅子劫は、工房作りに取り掛かるでもなく、シギショアラの街をうろついていた。
『おっ、この店はいいな! マスター、ここ入ってくれ』
「……あぁ」
モードレッドが指したのは、女性服を扱うブティックである。秋服を着たマネキンが立ち並ぶ華やかな店構えで、決して疵顔の男がひとりでふらりと立ち入るような店ではない。
「ま、約束は約束だ」
堂々入れば意外と目立たないものである。決心を固め、扉を潜った。
「全く、酷い目に遭った……」
「まあまあ、いいじゃねえか。巧い言い訳だったと思うぜ?」
ケラケラとモードレッドの笑う声が響いた。
彼女はもう現代の服を身に纏い、その引き締まった体躯を惜しげもなく公道に晒していた。――とはいえ、その凶暴な雰囲気は隠しようもなく、獅子劫の風貌と相俟って、彼らの姿をじろじろ見る者などいなかったが。
さっさと霊体化を解き、突然試着室から姿を見せた時の店員の顔を思い出し、またモードレッドは笑った。
「『違う、俺じゃない、姪に頼まれたんだ』――だったか? あれは傑作だったな!」
「……二度と行かねぇ」
獅子劫はぐったりと肩を落とす。銃弾飛び交う戦場は幾多と越えてきたけれど、こんな恐怖や緊張は初めてのことである。そしてこれが最後になろう。いや、最後にする。固く決意する。
「そう落ち込むなって! あれはあれで――む」
「どうした?」
突如声を落としたモードレッドに、獅子劫は即座に警戒態勢に入る。
「――
「ああ……。だがマスターの気配しかしない。サーヴァントは霊体化したままか……もしくは」
「こそこそ遠くから窺ってやがるかってことだな。ハン……クソ面白くもねえ」
警戒を最大限に引き上げつつ、獅子劫は考えを走らせる。
ここで”黒”の陣営が仕掛けてくる利は――まずないだろう。現状、彼らにとっての最善手は城塞で防備を固めることのはず。未だ合流していないというアサシンの線もあるが、それならここまで気配をダダ漏れにすることはあるまい。
とすると……。
「”赤”のアーチャーか」
同じ結論に至ったのか、モードレッドが口の端を歪めた。
「だろうな」
獅子劫は、先刻協会にてシロウと名乗る神父と交わした会話を思い出した。
「我が”赤”の陣営には、既に
「五騎? 残りは俺たちと、あとはどのサーヴァントだ?」
「アーチャーですよ。まだこの教会にも顔を見せていません。何か不測の事態があったのでは、と思うのですが……」
「不測の事態、ねぇ……」
魔術協会が選出した魔術師は、誰も彼もが一流である。仮に事故があったとして、死ぬような人選ではない。とすると。
「オレたちと同じく、あのアサシンどもの怪しさに気づいたってことか――それも対面する前に? そいつはなかなか……」
やるじゃねえか、という言葉を呑み込んで、モードレッドは獅子劫に目配せする。
決して少なくない人通りの中、二人の眼は過たず、ある青年を見据えていた――。
「ああまさかこんな遅くなるなんて……。店長怒ってるよなあ、どうしよう馘になったら。子供恐い……。見境なく走り回る子供恐い……。何度車に轢かれると思ったことか……」
――片手に鞄を提げ、独り言を漏らしながら足早に歩く青年の姿を。