少女は泡沫にて漂う。
唯一記憶に残った彼との再会を夢見て。
その後は何の変化も無く時間が流れた。体感で一週間くらいか。不思議と時間の経過による変化が見えないので分かりにくいがあの空間とは違い、はっきりとした景色が存在しているので地味に助かっている。もしもあの時と同じ空間に1人でいたのなら、今頃精神が崩壊していたかもしれない。
この場所には誰も来ない……いや、時折人影らしきものは見えるのだが、ここまで来ないで現れる巨人のようなものに追いかけ回されているだけだ。人影は逃げるか戦おうとしているが、巨人というサイズの違いからなのか吹き飛ばされて炎のような物に変えられている。
だけどあの真っ赤な人は何だったのだろうか。人を襲っていた巨人だが、あの真っ赤な人の言う事には従っているように見えた。
今日も誰も来ない。こればかりは気長に待つしか無いだろう。私がここにいる事を私は知っているが、あの記憶にあった彼は知らないのだから。私の最後に立ち会って涙を流してくれていたからそんなに浅い仲では無いと思われる。だけど、だからここには来れない可能性もあった。
私がこのまま消える前に来て欲しい。早く来れば良いけど、時間が掛かっても構わない。きっと彼と出会った時に、私は自分の正体を知る事が出来るから。
あの空間に居たからなのか、私は自分の事が分からなくなってしまっていた。記憶喪失とかその辺りなのだろう。普通ならば不安になるだろうが、私は
今日も来ないかと残念に思い、いつも通りに彼に見つけられて自身の存在を確定させた時にどうしようかと考えているとーーー
「ーーー変わらないなここは。泣きたくなる程に」
「ーーーそう簡単に変わる訳が無いでしょ?」
ーーー猫の耳と尻尾を生やした少女と共に、記憶に唯一残っていた彼が現れた。
「まぁ誰も好き好んでこんな辺鄙な場所に来ないよな。そう言う意味じゃここが荒らされないで良かったけど」
「そんな物好きなんていない……とは言い切れないわね……この間はユージーンが巨人をテイムしてアルヴヘイムに乗り込もうとしていたらしいわよ。キリトたちが駆けつけてどうにかなったらしいけど」
「本当にあいつは何したいんだか」
ユージーンがキチガイを超えたただの狂人にしか思えなくなってしまったが、頭を振り払ってその考えを外に出す。今日は藍子の墓参りに来たのだ。あんな狂人の事を考えているわけにはいかない。
世界樹の根元、藍子が最後の力を振り絞って傷を付けたその場所に花束を置く。現実世界でも暇を見つけて墓参りには行っているのだが、どうしてもALOのこの場所に足を運ぶことは躊躇われたのだ。きっとシノンについて来てもらっていなかったら、何かと理由を付けて先延ばしにしていたかもしれない。
目を閉じて十字を切り、手を合わせる。シノンもそれに合わせて藍子に向かって祈りを捧げていた。どうか良い旅を、次の人生では健康な身体で木綿季と一緒に生きていられるようにと、来世の幸福を願う。
「あぁ、そうだ。保土ケ谷区にあった紺野の家だけど、やっぱり売りに出されてたぞ……買ったけど。キャッシュで!!一括で!!買ったけど!!」
告別式から一週間程で予想していた通りに紺野の家は親戚の手によって売りに出されていた。あの家を取り壊さずに、そのまま売りに出したことは喜ぶべきことなのだろう。藍子と一緒に家を見に行った時に知り合った不動産屋からその話を聞いて、迷わずに銀行から金を引き出して買う事にした。
横浜にあるのでそこに住むと言うことは出来ないが、あの家の名義は俺の物になっている。不動産屋に定期的な掃除を頼んでいるから綺麗なままであるはずだ。高校を卒業したら実家には帰らずに、そのままそこに住む予定になっている。
出来ることならば、詩乃と一緒に住みたいと思うのだが、こればかりは詩乃の家族とも話し合わなければならないだろう。一応去年の冬休みに入ってから出会ったが、爺さんと母さんの名前を出しただけで詩乃の爺さんにはエラく警戒されていたし。逆に詩乃のお婆さんの方は懐かしそうに笑っていたのが印象的だった。
「それじゃあ、また来るから。今度は1人で来たいな」
「一体いつになるのかしらね?」
「出来るだけ早くしたいなぁ……」
祈りを捧げ、伝えることは伝えた。これ以上ここに残ったとしても、彼女は喜ばないだろうから帰る事にする。一応安全地帯に設定されているのでここにはエネミーは寄ってこないのだが、俺たちがいるのを見てここが藍子は最後をここで迎えたのでは無いかと集まって来る可能性がある。
この場所を汚したく無かった。だから、誰にも見つからない内に帰ろうとしたのだがーーー
声にならない声が聞こえた気がした。
祈りと花束を捧げて、彼は少女と一緒に帰ろうとしていた。私に気付く素振りは欠片も見せない。確かに今の私はあやふやな存在で、彼からも認識されないのだが諦められる筈がなかった。
待って、お願い待って。ここにいる、私はここにいる。
彼が紺野の家と言う物の話をしている時に必死になって呼びかけるが彼は気が付かない。そのまま帰ろうとしている。
嫌だ、気が付いて。私はここにいるから、気が付いて。
必死になって咄嗟に出て来たのは私が忘れてしまったはずの彼の名前。あやふやになった手を伸ばしながら、涙交じりの声で叫ぶ。
すると彼は去ろうとしていた足を止め、驚いた様な顔をして振り返った。
「……どうしたの?」
「いや……まさか……!!」
耳では聞こえなかった声がしっかりと脳に届いた。
俺の名前を呼ぶ彼女の声が聞こえた。
死んだはずの少女の、涙交じりの叫び声が聞こえた。
「そこに……いるのか……?」
誰も居ないはずの空間。目で見ても分からず、気配も感じられない。ここには誰も居ないと分かっているーーーなのに、どうしてだか彼女がここにいると俺の心は確信していた。立ち去ろうとしていた足を止めて振り返り、世界樹の根元に近づき、彼女が着けた傷に手を伸ばした。
彼の手が根っこに沈む。それに驚きながらも彼は手を止めずに手首、肘、さらに肩まで腕を入れて探るように動かす。
そしてーーー彼の手が、私の手に触れた。
存在しなかったはずの、あやふやだった私の身体に肉が付く。
霞が掛かったかのように不透明だった記憶が鮮明に蘇る。
ここに来るまでに何があったのか、思い出せなくなってしまったがそんなことはどうでも良かった。また彼と、彼女と一緒の世界に居られることが嬉しくて仕方がないから。肉が付いた手で、伸ばされた彼の手をしっかりと握る。
そして彼の手に引かれながら、私は再びALOの世界に戻って来た。
まるで幽霊でも見る様な2人の顔が面白くって仕方がないのだが、今言うべき言葉は揶揄いの言葉ではない。再会を喜ぶ、素直な言葉だ。