「静かですね……」
「そりゃあ誰もいないからな」
〝エクスキャリバー〟のクエストが公表された時は
「不知火さん、あの根元まで連れて行って下さい」
「はいよ」
繋いでいた藍子の手を引きながら世界樹の根の方へと歩いていく。現実の身体の死が近いからなのか、アバターの操作があやふやになっているようで足に力が入っていないように見える。しかしそれでも彼女は自分の足で歩こうとしていた。だから俺はその意思を組んで、手を引くだけに留める。
普段ならば数十秒で辿り着ける距離を数分掛けて歩き、彼女の求めていた世界樹の根元まで辿り着くことが出来た。
「……着いたぞ」
「ありがとうございます……不知火さん、今日まで私と一緒にいてくれて本当にありがとうございました。貴方には必要ないかもしれないですけど、どうしても1つだけ……私が生きた証を渡したかったんです」
弱々しく握られていた藍子の手が俺の手から離れ、ウインドウを出して何やら操作をする。短い時間でそれを終えると、ランは世界樹の根元に向かってOSSを放つ構えを取る。
俺からは藍子の背中しか見えない。だけど、一瞬だけ彼女が苦しそうにしているのが分かった。止めたかった、無理をするなと言いたかった。だけど、それは彼女の意思を侮辱する行為だと分かっていたから声には出さず、奥歯を噛み締めて堪える事にする。
「アアアアーーーッ!!」
ふらりと藍子の身体が揺れて、倒れそうになった瞬間に彼女は気力を振り絞って持ち堪え、世界樹の根元に向かって神速のOSSを叩き込んだ。今までに見た事の無い程の完成度で放たれた神速の抜刀は残像さえ残さずに斬ったという結果だけを残す。文字通りに死力を振り絞って放たれた一閃は破壊不能オブジェクトであったはずの世界樹の根元に大きな傷跡を付けた。
そして傷跡の中心部分に小さな紋章が回転しながら、四角い羊皮紙と共に現れる。その羊皮紙は白く光る紋章を写し取ると、端から細く巻き上がっていく。藍子は張り切った刀を鞘に納めずにそのまま手放すと右手を伸ばし、宙に浮いたままの羊皮紙を掴んだ。
その直後、彼女の身体は糸が切れた人形のように崩れ落ちそうになる。予想は出来ていたので駆け寄って倒れようとする身体を支え、抱きかかえる。
「お疲れさん」
「えぇ……とっても疲れました……身体に力が入らなくて……それに何だか凄く眠たいんです……」
「……そうか」
ハラスメントコードが現れてもおかしく無い程に俺と藍子は密着しているというのに、彼女からはつい先程まで感じられていた生気を全く感じなかった。彼女の終わりがすぐそこまで近づいている、眠気に負けて眠ってしまえばそのまま死んでしまうだろう。
寝るな、起きろと頬を張ってやりたかった。
死ぬんじゃない、生きてくれと叫びたかった。
涙腺が緩んで涙が出て来そうになるーーーそれを堪える。辛気臭い顔で別れてしまえば、彼女は絶対に安心出来ないから。一雫たりとも零してやるものかと堪えて空元気で笑ってみせる。
「不知火さん……これを受け取って下さい」
そう言って彼女が渡したのはさっき世界樹の根元から出現した羊皮紙。羊皮紙とはいえ紙なので軽いはずなのだが、今の彼女はその重さでさえ辛いのか羊皮紙を持つ手は震えていた。
「これは?」
「私の作ったOSSです……不知火さんは簡単に真似してくれましたけど……私は貴方に使って欲しい……貴方にだけ……使って欲しいんです……だから……」
「……あぁ」
羊皮紙を受け取り、一生開くつもりのなかったOSS設定画面を開く。そして羊皮紙を画面の上に置くとそれは光となってたちまち消滅する。失敗なのかと思ったが、何もなかったはずの画面にはしっかりと新たなOSSの名前がーーー俺と同じ、〝不知火〟という名前が書き込まれていた。
「技の名前は……不知火さんからお借りしました……いるかも分からなかった貴方との繋がりが欲しくて……夢の中の無敵のヒーローだった貴方の力を少しでも分けて貰いたくて……」
「……著名権の侵害だな、訴えてやろうか?」
「……フフッ、そうなったら……法廷で会えますね……」
いつもならば息をするように出てくるはずの軽口なのだが今に限ってキレがない。小馬鹿にするような物言いだったはずなのに、声が震えてしまっているので台無しだ。それが可笑しいのか、藍子も笑っていた。
「あぁ……眠いです……でも……寝たくない……」
「だったら話そうぜ?大切な事、どうでもいい事、悲しいことに嬉しい事。頭を働かせて口を動かしてれば、寝ないだろうしな」
「ーーーフフッ、凄いですね……シュピーゲルさんは……」
「ーーーあぁそうさ、あいつは凄いんだ。いつもはキチガイでヘタレで小心者で臆病な怖がりの癖に、肝心な時に限って格好良くなる。BoBじゃああいつのおかげで俺はステルベンに勝てたんだぜ?」
目が霞んで身体が動かない。彼に抱き締められているのに、いつもは煩いくらいに弾む心臓も少しずつ弱まっているのが分かる。
こんな状態になってからどのくらい彼と話したのか、時間感覚さえあやふやになっているのか分からない。だけど彼はその間ずっと話し続けてくれた。私の知らない人物や光景をイメージしやすいように事細かに説明して、私が飽きないようにと話す話題を変えてくれている。
彼は優しく笑っていたーーー嘘だ、本当ならば泣き出したいはずだ。
涙を少しも流さないーーー嘘だ、声が震えているのを必死に隠そうとしている。
「不知火さん……」
「ん?どうした?」
「私……ずっと考えてたことがあったんですよ……病気になって……たくさんの人に苦労をさせて……そんな私が……生きていても良いのかなって……」
私と木綿季、そしてお父さんもお母さんも病気と闘って生きていた。その日々はとても苦しく、どうしてこんなことをしているんだろうと考えたことは一度や二度ではない。本当に生きていても良いのか?今すぐに死んだ方が良いのではないのか?そう考えていた時期もあった。
「馬鹿、良いに決まってるだろ?
「えぇ……3年前……夢の中の不知火さんを見た時……この人ならそんなことを言いそうだなって……思いました……」
「成る程、流石は俺だ」
夢の中で、
そうして彼の事が気になり、鋼鉄の城での夢を見続けて彼の事をよく知っていく内に彼の事が好きになり……ある時、気が付いたのだ。
だから私は今日まで生きていた。死にたくない、生きたいと思い願って現実の世界を捨ててVRMMOの世界の住人になった。もしかしたらこの世界にいるのかも知らない彼に出会えることを願って。
そうして彼に会う事が出来た。夢の中で見た姿よりも幾分か若かったものの言動や思考は変わらない、
「ねぇ……少し……顔を下げて貰えますか……?」
「こうか?」
私の言葉通りに下げられた不知火さんの顔、物理的に近くなった距離を死力を振り絞って身体を起こす事でゼロにする。ゼロになった時間は2秒か、1秒か、もしかしたらもっと短いのかもしれない。だけど私にとってその時間は永遠に等しく、力尽きて崩れ落ちるまでそれは続いた。
「フフッ……キスしちゃいました……」
「……一応彼女持ちだって理解してる?」
「えぇ……分かってますよ……だけど……私も……不知火さんの事が……好きなんですよ……」
私が恋をした彼の隣にはすでに詩乃さんがいた。これが嫌っている相手だったなら略奪愛に走っていたかもしれないが、残念ながら私は彼女の事を好いている。それに不知火さんの隣に立つ詩乃の姿があまりにも自然で、一目見た時からあぁ彼女なら仕方がないと思った。
だけど、彼の事が好きだって気持ちには変わりはない。夢というフィルターを通した気持ちなのかもしれない。偽物だと、勘違いだと言われるかもしれないが、私はこの気持ちが紛れもなく本物なのだと信じてる。
「……ごめん、俺は詩乃の事が大切だから……」
どさくさに紛れるように想いを告げたが予想していた通りに断られてしまった。残念だと、少しだけガッカリしてーーー
「だけど、もしも詩乃よりも先に藍子に出会っていたら、その時は藍子を選んでいたと思う」
「ーーー」
ーーー不意打ちでかけられた言葉に弱まっていた心臓が強く跳ね上がった。
あぁ、彼は本当に卑怯だ。いつもはキチガイじみた言動をしている癖に、こういう時に格好良くなるから。
「そうですか……ちょっとだけ……残念ですね……」
「ちょっとだけか」
「ちょっとだけ……です……」
そんな未来があったのならどれだけ幸福だったのだろうと想像してしまう。だけど、それだけだ。所詮それは可能性の話でしかないのだから。
「ふぅ……疲れました……」
「……寝るのか?」
「はい……もう……長い間起きていましたから……」
もう瞼を開け続けられる程の力は残っておらず、自然と下がってボヤけている視界を狭めていく。何も認識が出来ないはずの世界で、何故だか
「そうか……お休み、藍子。良い眠りを」
「はい……お休み……なさい……不知火……さん……」
全身を包んでくれる彼の温もりと、左手から感じられるここにはいないはずの彼女の温もりを感じながら瞼を閉じる。1人で死ぬ事を覚悟していたのに最愛の人に抱かれ、現実でも私を見送ってくれる人がいる。
その事に満足しながら、視界が真っ暗になるその刹那にーーーもう少し生きたかったと思いながら。
「ーーーお休み、藍子」
返事が返ってくることはない。
満足して逝ったのだろうーーー彼女の顔には満面の笑みが浮かんでいた。
未練を残したのだろうーーー彼女の目からは一筋の雫が流れていた。
もっと生きたかったのだろうーーー死に間際に彼女は、死にたくないなぁと声にならない声を出していたのを聞いた。