……東方大陸、ですか?……
「ああ、本当ならエウロペを回った後に行く計画だった」
……もしかして、レッドラストで伯父様の申し出を失礼な言い訳で断ろうとした理由って……
「実はそうだったんだ。ロブ平原に立ち寄ったのも、一度デルポイに戻り、資金集めを含めた渡航準備のためだった。偶然君と再会しなければ、あの後東方大陸に渡っていたはずだ」
……あなたの放浪癖は知っていましたが、そんなことを考えていたのですね……
「東方大陸は、
……そんな場所に行って、戦争が起こって帰れなくなったらどうするつもりだったのですか……
「この惑星は広い。東方大陸、そしていつか南方大陸まで冒険して、その地でまた新しいゾイドに出会いたい。その為にも、戦争なんか起きない世界を一刻も早く築き、この惑星を自由に行き来できるようにするのが夢なんだ。だから頑張っているんだよ」
……あなたがいつも口にしていた平和な世界を作るという目的は、それだったのですね……
「ミスターの様な博愛主義者にはなれないからね。でも、自分の趣味の為に平和を築くというのも現実的だろう。君は軽蔑するかい?」
……いいえ、あなたらしくて素敵だと思います。いつの日にか、リチャードと一緒に行ってみたい、東方大陸に……。
夢を見ていた。
岩陰に落下した仮設シートを立て掛け、疲れ切った身体を横たえたことまでは覚えている。微睡みであったのか、過労の為一時的に意識を失っていたのかは釈然としない。眼下に首都を望みつつ、いつしかエレナは生前のリチャードと交わした過去の記憶が蘇っていた。
鼻につく硝煙の匂いが現実に引き戻した時、漠然とではあるが彼女は自分の目指すべき新天地に思いを馳せていた。
東方大陸。そのまだ見ぬ大地こそが、自分にとって新天地と成り得るのではないか。近年漸く交流を開始したばかりで、エウロペ以上に未知の場所である。しかし、そこであれば自分の出自は問われる事無く心穏やかに過ごせるのではないかと。
渡航手段は? 一人きりで生活できるのか? 住民は温和なのか、また文化水準は?
何もかも判らない。それでも、再会した時の鍔広の帽子を目深に被ったリチャードの姿を思い出し、エレナは花のように笑った。
「あなたは逞しかったのですね」
小箱を抱え立ち上る。丘から見下ろすヘリックシティーは、次第に火災も下火になっている。大規模破壊を望まないヴォルフは、最低限の戦闘を以て都市機能の維持を命じ、迅速な消火活動を行った。これは占領統治後の共和国国民へのアピールでもある。
隧道に侵入した部隊と、セイバリオンを含む脱出部隊を追ったため、市街地で稼働するネオゼネバス帝国軍ゾイドも減っている。共和国軍が一方的に圧倒されたことも、首都の荒廃を避ける理由となった。
さよなら、ヘリックシティー。おじさまの築いた町、そして私の故郷。
エレナは心の中で別れを告げ、東に向けて歩み出した。繰り返される別れを胸に、エレナは海を目差していた。
しかし、運命は彼女を時代の拘束から容易に解き放つことはなかった。
5つの脱出ルートをそれぞれ追ったネオゼネバス帝国の追撃部隊は、4つまでの脱出機を捕捉し、それぞれにルイーズ大統領が乗っていないことを確認していた。内2機は、パイロット共々ゾイドごと黒鉛の如く炭化して撃破されたが、大統領らしき死体は確認されなかった。ヴォルフにしてみれば、共和国脱出部隊が三つに分離していることも掌握しており、更に彼の中で、第四の選択肢としてルイーズ大統領が脱出を試みるのではないかという憶測を生んだ。それは民間人に紛れての包囲網の脱出である。対策として市街に戒厳令を布くと同時に、首都周辺の境界付近に小型ゾイドを伴った検問所を多数配置し、森林地帯を含む大規模な大統領捕獲作戦を発動させた。如何にしてもヴォルフは、ルイーズ大統領を捕縛したかったのだ。何機ものゾイドが群れを成し、大統領の捜索を開始した。そして後方から万全の防衛態勢を整えるために、ダークスパイナーとそのジャミングウェーブに操られ、無人のまま稼働する無数の共和国軍ゾイドをも随伴させていた。
そうと知らないエレナは、無防備に山の稜線に沿って無心に海を目指していた。全ての地位を擲ってしまい、疲労も手伝って、緊張感も警戒感も途切れていたのだ。索敵能力にも優れた小型飛行ゾイドが、頭上を音もなく哨戒飛行をしていることも気付かずに。
「ダークスパイナー3機、及び鹵獲したゾイドを伴い、山岳地帯を逃亡中と思われる人物を確保せよ。ズィグナー、この作戦を最後に、ルイーズ大統領探索は諦める。あとは皇帝である私がこの大陸を纏めて見せる。いいな」
「御意のままに。最終作戦としてのダークスパイナー部隊を回します」
補佐官が機敏に命令を伝える傍らで、ヴォルフは唇を固く噛み締めていた。
期待はしていない。今度もきっと違うだろう。
それでもけじめをつけたかった。
彼は共和国大統領を確保した後に、捕虜としてではなく、為政者の心得とはどんなものなのか、真剣に尋ねようと密かに思っていた。彼は頼られるばかりではなく、頼れる存在が欲しかった。それはズィグナーのような信用できる家臣ではなく、父ギュンターの如く自分を包み込んでくれるような存在だ。10年以上共和国の指導者として統治してきたルイーズ・キャムフォード大統領であれば、彼が為政者として成長する手掛かりが得られるのではないかという淡い期待を抱いていた。
「所詮、勝手な夢さ」
聞こえぬように、ヴォルフは呟いていた。
山の斜面に貼り付く様に刻まれた狭い山道を辿り、エレナは歩き続けていた。小箱を背中に括り付け、暗い山道を手探りで進む。脚力に自信はあったが、やはり肉体の衰えは避けられなかった。唯一の幸いは、セイバリオンに搭乗する際、耐久性に優れたパイロットスーツに着替えていたことだ。落下の衝撃や茂みの小枝から、彼女を傷つけることなく守ってくれた。ただ、ヘルメットだけは視界が狭まるため脱いでしまっていた。
眼鏡が土と煙で汚れ、前方の確認が難しい。不安定な足場で、ハンカチを取り出し汚れを拭う。しかし汚れはこびり付き、簡単には拭いきれなかった。
「こんなものですね」
エレナは立ち止まり、息を吹きかけ悠然とレンズを拭いた。
曇っていては、見えるものも見えなくなる。
拭き終わり、再びかけ直したレンズの先に、エレナは不思議な物体を発見した。
赤いドーム状のものが、緩やかに回転しながら接近してくる。森林に阻まれ、全景は見えないが、まるでガスタンクを半球状に切断したようなものだ。接近するに連れ、幾つもの関節が擦れ合う音が響く。典型的な多脚式ゾイドの移動音だ。エレナは身構えた。
ドームの真下から、巨大な鋏とその中で回転するガトリング砲の煌めきを目にした。キラードーム、電子戦に優れた重装甲の蟹型ゾイドであった。
キラードームは既に、グレイヴクアマからの情報を元に索敵し、エレナの位置を把握していた。しかし作戦を確実なものにするため、増援部隊の到着を待っていたのだ。森林を突き破り、巨大な鋏を振り上げたキラードームは、8本の歩脚を忙しげに動かしながらエレナに迫る。エレナは怯まずに、両方の鋏の間をぬって、キラードームとは反対の方向に駆け出した。進むべき道とは別方向だが止むを得ない。山肌から離れ駆け出したエレナをキラードームは牽制を込めてガトリング砲を放つが、ゾイド星特有の金属粒子を含んだ樹木が彼女の盾となり、至近弾を到達させることを阻む。
エレナは安堵していた。あの蟹型ゾイドであれば、森林地帯は最も不得手とするフィールドだ。逃げ切る事も難しくない。ただ、なぜ蟹型ゾイドが単機で接近していたのか不思議であった。
彼女の疑問は、絶望的な解答を提示した。
「ガンスナイパー、スナイプマスター、それにシールドライガーまで」
キャノピーは割れ、コクピットに人影は無い。右腕を失い、左のウィーゼルユニットを欠くガンスナイパーが項垂れたまま立ち塞がった。小刻みに振動し、漸く稼働している。
最大の特徴であるロングレンジスナイパーライフルを備えた尾部を途中から失い、ザンスマッシャーもだらしなく垂れ下がったスナイプマスターは、口腔から漏れ出した循環液を滴らせている。
インタークーラーを失い、右のレーザーサーベルの折れたシールドライガーは、高速ゾイドとは思えないほど緩慢な動きで迫って来る。見れば、右前足は関節と逆方向に曲がり、右後脚も動かないまま引き摺られている。どの機体も稼働不能と言えるほどの損傷を受けている。幽鬼の如く迫る無人の共和国ゾイドの奥で、背鰭を蠢かすゾイドがある。背鰭に印されたピンク色の光が、群れた別生物の眼光の様に輝く。ジャミングウェーブによって無人ゾイドの操縦をしているのだ。背後にはキラードーム、前方には半壊した共和国鹵獲ゾイド、そしてダークスパイナー。エレナは完全に取り囲まれていた。
シールドライガーのストライクレーザークローは、鋭さの欠片もなく地表に叩きつけられる。ガンスナイパーもスナイプマスターも、身体ごと覆い被さるように彼女の退路を断つ。歓喜の踊りを捧げるかのように、ダークスパイナーの背鰭が怪しいピンク色の紋様を揺らめかせる。
歩兵部隊が到着してしまえば終わりだ。最悪の予測が現実になるのは近い。
「ここまでなの……」
エレナは悔しさに天を仰いだ。薄らと水平線が白んでいる。絶望的な夜明けを迎えるのか。共和国首都の陥落と、大統領捕縛という絶望的事実を国民に知らしめて。
潔く自決をすればいいのか。
だだ、自ら命を絶つことだけは、やはり選べなかった。生命に対する冒涜は避けたかったからだ。
涙がエレナの頬を濡らす。悲しいからか、悔しいからかは判らない。自分に負けた気がした。これまでの努力が水泡に帰した気がした。自分のやってきたことが全否定された気がした。寂しくて仕方なかった。
「リチャード、お父様」
苦し紛れに、愛しい人々の名前を叫んでいた。だが、最初に叫んだ二人は、すでにこの世に存在してはいなかった。
「シュウ! キャロル!」
二人がいま何処にいるか、この混乱の中では確認できない。
「ブローニャ、セーラブ先生」
遠くエウロペの地で診療を続ける友の名を呼んでも、届くはずもない。
「マイケル先生」
優秀な技師、そして勇敢な戦士も年老いた。
「ロブ……」
遠くニクスの地で連絡を絶った息子の名前を呼んでも、今はあまりに遠すぎる。
もう、叫ぶ名前も無かった。自分にはもう、頼れる人は残っていない。
エレナの心は崩れ落ちる寸前であった。
ふと、もう一人だけ思い浮かんだ名前があった。遠い記憶に封じ込められていた名前だ。忘れていたのに、こんな時に思い出すなど。
エレナは無心にその名を叫んでいた。
「シュテルマー!」
幽鬼の如きシールドライガーが弾丸の様に薙ぎ払われ吹き飛んだ。
巨大な剛腕が、ガンスナイパーとスナイプマスターを同時に掴むと、頸部を持ったまま思いきり樹木目掛けて叩き付け、串刺しにする。怯むキラードームを蹴り上げ、ダークスパイナーに投げつけると、背鰭に命中しバランスを崩して横倒しとなった。
エレナの目の前に、赤い小山の様なゾイドが聳え立っていた。
「アイアンコングMk-2……まさか」
PKの存在を知らず、ましてE型を知らないエレナは、その赤いコングを伝説の赤い悪魔と同一視していた。しかし、その機体を操作しているのは謎のコマンドーではない。関節の可動域を広げたアイアンコングEは、頭部コクピットを地表面ぎりぎりまで落としハッチを開く。ヘルメットを脱いだ下から現れたのは、鋭い眼光を放つゼネバス帝国兵であった。
彼も彼女と同じように年老いていた。左腕は力無く
「飛び立った籠の鳥を求めて烏兎怱怱、やっと巡り合うことができました」
間違いない。あの日交わした言葉の答えだ。込み上げる想いを抑えながらエレナが告げる。
「そこに気まぐれな鳥が舞い戻る止まり木はありますか」
操縦席の彼は、深く刻まれた眉間の皺を綻ばせる。
「この止まり木は野生と同じく過酷なもの。それと御承知おきならばお戻りください」
「はい」
迷いは無かった。エレナはアイアンコングEの並列タンデムの操縦席に這い上がる。
二人を乗せたアイアンコングEのコクピットハッチが閉じ、コングの眼は鮮やかに輝いた。