49(2099年)
何人もの子どもたちが、ローザを囲んで笑っている。思わず踊り出したくなる軽快で単純なメロディもあれば、ゆったりと郷愁を誘う穏やかな曲も流れてくる。原色で彩られた鮮やかな絵画や工作物が壁一面に掲示され、中にはゴジュラスやウルトラザウルスを描いたと思われるものも多い。
子どもたちの笑顔はどこまでも明るく純粋だ。甲高く嬌声を上げる子もいるが、いまのエレナにとっては最高の励みであった。
「あ、大統領」
年長の男の子が、指を差してエレナを見る。
「テイヤール君、人を指さしちゃだめよ」
男の子は気にもせずにエレナを見つめ、彼女の元に近づいてくる。
途中、車輪がカーペットの上に落ちた積み木に邪魔され進めなくなった。すると一番近くにいた女の子が無言で積み木を取り除く。
「ありがとう」
車椅子の男の子は大きな声でお礼をしたが、女の子は無言のまま微笑むだけであった。
「みんな、相変わらず元気ですね」
「本当に。でも、だからこそ油断はできないの」
言葉とは裏腹に、ローザの笑顔は子どもたちに負けない。どこにでもあるような保育施設だ。敢えて違いを挙げれば、そこが身体機能や知的能力に障害を持つ子どもたちの集まる児童養護施設であるという点だけだった。
ヘリックが永逝した後、ローザは残された長い余生を未亡人という位置づけで満足するような女性ではなかった。かつて親衛隊に所属し、ゾイドの操縦から格闘技に至る技能を習得していたにも関わらず、彼女が選んだのは意外にも知的障害児に関わる施設を運営することであった。
ガイロス皇帝が最初に授かった嬰児を見捨てたように、戦時の特異性は障害を持つ人々に優しくはなく、それはヘリック共和国内に於いても程度の差こそあれ変わりはなかった。
リチャードのような熟練した兵士救済の手段としては、義手や義足、精神衛生上の治療措置など手厚い看護は与えられたが、成育後にも国家に貢献する可能性の低い、特に知的な障害を有する児童には共和国政府は充分な援助を施すこともなく、飽くまで家庭の問題として黙視してきた。
ローザの考えは違っていた。夫の死後、ヘリックシティーの議場で立場を越えて訴えた。
「優しさとは、強い人に与えるのではなく、弱い人と共有するものです」
反対意見も多数見受けられ、彼女の提案は否決寸前であったが、ヘリックの残した資産と生前親交のあった人脈を駆使し、漸く承認の議決を獲得した。
ヘリックの生前よりも、むしろ彼女の活躍は精彩を放っていった。連邦共和国内に次々と養護施設を創設し、それまで各家庭の奥に隠され健常者達からの目に触れることを避けてきた児童達を次々と受け入れ、その教育に全力を尽くしていく。当初、周囲の先入観による揶揄と、彼女の元大統領夫人という立場からの無用な疑念のため運営に齟齬が生じる場面も多々あったが、粘り強い説得と、彼女の何事にも負けない努力が理解を生み、着実に施設の運営は軌道に乗っていった。
「弱者を見捨てることは自分を見捨てることです。なぜならいつ自分が弱者の立場になるかわからないのだから。そして彼らは私たちに多くの貴重なものを学ばせてくれます。弱い者への優しさを知れば、他の誰に対しても優しくなれるのだから」
彼女はまるで慈母のように全てを包み込んで、児童の救済を訴え続けていた。2099年の時点では、既にローザは名誉職に退いても良い年齢であったが、彼女は子どもたちの中に飛び込んでいき、一緒に遊ぶのが常であった。
「ぼく、デスザウラー、さいきょう」
「ゴルドスがやられて泣いちゃったわ」
視線が子どもと同じだ。そして輝いている。
「今度はケンタウロスで勝負よ」
「ずるい! かいぞうゾイド、いはん」
エレナより年上のはずなのに、エレナにはローザが自分より若々しく見えた。
「ルイーズもいらっしゃいよ。遊びましょう」
喃語しか発声できないが、明るく微笑む女の子。平衡感覚に障害を持つため、覚束ない足取りで近寄り袖に縋り付く男の子。管の着いた機械を背負ったまま、緩慢に歩く女の子。瞳は虚ろで視線が定まらないが、どこまでも明るく笑う男の子。
互いの障害を補い、助け合って遊んでいる。玩具は均等に配分され、唾液が口元から流れている子には別の子どもが拭いてあげている。会話のできない子にはハイタッチをしてメッセージを送り、トイレに行けない子を車椅子の別の子が手をとって連れていく。
「あぶないよ」
見れば、かなり身長も伸びた男の子が盛んにその場で垂直に跳び上がっている。トランス状態に陥っているのか、嬉しいとも苛立たしいとも判らず、ただ無為に垂直に跳躍を繰り返す。周囲には小さな子もいれば、足元には踏めば必ず足を取られて転んでしまう積み木も転がっている。
ローザが手を差し伸べる前に、明らかに年下と思える視点の定まらない女の子が、跳躍を繰りかえす男の子の手を握って窘(たしな)める。
「だいじょうぶ。みんないっしょ」
視線を女の子に向けた男の子は更に二回ほど跳んだ後、輝く様な笑顔を浮かべてカーペットに座り込んで床のおもちゃで遊び始めた。
障害の垣根など存在しない。みんな同じ星に住む友だちとして尊重し合っている。なんて素敵な光景だろう。
エレナは足元にあった素朴なゾイドのおもちゃを拾い上げた。思い出深いゾイドだ。あの日の出来事が蘇る。
「よおし、このガンブラスターで遊ぶわよ。
どこからでもかかってこい! でもなるべく正面から」
子どもたちが笑った。エレナが遊びの輪に入ると、すぐに歓声に包まれた。
夕方、帰宅を促す唄が流れるまで、彼女は子どもたちと遊び続けた。
※
くたくたになり応接間のソファーにもたれ掛りながらも、エレナは心地よい疲労感を味わっていた。
「本当は、この様な事でローザさんに御迷惑はお掛けしたくはなかった。ただ、どうしても自分を納得させることができないのです。誰かに話を聞いて欲しかった」
ローザにも、エレナが何の目的で自分を訪ねたのか予想はついていた。
「わかっていますよ。大統領職の激務と心労は」
エレナとは対照的に、終日子どもたちと遊び通し、カーペットの上を一緒に駆け回っていたにも係わらず、ローザは背筋を伸ばし、優雅で気品ある姿勢を崩してはいない。
(さすが元親衛隊。鍛え方が違うのね)
二の腕と首筋を軽く叩き、エレナも姿勢を正そうとしたが、すぐに断念した。その姿勢の如く、今の彼女は心身ともに疲れ切っていたのだった。
「議会が紛糾しているのね。やはり西方大陸へのガイロス軍進駐問題ですか」
「悩んでいます。この国が採るべき道を。
ニクシー基地への大部隊駐屯ばかりを問題視していますが、そもそも原因を作ったのは共和国です。エウロペに眠る古代ゾイド文明の未知のテクノロジーを始め、独自の進化を遂げたゾイド野生体、地下に眠る大量の金属鉱脈、そして未開発の広大な大地を求め、我が国は、政府主導による大規模入植を行いました……」
ヘリック共和国連邦の各州国は、増大した人口と大異変の復興事業完了に伴う新たな建設業の発展先を求めて流離う資本の投資先として、民意を建前にして西方大陸に先を争うように入植していた。
帝国軍ニクシー基地からも遠く、温暖で四季の変化に富む南エウロペ大陸に統治の既成事実を成立させるために、共和国はイセリナ山東方に早々とニューヘリックシティーを建設し、多数のコロニーを周囲に衛星都市の如く据え付ける。北エウロペを中心としたそれまでの入植は、個人規模の穏やかなものであったが、ニューヘリックシティー建設は意表を突く形で行われたため、帝国の態度を一層硬化させていた。
「戦争は回避したい。でも、因果応報とも言えますが、こちらが戦争に応ずることを待ち望むかのようにガイロス帝国はこれ見よがしに軍を投入してくる。交渉の場を提示しても、帝国の摂政職に就いた人物はそれを黙殺し、相変わらずレッドラストの戦い以来正式な国交は断絶したままです。
正体の見えない存在は、徒(いたずら)に不安を煽ります。識者であれば自制も利きますが、大衆受けをする開戦論を振り翳(かざ)し、世論を無責任に誘導する輩(やから)も見受けられます。
民主主義とは、民意を背景に営まれるものと考えていますが、孤立した大衆が個々の要求だけを無為に主張しはじめたら、それはただの利己主義です。このような世情を、もし伯父様が御存命であれば、何と答えただろうかと思うのです」
ローザは静かに頷(うなず)きながら傾聴していた。エレナにしても、結論が出ないことを知っていた。
「私にもわからないわ、あの人だったらどう決断したか。きっとルイーズと同じく悩み抜いたでしょう。でもあなたの公約通り、戦争を避けて経済の発展を重視し、国民が平和で豊かな生活を築き上げたことは評価できると思いますよ」
「ええ、確かに。ですが繁栄の裏側には大いなる矛盾が潜んでいました。資本は常に更なる投資先を必要とします。経済発展の目標値を達成すれば、今度は更に上の目標達成が求められる。あたかもそれは“無間地獄”と呼ばれる永遠に続く欲望を満たす連鎖を生み出しました」
「お金を大切にする事は否定しません。ですが、お金で買える幸せはお金が無くなれば不幸になります。『経済発展によって大事なものを無くしてしまった』と嘆く人がいますが、それは間違っています。
無くしてはいません。お金で買えない幸せが見えなくなっているだけです。それに気付くことが、対立を防ぐ手掛かりとなるのではないでしょうか。
ルイーズは、なぜ私がこの施設を始めようと考えたと思いますか」
素直に思っていたことを告げる。
「子どもが好きだから。そして心身に障害を持つ人達を助けてあげたかったから、でしょうか」
ローザは静かに笑った。
「買いかぶり過ぎよ。私はそんなに立派な人間ではないわ。私は、私が大好きで、私が幸せになりたかったから始めたことなのです」
その言葉を聞いた瞬間、エレナの脳裏に閃光が奔る。ガニメデの郊外で出会った深山幽谷の人物の言葉と重なったのだ。ローザは続ける。
「知ってしまったの。とても多くの子どもたちが、日の当たる場所に出ることなく、一生を暗い部屋の中で過ごしているのを。
悲しくなりました。その子も、抱え込んでいる家族も。その気持ちは、夫に恵まれ、息子に恵まれ、不自由なく過ごしてきた私を苦しめました。この気持ちを無くすためには、あの日、共和国首都から妹と共に脱出するトンネルの中、まだ結ばれる前のあの人が救いの手を差しだしたように、私自身が動き出さなければどうしようもなくなっていたのです。
先ほどあなたが手にしたガンブラスターのおもちゃは、あなたとあなたの目の前の子ども達に遊んでもらうことで、存在する意味を与えられました。箱の中に入っていたのでは存在しないのと同じです。汚れても、傷ついても、きっと遊んでもらった方が幸せでしょう。
私は誰からも愛されずに生きることは望みません。誰一人例外なく誰かを愛し、誰かに愛されるから生きられるのです。だからその夢を叶えたかった。
あの子たちには将来職業に就いてもらいたい。社会に参加し、一方的に与えられるのではなく与える喜びも伝えたい。誰かの為になる事が自分の幸せに繋がることを。だから出来る限り、お金の価値とは別の尺度で互いを助け合う術を身に付けさせています。そして一応は形にすることが出来きました」
エレナは、子ども同士が助け合っていたことの意味を理解した。ローザが顔を上げてにっこりと微笑む。
「だから今も幸せです」
遠い昔に聞かされた話だ。その時彼女の隣には、結ばれる前の愛する人もいた。思わず涙腺が緩むのを覚え、慌てて眼鏡が曇った振りをして目尻を拭った。
微笑んだ後、ローザは少し硬い表情になる。視線を窓の外に向け星空を見上げた。
「誰かがやらなければならないことを、自分ができるのは貴重です。大統領という立場上泥を被らなければならないことも多い。それが戦争という最悪の行為であれば尚更でしょう。でも、いまあなたが身を引いたらどうなるでしょうか」
核心を突かれた気分であった。例え血塗られた為政者という汚名を負ってでも、やはり自分には正面から立ち向かわなければならない責任がある。
知らぬ内に、また眼鏡が曇っていた。そして滲んだ涙と共に拭き取った。エレナの気持ちを察してか、ローザは話題を変える。
「夫との思い出話をしてもいいですか」
唐突ではあったが、ローザから伯父ヘリックの思い出を聞くのは初めてであった。小さく頷くと、ローザは少し視線を上に向け静かに語り出した。
「結ばれた頃の私は、いつもがむしゃらに突き進む夫の背中に惹かれました。男は、常に成長し続けて欲しかったから。
いつまでも夢ばかり追い続けて、つまらない事に拘ったり、意地を張ったり、裏付けもないプライドを気にしたり。結局何歳になっても子どものまま。言うことをきかないゴジュラスみたいに」
その女性は柔らかな微笑みを浮かべる。
「でも、そこが素敵だった。心の平安が訪れるのは、彼が永遠の眠りに着いてからで構わないと思っていたし、事実そうなりました」
彼女は何かを思い出したように俯き、静かに笑った。きっと素敵な思い出なのだろう。
「損な役回りかもしれない。自己犠牲という言葉が何度も過ったものでした。
自分の人生を割いてまで、女が男の為に尽くすことは不条理だと思う。
でも、多かれ少なかれ、人は誰かに支えられ、そして支えながら生きていくもの。その中で、一番身近になる〝他人〟が愛したひとだと思えるのです。どちらかが犠牲になるのではなく、互いに支え合って生きて来たと考えればいい。
長い生活の間では、腹が立つことも沢山ありました。でも結局許してしまうのが、愛し合っていた証拠です――どうしても許せなければ、先程の言葉の様に考えれば気が楽になりました、“男はゴジュラスと同じ”って――そして先立たれた後も二人が共に歩んだ人生に悔いなく余生を過ごせることは最高の幸せです」
美しい女性だと思った。だがエレナは、自分もローザと同じぐらい美しいだろうと自負した。瞳の奥にはリチャードの笑顔が浮かんでいた。
「ところで博士は何と」
「相変わらずです。“政治に関しては、もう僕の口出しできるものではないよ”と言ったきりで。ただこんなことも言っていましたね。
“超巨大なキャノン砲を、ウルトラザウルスに装備して敵の目の前に突きつければ充分抑止力になるんじゃないか。威力だけを見せつければいいし、長持ちさせなければいいんだろう。なんなら基本設計は任せてくれ”と。
面白そうなことになるとすぐに乗り気になって。キャロルも呆れていましたわ」
「昔から変わらないのね、博士は」
互いの心の絆が見えるかの如く、二人は笑った。
「今日は久しぶりに楽しかった。明日からの活力を得ました」
「議場に戻るのですね。くれぐれも身体を壊さないように。あなたはあなただけのものではないのですから」
「はい、ありがとうございます」
母のような、姉のような友人の言葉だった。
「がんばってね、ルイーズ」
とても素敵な笑顔だった。