『ゼネバスの娘―リフレイン―』   作:城元太

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38(2057年)

 見開いたままの大きな翠緑(すいりょく)の瞳から、止め処なく涙が(こぼ)れ落ちる。黄色いシュシュから(ほつ)れた後れ毛が、濡れた両頬に(まと)わり付く。

 グスタフが牽引するコンテナ内の洗面台の前に立ち、彼女はやっと泣いていたことを知った。

 ブローニャは、感情を抑制できない自分の幼さが苛立たしかった。嗚咽が込み上げることもなく、悲しみに打ち(ひし)がれるわけでもない。幼馴染であり、親友でもあり、尊敬する皇帝陛下の娘である人物の幸せを素直に喜ぶべきと思うのに、この自分とは違う別の「本当の自分」が涙を流させているかのようだった。その証拠に、彼女は張り付いたような笑顔を浮かべたまま泣いていたのだから。

 最初から結末は見えていた。再会したリチャードとエレナとの間は、目に見えない強い絆で繋がれていた。エレナのリチャードへの態度も彼女の心を掻き乱した。エレナほどの高貴で凛々しい女性が、彼と接するときには安心して心を預け、彼もまたそれを受け止めている。

 何気ない仕草、言葉、笑顔。彼の全てが憧れだった。自分の入り込める隙間など無いことは判っているのに、感情の(たか)ぶりを抑えられなかった。今までに付き合った男性もいたし、激しい恋をしたこともあるが、ここまで深い想いを胸に抱いたことはない。それだけ彼が素晴らしい男性なのだろう。

 彼女が自分の敗北をまざまざと見せつけられたのが、あの夜の大統領を交えた会話であった。口惜しかった。精一杯背伸びをして、一生懸命になって会話についていこうとしたにも関わらず、三人は自分の知識の及ばない高い世界で談笑していた。そしてヘリックが暗にリチャードとエレナを結び付けようとしていることと、彼がそれを拒まなかったことが、彼女の心を絶望の淵に立たせた。

(でも、諦められない。私は彼を死ぬほど愛してしまった)

 エレナを(おとし)めて、自分に彼の眼を向けさせることも考えたが、その直後に彼女は自分自身への激しい嫌悪感に(さいな)まれた。彼は絶対に、そんな自分は受け入れてくれないだろう。他人の不幸を願う人間など彼に吊り合わない。

 だから自分にしかできないこと、少なくともエレナ以上に誇れることは何かを必死に考えた。

 鏡面の隣に開いたブラインド付きの窓の隙間から、砂漠の暗闇の中に黄色い警告灯を回転させ、周囲を巡回するエクスグランチュラの機体が僅かに見えた。新型とは言え、虫族の彼女にとっては馴染み深い機体だ。

 かつて自分があれと同種のゾイドを操縦していたことを思い出した。第一次中央大陸戦争で遺棄されていた共和国軍のグランチュラである。村で修理されたグランチュラは、彼女が少女の頃に慣れ親しんだ機体であった。その操縦方法は独特で、蜘蛛型ゾイドの特色を最大限に生かした時、旧式ゾイドとは思えない時速330㎞の瞬間速度をたたき出す。リチャードは幻の野生ゾイドを求めていたことから、間違いなくゾイド好きに違いない。もし自分があのゾイドを上手く操縦すれば、彼を振り向かせることが出来るかもしれない。リチャードの気持ちが少しでも揺れ動いたその時、勇気を奮って告白すれば、或いはチャンスが訪れるかもしれないと。

 短絡的で余りに夢想的な考えと自分を憫笑してみたものの、それが彼女の心の中で出来る精一杯だった。

 明日でこの旅の目的も達成される。せめて彼との旅路を楽しもう。貴重な水の飛沫をあげて顔を洗い、涙の跡を拭った。泣き腫らした頬が薄紅色に上気していた。

 

 翌朝、蚕棚状に壁面に設けられたベッドの上、仕切られたカーテンの向こうからエレナの声が聞こえる。

「ブローニャ、起きてますか。体調でも悪いのですか」

 見れば太陽は既に昇っていた。昨晩は砂の匂いがする枕に顔を埋めたまま寝入ってしまったらしい。頬に枕の跡が残り、瞳も充血している。漸く立ち上がれるほどの個室区画の中で、彼女は自分にとってのこの旅の無意味さを噛み締めていた。

 ついて来なければよかった。

 彼との繋がりを少しでも持ちたいが為に同行したのに、これでは失恋旅行そのもの。

 バカみたい。

 出発に当たって、二人もの有能な看護師を引き抜かれ、困惑するセーラブ医師の顔を思い出す。おとなしく診療所で勤務していれば、こんな気持ちにならずに済んだのかもしれないのに。

 カーテンの向こう側には、まだエレナが待ってくれているようだ。

 あなたは優しい。優し過ぎる。いつもなら、朝日と同時に起きてくる私を気遣ってくれているのだと思う。でも、この気分の落ち込みの原因が、あなたにあるとは言えない。

「ごめんなさい。少ししたら支度をして行きます」

 カーテン越しに、出来る限りの元気な声を取り繕って応える。心なしか声が上ずっている気がした。急かしても悪いと思ったのか、エレナは部屋に戻ったようだ。

 いよいよ講和会談当日だ。周囲の護衛部隊と合わせる為か、グスタフの速度が幾分遅くなっている。

 公私混同は避けよう。エレナには平和の懸け橋になってもらわなければならないのだ。きっと今頃は、エレナも着替えに悪戦苦闘しているころだろう。意外と不器用なところがある。特にファスナーの開け閉めが苦手なのだ。自分がいなければ礼服を着て公式の場に立つことも出来ない。その為に自分がここにいると言い聞かせた。その時の彼女は大人だった。

 昨晩から着たままの衣服を全て脱ぎ捨て、髪を解いて備え付けの強力なブロワーで砂粒を吹き飛ばした。人肌の温風が心地よい。窓の外を流れる風景を見ながら、ブローニャは乳液を掌に載せ、普段より強めに頬を打った。全身の汗を拭い去り、自分の式典用の服装に着替えると、エレナの元へと急いだ。

 

 到着したカシル村は、当時レッドラスト最大のコロニーといわれていたが、赤い水しか湧出しない井戸と、古代文明の石造りの遺跡をそのまま住居に利用した人口200人足らずの寒村であった。会談場所として帝国側からの提案理由は、そこに向かう行程には遮るものが無く、両国にとっても相手の手の内を読み取ることができるとのことだった。

 会談の事前交渉に当たった共和国代表は、若々しい帝国議会外務局担当者の真摯な姿勢に全面的に信頼を置いた。その時点では確かに、帝国側でも交渉の意志はあったが、共和国側では帝国の内情を察知し切れていなかった。

 

 ブローニャは、赤い地平を()(つくば)って、陽炎の向こう側に揺らめく漆黒のゾイド群が接近する姿を視とめた。ギラギラと輝く砂漠の陽射しの下、そのゾイドが存在する一画だけが黒く切り取られたように見える。

 砂漠を渡る風が激しく彼女の頬を叩く。ヘルディガンナーというゾイドを見るのは初めてのことだった。

 彼女の横には、姿勢を硬直させ、ゾイド群を見つめるエレナとヘリック、そして政府随行員の姿がある。硝煙が立ち昇っている。戦闘が始まっていたのだ。

 前方に一斉に護衛のエクスグランチュラが展開し、グスタフの周囲を固める。遠くではドスゴドスと呼ばれた機体が、盛んに敵を蹴り付けている。大異変前の戦闘と比べ小規模なものだったが、両軍の衝突に違いはない。

 彼女にも状況はわかった。エレナはあの時、会談のテーブルに着くことが出来るだけでも成功だと語っていた。しかしテーブルに着くことは(おろ)か、一切の会話も無く会談は決裂したのだ。エレナにとって忌まわしい記憶を持つヘルディガンナーのみが存在し、ガイロス帝国代表団らしき姿を望むことは叶わなかった。

「やはり、無駄だったのでしょうか」

 いままで聞いたことも無い、エレナの深い落胆の溜息だった。

 共和国政府の読み違いは、外交交渉の窓口として認識していたガイロス帝国議会外務局が、実際には殆ど実権を有していないことだった。

 共和国との講和会議を受け入れたのは、当時の新帝都ヴァルハラに発足したばかりの帝国議会であり、その権威は未だ貴族層や軍閥に比べて遥かに低い地位にあった。ガイロス軍は議会の管理下にあるのではなく、皇帝直属の組織として、議会とは独立し並存している。皇太子の後援で成立した議会を快く思わない軍閥は多く、カシル村での講和会議参加を決定した帝国議会を、敢えて会議の開催直前で激しく糾弾した。

 既に会議参加の為のガイロス帝国代表がニクシー基地に到着していたにも拘らず、基地内でこれを拘束し、代わって代表団に見せかけた戦闘部隊をカシル村に向かわせた。当然、これは外交交渉に於いて最低限の礼儀も欠いた許されざるべき行為である。

「ここまで絶望的な結果になるとは、私も思ってもみなかったよ。外交の基本も遵守出来ないとは」

 ヘリックの言葉は重要な意味を含んでいた。外交の基本が成立しないということは、話し合いでの解決が閉ざされることになる。人は言語を媒介として不必要な争いを回避し、文明を培ってきた。言葉が通じることが、共存共栄の近道であると信じた。会話を拒否された時、その道も閉ざされる。

“レッドラストの戦い”と称される帝国側のこの一方的な襲撃は、ガイロス帝国の信用を失墜させると同時に、その杜撰な戦略は軍内部の混乱を覗かせた。

 ガイロス軍の目的はヘリックとエレナの抹殺のはずであるが、大規模な軍を動かしての作戦行動は、最早“暗殺”などと呼べるものではなく、充分に全面戦争の戦端を開かせる切っ掛けと成り得る事件である。無論、全面戦争となっても稼働できるゾイドの数も少なく、大規模戦闘に発展することは不可能であることも見据えての襲撃であったと推察されるが、もし本当にヘリックとエレナの抹殺を計画するのであれば、彼らが軍の護衛を離れた時、つまり講和会議のテーブルに着いてから襲撃すれば確実に殺害できたはずだ。

 わざわざ共和国軍の護衛部隊に守られた状態で襲撃している事実からも、ガイロス軍は最初から二人の殺害を本気で考えていなかったとしか思えない。

 軍閥を中心とする帝国側の抵抗勢力の狙いは、帝国議会の権威を失墜させることと、今後ヘリック共和国との和平交渉など一切行えなくすることのみが目的だった可能性も高い。狙い通り、以降両国政府間で正式な交渉が持たれる機会は永く失われることとなる。

 この襲撃には旧ゼネバス兵は従軍していなかった。当然だ。ゼネバスの忘れ形見エレナを襲撃すると知れば、いつ寝首を掻かれるとも限らない。

 また仮にエレナの暗殺が成功すれば、ガイロス軍に吸収されている旧ゼネバス兵達が一斉に反乱を起こすことも予想される。

 更に、純粋なガイロス兵の中でも厭戦感は高まっており、一部の特佐や少佐の暴走に従うつもりのない兵士も数多くいた。休戦直後の弛緩し切った軍組織と、時宜を読み取れない愚かな士官たちの、これはまるで火遊びの如き戦闘であったといえる。

 始末に負えないのが、事件の当事者達が至って真剣であるということだった。まだよく知らない武器を拾ったとき、それを使ってみたくなるのが、悲しい軍人の悪癖である。彼らはキングゴジュラスの残骸という未知のテクノロジーを拾ってしまっていたのだ。

 地表を突き破って黒い球体が出現した。地下から侵入し布陣していた新型ゾイドヴァルガが一斉攻撃を開始したのだ。

 ブローニャは、ニードルアンカーと呼ばれる機体の固定装置を地表に打ちこんで、必死にヴァルガの体当たりを堪えるエクスグランチュラの姿を目の当たりにしていた。

 進路を急反転させ戦場から退避を試みるグスタフに、ヘルディガンナーが追い縋る。背部からせり上がるロングレンジアサルトライフルの砲身がこちらを狙っていた。

 補給物資を牽引してきたグスタフには、物資輸送以外に重要な使命が課せられていた。会議が決裂し戦闘に至った場合、大統領とエレナの搭乗するグスタフの囮となって守り抜くことだ。そのため仕様は全て統一され、機体番号も遠景からは目視出来ない程度のものしか書かれていない。

 一機が牽引するコンテナを横に向け、ヘルディガンナーの進路を妨げるために停止した。敵と対峙するコンテナの背後に瞬時にエクスグランチュラが這い寄り、コンテナを盾として砲撃戦を開始した。

 豊富な兵装を駆使してヘルディガンナーを牽制する。ある機体はハイブリットガトリング砲で、またある機体は小口径高速キャノン砲で、またある機体はミサイルで。盾となるグスタフも巧みに移動し、動く壁となって敵の進路を塞ぐ。

 ブローニャは、二台目のグスタフが停止しコンテナに横付けとなったエクスグランチュラが瞬時に兵装を換装するのを見た。跳ね上げ式のコンテナの壁は重層構造になっていて充分な耐弾性能を有しているようだ。グランチュラは兵装を満載し再び戦闘へと向かって行く。また別のコンテナからはエクスグランチュラ本体が出撃するのも目にした。

 彼女にとって、人が人の命を奪う行為を目の当たりにするのは初めてであった。緊張感で吐き気を催す。背中の震えが止まらない。迫る黒いゾイドが心底恐ろしかった。

「そんなところにいたのですか。早く隔壁内に退避してください」

 リチャードが力強く彼女の手を引き、要人警護用の分厚い装甲コンテナに向かう。そこにエレナもヘリックも既に退避している。牽引するグスタフに一番近いコンテナであり、途中、むき出しの連結装置の上を何度か渡らなければならなかった。リチャードは外装の手摺に捉まり、右手で彼女を抱きかかえる。義手であれば握力も強く、移動も容易である筈なのに、敢えて彼は生身の右手を使っていた。

「ブローニャ、リチャード、早く、早く!」

 要人警護用コンテナの入り口から身を乗り出したエレナが手招きをしている。薄紫のドレスが硝煙に靡き、束ねた髪も風に叩かれている。差し伸べた細い腕が、頻りに彼女に向けて揺れていた。ブローニャは、リチャードに抱かれたまま、エレナの手に縋りつく為に彼女の手を伸ばした。

 その時の彼女の中には、蓄積してきた悩みと想い、そして戦闘による恐怖心が混在していた。冷静であればそんな行動をすることは無かっただろう。

 あと数センチでエレナの手が届く。

(いつまでもこうして抱かれていたい)

 力強い男性を意識させる温もりに陶酔し、刹那の快楽に身を委ねてしまった。

 ブローニャは開いた花弁が(しお)れるように、伸ばしていた腕を一瞬降ろした。

 その躊躇いが、二人に次なる危機を招き入れたのだった。

 ロングレンジアサルトビーム砲の閃光がコンテナの壁面を舐めるように這い上がる。1秒の何分の1かの照射は、攻撃の意図とは別に、装甲の施されていないコンテナの連結部分を見事に射抜いた。拡散して威力が減退していたとはいえ、真っ赤な火花を散らして黒い鋼鉄の部品が融け落ちる。堪らず身を竦め、後方の装甲コンテナにリチャードがブローニャを抱いたまま仰向けに跳び退いた。

「リチャード! ブローニャ!」

 グスタフに牽引されたままのエレナを載せたコンテナが、薄紫のドレスの裾を翻しながら視界の外へ消えていく。

 武器弾薬を満載した装甲コンテナと共に、二人は戦場に置き去りにされた。

 彼女は自分が取り返しもつかないことをしてしまったのに気が付いた。

 ヘルディガンナーのみならず、ヴァルガの群れも孤立したコンテナ目掛け殺到する。

 砂塵は一層強さを増して吹き荒れていた。

 


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