エレナをゼネバス兵動員の為のプロパガンダとして利用し、シュテルマーの周囲を煩く嗅ぎまわっているという男の存在は聞いていた。
ゼネバスの前に恭しく跪き、謁見を許されたにも関わらず、男はなかなか顔を上げようとしない。
形式通りの儀礼的な会話の後、男は顔を伏せたまま本題を切り出した。
「敵は新たに投入されたペガサス型ゾイドを全面に押し立て、大陸深部の首都方面に向け侵入して来ました。
我が軍も、ガンギャラドやアイスブレーザーなどの新型ゾイドを投入し迎え撃ちましたが、敵は物量に任せて着実に制圧範囲を広げ、カオスケイブ、デビルメイズを越え、現在ニフル湿原にまで迫っております。
最前線で奮戦する勇敢なるゼネバス同志の為にも、是非とも元皇帝陛下のお力添えを願いたく、本日は参内致しました」
共和国軍の進出速度が予想以上に早いことに驚く。そして、かつての同志が戦闘の前面に押し出され、異郷の地で次々と斃れているという現実にも。その男が何を言わんとしているのかは自ずと理解出来た。
「最前線への巡幸をせよ、というのだな」
「御高察の通りでございます」
拒否という選択肢がないことも知っていた。目の前の佐官も態度こそ丁寧だが、立ち居振る舞いの端々に侮蔑とも憐憫とも受け取れるような仕草が見え隠れする。
ゼネバスに再びシニカルな悪戯心が湧き上がって来た。この佐官が自分の要求にどう答えるかを。
「ヴァーノン中佐と申されたな。巡幸に当たり条件を出したい。いつまでも髀肉之嘆を託っているのは性分ではないのだ。
私に一台ゾイドを貸与して頂きたい。小型ゾイド、そうだな、ハンマーロックが良い。私自らが操縦し、戦場に到着すればどれ程兵士を鼓舞できるか」
佐官は徐に顔を上げ、感情の無い平板な口調で答える。貼り付けた様な無表情であった。
「閣下の御要望には最大限沿いたい所存でありますが、突然ゾイドと申されましても。護衛であればダークホーン中隊を随伴させます。御心配には及びません」
かつて皇帝時代には、最低でも十個師団を率いた自分の護衛が、今は中隊規模に低下しているとは。ゼネバスは煮え滾るような屈辱感を必死に抑え、今の彼に出来る限りの丁寧さで、目の前の無表情な佐官に要求を続けた。
「護衛などいらぬ。私を道化師扱いするな」
精一杯抑制して、これがゼネバスの限界であった。佐官は恐れるどころか、先ほどの無表情を崩し口角を上げる。
「わかりました。御用意致しましょう。幸い先日回収したハンマーロックが改修を終えたとの報告を丁度受けております。中央大陸からの最後の機体です。貴重なゾイドですが、どうぞお使いください」
元来の所有者が誰であったのかを知った上で、その男は放言している。彼の逆襲はまだ続いた。
彼はゼネバスを説き伏せる材料を二つ持っていた。鞭と飴の順序で提示するのも、彼の話術の常套手段である。まずは相手の感情を逆撫でし、徹底的に追い詰める情報を事前準備しておくのであった。
「ところで、閣下にお尋ねしたき義が御座います。
閣下は以前、ウラニスク湾の漁民に御自分の書簡を託してはおられませんか」
思わず表情が強張る。瞬時に純朴なタクチェルという若者の顔を思い浮かべた。
「閣下の御名の入った不審な書簡を保持していた漁民がおり、確認のため接収致しました。念のため鑑定したところ、閣下の筆跡に酷似したものでした。
単純な暗号文らしきもので記されていたので、すぐに解析が完了しました。
内容に関しては理解に苦しむ部分もありましたが、少なくとも暗号化のパターンは把握しております。何か御記憶が御座いますか」
再び跪き、時折上目遣いでゼネバスの様子を窺う。返答をせずにいると、構わず彼は続けた。
「我が軍の戦略の基本は、強力な敵は可能な限り引き寄せてから叩くことです。
書簡の信憑性については半信半疑ではありましたが、敵を誘引し兵力を漸減してから本土を攻撃する為に、試みとして〝最終兵器〟を餌に敵に発信してみました。
共和国は見事に策に乗り、ブラッディゲートでの第一次上陸部隊の撃破と、敵の呼称するエントランス湾での攻防戦へ導くことができました。
閣下には、当時ニカイドスで偽名を名乗られていたため、御承認を得られませんでしたが、本日謁見の機会を得られたので、改めて御報告させていただきます」
ゼネバスは身を固くして彼の言葉を聞いていた。
よもや自分の残した書簡が、暗黒軍の手に渡り兄の国を巻き込み戦乱を拡大させたとは。そして現在前面で死闘をしているかつての同胞は、暗黒軍の戦略上、所詮時間稼ぎのための囮に過ぎないことも知った。ゼネバス兵と共和国軍とを戦わせ、敵が疲弊した時期を狙ってガイロス本隊が叩く。なぜ共和国軍の進出速度が早いのかも納得ができた。
兄の国を新たな戦乱へ導き、多くの同胞を戦渦で失い、なおかつ自分を救ってくれた純朴な青年さえも巻き込んでいる。その原因全てが彼自身にあったと気付かされたのだ。
「その時の漁民はどうした」
絞り出すような声で、ゼネバスは尋ねた。
「古びたブラキオスを破壊したというだけで、その他の情報は残っておりませんが」
若者にとって、あのゾイドがどれ程貴重なものか。破壊されたと言うことは、彼も無事ではないだろう。仮に無事であっても漁を続けることは困難となったに違いない。
ゼネバスは、今更ながら己の軽率さに臍を噛んだ。
「どうかお気になさらずに。決して閣下への不審が高まることの無いよう取り計らっておきます」
この男は全てを見越した上で話を持ち出したのか。ゼネバスの思考の中で、気泡が無数に湧き上がってくるかの如く、抑え込んだ怒りの炎が燃え滾っていた。意に介せず男は言葉を繋ぐ。
「それと、本日は閣下にとって由縁のある方をお連れしました。よく御存知の方と思います。旧縁を温め直すのも一興かと」
ヴァーノンが短く合図をする。
背後に人影が現れた。
怒りに満ちていたゼネバスは、その人物を見た瞬間にそれまでとは全く別の感情に支配され言葉を失った。
幾分痩せたかも知れないが、あの頃と殆ど変わってはいない。奥床しく控える姿は彼女の内面をそのまま映し出すかのように。
聞き取れないような、そして聞き逃すことのできない、透き通った懐かしい声がした。
「皇帝陛下、再びお会い出来る機会をお待ちしておりました……」
言葉の末尾は、噎び声となっていた。
「マリー……」
共に暮らした女性が、彼の前にいた。
王宮に設けられたゼネバスの私室に、窓から差し込む白夜の陽射しが、無言のまま立ち尽くす二つの影を長く引いていた。
マリーが召喚されたのは、ヴァーノンの打算によるものである。反骨心旺盛なゼネバスが、容易に巡幸の要求に従わないことを予測し、彼を情報部の意向に従わせるために利用したに過ぎない。鼻先に餌をぶら下げられるような屈辱的な手段ではあるが、全てを納得した上でも、ゼネバスはその手段に懐柔されてしまっていた。
自分の単純さに呆れながらも、互いに魅かれ合い共に暮らした女性との再会は、老境に達している身の上とはいえ切なくも甘い感情が込み上げた。
「姑息な真似をしてくれたものだ」
対峙する沈黙を破ったのはゼネバスであった。
但し、発した言葉も二人の間に漂う重苦しい空気を振り払うほどの効果はない。
再び訪れた沈黙の後、漸くマリーも口を開いた。
「中佐からお話を聞きました。少しでも陛下のお力になれればと思い、恥を忍んで参内いたしました」
「他人行儀は止めてくれ」
感情に任せて言い捨てた後、彼は自分の言葉の矛盾を悔いた。
今は他人ではないか。マリー・プロイツェンという別姓を名乗る嘗ての妻に、今更昔の夫としての威厳など意味の無い事だ。
「すまぬ。粗野な物言い、許して欲しい」
依然彼女は口を噤んだままである。儚げな微笑を湛えたまま、僅かに視線を横に逸らして立っている。
「恥じる必要などない。全ては私の責任だ。ただ、既に他家に嫁いでいることを知っていた故、会うことは敢えて避けてきたのだ」
「存じております。それに例え陛下が私を嫌いになられても、私は陛下をお慕いしておりました」
ゼネバスは面映ゆくなり、彼女に背を向ける。
「それは元皇帝という権威に対してのことか」
くすっ、と小さく笑う。振り向くと、口に手を当てて微笑むマリーの姿があった。
「天邪鬼なのは変わりませんね。あれからお歳を重ねておられるはずなのに」
「すまぬ。いつも御見通しだったな。素直に喜んでいる。これで良いな」
「はい」
応えると同時に、マリーはゼネバスの胸に飛び込んでいた。
白夜の陽射しに、影が一つになった。
「あれから変わりはなかったか」
「それを私に言わせるのですか」
「すまぬ」
マリーが再び笑う。
「さきほどから陛下は謝ってばかりでございます。いつからそんなに素直におなりですか。エーヴ様に叱られましたか」
彼女にとっても出すことが躊躇われるはずの名を、屈託なく言い退けた。他の女性を愛したことを知った上で、ゼネバスを受け入れた彼女らしい言葉だった。その心遣いに打ち解けたゼネバスも、自分でも驚くほど素直に答えていた。
「いや、どちらかといえば、娘に叱られていた」
「エレナ様のことですね」
「ああ、エーヴやそなたよりよっぽど
静かに笑いを
「……お判りにならないのですか」
「私はエレナほど頑固者ではないぞ」
「親子という証拠ですね。どうやらゼネバスの娘は、父親譲りのお人柄のようで」
今度はゼネバスが沈黙する番であった。不服そうに、抱き合ったままの彼女から視線を逸らす。
二人にとって、永遠とも一瞬とも思える時間が過ぎた後、マリーが囁いた。
「陛下、内密のお知らせが御座います」
口調が先ほどと打って変わって真剣になる。ゼネバスは再びマリーの瞳を見つめた。
「これは母親である私しか知らぬこと。ですが陛下にだけはお伝えしておきます。
あれから私は懐妊し、一人の男子を授かりました。
名をギュンターと申します。肌の色こそ違えども、面影が陛下とよく似ております」
「それは、まさか……」
二人は再び離れ、見つめ合った。
「ムーロワの世継、陛下の息子です。私は命に代えてでも、この子を守っていく所存でございます」
激しい衝撃が胸を打った。
自分に息子が生まれていた。エレナとは別の、男子が。
ゼネバスは、喜びとも悲しみとも言えない複雑な感情が込み上げるのを実感した。
待ち望んでいた継嗣が既に生まれ、嘗ての妻が育てていたという現実。
そしてその妻は他家に嫁いでいる現実。
運命の皮肉に、ゼネバスは掻き毟られるような焦燥感を覚えた。
マリーだけに任せることは出来ない。どんなことをしても、我が子を守っていかねばならない。それが自分たちに続く、新たな世代を築くもの達である以上。
ゼネバスは窓の外を見上げた。
そこに、巨大な彗星の姿が横たわっていた。