『ゼネバスの娘―リフレイン―』   作:城元太

20 / 61
20(2053年)

 死を目前にして歯止めを失った人の力は想像を超えている。止血処置を行おうとしても、周囲から無数の掌が伸びて治療の邪魔をする。エレナの腕には、厚手の布地の衣服の上から付けられた爪の跡が赤黒く無数に残っていた。払い退けても払い退けても這い寄る傷病者に、弱者への労りというまともな感覚さえも麻痺していく。

 サラマンダーF2の翼は未だに突き刺さったままだった。地上を離れるにつれてそれは小さな墓標と化し、やがては眼下に広がる雲海に埋もれて行った。

(お父さん。少しだけここを離れます。必ず戻ります。待っていてください)

 重症者達の間断ない呼び声に、包帯や水筒、消毒薬に鎮静剤を抱えた看護兵が駆け回っている。その殆どが四肢の何れかを欠損するか、或いは眼球を包帯で覆われていた。奇声を発し続けている者がいる。彫刻の様に一切の動きをしない者もいる。辛うじて命を長らえても、手足を失い視覚や聴覚を奪われ心を失った兵士たちの、ここはまるで生きる者達の棺の様であった。機体の底から低い機械の音が響いてくる。気流によって激しく揺さぶられることが続き、応急処置の機材が甲高い音をたてていた。

 エレナは横たわる兵士の水差しを支え目の前の医療器材のチェック表を確認していた。

 偶然、機体の窓から緑色の尾を曳く流星が流れるのが見えた。空気の薄い上空では地上の混乱など無関係に星々がより一層輝いて見える。

「ルイーズ、鎮静剤のアンプル三つ、大至急」

 セーラブ軍医の呼びかけに、彼女は直ぐに薬箱を抱えて駆け寄って行った。

 

 彼女が中央大陸への帰還を決意したのは、二日前のことであった。

 落下した隕石の中から現れた黒い翼への恐怖と基地崩壊に伴う心身への衝撃がASD(急性ストレス障害)患者を大量に生み出した。フラッシュバックする記憶にパニックとなる兵士が続出し、基地内部は軍隊組織の体を成さなくなっていた。首都機能を一時的にセシリア市に移したヘリック共和国は、旧ゼネバス帝国領内に駐留していた部隊を引き抜きエントランス湾に派遣、戦闘不能となり治療が必要と認められる兵士達との交代を通達した。共和国軍内部でも決して兵力の工面は楽ではなかったが、暗黒大陸に仲間を見捨てるような事態だけは避けたかった。政府への信頼にも関わる事であり、後方で武器を握る部隊にとってもギルベイダーの渡洋爆撃によって何処も同じ状況にあることが奇しくも判明してしまったからだ。

 派遣された上陸母艦タートルシップがエントランス湾に到着すると、新品のゾイド群と入れ替わりに幽鬼のような傷病兵が乗り込んだ。無数の担架に担がれ視線の定まらない怪我人の群れを見て、上陸した部隊は改めてここが戦闘の最前線であることに戦慄していた。

 エレナにとってこの帰還は本来の目的とは異なっていた。伯父に会って自分を含めて父ゼネバスの救出を願うことではなく、あくまで看護の為、兵士達の付添として中央大陸の治療機関に随伴するつもりであった。理屈より行動が先に立つのはやはり父譲りである。彼女は横たわる何人もの患者の手を握り、声をかけ、勇気付けながら、中央大陸までの長い旅路を過ごしていた。

「少しお休みになってください」

 キャロラインが近寄ってくる。彼女の瞳も充血していた。何日もゆっくりと眠っていないことがわかる。

「キャロルこそ休んでください。トビチョフまでまだ距離があります。2時間後に必ず交代しますから」

 その言葉にキャロラインは素直に頷いた。自分の説得に応じる彼女ではないことは知っていたし、自分自身も心身ともに疲れ切っていたこともある。

「では、失礼します」

 機体奥の仮眠室に向かうと、周囲は再び意味の繋がらない呻き声に支配されていった。

 やがて機体の窓から陽射しが流れ込んできた。広がる雲海の波頭から太陽光が見えてきたのだ。光が温かい。紛れも無く故郷(ふるさと)の陽射しだった。眼下に広がる中央山脈の雪を抱いた峰々が、白く眩しく彼女の瞳に飛び込んできた。

 意識が幾分正常に戻っている兵士達の中にも、次第に小さな歓声を上げる者が現れた。故郷の大地に戻ったことが、彼らの精神に良い兆しを与えているのだろう。目的地トビチョフまでまだ数時間ある。彼女は壁に凭れ掛かると、窓の外を流れる金色の雲の端を見つめながら暫し微睡の中に身を委ねて行った。

 

 

「ガニメデ市ですか」

 タートルシップは、ダリウス市での補給を終えると再び新たな目的地を示された。

 艦長からの、半ば予測していたその言葉を聞くと、エレナを含め随伴してきた看護兵及び状況を理解できるだけの精神の残っている傷病兵達は一斉に落胆の溜息をついていた。

 最初の目的地であるトビチョフ市に到着後、同市内の医療施設への傷病兵受け入れを要求したが、この街が旧帝国領であったこともあり緊急処置を要する患者を除き市側からの事実上の受け入れ拒否をされてしまった。

 本来であれば共和国政府が傷病兵引き渡しの手続きを完了させ、例え旧帝国領であっても優先的に患者の受け入れを認めさせなければならない。ところが首都機能の麻痺により手続が遅れ、トビチョフ市側にも何の連絡も伝えられておらず受け入れ態勢が全く取られていなかったのだ。首都に問い合わせてみたところで通信は繋がらず、数時間後に漸く繋がった通信も担当者不明の回答しか得られない。巨大な輸送艦が何日も空港に停泊することが煩わしくなった市側では、極力早急な退去を要求する始末であった。

 的を射ない発言を繰り返す政府の担当官と、露骨に退去を示す市の代表との協議により、次の目的地として指定された場所は更に中央大陸を南下したダリウス市であった。タートルシップは止む無くその指示に従い、一路ダリウスに向け出航した。

 一日半の行程を経て、漸く到着した工業都市ダリウスはかつてデスザウラー初号機を建造した町であり充分な医療施設も揃っていた。ところがこの都市でも感情的にまだ共和国兵を受け入れる素地が整っておらず、政府の指示が伝わっていないことを理由にして、またも一切の患者の受け入れを拒否した。

 たらいまわしに旧帝国領を移動しなければならないのは、このタートルシップがバレシア市から回航されてきた整備不良の機体であり、航続距離も不十分で飛行高度を上げることもできず、中央山脈を越える飛行能力が失われていたからであった。このまま受け入れを拒否され続ければ、最悪の場合大陸南部のフロレシオ海まで南下し共和国領のクーパー湾に行くことを想定しなければならない。共和国政府の混乱は理解できたが移送される兵士達が哀れであった。

 ダリウス市で申し訳程度の燃料と食料の補給が完了すると、再びタートルシップは飛び立った。次の目的地に指定されたのが、旧帝国首都にも近い分共和国の統治も比較的進んでいるガニメデ市であった。その街までまた2日の行程である。これまで5人の兵士が息絶えていた。飛行の経過がもどかしく、エレナは共和国の組織も充分に機能しないことを実感していた。

 誰の為の政府であり、誰の為の政治なのか。苦しんでいる人々を見捨てるのが政治ならば、そんなものは政治ではない。

 怒りはなかった。組織の問題であれば感情をぶつけても解決にはならない。如何に効果的に問題を処理するかが政府に課せられた対応力である。もし自分がその立場に立ったならば絶対に同じことはしない。

 誰に語るとはなく、彼女の中に政治に対しての意識が芽生えていたのである。

 

 ようやく到着したガニメデ市は、温暖な気候に恵まれた美しい都市であった。夕暮れの中を長い影を曳くタートルシップが入港する。機体が夕日に映えてオレンジ色に輝く。暗黒大陸の季節は既に冬期に移行していたのに、この中央大陸南部の町は未だ夏の名残を思わせる温かい風が優しく渡り、誰が植えたのかも知らない赤や黄色の花が飛行場の端の蔓棚に咲いていた。

 彼女の待ち望んでいた故郷の景色が一面に広がっていた。少女時代この町に一度だけ訪れたことがある。あのときはマイケルも一緒だった事を思い出した。戦災を免れた美しい街並みは昔のままで、タートルシップから降り立ったときなぜか瞳に涙が溢れていた。

(お父さんと、もう一度一緒に見たかった)

 結果的に父を見捨てるように戻ってきてしまった。そして先に故郷の地を踏み締めた自分に後ろめたさを感じていた。

 それでも必ず再び暗黒大陸に戻り、再会を果たすと心に決めていた。

 今回の帰国は、帰還ではなく、付き添いなのだ。

 そう言い聞かせると、エレナは深呼吸をして患者の移送作業にとりかかって行った。

 

 幸いガニメデ市では患者の受け入れを拒否されることはなかった。着陸したタートルシップに横付けされたグスタフのコンテナの中に傷病兵が移送されていく。初めて見る旧帝国の街並みに、物珍しげに眼を見張る兵もいたが、大部分の兵士達は何の感情も示さずにただ淡々と医療施設へ移送されていった。

「宜しくお願いします」

「お疲れ様でした。後は私たちにお任せください」

 到着したガニメデの医療施設の看護師が力強く答える。その言葉に随伴してきた看護師の全員が肩から大きな荷物を降ろしたような感慨に満ちた安堵感を抱くことができた。息つく暇も無く看護に当たってきたエレナにとっても、漸く憩いと呼べる時が訪れた。

 夜半に搬送作業が終了した後、着の身着のままで機内控室のベッドに倒れ込んだことまでは覚えている。寝入り端の微睡さえも無く、エレナとキャロラインは深い眠りに落ちて行った。

 

 目覚めた時には、既に太陽は高く昇っていた。作業終了から半日以上が過ぎていて、傍らには安らかな寝息を立てるキャロラインがいる。一つの仕事を成し遂げた充実感を味わいながら、彼女は両手を上げて小さく背伸びをした。

「眩しい……」

 思わず目を細める。故郷の太陽はとても明るく温かい。機外に出て真昼の陽射しを浴びた時、久しく忘れていた感覚が呼び戻された。

 彼女は、自分の全身から饐(す)えた臭いが漂っていることに気付いた。血と汗と消毒薬の匂いが、身体中、髪の毛にも滲み込んでいるような感覚だった。しっとりとした微風も今は臭いを一層きつくさせる気がする。

 もはや落ち着いてはいられなくなった。

 エレナの気持ちの一部がかつての王女に戻っていた。

「キャロル、起きて。髪を洗いたいの。どこかシャワーを浴びる場所を探して」

 機内に戻りキャロラインを無理やり起こす。まだ眠たげに眼を擦りながらも〝バレッタ〟は主人の「髪を洗いたい」という半ば強引な命令に忠実に従った。

 幾分ふらつく足取りで、基地の管理棟に向かって歩き出す。建物の中に入ると言葉少なに方向を示していく。どうやら彼女はここ旧帝国所属ガニメデ基地をよく知っているようであった。生あくびを噛み殺しながら指をさす。

「こちらです」

 

 立ち昇る湯煙が二人の女性の裸体を優しく包んでいた。

 流れ落ちる水音と二人の声が反響している。

「痒いところは御座いますか」

「額の上と頭の真ん中。両耳の生え際。それとうなじ。ついでに背中も」

「……お背中は後ほどお流ししますので少々お待ちください」

 つまりは、髪が生えている部分全てである。頭皮を包み込み洗う女性の指の優しい感覚が心地よい。キャロラインが自分以上に疲れていることは知っていた。しかし、今は何もかも忘れて甘えさせてもらうことにした。

「ありがとう、助かります……。ああ、気持ちいい」

 思わず溜息が漏れる。

「お流しします」

 シャワーから温かい水流が注がれた。白い泡の上を無数の水滴が軽やかに滑り落ちていく。纏わりついていた泡が消え去ると、上気してさくら色に染まった素肌が現れた。左右の鎖骨に挟まれた胸の上に、金色の輝きを取り戻したゼネバスの紋章が光っていた。

 湯気に曇る鏡の中、彼女は改めてその首飾りを手にして見つめた。

 私は決して諦めない。必ず父を救い出すその日まで、この紋章に誓って。

 その後二人は、互いに髪を洗いあった。

 乙女たちの至福の時であった。

 

                   ※

 

 PTSD(心的外傷後ストレス障害)とは、一か月以上精神に障害が継続する症状であり「攻撃の直後にPTSDになった」というのは用語の概念としては誤っている。それでもASD(急性ストレス障害)からPTSDには容易に連続する症状であり、共和国軍がトラウマの原因となる暗黒大陸の戦場から早急に兵士達を引き離した対応は正しい。しかし、その後の対応のまずさはこれまで記した通りである。

 軍は一人でも多くの兵士を欲していた。従って、戦死という形で兵を失うのはもとより、PTSDとなり戦場に復帰できない兵士が増えることも恐れた。エレナを乗せたタートルシップが旧帝国領を放浪している間に、軍はその失策を補うためにも、最高の治療と施設の整っている最も近い場所を探し出した。

 ガニメデ市を指定したのは、トビチョフ、ダリウスのようなその場凌ぎの移送ではなく、本格的な治療を施すために検討された結果であった。

 

 車椅子や松葉杖、ベッドに横たわった数多くの傷病兵が、無表情のまま施設の廊下を行きかっている。白く統一された建物の内部は、消毒薬の匂いの他に、仄かに甘い花の香りが漂っていた。施設長による、精神衛生上効果があると思われる措置であり、加えて室内には微かにクラッシックの穏やかな調べが流れていた。

 エレナとキャロライン、そしてタートルシップで随伴してきた看護兵及びセーラブ軍医達は、そこで真新しい白衣――厳密に言えば少し青味がかっているが――を受け取り、移送してきた傷病者の看護に当たっていた。暗黒大陸から脱出した傷病兵は最初109名であったが、その後11名が死亡した。彼女達は少しでも患者の生存に協力するために、この施設の臨時職員という形で勤務していたのだ。

 ガニメデ市は旧ゼネバス帝国首都の衛星都市であり旧軍の施設も数多くあった。キャロラインによれば、この建物は元は陸軍病院だったそうだ。以前は武骨で無機質な建物だったが、共和国統治となり内部が大幅に変化し、非常に快適になっているという。

 彼女たちには、なぜ旧帝国領の町にこれほどの施設を整備したのかが不思議であった。

 

「ルイーズ、リチャードさんを診察室まで付き添っていってくれ」

 キャロラインはその時別の患者の付添をしていた。既に彼女達は〝ガイロス帝国の政治犯の家族とその護衛〟というような垣根が取り去られ、非常に有能な新人看護師として職員の間で扱われていた。彼女が「はい」と返事をした時既に、指示したセーラブ軍医も急ぎ足で別の診察室に向かっていた。

 王女として帝国の民衆の前に立ち、そして暗黒大陸で抑留された兵の動員に利用されてきた彼女にとって、それは漸く得られた社会的な居場所となっていた。誰かの為になれるのがこれほど充実するものなのかと実感していた。決して嬉しいものではない。今も死の瀬戸際で苦しんでいる人々がいるのだから。ただ、今の自分に出来ることを後悔せずに精一杯やれた。彼女は病室に向かうと、指示された患者を診察室まで付き添っていった。

 

 表情に変化が少ない。現実感が消失したように、視線は空を見つめている。時折失った左腕で顔や背中を掻こうとしてそこに何もないことを知り、改めて消え去った肉体を見つめ思い起こし、そして頭を抱え込んだ。聞こえない声で慟哭している。意味を取ることは不可能であった。

 スキャニングされた脳髄の断面図を見ながら、医師は説明を始めた。

「扁桃体の過剰活性と、内側前頭前野の機能に異常が見られるわね。

 典型的な症例ね。このままではフラッシュバックが続いてトラウマが固着するでしょうね」

 女性医師は冷静に分析していた。年齢はキャロラインより少し年上ぐらいだが、その言葉は知識と経験に裏付けされた絶対の自信が感じられる。シュウと同じく、共和国は若い人材に恵まれていて、更には女性であっても社会に積極的に進出していることがわかる。

 彼女が旧帝国領のガニメデに派遣されたのも、戦争体験の後遺症を研究する権威であり、第二次中央大陸戦争の終結後、激戦地であった帝国首都周辺で多数のPTSDの発症がみられたためであった。

 この医療施設自体ヘリック大統領の肝煎りで設立されたものであり、噂に聞く所では共和国の有力な財団により運営されているという。

「このままでは社会復帰は無理でしょうね」

「そんな……」

 冷たく言い放つ女医にエレナは憤りを感じた。心情的に納得できない。あまりにも冷淡で思いやりもない。エレナは女医が首から下げているネームカードを睨んだ。そこには〝精神臨床医 ジュディー・ハーマン〟と示されていた。

「あなたがいま何を考えているかわかるわ。

 なんて冷たい医者なんだろう、思いやりも何もないひどい人間と思っているわね。

 でも遠回しに言って時間をかけて、診断を曲解させて手遅れになるよりずっといい。それに勘違いして欲しくないのは、治療法があるからこそ言い切れるのよ」

 そこまで言ってジュディーはにっこりと微笑んだ。初めて見る美しい笑顔だった。

「あなたは優しい人ですね。名前は?」

 エレナは気持ちを読まれていたことに当惑し、動揺した。

「ルイーズ、と言います。あの、なぜ私の考えを……」

「私は精神科の医師よ。そのくらい表情で判断できなくて精神医とは言えないでしょ。

 ……ルイーズ、素敵な名前ね。320万年前の化石人類にそんな人もいたかしら」

 

 共和国にはシュウのような人材が、良い意味でも悪い意味でも数多く存在することに、彼女は閉口した。

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。