「あっちぃ…」
六月に入って、暑さと湿度が本格的になってきた。その日、司は久々の外回り、つまり出資会社である芳文堂との打ち合わせ諸々や、取り扱い店舗の確認をしてきたところだ。現在、イーグルジャンプ周辺まで帰ってきた。お偉いさんとの会談で凝った肩に、阿佐ヶ谷の町は優しくほぐしてくれるようだ。きたばかりの時は見なれなかったオシャレなカフェも、今ではすっかり慣れたものだ。しかし、町に慣れても気候には慣れない。今は暑いとはいえまだ六月。クールビズ期間は訪れておらず、スーツは脱げない。すでにカッターシャツは気持ち悪いほど汗を吸っていている。
「あー、これは一回家に帰って着替えて来ようかな」
話す相手もいないのにとりあえずぼやいてみる。流石にこの格好のまま会社に戻るのは抵抗がある。ちょうどお昼時だし、昼食ついでに一旦帰宅しようか。ただでさえ女の子ばかりの職場は気を使うのだ。そこまで考えたところで、ふと目線を彷徨わせる。今、視界の隅に見覚えのある金髪が見えた気がした。
「…コウ?」
しばらく止まって周囲を見回すが、いない。
「…気のせいか?」
チームのみんなは、今出社して仕事しているはずだ。あのコウが仕事をサボるとも考えられないし、りんに注意されて以来、昼食をコンビニに買いに行かないはずだ。コウが仕事中に出歩く理由がない。その微かな違和感を抱えたまま、とりあえず家に戻った。
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結局、昼食は会社で取ることにして、着替えるだけでさっさと戻ってきた。
「お疲れ様です。進捗、どうです、か…」
ブースに入ると。
ひふみが泣いている。
あまねがうずくまっている。
空気が、冷たい。
「…なんだ、これ」
「司くん!」
後ろから、りんが現れた。
「りん」
「コウちゃん、見なかった!?」
その瞬間思い浮かんだのは、一瞬映った金髪の影。
「コウがどうかしたのか?」
「…理由はあと!とにかく、見つけないと…。みんなも!」
りんはそう言って振り向くが、誰も何も言わない。
「…っ」
りんは苦しそうに顔を歪ませ、出て行った。
「…?」
司は未だ、何が何だかわからない状況だ。
「い、一体、何が…」
「行ってあげなよ」
先輩の一人が声を上げる。
「友達なんでしょ。私たちは…そんな気分になれないから」
ここで状況を聞くべきか、それともコウを探しに行くべきか。司は迷わなかった。
「ちょっと行ってきます」
一目散に外に出て行った。
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「もう、無理です」
あまねが立ち上がった。
「もう、限界です。ついていけない。何考えてるんですか、あの人。他人に無茶なことばっかり押し付けて。もう、無理…」
「あまねちゃん…」
「ひふみちゃん。ごめん」
そう言って、出て行ってしまった。
「…どうするのよ、これ」
「知らないわよ!責任取るんでしょうね、あの子…」
誰かのヒソヒソとコウのことを非難する声が聞こえ、いつしかブース中が怒りに満ちていった。
ひふみは自分の胸が締め付けられるように痛むのを感じた。
(嫌だな、これ)
ただ、嫌だ。
(なんでこうなっちゃうの?なんでそんなに関わりたがるの?わかんないよ、もう…。どうでもいいじゃん、他人なんて。そんなことより、みんなやることあるでしょう?)
そんなことを心の中で思ったところで、他人に伝わるわけがない。コミュニケーションしなければ、人間は意思疎通できない。しかし、ひふみにはそんな勇気はない。声が出ない。みんな、あまねのことじゃなくて仕事の遅れの責任をどうコウに取らせるかばかり考えている。その話に熱中するばかりに、本来自分がするべき仕事をやっていない。
(なんでこんな時でも、私は自分の気持ちを喋れないの!?そんな自分が嫌だったんでしょ!?あまねちゃんの後ろにいるのはもう嫌なの!)
「あの…」
「いい加減なこと言ってないで手を動かしてよ」
声が響いた。
「くだらないんだよ。他人のこと気にしてないで今日のノルマこなしてよ。そうしないとスケジュール遅れるんだよ。そうなったらあんたらの大好きな責任取らなきゃいけなくなるけど」
声を発したのは山本真弓。かつてコウと対立して負け、メインになれなかった。彼女の声は、決して大きくはなかったが、不思議とブースの隅まで届いた。
「で、でもさ…あんたも八神のこと嫌いでしょ?ムカつかないの?自分勝手なことしといてこれかよ、みたいな」
「個人の感情とゲーム制作は関係ないでしょ」
そう言ってさっさとコウに命じられたモデリングを黙々ととこなす。それを見ていた他は釈然としなさそうにしながらも、だんだんと仕事に戻っていった。
ひふみはそんなとなりに座る先輩をじっと見ている。
「…なによ」
この怖い先輩がひふみは苦手だったが、自分に話しかけてこない人は、基本的にいい人だと思うひふみの気質からして、山本はいい人だった。
「いや、あの…。ありがとうございます」
「なにが」
「あの、私の言って欲しいこと、言ってくれたから…」
「別にあんたのためじゃないわよ」
「…です、よね」
やっぱり怖い。
「ま、ムカつくのはみんな一緒よ」
「…へ?」
「あの子のこと。嫌がらせした側から言うのも変だけどね…。いや、知らないんだっけ。なんでも良いや」
「…」
「でも、思ってることあんなら言った方がいいわよ。ストレス溜まるわよ、その性格」
「…ですよね。でも、あの、どうすればいいか…」
「そんなの私に聞かないでよ。まあ、自分の好きなこと好きなようにやったら?」
「好きなこと…」
その後も会話を続けようとしたが、仕事に集中してしまったらしい。
「…疲れた」
誰にも聞こえないようにほっそり呟いた。
(私の好きなこと…。アニメ、とか?そういえば、ちょっと前にアニメのキャラクターの服かわいいなって思ってたっけ。デザインの参考になるし、コスプレ、やってみよっかなぁ)
そう思っているとあまねが帰ってきた。
「あまねちゃん、大丈夫…?」
「…」
そのまま荷物をまとめている。
「え?ちょ、ちょっと…」
「今日のノルマ終わったから」
「ま、まって…」
追いかけようとすると、止められた。
「いいから。ひふみちゃんは仕事してて」
「でも…」
「早退だから。明日また来るよ」
はっきりと『こないで』を突きつけられる。何も言えない。
「あまねちゃ…」
あまねは悲しそうな顔に歪ませる。そして背を向けると、ひふみから去っていった。
「じゃあね」
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司は全速力で走っていた。革靴のせいで足が猛烈に痛い。
やがて、先程通った道まで戻ってきた。あれからもう小一時間は経っている。おそらく周辺にはいないだろう。ここは東京だ。行こうと思えば隅から隅まで何処へでもいける。
「くそ…」
全くもって状況を理解してないが、とりあえず本人を見つけなければ話にならない。ならないが、こうも手がかりがないと途方に暮れてしまう。ひとまずコウのスマホに電話をかけてみる。
「…くそ。そういえばデスクに充電器挿しっぱなしのやつが置きっぱだったな」
確か、ちらりと見たコウのデスクには、スマホ、小さなカバン、そしてりんと買いに行ったというフェアリーズストーリー店舗特典の財布とSuicaが置いてあった筈だ。
「…ん、財布?」
東京は、行こうと思えば何処へでもいける。いけるが、それはある程度金がある時の話だ。
「じゃあ、まだ遠くには行ってないか…?」
コウが行きそうな場所を考える。この辺りのカフェなんかには行きそうにないし、カラオケに一人で入りそうでもない。とすると、考えられるのは、自宅か、それかネットカフェ。自宅は電車に乗らなければならない。そういえば、この前ネットカフェの会員のポイントがたまっているとかなんとか、聞いたことがある。とりあえず目星をつけた後は、阿佐ヶ谷周辺のネットカフェを検索する。
「よし、とりあえず行ってみるか」
りんから連絡が来た。
「もしもし」
『どう?見つかった?』
「まだ。でも目星は着いたから、とりあえず向かってみる」
『何処?』
「コウのことだから、ネットカフェだろうな」
『わかった。もしかして、コウちゃんがよく行ってるとこ?』
「よくわかったな」
『うん…全く。女の子が一人は危ないってあれだけ言ったのに』
「ま、説教はとりあえず後だ。一旦集まるか」
『うん。それがいいと思う』
りんに自分の現在の場所を大まかに伝える。
『了解。今から行くわね。できる限り急ぐわ』
「頼む…よし」
全く、あの家出娘め。何があったんだよ。見つけたら散々文句言ってやる。その思いを胸に、りんを待った。
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コウのネットカフェで使う部屋はいつも決まっている。入り口から右の通路に行って、七つある部屋で、前から四つ、後ろから三つの位置にある真ん中の部屋だ。だいたいその席は空席で、入ってるにしてもものの数分で出てくることが多い。理由はよく分からないが、コウ曰く、呪われてるから、らしい。
今、司とりんは、そのコウのよく利用する部屋の前にいる。
「よし、開けよう」
「待って。私にやらせて」
「…どうした?」
振り向けば、りんがえらく深刻な顔をしている。
「…今まであえて聞かなかったんだが、コウに何があったんだ?今、チームに何が起きてるんだ」
「…私から言うのは簡単だけど、私は当事者じゃないから。いい加減なこと言えないわ。だから…」
ドアノブに手をかける。
「コウちゃんから聞いて。私も怒ってるの」
ドアを開けた。
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「……」
そこには、予想通り、コウ本人が居た。
「…なあ、コウ。お前、どうしたんだよ」
「……」
しかし、そこに居たのは、コウではない。この覇気の無い姿は、コウではない。
コウは、狭いスペースに体育座りをして、顔を埋めて、動かなかった。なんの反応もない。ただ、体が上下に動いていることから、生きていることは分かる。そんな状態だった。
「コウちゃん、何してるの?会社に戻らなきゃ。こんな所にいる場合じゃないでしょ?」
「……」
コウは何も話さない。ただ、肩が小刻みに震えているだけだ。
「コウ…なあ、話してくれよ。何があったんだ?どうしてお前がそんななのか教えてくんないと、俺もその、なんて言うか、言葉の掛けようがねえよ」
「……」
何も応えない。
「とりあえず、会社に行こう?みんなにきちんと話せば、分かってくれるよ」
「……」
コウは動かなかった。
「…ごめん、司くん」
「ん?」
「コウちゃん、負ぶってもらえる?」
「そこまでしても連れ帰るのか?」
「うん」
「…それは本当にコウのためになるのか?」
「何が言いたいの?」
「…きっとコウは疲れてるんだよ。人には休息期間が必要だろう?だから…」
「そんなの、意味ないよ…」
りんはうずくまった。
「もう遅いよ…このままじゃ、みんながコウちゃんの敵になっちゃうよ…。じゃ、どうすればいいの…」
涙声で話すりんに、司は。
「……」
何も、言えなかった。