「樫井さん。元のスケジュール表と、資料を持ってきました。あと、栄養ドリンクも補充しておきましたよ」
「ああ、悪いね。助かったよ」
俺こと宮前司、八神コウ、遠山りんの3人が『イーグルジャンプ』に入社してから早1ヶ月。俺たち3人は、つい1週間前から発足した、新企画『フェアリーズストーリー(通称FS)』制作チームに参加していた。なぜ俺たちのようなペーペーが新企画に投入されているのか。理由は2つ。1つは人材育成のため。新人育成には現場で揉むことが最適である、という理由から。2つ目に、新企画に回せる人数に限りあるからだ。たかが新企画ごときに、人材を多数投入して、他の仕事を遅らせるわけにはいかない。
ちなみに、俺がプロデュース補佐、遠山がグラフィックチームの背景班、八神がグラフィックチームのキャラ班所属となっている。また、俺はストーリーの方にも少し噛ませてもらっている。何でも、俺が試しに考案した主人公のライバルの境遇や生い立ち、パーティ内での立ち位置が脚本家の琴線に触れたらしい。
ちなみに、今は俺と先輩であるイケてるクールビューティ系、ポニテがよく似合う系女性社員、樫井ミユさんと、通算3度目のスケジュール組み直しの真っ最中である。
「ごめんね。何度も同じことさせちゃって。うちの連中も本格的なオリジナル物は初めてで、色々と分かってないんだよ」
「いや、全然大丈夫ですよ。勉強になるし、経験にもなるし。…でも」
チラリ、と後ろを見る。
視線の先には、女性、女性、女性。
「チーム内に男1人っていう方が、どっちかっていうと問題ですかね…」
そう言うと、樫井さんは、魅力的な苦笑いを返してくれた。
このチームでは、葉月さんの要望、もとい、圧力、もとい、職権乱用によって、俺を除く全てが女性という、大変辛い編成となっている。何でも、めぼしい男性社員は皆、はなちゃんなる人物に取り上げられたらしいが、それにしたってあんまりである。しかも全員美人だから余計困る。本当に困る。居場所がない。ちゃんと役職あるのに。体重だって減った気がする。この前は、別チームの男性社員が同情してくれて、少し泣きそうになったのは内緒だ。
「しかし、君はもしかしてスケジュール管理に才能あるかもね」
「え、何でですか?」
「だって君の目星が大体当たってるもの。このくらいだろうって直感でわかるのね。まあ、ところどころあべこべで面白いけど。キャラデザが3日で終わるわけないよねっていう」
「そ、それは、まだまだ経験不足なんです…よ?」
「ま、そりゃそうよね。…そいえば、今日ってキャラデザ社内コンペの最終提出日だよね?」
「ああ、そう言えば…」
口ではそう言いながら、実は滅茶苦茶気にしている。思わず、八神の席を見た。彼女は、正に鬼気迫る、といった風に一心不乱にペンを動かしている。今日だけでもすでに3時間、食事も水分も取らず、書いては消し、書いては消しを繰り返している。どうやら、周りは目に入ってないらしい。この1週間ずっとその調子だ。同じく八神に対して心配そうな目線を送っている遠山と目が合い、互いに困ったような顔をする。
「心配なんでしょ?」
樫井さんが口を開いた。
「え?あ、いやあ…。バレてました?」
「あれだけ見てれば、そりゃあ、ね。これからご飯行くでしょ?私少し準備してくるから。声かけてきたら?」
「え、スケジュール表は?」
「食堂でやれば良いじゃない」
そう言って、テキパキと片付けを始める。俺は、お言葉に甘えて八神の顔を拝みに行くことにした。途中で、八神のお気に入りの冷たいコーヒーも買っておく。遠山に目配せすると、察したらしく、自販機でミネラルウォーターを買って行く。
八神の背後に忍び寄り、首筋にコーヒーとミネラルウォーターを同時に当てる。
「ひゃううっ」
あの八神から随分可愛い声が漏れ出した。
「八神さん、そろそろ休憩したら?」
「そうそう。あんまり根詰めすぎるのもよくないぜ?せめて水分くらいとらないと」
「…分かってるよ」
ミネラルウォーターとコーヒーを受け取り、不承不承と言った感じで言う。
「でも、やるからには勝ちたい。私だってただ仕事だけをするつもりでここに入ってないんだよ」
そう言った八神の目には、誰にも崩すことの出来ないような、確かな覚悟があった。
俺たちは八神のことを知らない。この一ヶ月一緒に、仕事仲間として過ごしたが、八神がどういう人生を送ってきたか、何が心を占めているか、まるでわからない。そこそこ打ち解けたつもりだが、八神はそういうことを掴ませない。自分と他人との間に、決定的な境界を作っている。多分八神はこの18年間、そうやって生きてきたのだろう。
だからこの時、なぜ八神がここまでやる気を出しているのか。それはわからなかった。
しかし、そう言って先輩のキャラクターデザイナーを見る八神の目が、まるで仇を見るような目をしていたのは、気になった。
何というか、危うい。
「だからあんまり思い詰めるなよ。確かにコンペなんだから勝ち負けはあるだろうけど、チャンスはこれっきりってわけじゃないんだし」
そう言うと、八神は信じられない、といった風に俺を見る。
「…なんでそんな風に思えるの?」
「え、何が」
「チャンスはこれっきりじゃないとか、なんで『次がある』って思えるの?」
「な、なんでって、そう言われても…」
「もしその『次』がなかったらって、そう思えないの?」
「いや、思わないわけじゃないけど、まだ新人なんだし、経験を積む、みたいな意味で」
「それは言い訳だよ。周りは新人だからって手加減してくれない。次も。その次だって。一度でも手を抜いたり、悔いが残ったら、それで終わりなんだよ。『その程度の奴』って思われる。そうなったら、自分でも自分を信じられなくなる。それが嫌だから、私は勝ちたいんだよ」
「八神さん…」
「心配してくれて、ありがとう。でもこれは私の問題だから、あまり関わらないで」
そうして、再び自分のデスクに向き直った。遠山は心配そうに八神を見ている。
「…」
「…行きましょ。確かに、邪魔しちゃ悪いわ」
その後、まだ仕事が残っている遠山と別れ、先輩と約束してあった食堂へ向かった。
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「大丈夫だった?ちょっと揉めてたみたいだけど」
食堂で、あらかじめ買ってあった菓子パンを頬張りながらスケジュール表を作成していると、樫井さんが心配そうに口を開いた。どうやらあの話は大分大きい声だったようだ。
「あー…いや、あれはなんと言うか、その、意見の不一致というか。八神もかなり張り詰めてるみたいで」
「まあ、よくあるよ。私たちはクリエイターだから。自分に絶対の自信を持ってるし、負けず嫌いだから。負けたくないっていうのもすごくわかる。それはクリエイターにとって必要なものだから。そういった面では、八神さんは将来有望だと思う。だけど…」
すると、樫井さんはすごく申し訳なさそうに、
「これは聞いた話なんだけど、八神さん、キャラ班の中でかなり嫌われてるらしくて」
「…え?」
「なんでも自分で出来ると思ってるみたいって。すごく生意気で、態度も刺々しいって。...こういう噂話はいけないってわかってるけど、同期の君には伝えた方がいいかなって。私も気になってはいるんだけど、役職が違うから、聞きにくくって…」
絶句した。
八神が嫌われてる。そのことは、鉛のように心に重く沈み込んだ。確かに、何日か前からキャラ班からの八神に向ける目線に違和感を感じていたが、まさか、それが敵意だったとは。
八神の性質は敵を作りやすいとは思ってはいたが、こんなに早く問題が起きるなんて。
「さあ、さっさと終わらせちゃうよ。話を振った私が言うのもなんだけど、目の前の事を終わらせなくちゃ。友達のことを考えるのは後。スケジュール表終わったら、次は店舗の挨拶周りに行かなくちゃいけないんだから。大変だよ?」
「…はい。分かってます。」
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なんとかスケジュール表を完成させ、ディレクターの葉月さんに提出しに行く。
「ご苦労さま。今度こそこれで最後までいけると思うから、ありがとうね」
「それでは、挨拶周りに言ってきます」
「あー、ちょっと待って。宮前くん」
葉月さんに呼び止められる。
「…どうしました?」
「コウくんのことなんだけど、少し時間あるかい?」
「いや、これから挨拶周りなんですけど…」
「そうなの?」
と、樫井さんに確認を取る。
「まあ、そうなんですけど、少しくらいなら大丈夫だと思います」
「そっか、悪いね」
拝むように樫井さんに断った後、葉月さんは俺の手を掴んだ。
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葉月さんに連れて来られたのは、無人の会議室だった。奇しくも、初めて俺たち3人が出会った場所。
「八神コウくんのことなんだけど」
その話が振られることは、なんとなく分かっていた。
「はい」
「彼女は、今苦しい状況にあるんだ。もともと、グラフィックチーム...特にキャラ班は、人間関係が険悪になりやすい、というのはあるんだ。競争が激しいからね…。人事異動も多い」
そこで、彼女は今から言うべきことを確認するように、唾を飲み込み、ため息を吐くように軽く息を吐いた。
「この件に関して、私は介入出来ない」
「…」
「今までなんども潰れて行く子を見てきた。いじめとか、そういうわかりやすいケースは今までなかったけれど、空気が重い。耐え切れないって、彼女たちは言ってた。それをあえて、私は無視してきたんだ。...なぜだかわかる?」
「…その子が上司に告げ口したとか、そういう噂が広まるだけでもその子の事態がさらに悪くなる可能性があるからですよね」
「それも、かなり高い、ね。だから、私は手を出せずにいた」
葉月さんは、悔しそうに、自分の肩を抱いた。
「でも、例えば、その子たちの同期とかはどうだったんですか。さすがに何もしないってのは…」
「普通は、誰だって初めての仕事、初めての環境で、他人を気にかける余裕はないよ。いくら同期だって、時が経つにつれ、繋がりは薄くなる。だけどーー」
葉月さんは、俺の目を見る。縋るようだった。
「君と、遠山りんくんはどうやら特別らしい。優秀なんだ。だから、君と彼女は八神くんが苦しいそうだ、とは薄々感じてるだろう?違う?」
「..違わないと思います。まあ、半分は単純に八神が無理してそうってのもあるけど…」
「ーーなら」
葉月さんが俺の肩を力強く掴む。メガネの奥の目は泣きそうに歪んでいた。
「頼む。八神くんを、頼まれてくれ…!」
その目に無防備に晒されて、俺は、
「…」
ついに何も言えなかった。
「…今君が思ってることは、だいたいわかる。でも、それをいい加減克服しなきゃ。これはそのためのものなんだよ。君にはね」
真っ直ぐに俺の瞳の奥のものを見る。
瞳の奥の、汚い、おぞましいものを
「君はもう、あの宮前司じゃないんだよ」
それが引き金となった。
「…俺は!」
思わずこぼれ落ちる。
「俺は、一度失敗した人間だ…!そんな奴が、これから上に行こうとしている奴に関わっちゃいけないんだ…!八神は、関わるなと言ったんだよ…。俺がもし関わったら、八神まで落ちてしまうかもしれない…!これから報われるべき人を、俺は、汚したくないんだよ…!」
「でも」
「君はその痛みを知っているじゃないか。だからこそ、苦しんでる人に寄り添えるし、その苦しみを理解できるんだよ」
「だから、彼女を助けるのは、君なんだよ」
「…私は、そう思うんだけど」
「…」
今度こそ何も言えなかった。俺が八神を助けることができるだって?
本当に?
#
無事に、最後の店舗まで挨拶周りが終わった。
「お疲れ様。今日はもう解散でいいよ」
「先輩はこれからどうするんですか?」
「合コンよ!いい男をゲットしてやるんだから!」
そのセリフをこの一カ月もう通算何度聞いてきたか…。長続きしないのかそもそも捕まらないのか、相変わらず謎である。
「おい、なんか失礼なこと考えてるな?」
「いや何も。では、合コン頑張ってください」
「あ、待って」
そう言って、俺を呼び止める。
「何か相談事があればいつでも言ってね。私も…」
不意に顔を軽く伏せる。
「私も、もう、失敗、したくないからさ…」
「…」
「だから君は…。……。何言ってんだろ、私」
「先輩...」
「じ、じゃあ私行くわ!ごめんね、引き留めたりして。バイバイ…」
「相談します。絶対」
「え…」
樫井さんは驚いたような顔をする。
「俺も、失敗したくありません。だからーー」
頭を思い切り下げる。
「だから、俺のこと、助けてください。お願いします」
沈黙が場を支配する。街の喧騒がやけに騒がしい。しかし、そんなもの聞こえないはずなのに。
涙が落ちる音がした。
...気がした。
慌てて頭を上げると、彼女は、悲しみに顔を歪ませながら、眩しそうに、俺を見ていた。
「うん…!私にも、協力させて」
#
午後8時。会社に戻り、オフィスを覗きに行くと、机に突っ伏して寝ている八神と、それをそばで見守っている遠山を見つけた。
「おい、ちょっと...」
「しー」
遠山が口元に手を当て、八神を見る。そして小声で、
「八神さん、起きちゃうから」
そう言って、近寄ってくる。
「何か用事?」
「ああ。ちょっといいか。話があるんだ。」
#
向かったのは、会社の屋上。ここなら、この時間にくる社員はほとんどいない。一番安全な場所だと言える。
「八神のこと、葉月さんから聞いたよな」
「...」
それを聞くと、遠山は悲しそうに俯く。
「私、悔しいの」
そして、ぽつりと呟く。
「八神さんが辛そうなのを、ただの疲れだと思ってたことが。八神さんの周りのことを、全然考えてなかった」
「…仕方がないと言えば、そうなる。まだ入って一カ月だから、職場の人間関係を掴みずらいのはあるよ。だから、これから八神のことを心配してやればいい」
「宮前くんも、わからなかったの?」
「何か違和感は感じてたけど…。なんというか、確信が持てなかった」
「そう…」
そうして、遠山は押し黙ってしまった。びゅうびゅうとビル風が鬱陶しい。
「遠山、俺ーー」
「私…」
遠山が被せるように言う。
「私は、八神さんの力になりたい。八神さんが今苦しい思いをしてるなら、余計なお世話って言われるかもしれないけど、助けてあげたい」
君は、どうなの?そう、遠山の目が問いかける。
ふと、葉月さんの歪んだ顔、樫井さんの涙の音を思い出す。
…俺はどうしたい?
心は決まった。
俺はもう、後悔したくない。
「俺もだ」
迷いなく答える。こんなことで自分を偽ってどうなるというのだ。
こうして、俺たちのやるべきことははっきりした。それは、たった一つ。
八神コウを悲しませないこと。
叶えるためなら、なんだってやってやる。
これは、俺が人間に戻るための第一歩だ。
次回は1週間後です