その日のことは、はっきりと思い出せる。五月二十二日。ちょうど、キャラ班に進捗を確認しに行った時のことだった。キャラ班リーダーであるコウに、新入社員であるあまねが序盤で活躍するサブキャラクターの設定画を提出していた。
「だめ。こんなんじゃだめ。前のと何一つ変わらない」
「…すいません」
「謝らなくていいよ。時間かかってもいいから、これを完成させること」
「あの、せめて何かヒントを」
「そんなことしたら、私の考えが入っちゃうでしょ。それはもうあまねのキャラとは言えない。あまね自身で書き上げるの。だから、机に貼ってある私の絵は全て剥がして」
「でも、あれは私の原点だから」
「ダメよ。何度も言ってるでしょ。このままだと、あまねの絵は私のただのコピーになる」
「…はい」
あまねは自分の席に戻っていった。その目にはわずかだが涙がたまっている。司はおずおずとコウに近づいた。
「おい、お前、少し言い過ぎじゃないか?」
「…ごめん。これはキャラ班の問題だから、あまり立ち入らないで」
「そういうわけにもいかないな。俺はプロデューサーで、制作進行の立場にある。職場内の人間関係の管理も仕事のうちだ」
「…ごめん。少し疲れてたのかも。でも、さっきあの子に言ったことは事実だから。たとえどんな精神状態でも、言ったことは変わんないと思う」
「でもだな、言いかたってもんをだな…」
「…フォロー、頼める?私が行ってもダメみたいだし」
「…今度なんか奢れよ」
そう言って、司はあまねの元へ向かった。はっきり言って、司には絵のことは何一つ分からない。いや、もっと言えば、わかるべきではないと考えている。この領域は、クリエイターにとって犯しがたい聖域なのだ。中途半端に理解したところで、根底にある苦しみをわかることは、無い。
あまねのデスクに行ってみると、そこに本人の姿はない。反対側の席にいるひふみにどこに行ったか尋ねると、
「あまねちゃんですか…?あの、おトイレに行くって…」
(女子トイレかー)
デスクをみると、端末が無い。恐らく、トイレに持って行ったのだろう。トイレで女の子が篭る用と言えば、相場が決まりそうなものだが…。とりあえず電話をかけてみる。地味に、番号をもらってはじめての電話だった。電話が繋がると、ひっくひっくと、涙を流す音が聞こえる。
「あー、もしもし?」
『…もしもし』
「いま、トイレにいるのか」
『…なんでわかるんです。変態ですか』
「違わい。滝本さんに聞いたんだよ」
『何か、連絡ごとですか?』
「いや、そうでもないっていうか…なんというか、あまり気を落とすなよ」
『見てたんですね』
「ああ。すまんな」
『…あれは、いいんです。私の、ミス、ですから』
そういうあまねの声は、だいぶ悔しい色を含んでいた。
「…うん」
『まだ私が未熟だから、いけないんです。八神さんを、失望させちゃう…』
「うん」
『でも私、悔しくて…』
「うん。そりゃ、悔しいよな。正面からあんなこと言われちゃあな」
『でも、八神さんの言う通りなんです。わたしには、「我」がないんです』
「…そうなのか?」
『はい。結局、私は八神さんのコピーなんです。八神さんの絵を見て、八神さんに近づきたいと思って、でも、今まで私がやってきた方法は、八神さんに近づくには、もっとも遠いやり方だったんです』
「…そうか」
『でも…』
あまねが言い淀んだ。逡巡しているようだ。
「いいさ。この際、言っちまえ。誰も聞いちゃういないよ」
『…今どこにいるんですか』
「屋上。テキトーに歩いてたら、着いてた」
『…そうですか』
深い、息を吐く声が聞こえてくる。
『私、ひふみちゃんが羨ましい』
心の奥から絞り出すような声だった。
『ひふみちゃんは、天才なんです。与えられた少ない情報で、淡々と絵を描けちゃうんです。私、最初は、この子は鈍臭い子なんだろうな、だから、私が守ってやろう、みたいな、上から目線だったんです。でも、実際には、私は、あの子より何もかもが劣ってた。そう思っちゃうと自分でも、気持ち悪い思いが、あふれ出ちゃうんです。冷たい態度、とっちゃってたりして、それで自己嫌悪して、それで自分が何を描けばいいのかわからなくって…』
いつのまにか、落ち着いていた声にはまた嗚咽が混じり始めていた。これが、まだたった十八の少女の、本音だ。
「…そっか。うん。加藤さんの気持ちは、よく、わかった」
『…ぐすっ』
「でも、ごめんなぁ。おれ、あまり絵には詳しく無いから、俺から見て、率直な感想を言うぜ。…まず一つ。八神は神様でも王様でもない。そんな格式貼って、何でもかんでも従う必要はないんじゃないか?八神の絵を原点にしてるなら、それを突き通しゃいい。それも、回り回って自分ってのになるんじゃないか?」
『回り回って…』
「二つに、滝本さんのことだ。確かに、あの子のことはコウもよく話してる。将来有望ってな。ここで人には人の価値があるとかそんな薄っぺらい話をするつもりはないよ。その、君が言う、人を疎ましく思う、妬ましく思うってのは、人にあって然るべき感情だと思う。滝本さんからも、あまねちゃんは人と話せてすごい、わたしにはできないって話を、散々聞いた」
『ひふみちゃんが…』
「でも、君は君だろう?他人なんて関係ないじゃないか」
『…そんな風に、思えないです』
「人には、結局自分ひとりの面倒を見れるくらいのキャパしかないんだよ。自分の出来る範囲で、自分に出来る最大熱量で、最高のパフォーマンスをするしかないのさ」
『…』
「そうすれば、自ずと余計な情報はカットされる。それこそ、コウがいい例だよ。あいつは、目の前に集中すると、何も聞こえなくなる。でも、それは八神コウが天才だからじゃない。自分に対する欲求が強いだけさ」
電話の向こう側は、何も答えない。ただ、かすかな息遣いが聞こえるだけだ。
「まあ、頑張ってくれよ。俺、君の絵、結構好きなんだぜ。なんと言うか、クールな感じで」
『…宮前さん』
「ん?」
『ありがとう、ございます。私なりに、もうちょっとだけ、頑張ってみます』
「よし、偉いぞ。それでこそ、我がイーグルジャンプ期待の新人だ」
『もう、茶化さないで。…本当に、ありがとうございました』
「…ああ」
通話を切る。最後の言葉は、少し湿っていたが、それでもなんとか気丈に振る舞った声だった。
(それでいい。頑張れ、加藤さん)
同時に、心の中でエールを送ることしかできない自分が、少し不甲斐なかった。
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トイレから出たあまねは、鏡で自分の顔を確認する。案の定、泣き腫らしたひどい顔だった。ため息を吐くと、持ってきたポーチから化粧用具を取り出す。いくらなんでも、この顔のまま人前に出るわけにはいかない。黙々と化粧を済ませていると、トイレにひふみが入ってきた。
「あ、あまね、ちゃん」
「ひふみちゃん…」
お互いに何も言わない。あまねは数日前から突き放した態度をひふみにとってしまっていた。ひふみも自分に非があると思っていてどう接すればいいのかも分からない。要するに、お互いに気まずい。
「あの、ひふみちゃん」
先に口を開いたのは、あまねだった。
「ここ数日、変な態度を取って、ごめん。私が悪いの。ひふみちゃんは何も悪くないわ」
「…ううん。私が悪いの。私が、あまねちゃんの気持ちをわかってなくて、それで…」
「わからなくてもいいよ」
ひふみは思わず顔を上げた。また突き放されたと思ったからだ。しかし、わからなくてもいい。そういったあまねの顔は、穏やかだった。
「ううん。本当は、人が何考えてるなんて、わからないんだ。わからないから、その人のこと、考えれるんでしょう?」
「…そうなのかな」
「私はそう思ってるよ。だから、ひふみちゃんは私のことわかろうとしてくれたんでしょ?ひふみちゃんが悪いなんてことは、絶対にないよ」
「…でも、私は」
「ひふみちゃん」
あまねがひふみの肩を抱く。
「私、もっと強くなるよ。たしかに、天才のひふみちゃんには勝てないかもしれないけど、でも、凡才は凡才なりに精一杯やらなきゃね」
「わたし、天才なんかじゃないよ…」
「そんなことない。ひふみちゃんは天才だよ。…だから、私の目標にさせてよ」
「…私なんかが?」
「ひふみちゃんがいいの。ひふみちゃんを追いかけさせて」
「…」
そう懇願されるひふみの表情は、曇っていた。
あまねがそう言っている理由がわからない。ただ、友達を悲しませないようにするために。
「…うん」
ひふみは、頷くことしか出来なかった。